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第三章 孤独の少女

 古い木造の天井が目に入った。
 見覚えはない。
 ここは一体……。

 ハッとして、体を起こす。
「痛たたた」
 直後に鈍痛が頭を駆け抜け、思わず両手で頭を押さえた。
 この痛み。さすがにちょっと慣れてきた。
 僕は空中に指を滑らせ、メニューウィンドウを開いた。
 一番下にある『ログアウト』の文字に触れる。反応はない。
 間違いない。ここは本物のリュンタルだ。

 僕は辺りを見回した。
 まず気づいたのは、僕はベッドに寝ていたということだ。すぐ横にももう一つベッドがある。寝室なのだろう。
 ということは、ここはどうやらあの小屋ではなさそうだ。誰かの家だ。この家の人が、僕をここまで運んでくれたのだろうか。
 僕はベッドから下り、そっと部屋のドアを開いた。
「すいませーん。どなたか、いらっしゃいますか……」
 誰もいない。
 ドアの向こうは廊下ではなく、別の部屋だった。小さなテーブルと、その両側に椅子。壁にはドアや窓があるけど、テーブルと椅子以外には何も置かれていない。僕の家のリビングよりは広く見えるけど、壁に家具が置かれていないからそう感じるだけなのかもしれない。
 窓と並んでいるドアがある。きっとここが玄関だ。
 外に出てみようか。この家の人は外にいて、あの畑で仕事をしている可能性もある。
 そしてその人が、僕を呼んだのかも……。

 ――ドンドン

 その、玄関とおぼしきドアが、ノックの音を響かせた。お客さんだろうか。
 どうしよう。ここには僕しかいない。勝手に出てもいいのだろうか。

 ――ドンドンドン!

 今度はかなり荒っぽい音だ。
 とりあえず、窓から外を覗いてみようか。そう思って窓に近づくと、
「誰ですか! あなたたちは!」
 外から若い女の人が叫ぶ声が聞こえてきた。
 ドアの向こうで、足音が遠ざかっていく。窓から外を覗くと、ノックの主であろう二人が、女の人へと近寄って行っていた。一人は背が高くて肉付きがよく、背中に大剣を背負っている。こちらは男だとわかるが、もう一人は小柄で黒いローブで全身を覆っているため、男か女かはわからない。若い女の人のほうは見たところ際立った特徴はなく、村人Aと呼んでも差し支えなさそうな、ごく普通の人だ。周辺には木がたくさん生えているけど、家の前は少し草が生えている程度の空き地だ。
 三人で何か話しているようだけど、はっきりとは聞き取れない。
 そして、会話が三往復くらいしたであろう頃。
 女の人が突然、剣士の男に胸ぐらを掴まれた。そのまま地面に投げ倒された女の人が、男に蹴り飛ばされる。
「何をやっている!」
 僕は無意識のうちに、家から飛び出して叫んでいた。
「中にも人がいたのか」
 ローブ姿が振り向いた。顔や声から、こっちも男だとわかる。
 ローブの男が右腕を伸ばし、僕に手のひらを向けた。指にはごつごつした指輪がいくつも嵌まっている。その指輪が、手のひらに黒い稲妻を発生させようとしていた。口元には僅かな笑み。
 僕は走りながら、左手に剣を出現させた。
「な、なんだ? 魔法か!?」
 突然空間から出現した剣に、笑みを含んだ男の表情は一変した。明らかに驚き、うろたえている。手のひらに発生させつつある黒い稲妻の成長も止まっている。
「う…………うわああぁぁっ」
 近づいてくる僕に恐れ、男は黒い稲妻の完成を待つことなく解き放った。
 僕は構わず突っ込む。そんな苦し紛れに放った不完全な魔法なんかで、僕の剣は止められない。
「ぎゃあああぁぁっ」
 ローブの男の右手首から、血が飛び散った。男は悲鳴を上げ、傷口に左手を当てて回復魔法をかけながら逃げていった。
「ちっ」
 入れ替わるように、剣士の男が僕に斬りかかった。力任せに振られる大剣を、僕は後ろにジャンプして躱した。二撃目、三撃目も、大剣は空を斬った。細身の剣と正確な技を武器とする僕とは、正反対のタイプだ。
 腕力や剣の重さは向こうが上だが、動きは粗い。こんなやつとは真正面から戦ってはいけない。
 男がまた力任せに剣を振り下ろした。僕は右に跳ねた。
 着地と同時に、僕は地面を蹴り上げた。舞い散った土が男の顔にかかる。
 男が腕で顔を隠し、目をつぶったその瞬間を、僕は見逃さなかった。突き出した剣先が、男の左脇腹を捉える。僕はそのまま男の横を駆け抜けた。肉を斬り裂き、僕とともに駆け抜けた剣の先が、赤い血をしたたらせている。
「ぐああああああああっ」
 剣士の男もまた悲鳴を上げ、逃げていった。致命傷になるほどのダメージではないし、ローブの男から回復魔法をかけてもらえば治るだろう。

「大丈夫ですか?」
 僕は女の人に声をかけた。ケガをしていないか心配だったけど、特に痛そうな素振りを見せずに立ちあがっていた。
 安心して近づこうとすると、女の人は後ずさった。少し体が震えている。安心した僕とは逆に、僕を見て怯えているようだ。
「えっと、僕は、決して怪しい者ではなくて」
 いや十分に怪しいだろうけど。いきなり剣を取り出して人を斬ったんだから。
 ……あ、これか。
 僕はウィンドウを開いた。血を帯びた剣が装備を解かれ、空中に消える。
「あの、この家の方でしょうか? 僕、気がついたらこの家で寝かされていて……」
「は、はい、この家の、者ですけど」
 今度は女の人のほうから、僕に近づいてきた。
「助けていただき、ありがとうございました。外で話すのもなんですから、どうぞ、家の中へ」
 
   ◇ ◇ ◇

 この女の人はシュニーという名前で、この家に一人で暮らしているそうだ。畑の横にある作業小屋に農具を置きに行って、出ようとしたら僕が倒れていたらしい。
「シュニーだけで僕を運んでくれたの? 重くなかった?」
 見た感じでは、シュニーは僕と同じくらいの年齢だ。身長は平均的だけど、色白で体つきは細い。
「これでも力仕事はちゃんとできるんですよ」
 シュニーはテーブルにジュースを二杯置き、僕と向かい合って座った。
 確かに、ひとりで農作業をこなすなんて、体力がなければできない。
 僕は納得して、木のカップに入った黄色いジュースを口に運んだ。
 普通にジュースを飲むように一口ぶんを口に入れた。そして僕は混乱しながらカップをテーブルに置いた。そしてゆっくり、本当に少量ずつ、口の中の液体を喉に通した。
「あ、甘い」
 水に砂糖を溶かせるだけ溶かしても、こんなに甘くなるだろうか。予想だにしなかった激烈な甘さに、僕は面食らった。
「甘いのはお嫌いでしたでしょうか?」
「い、いや、大丈夫。ザサンノジュースだと思って飲んだから、ちょっと慌てただけ」
 ザサンノの実で作った甘酸っぱいジュースは、ピレックルでは定番の飲み物だ。このジュースは見た目はザサンノジュースと同じだけど、味は全然違う。
「これ、なんのジュース?」
 こんなに甘いジュースは『リュンタル・ワールド』にもないはずだ。少なくとも僕は知らない。
「ベユですけど……飲んだこと、ありませんか?」
「ベユ?」
 やっぱり聞いたことがない。この地域特有の果物だろうか。
「ベユを知らないんですか? ベユなんてあるのが当たり前なのに……あの、リッキは、一体どこから来たのですか?」
 さっきまで穏やかだったシュニーの表情に、わずかに厳しさが混ざる。
「どこからって言うと、その……なんと言うか、遠い所……かな」
 これで納得してくれるとは思わないけど、それ以外の言い方が思いつかない。
「遠い所? ということは、もしかして」
 シュニーは立ち上がり、前のめりになってテーブル越しの僕に迫った。
 まずい。絶対に怪しまれている。さっきの男たちと同類に思われてもおかしくない。
「遠いってのは、えっと、その」
「誰かに追われているんですか! 遠い所から逃げてきたんですか!」
「…………へ?」
「それで、疲れ果てて倒れて……そうなんですよね? やっぱりそういうことなんですよね? きっとそうだと思っていました!」
 ちょっと勘違いされてしまったようだ。
 事情を説明するのは大変だし、話に乗っかってしまおうか。
 ……いや、やっぱりやめよう。そういうことをすると、僕は必ずボロを出す。
 それに、僕のことを真剣に心配してくれているのは、その眼差しからわかる。だから、嘘はつけない。
「大丈夫。僕は追われていないし、疲れてもいないから」
「……そうなんですか?」
「僕のことなんかより、シュニーのほうこそ大丈夫? さっきの男たちは誰なの? もし良かったら、教えてほしい。力になれるかもしれない」
 僕も立ち上がった。身長は僕のほうがはるかに高い。見上げるシュニーに、僕は言った。
「いや、絶対に力になってみせる。僕はそのために、ここに来たんだから」
「……そうですか。では、お話しします」

 シュニーは柿のようなオレンジ色の果物を二個持ってきた。
「それがベユ?」
「はい、そうです」
 差し出されたベユを一個受け取る。石のように固い。
 僕はカップに目を移した。まだ一口しか飲んでいないベユジュースが入っている。こんなに固い果物を、どうやってジュースにするのだろうか。
 シュニーはジュースを飲み干した。僕とは違って、一気飲みだ。
「そしてこれで」
 大きめの針のような道具を取り出した。縫い針なら穴が開いている部分に、小さな宝珠(オーブ)が埋め込まれている。
 空になったカップの上でベユを持ち、針を刺した。力は入れていないようだけど、固いベユの実に吸い込まれるように針が刺さっていく。
 針に埋め込まれている小さな宝珠が、わずかに光った。注意して見ていなければわからないくらい、ほんのわずかに。
 針を抜くと、その穴から黄色い果汁が飛び出した。みるみるうちに実はしぼみ、溢れ出た果汁が空だったカップを満たしていく。
「こうやって作るんですよ」
 僕はシュニーの穏やかな笑顔と、皮とヘタだけになったベユの実の残骸と、そして何より、この固い実をあっという間にジュースにした、魔法の針に目を奪われていた。
「シュニー、その針は」
「これは父が作ったものです。父は魔力工学の研究をしていました。この針は小さな道具ですが、もっと大きな機械の設計もしていたんですよ」
 初めてリュンタルに来た時、ピレックルの街が魔石の力によって夜でも明るく照らされていたのを思い出す。川から汲み上げられた水が、張り巡らされた水道管を通って自由に使えるのも、魔石の力だ。
「ですが、ある研究の完成を間近にした頃……それに目をつけた王が、その力を戦争に利用しようとしたのです」
 戦争。
 考えてもみなかった単語に、心臓がキュッと締めつけられる感覚になる。
「父はそれを望みませんでした。王の要求を断った父は何もかもが嫌になり、密かに国を抜け出して遠いこの地へ来ました。もう誰とも会わないと決めたのです。そして最期まで、私と二人きりでした」
 僕は言葉が出なかった。
『リュンタル・ワールド』は所詮ゲームだ。仮想世界では痛みを感じないし、死んでもすぐに生きて戻ってくることができる。戦うのはモンスターが相手の、遊びの戦闘だ。
 でもここは本物のリュンタルだ。
 戦争が……あるんだ。
 僕が遠い所から逃げてきたのだと勘違いしたのも、お父さんがそうだったからということなのだろう。
「さっきの二人は、父の研究を奪いに来たのです。記録が残っているはずだ、渡せと言ってきました。ですがそんな要求は聞けません。私は断りました。そうしたらあんな目に遭ってしまって……。そもそも父はすべての記録を処分したので、渡せるもの自体がありません。残っているのは、この針のように生活の中で使う道具と……」
シュニーは目を落とした。
「……あとは、私が残りました」
 聞いているだけでも辛くなってくる。
 でも、本当に辛いのはシュニーとお父さんだ。
「シュニー、僕にできることがあったら、なんでも言ってほしい。こんなこと言って信じてもらえるかわからないけど……僕は、こことは別の世界から、君を助けに来た」
「…………別の世界、ですか?」
 シュニーはぽかんと僕を見ている。さすがに理解できてなさそうだ。
「細かいことは、ちょっと説明しづらいけど……」
 仮想世界のことを説明したって、どうせわかってはくれないだろう。言わずに済むのがいちばんいい。
「よくわかりませんが、大丈夫です。そんなに気にすることではありません」
 困っているのが顔に出てしまったところを、シュニーが救ってくれた。
「私はこの辺りの場所しか知りません。父がいた国のことも、実は父から話を聞かされただけで、直接の記憶はないんです。別の世界というのがどんな所なのかはわかりませんが、私にとってはこの森がすべてです。父がいた国やそれ以外の国、そしてリッキの世界も、私には大した違いではありません」
 お父さんがいた国の記憶がないということは、当時のシュニーはきっとまだとても幼い子供だったのだろう。お母さんは一緒には来なかったようだけど……。なぜなのかは理由はわからないけど、シュニーが話さないのなら、別に僕が知らなくてもいいことだ。
 シュニーは二杯目のベユジュースを飲み始めた。それに合わせて僕も飲む……が、やっぱり一口しか飲めなかった。シュニーは飲み慣れているから簡単に飲んでいるけど、僕にはやっぱり甘すぎる。
 固いベユの実を手に取って眺めてみる。柿みたいに見えるけど、ジュースにするしかないのかな? 時間が経つともっと熟して柔らかくなってくるのだろうか。それとも干し柿……じゃなくて干しベユにするとか、それ以外の僕が思いつきもしないような食べ方があったりするのだろうか……。
「あの、やっぱりお口に合いませんか?」
「え、いやいや、そうじゃないんだけど」
 そりゃ気になっちゃうよな。ほとんど飲んでいないんだから。
「そ、そうだ、このベユの実って、どんな木になっているのかな? 見ることできる?」
 飲めないのをごまかすためとはいえ、かなり適当なことを言ってしまった。本当はどんな木なのかなんて、たいして興味はない。
「木……ですか?」
 シュニーはまたぽかんと僕を見ている。
 そして、ふふっ、と小さく笑った。
「でしたら、私と一緒に外を歩いてみませんか?」

 家の裏手に、あの畑があった。片隅には小屋もある。周囲は木々が濃密に生えていて、その向こうは見えない。
『リュンタル・ワールド』では土が剥き出しの何もない畑だったけど、ここはそうではなかった。
「……雲?」
 そんな訳がない。でも、まるで畑の上を雲が覆っているような光景が、僕の目に飛び込んできた。
 思わず駆け寄って、触ってみた。
「これは……綿だ」
 一メートルくらいのひょろ長い草の先から、柔らかくて白い繊維が伸びていた。隣り合う草から伸びる繊維と絡み合い、お互い支え合うことで細い茎が倒れずにいる。それが畑一面に広がり、まるで雲が漂っているかのように見えていたのだ。
「ここでは自分で服を作らなければなりませんから。もちろん、材料も全部自分で」
 僕の後ろで、シュニーが説明する。言われてみればそのとおりだ。
「でも、本当はそれだけじゃないんですよ。一本抜いてみてください」
 言われるがままに、細い茎を両手で握って引っ張ってみた。頼りなさそうな細い茎は案外丈夫で、途中でちぎれてしまうんじゃないかという不安を裏切り、素直に土の中の姿を僕に見せた。
「…………ベユ?」
 茶色い土がついた柿のような実に、僕は混乱した。
 そして、シュニーが笑った理由を理解した。
 ベユは木になるのではなく、カブのように地中で育つ実だったのだ。
「こんな植物があるなんて……」
「驚きましたか? 私には当たり前なんですけど」
 シュニーはまたふふっと笑った。
「シュニーには当たり前でも、僕は全然知らなかったよ」
 いくらお父さんがリュンタル中を旅したとはいえ、すべてを知り尽くしている訳ではないだろう。実際、『リュンタル・ワールド』にないものが、こうして本物のリュンタルに存在している。きっとベユだけではなく、本物のリュンタルにしかないものはもっとたくさんあるに違いない。
 続いて小屋の中に案内された。鍬や鎌など一目で農作業の道具だとわかるものの他に、何に使うのかわからない機械も置いてある。シュニーはここを作業小屋と言っていたから、きっと何かの作業に使うのだろうけど、想像がつかない。
「ちょっとここで待っていてください」
 シュニーは機械の前でそう言うと、小屋の奥に行った。奥には箱が積んである。シュニーの身長ほどの高さだ。
 その箱の前でしゃがんだシュニーは、一番下の箱に両手をかけて立ち上がった。手の位置のぶんだけ自分の身長より高く積み上がっている箱を持ち、平然とこっちへ戻ってくる。
「えっ……だ、大丈夫?」
 いくら力仕事もできるとはいえ、こんなに高く重ねられた箱を苦もなく運ぶなんて。
 そんな僕の疑問は、シュニーが持ってきた箱を開けたことで解決した。
 箱の中身は、収穫済みのベユの綿だった。箱自体も木の皮を貼り合わせてできていて、薄くて軽い。これなら積み重ねて持っても平気だ。
「それでは、機械を動かしますね」
 この箱型の機械の上部には大きな四角い穴と小さな丸い穴が空いていて、さらにその横に細い溝が入っている。シュニーは瓶に入った魔石のかけらを丸い穴に流し込んだ。魔石には膨大な魔力を持つ良質なものもあれば、そうではないクズのようなものもある。シュニーが機械に入れたこの魔石は、お世辞にも良質とは言えなさそうだ。
 それでも魔石に反応して、機械の側面についている小さなランプに光が灯った。
「リッキ、レバーを上げてください」
 ランプの隣に、小さな部品が斜め下向きに飛び出していた。
「これでいいの?」
 僕は指先でレバーを跳ね上げた。
 すると、四角い穴の内部が青白い光を放ち始めた。機械全体も小刻みに震えている。
 それを待っていたシュニーが、一箱ぶんのベユの綿の塊をまるごと四角い穴に放り込んだ。シュニーは次々と箱から綿を取り出し、同じように押し込んでいく。まるで洗濯機に服を入れているかのようだ。
 おかしい。
 いくらふわふわした綿をぎゅうぎゅう詰めにしているとはいえ、機械の大きさから考えるとこんなに入るはずがない。
 これは一体どういう機械なのだろうか。内部は一体どうなって――。
 と思っていると、細い溝から青白い光が漏れてきた。そして、溝から白い布が生えてきた。布は少しずつ伸び、自重で折れ、さらに伸び続ける。
 丸い棒を手にしたシュニーが、布を巻き取る。四角い穴の綿はいつの間にかなくなっていた。しばらくすると布の伸びも止まった。同時に側面のランプが消え、レバーも自動で下りた。
「どうです? 触ってみます?」
 にこりと微笑んだシュニーが、円筒状の布を僕に手渡す。少しだけ広げてみた。薄いけど丈夫そうな布だ。肌触りも良い。
「この、ベユの綿を布にする機械も、父が作ったんですよ。リッキはベユを知らなかったから、布にする方法も知らないと思ってやってみたんですけど、どうですか? リッキの世界にはこういう機械はありますか?」
「いや……ないよ。ある訳がないよ。こんなものを作れるのは、シュニーのお父さんくらいだよ」
 僕はただただ驚いていた。
『リュンタル・ワールド』でも、素材を揃えてアイテムに変換させることはできる。でもそれはあくまでもお父さんがよく言う「ゲームだから」ってやつだ。理屈なんてない。
 でも、ここは仮想世界ではない。本物のリュンタルだ。僕たちの現実世界とは違うけど、ここだって現実世界だ。それなのに、こんな不思議な機械があるなんて。完全に仮想世界を超えている。
 僕は今、お父さんが知らないリュンタルを見ているんだ。
 もっと見たい。そしてもっと驚きたい!
「シュニー、他にもお父さんが作ったものはある? なんでもいいよ。なんでもいいから、見せてほしいんだ」
「なんでも……ですか?」
 興奮して大きな声が出てしまった。圧されて一歩下がったシュニーが、目だけを斜め上に向けて考える。
「でしたら……」
 シュニーは小屋の奥からほこりまみれの長い棒を持ってきた。
「なんでもいいということなら、これはどうですか? 父はこれを使って狩りをしていました」
「狩り?」
 ということはこの棒は武器?
 シュニーに布を返し、代わりに棒を受け取る。金属製のようだけど、かなり軽い。ほこりを払うと、全体の姿がよくわかってきた。先端は鋭く尖っていて、反対側は持ちやすいようにすべり止めの革が巻いてある。これは槍だ。
「これを投げると、必ず狙った獲物に刺さるんですよ」
 矢や投げナイフなどの軌道が魔力で補正されるというのは、『リュンタル・ワールド』にもある効果だ。この槍に埋め込まれている宝珠が、同じような効果を発するのだろう。
「せっかくですから、狩りに行ってみますか?」
「狩りか……。あまり気が進まないな」
 僕は首を横に振った。
「無駄に生き物を殺したくないからね。もし魔獣に襲われたら使うかもしれないけど、僕のほうからは使いたくない」
 僕は槍をシュニーに返そうとした。でも、シュニーは受け取らない。
「リッキが持っていてください」
「そうはいかないよ。返すよ」
「リッキは父に似ています」
「僕が? お父さんに?」
「父もそういう人でした。本当は動物を殺したくはなかったんです。でも生きていくためにはどうしてもそれが必要な時があります。そんな時、本当に必要なぶんだけ狩りをしていました。私はどうせ使いません。ですから、リッキが持っていてください」
「でも……」
 シュニーにとっては大切な思い出の品のはずだ。それを僕が受け取るなんて。
「私がこのまま持っていても、どうせまたほこりを被せてしまうだけです。それよりもちゃんと使える人に持っていてもらいたいんです」
「槍なんて使ったことないけど……」
 僕にこの槍が使いこなせるとは思えない。シュニーは剣を使えるなら槍も使えると思っているのかもしれないけど、そんな簡単なものではない。
「僕は剣があるから、槍はいいよ。飾っておくだけでもいいじゃないか。やっぱりシュニーが持っているべきだよ」
「……そうですか。わかりました。ひとまずここに置いておきましょう」
 シュニーは槍を壁に立てかけた。

 作業小屋の外に出た。
 畑と家とは左右二本の道でつながっていた。来た時とは反対側を通り、戻っていく。
 木と草だけの景色の一角に、やけにカラフルな部分があった。近寄ってみると、色とりどりの花が固まって咲いている。花の形や丈もそれぞれ違う。きちんと同じ種類の花が揃って咲いているのもいいけど、これはこれで一味違う面白さがある。
 自然と顔が綻ぶ。
「ここだけ妙に綺麗だね。なんでだろう?」
 しゃがんでじっと花を見たまま、ふと言葉を漏らす。
 これも魔力の作用なのだろうか。魔法のじょうろでもあるのかな?
「ここは…………」
 僕の背中で、シュニーが言い淀む。そして、
「……父が、眠っています」
 僕は言葉を返せなかった。振り向くことも、できなかった。
 何を考えることもできない。目は花を映しているはずだけど、見ている感覚がない。
 たぶん、そのまま数秒が流れたんだと思う。
「そう、なんだ」
 やっと言葉を出せた。
 背中でまた、静かで優しい声がする。
「花は私が集めました。それぞれ少しずつ育つ条件は違うのですが、父が作ったじょうろで水をあげると、どれもちゃんと育つんですよ」
「ああ、じょうろね!」
 僕はものすごい勢いで立ち上がりながら振り向いた。
「僕もそう思ってたんだ! ほんとだよ、ほんと。きっとそういうじょうろがあると思ってた! だってさ、そうじゃないと……ちゃんと育たないだろ? やっぱりさ」
 どうでもいいことを熱心に主張してしまった。
 というより、こんな発言をしようという考え自体が、どうでもいい。
「……ごめん、その、知らなかったとはいえ」
「そうだ!」
 突然シュニーが大きな声を出した。驚いて心臓がビクンと大きく鼓動する。
「湖に行ってみませんか? とても美しいんですよ」
『リュンタル・ワールド』のモーマノ山の山頂から眺めた、青く美しいシビャジ湖の景色を思い出す。
「湖? いいね、行ってみよう」
「はい。行きましょう!」
 僕を置き去りにしそうなくらい足早に、シュニーは歩いていく。
 僕はシュニーの気遣いに感謝しながら、そっと後をついて行った。

 湖岸に立つ。
 小さな魚がゆったりと尾びれを左右に振って泳ぎ、湖底の白い砂に影を映している。影が湖底のカニに重なる。カニがまるで挨拶をするかのように大きなハサミを振り上げ、魚を捕らえようとした。しかし魚はとっくに通り過ぎていた。カニがいたことなど、もう忘れてしまっているかもしれない。
 そんな光景が見えるほど、シビャジ湖の水は透き通っていた。
「この湖には父とよく来ていました」
 シュニーは僕を見ず、湖から目を逸らさないままつぶやいた。
「綺麗な湖だね」
 僕はそれだけ言って、近くに倒れていた大木の上に座った。シュニーは今、お父さんとの思い出の中にいる。邪魔をしてはいけない。
 ぼんやりと、景色を眺める。いくら水が澄んでいるとはいえ、さすがに遠くのほうまでは水中の様子を見ることはできない。魚を捕らえに来た鳥が、水面ギリギリを滑空する。タイミングを見計らって頭から湖に突っ込んだ。しかし、くちばしは何も咥えていない。失敗したようだ。鳥はそのまま飛び去っていく。それに合わせて目を動かすと、湖の向こうで森が青く霞んでいた。鳥は青い霞の中へと消えていく。
 湖だけでなく、周囲全体が美しい。
 シュニーは湖岸沿いを歩いている。同じところを行ったり来たり、そしてたまに立ち止まってみたり。
 見ているだけでもなんだか邪魔をしているような気分になって、僕はシュニーを見るのをやめ、遠くの森に、そして湖面に目を移した。ただただ漠然と景色を眺める。
 たまにはこんなふうに、いい景色を眺めながら、何もかも忘れてぼーっとしているのもいいかもしれない……。
 ――じゃ、なかった!
 僕はシュニーを助けに来たんだ。またあの二人組が来るかもしれない。あんな戦闘は一時しのぎだ。根本的な解決にはなっていない。あの二人組は何者なのか、どうすればもう襲われずにすむか、もっとちゃんと考えるべきだ。
「シュニー! 話がある! ……シュニー?」
 いない。
 どこに行ったんだ? まさか!?
 大木から跳ね起き、さっきまでシュニーが歩いていた辺りに走る。
「シュニー! どこにいるのシュニー!」
 湖岸の左を見て、右を見る。
 いた。
 かなり右へ行った辺りに、小さく人の姿が見える。いつの間にあんな遠くに行ったのだろうか。全然わからなかった。ちょっとだけ景色を眺めていたつもりだったけど、案外長い時間だったのかもしれない。
「シュニー!」
 走りながら大声でシュニーを呼ぶ。仮想世界と違って、走れば疲れる。シュニーに追いついた頃にはすっかり息を切らせてしまっていた。
「シュニー、一応まだ一人では行動しないほうがいいと思うんだ。もしかしたらまた襲われるかも」
「……壊れてしまっているみたいです」
 シュニーの前には横倒しになったボートがあった。木製のボートは色が黒くくすんでいて、だいぶ古そうだ。ただ、穴が開いているとか板が剥がれているとか、はっきり壊れているとわかる部分はない。
 それよりも、オールが見当たらない。
「シュニー、オールがないみたいだけど」
「これは漕いで動かすんじゃないんです。父が作った機械が船体に組み込まれていて、ここを操作して動かすんですけど……」
 よく見ると、ボートの先端にボタンやレバーが並んでいる機械が備え付けてある。シュニーがガチャガチャと動かしてみても、なんの反応もない。
「本当はこの場所にあるボートじゃないんです。先日、激しい嵐があったので、それでここまで流されたんだと思います。たぶんその時になんらかの衝撃を受けて……。リッキと一緒に乗りたかったのですが……」
「動かないのは残念だけど、気持ちだけでも嬉しいよ。だって、シュニーとお父さんしか乗ったことがないんでしょ? それに僕を乗せてくれようとしたんだから」
 とは言ったものの、本当に重要なのは、シュニーのお父さんが作った物が壊れてしまったことによって、シュニーの心に傷がついてしまうかもしれないということだ。お父さんが作った機械や道具を誇らしく思っていることは、十分すぎるほどに伝わってきている。
 シュニーはボタンに手を当てたまま、うつむいて動かない。
 お父さんとボートに乗った時のことを、思い出しているのだろうか。
 シュニーとお父さんの、二人だけの世界だ。僕が入っていくことはできない。
 湖に目を移す。軽く風が吹いていて、ほんのわずかに波が立っている。
 ボートに乗りたかったのは、僕も同じだ。湖の上からの景色も、さぞかし美しいことだろう。深さはどれくらいあるのだろうか。こんなに澄んだ水なら、どんなに深くても湖の底が見えるんじゃないだろうか。実際はそんなことはないだろうけど、そう思えてしまうくらい水は澄んでいて、湖は美しい。

 突然、静寂が打ち破られた。
 湖に水しぶきが上がる。二回、三回、大きな円を描くように、次々と水面が破裂していく。
「なっ……何だ?」
 僕はとっさにシュニーを抱き寄せた。二人の目が、湖に釘付けになる。
 全部で十回はあっただろうか。ようやく水しぶきが止まった。
「……何だ、あれは」
 水しぶきが上がった場所から、ぐにゃりと曲がった半透明の柱のようなものが突き出ている。ちょっと見えにくいけど、ゆらゆらと動いているように見える……。
 触手だ、と理解するのに時間はかからなかった。
「シュニー、何か知ってる?」
「……まさか、湖の主? でも、どうして急に」
 円形に出現した触手はゆらゆら揺れながら、どんどん伸びていく。そして今度は円の中央の水面が盛り上がった。ドーム型の半透明な物体が、ぶよぶよと波打ちながらせり上がってくる。その下からは無数の触手が伸びていた。先に出現した触手も、この一部のようだ。
 シュニーが湖の主と呼ぶこの生物は、巨大なクラゲだ。いくら本物のリュンタルだからって、こんな大きなクラゲは普通じゃない。こいつは魔獣だ。『リュンタル・ワールド』では湖の主がいるのかどうかすらわからなかったのに、まさか本物のリュンタルで出会うことになるなんて。
「これまでにもこういうことはあったの?」
「ありません! ボートで真上を通ったことがありますが、とてもおとなしくて静かでした。それなのになんで」
「理由は後だ! 逃げよう!」
 湖から走って離れながら考える。
 こんなことが起きた理由は決まっている。あの二人組が戻ってきたんだ。そして、どちらかが魔獣使いに違いない。きっとローブの男のほうだろう。
 狙いはおそらくシュニーじゃなくて僕。僕さえいなくなれば、あいつらはやりたい放題だ。もし僕が立ち塞がってシュニーだけが逃げれば、シュニーは巨大クラゲに襲われなくなる代わりに、あの二人組に襲われてしまう。だから一緒に逃げるしかない。
 巨大クラゲの触手が迫ってきた。必死に逃げる。シュニーの手を引いて走ろうと思ったけど、シュニーは結構足が速い。自然の中で生活しているから、鍛えられているのだろう。むしろ僕のほうが置いて行かれそうだ。
 振り向くと、巨大クラゲは触手を器用に使って陸に上がり、うにょうにょと追いかけてきていた。振り上げた触手が木々をなぎ倒し、人が通れる幅の道を強引に広げて近づいてくる。湖から離れれば大丈夫かと思っていたけど、そんなに甘くはないようだ。それにしても、飼い馴らしていない魔獣を操るなんて。自分自身の戦闘能力は大したことはなくても、魔獣使いとしてはかなりの手練れである可能性が高い。早く見つけて倒さなければ、もっと大きな被害が出るかもしれない。逃げながらあの二人組を探す。どこだ。どこにいるんだ。
 触手が背中に届きそうになる。振り向きざまに剣で払う。触手の先端が地面に落ち、断面から粘り気のある体液が漏れた。
 触手は次々と襲ってくる。一本斬り落としたくらいじゃ話にならない。狙うべきは『核』だ。触手ではなく、ドーム型の体のどこかにあるはずなんだけどわからない。いつもはシェレラが<分析>のスキルで見つけてくれるけど、今は僕がどうにかするしかない。
 襲ってくる触手を次々と斬り落としながら逃げる。触手は先端を再生させてまた襲ってきた。それをまた斬り落としながら、本体に目をやり『核』を探す。ダメだ、わからない。
 シュニーの家が見えてきた。湖からはだいぶ離れたけど、それでも巨大クラゲは追ってくる。一体どこまで追ってくるつもりなんだ。
 突然、巨大クラゲの動きが止まった。
 この隙に距離を取り、息を整える。疲れがない仮想世界ではこんなことにはならない。異世界といえども現実世界なのだということを、改めて認識する。でもシュニーは全然息が乱れていない。やっぱり自然の中で育ったから、体力がついているのだろう。
 巨大クラゲはまだ動かない。このまま攻撃をやめて帰ってくれたらいいんだけど……。操られて攻撃してきているのだから、そんな期待はできない。
 思ったとおり、巨大クラゲはまた動いた。と言っても、その場で触手をうにょうにょと動かしているだけだ。どういうつもりなんだ……?
 半透明の巨大クラゲの体の中で、薄く光が点滅し始めた。血液が血管を流れるように、光の点滅が体内を流れている。光はだんだん明るくなっていき、そしてついに触手の先から小さな雷がほとばしった。
 まさか、電気クラゲ化するなんて。
 おそらく、一瞬でも触ったら痺れて動けなくなるだろう。
 じっと見据えたまま、じりじりと後ずさって距離を広げる。
 そして、僕はふと気づいた。
 巨大クラゲの体内を駆け巡る光の点滅は、本体のある一点から触手の先へと流れている。
 まるで、心臓が血液を送り込むように。
 ということは、そこが『核』か。
 新たな力を発動させて仕留めにきたんだろうけど、同時に弱点をさらけ出すことにもなっている。
 でも、どうやって攻撃したらいい?
 近づかなければ攻撃できない。でも、近づけば触手に襲われてしまう。もしアミカだったら弓で攻撃すればいいけど……。
 巨大クラゲが再び歩き出した。僕たちとの距離が少しずつ縮まる。
「リッキ、逃げましょう! 家の中まで逃げればきっと大丈夫です!」
「家ごと壊されてしまうかもしれないって!」
 あんな古い木造の建物なら、巨大クラゲに体当たりでもされればひとたまりもないだろう。もし畑の作業小屋に逃げ込んだとしても、同じことだ……。
 それだ!
「シュニー、家じゃない、作業小屋だ! 走るぞ!」
「作業小屋、ですか?」
 一瞬早く走り出した僕に、シュニーは簡単についてきた。でも、その顔には疑問が浮かんでいる。
「先に行ってあの槍を用意しておいて!」
 シュニーの表情が一瞬で変わった。
「! わかりました!」
 やっぱりシュニーは足が速い。あっさり僕を置き去りにして、作業小屋へと走っていく。
 巨大クラゲは触手の先から放電しながら僕を追いかけてくる。さっきまでとは違って、剣で振り払うことは危険かもしれない。必死に走って逃げる。それでも少しずつ距離が詰まってきた。ついに家に着いた。横を走り抜け、裏のベユ畑に回る。すると向こうからあの槍を両手に持ったシュニーが走ってきた。
「起動させてあります。いつでも」
「わかった」
 槍を受け取り、構えながら振り向いた。すぐそこまで迫っている触手の間から、『核』に焦点を合わせる。
 僕は、左腕を振り抜いた。
 普通は、大きく弧を描くものなのかもしれない。狩りとは本来、獲物に気づかれないように離れた位置からやるものだ。
 でも今は違った。至近距離で投じられた槍は、一直線に巨大クラゲの『核』に突き刺さった。
 伸ばされた触手が、僕に触れる寸前で動きを止めた。力を失い、だらりと垂れ下がる。
 触手に支えられていた本体も、支える力がなくなり溶けるように崩れた。
 勝った……。
 いや、まだだ。
 僕は周囲を見回した。特に、湖がある方向を注意深く。
 すると、小さな人影が二つ、走り去っていくのが見えた。きっとあの二人組だ。でも、追いかけるには遠すぎる。追撃はあきらめるしかなかった。

 まるで水たまりのように横たわっている巨大クラゲから、槍を拾い上げる。槍は粘液まみれになってしまっていた。
「ごめん、ちゃんと綺麗にして返すよ」
「いえ、返してもらわなくていいです」
 予想外の言葉に、僕はシュニーから槍に目を移す。槍から垂れた粘液が、地面に落ちた。
「えっと、ちゃんと綺麗に」
「やっぱりリッキが持っているべきです。私が持っていても意味がありません。この槍をちゃんと使えるリッキこそが、持ち主にふさわしいです」
 シュニーは両手を後ろで組んだ。受け取らない、という意思表示だ。
「本当に……いいの?」
「もちろんです。決して汚れたからじゃありませんよ。もう一度槍を見てください」
 そう言われて槍を見ると、あんなにまとわりついていた粘液が、全て流れ落ちていた。
「この槍は、使った後は獲物の血や体液が付いていてもちゃんと落ちるんです」
「そうなのか。便利な機能だね」
 仮想世界ならモンスターと戦った時に付いた汚れは戦闘が終わると消えるけど、現実世界である本物のリュンタルでそれを実現した人がいたなんて。
 使う前と同じ状態になった槍を、まじまじと見つめる。
「でも、最初はあんなにほこりまみれだったのに」
「それは使っていなかったからです。起動させずにただ置いておけば、ほこりは積もります。ですからリッキが使ってください」
 シュニーの気持ちは揺るがない。これ以上断るのはかえって迷惑だろう。
「……じゃあ、とりあえず借りておくよ。いつでも返せるように、大事に使うから」
 僕は空中に指を滑らせ、槍をウィンドウ内にしまった。
「! 消えた!」
「あはは、大丈夫だよ」
 慌てふためくシュニーを安心させるため、また指を動かし槍を出現させた。
「ど、どうなって、いるのですか? 魔法ですか? そういえば初めて会った時も剣を出したり消したりしていましたね。あの時は動転していて深く考えませんでしたが」
「魔法じゃないよ。僕がいる世界では、こういうことができるのが普通なんだ」
 あまり深く訊かれると説明に困る。僕はまた槍をしまい、代わりに紙コップに入った黄色いジュースを出した。
「ザサンノジュースだよ。飲む?」
 飲み物でも飲んで落ち着いてもらって、話題を切り替えようかと思ったんだけど……。
 受け取ったシュニーは一口飲んで、顔をしわくちゃにした。
「酸っぱい、です」
 酸味が効いているザサンノジュースの味は、極度に甘いベユジュースを飲み慣れているシュニーの好みではなかったようだ。なかなか二口目を飲もうとしない。
「僕はこの味が好きなんだけどな」
「……リッキがベユジュースを飲まなかった理由がわかりました」
「あはは、これでお互い様だね」
「そうですね。あはは」
 シュニーが笑ってくれて、僕はうれしかった。
 日頃は寂しい思いをしているだろうし、今日は危険な目にも遭った。そんなシュニーが笑っているのを見て、僕がここに来た意味を改めて強く感じた。
 何もない行き止まりの道だと言われたあの道は、こんな笑顔につながっていた。
 本当にここに来て良かったと、シュニーの笑顔を見て思った。

   ◇ ◇ ◇

 日が傾き、辺りはだいぶ薄暗くなってきた。
 僕は、ある問題を解決しなければならなかった。
 どうやって帰るか、ということだ。
 これまでは、お父さんが『リュンタル・ワールド』と本物のリュンタルを繋げてくれて、帰ることができていた。でも今回は、僕がここにいることは誰も知らないから、それは期待できない。
 こっちへ来る時、もっと冷静になっていればよかった。少なくともお父さんだけには知らせておけばよかった。でも気持ちが逸りすぎて、そこまで考えが回らなかった。
 本当に、どうしようか……。
「リッキは、これからどうするんですか? 別の世界という所に帰らなくてもいいんですか?」
 まるで僕の心の中が見えているかのように、シュニーが尋ねる。
「そうだね、帰れればそれが一番いいんだけど、帰る方法がないんだ」
 こうなったら今日は帰らずにここにいるのもいいかもしれない。もうシュニーが襲われないという保証もない。だったら僕が護衛としてシュニーのそばにいるべきだ。夜になっても帰らなかったらさすがに家族の誰かが気づくだろう。たぶん愛里からお父さんに連絡が行って、お父さんが記録を調べて僕が消えた場所を突き止める……そんなことになるはずだ。お父さんからはこっぴどく叱られることになってしまうだろうけど、仕方がない。愛里も怒るだろうけど……まあ、それはどうでもいい。
「またあいつらが来るかもしれないしさ、僕はまだここにいるよ」
「私はもう大丈夫です。心配はいりません」
「でも、どうせ帰る方法がないんだし」
「いいえ! 帰るべきです! 帰る方法なら、私がなんとかします!」
 シュニーは激しく僕に迫った。こんなに強い口調のシュニーは初めてだ。
「う、うん、じゃあ、お願いするよ」
 なんとかなるものなのだろうかという疑問を抱きつつも、僕は勢いに押されて遠慮気味に答えた。

「ここです」
 シュニーは僕を家の一室に連れてきた。見慣れない機械が立ち並び、テーブルの上には何に使うのかわからない実験器具らしいものがいくつも置いてある。
「っくしゅん!」
 鼻がムズムズして、大きなくしゃみが出た。部屋全体がかなりほこりっぽい。床にほこりが積もっていて、歩くと足跡がつく。機械や実験器具もほこりで白くなっている。
「ここは父の研究室です。ここにある機械で、リッキの世界と繋がることができます。ほとんどがガラクタですが、あの機械はちゃんと成功していました」
 機械で『リュンタル・ワールド』と繋がる――。
 本当に、そんなことができるのだろうか。
「あのさ、決してシュニーのお父さんを疑う訳じゃないんだけど、それは無理なんじゃないかな。そんな機械があるなんて思えないよ。それに、ここにある機械はだいぶ古そうだし」
「大丈夫です。必ず帰れます」
 シュニーはやや厚みのある円盤を持ってきて、床に置いた。計器が埋め込まれていて、針が中央を指している。体重計に見えなくもないけど、円周に沿ってボタンがいくつも並んでいて、何か知らない用途があることを思わせる。
「これは転送装置です。……そうですね、一回試してみましょう」
 シュニーは部屋の奥にある棚の前に立ち、扉を開けた。両開きの扉を全開にして、棚の中を僕に見せる。薬品だろうか、瓶がたくさん並んでいた。大きさや形はさまざまで、色も透明なものから赤や青、茶色など何種類もある。
 ほこりが舞う中で、シュニーは小さな茶色いガラス瓶を取り出し、扉を閉めた。
「よく見ていてください」
 手に取った小瓶を、円盤の上に置いた。瓶には白い蓋がしてあり、色あせたラベルは青い線で縁取りされている。中には半分くらいまで液体が入っていた。
 素早く動くシュニーの指先が、円周のボタンを次々と叩く。針が小刻みに左右に震え、円盤の中央から白い光が溢れ出る。針の動きが大きくなるにつれ光はどんどん強くなり、小瓶を覆い隠した。
 数秒後、シュニーの手が止まった。光も薄くなっていく。そして、
「消えた……」
 さっきまで円盤の上にあった小瓶が、なくなっている。
 驚く僕を尻目に、シュニーはまた部屋の奥にある棚の前に立った。
「リッキ、こっちです」
 シュニーは棚の扉を開け、ある一点を指差した。
 そこにあったのは、茶色い小瓶。
 僕はすっかり元通りになった円盤に目を移し、そしてもう一度棚を見た。
 あの小瓶が、棚に戻っている?
 シュニーは棚から小瓶を取り出し、僕の目の前に掲げた。白い蓋、青く縁取りされた色あせたラベル。中の液体の量。間違いない。同じ瓶だ。
「この機械は、乗せた物の記憶をたどり、本来のあるべき場所へと転送させることができます。これでリッキは帰れます」
「ちょっと待って!? この小さな瓶はちゃんと転送されたけどさ、その、僕は生身の人間だし、体も大きいし、距離だってこんな近くじゃなくて、えっと、距離? 距離はどうなんだっけ? そもそも距離ってあるのかないのかよくわかんないけど」
「いいから乗ってください!」
 混乱する僕の腕をシュニーが掴む。引っ張られた僕は無理矢理円盤の上に立たされてしまった。
「リッキ、針の根元にあるボタンを押してください」
「……こ、これ?」
 計器の下の部分に、他より大きなボタンがひとつある。まだ混乱している僕の肩をシュニーが掴んで押し下げた。強制的にしゃがまされた僕は、言われたとおりにボタンを押した。
「さっきの操作を機械が記憶しています。二回目からは複雑な操作は必要ありません。そのボタンを押すだけで操作は完了します」
「えっ……え、か、完了? 完了って」
 さっきと同じように、針が震え、白い光が溢れ出てきた。
「ちょっ、待っ――」
 白い光が僕を覆う。周囲が、シュニーの姿が見えなくなっていく――。

   ◇ ◇ ◇

 ふと、目が覚めた。
 辺りは薄暗い。
 それでも、目の前に見えているのが古ぼけた小屋だということは、はっきりとわかった。
 慌てて跳ね起きる。
 小屋の扉を開ける。中には道具も荷物も何もない。からっぽだ。
 振り向くと、何も植えてない畝だけの畑があった。
 つまり、ここは……。
 視界の左下にあるメニューアイコンを二回つつく。メニューウィンドウの最下段にある『ログアウト』に触れる。

 ――本当にログアウトしますか? <はい> <いいえ>

 帰ってきたんだ……。
 じゃあ、お父さんに怒られなくてすむかな……。

「あっ」
 思わず声が出た。
 大事なことを忘れていた!
 もうこんなに暗くなってる! 早く現実世界に戻って夕食を作らなきゃ!
 僕は慌てて<はい>に触れた。

   ◇ ◇ ◇

「あ、今日はチャーハンなんだ」
 愛里はリビングに駆け込んでくるなりそう言って、座ると同時に食べ始めた。
「あいちゃん、ちゃんといただきますしなさい」
「いただきまーす」
 お母さんに注意されて、棒読みすぎる感謝の言葉を早口で済ませると、すぐにまたスプーンを口に運んだ。そして一口食べてから、ぼそっとつぶやいた。
「今日お父さんいるんだ」
「……いちゃ悪いかよ」
 お父さんは最近また忙しくて帰るのが遅かったけど、今日はちゃんと夕食までに帰ってきていた。と言っても日曜日に会社に行っている訳だから、忙しいことに変わりはない。
 僕とお父さん、お母さんの三人は先にチャーハンを食べていて、皿の上はもう半分くらいの量になっている。
「せいちゃん、愛里が冷たい。反抗期ってやつかな」
 お父さんはお母さんにすがりついて、同情を買おうとしている。
「あいちゃん!」
 お母さんが厳しく愛里の名前を呼んだ。
「ゲームもいいけど、ちゃんとご飯までには帰ってきなさい!」
「はーい」
 形式的な返事だけをして、愛里はまた一口チャーハンを食べた。
「……立樹、俺、ひょっとして無視されてる?」
「そ、そんなことないって。はは……」
 小声でささやくお父さんに、僕もなんとなく小声で返した。愛里はともかく、お母さんの発言がちょっとずれているのは、いつものことだ。
「まあまあお父さんそんなにひねくれないでよ。お父さんがいるなら言おうと思ってたことがあってさ。それで呼んだだけだって」
「ん、なんだ、そういうことか。で、何?」
 安心したお父さんは笑みを浮かべ、その口に唐揚げを放り込んだ。今日もお母さんは唐揚げ専門店『からあげ皇帝』から唐揚げを買ってきていて、定番のしょうゆ味の他にレモン味も食卓に並んでいた。きっと、唐揚げにレモンをかけるくらいなら最初からレモン味にしてしまえという発想で生まれた味なのだろう。そして唐揚げが二種類あるのは、迷ったときにはどっちも買う、というのがお母さん流だからだ。
「今日ね、初めて七人パーティやったの」
「おっ、そうか。で、どうだった?」
「すごい楽しかった! ね、お兄ちゃん?」
「え、う、うん、楽しかったね」
 急に話を振られて言葉が思いつかず、愛里が言ったことをそのまま繰り返して言ってしまった。愛里は同意が欲しかったというより、僕がどう反応するのか確かめたかっただけだろうから、自分の意見がないというのはあまりいい答えではないだろう。
 でも愛里はそこを追求せず、お父さんに話を戻した。
「それでなんだけどさ、今日戦ったモンスター、ひどいんだけど」
「ひどい? 何か、バランスが悪かった?」
「そういう問題じゃなくて! ほらこれ! 見た目ひどすぎ!」
 スマートフォンを取り出し、スクリーンショットをお父さんに見せる。
「あー……、これは、その……いいか愛里、よく聞くんだ。そう、あれはちょうど今のような、冬が近づいてきた頃だった。俺とフォスミロスは森の奥深くに住む魔獣使いを倒しに行った。その魔獣使いは特に異常なヤツで、いくつもの魔獣の体を繋ぎ合わせ、新しい魔獣を生み出そうとしていた」
 愛里がただ文句をいうだけの話になるのかと思ったら、予想外の方向に進んでいった。
 お父さんはとても真剣な表情で話を続ける。僕もスプーンを止めて真剣に耳を傾ける。
「魔獣使いを倒そうと思っても、見たこともない合成獣(キメラ)が立ち塞がってなかなか近づくことができなかった。だからまず合成獣をなんとか倒すことに――」
「じゃあその話はフォスミロスから聞くことにするよ。だから『(ゲート)』貸して」
 突然愛里が話に割り込んできた。
 お父さんの顔が渋る。
「いや……それはダメだ」
「えーなんでー? ひょっとしてフォスミロスが『そんな話は知らない』とか言っちゃうのが怖いからかなー?」
 愛里はまるでセリフを読んでいるかのような芝居がかった口調で言った。完全に疑ってかかっている。
「そうじゃないなら『門』貸してくれるよねー?」
「い、いや、その、フォスミロスは口下手だからな。フォスミロスから聞いてもあまりわからないというか」
「大丈夫だって。体験談を語るのは上手いとか下手とかじゃないから。本人だけが語れるリアルさが重要なんだって。だから『門』貸して」
「ダメだ」
「いいから『門』貸してよ」
 話がすっかり『門』のことになってしまっている。
「ダメだったらダメだ」
「もーお父さんのケチ!」
 まただ。愛里はどうにかして『門』を使おうとしているけど、お父さんが許してくれるはずがない。
「お、お父さん」
 なんとか二人の喧嘩を終わらせようと、割って入った。
「僕はフォスミロスからじゃなくて、お父さんから聞きたいよ」
 お父さんが全部話してしまえば、愛里の理屈が通らなくなる。
「あー、今の話、全部ウソ」
「「えー!!」」
 僕と愛里の驚きの声が重なった。
「フォスミロスは関係ないから『門』も関係ないな。ざーんねんでした」
 お父さんは大きく口を開けて笑うと、その口に唐揚げを放り込んだ。
「じゃ、じゃあこのモンスターはなんなの?」
 愛里はまたスマートフォンを突きつけた。
 唐揚げが口の中に入っているせいで、少し間を置いてお父さんは答えた。
「そりゃあまあ、ゲームだからな」
 やっぱり「ゲームだから」か。そうだろうと思った。
「ねーお母さん、これひどいよねー?」
 愛里は今度はお母さんにスマートフォンを見せた。お父さんに言っても仕方がないので、お母さんを味方にしようというのだ。
 お母さんはじっと画像を見つめている。そして、
「なんだか賑やかな悪者ね! 楽しそうじゃない!」
「えー!」
 やっぱりお母さんが考えることは人とは違う。
「うーん……しょうがないなあ……」
 愛里はスマートフォンを引っ込めると、レモン味の唐揚げに箸を伸ばした。
「あっ、これおいしい!」
 いつも何を食べてもおいしいと言うけど、レモン味の唐揚げもお気に入りのようだ。
 僕も食べてみた。うん、これは唐揚げのわりにはさっぱりしていておいしい。

   ◇ ◇ ◇

 夕食を食べ終わって部屋でのんびりしていると、愛里が部屋に入ってきた。いつものようにベッドを椅子代わりにすることはなく、閉めたドアに背中を預けている。
「お兄ちゃん、なんで今日はチャーハンだったの? 手抜き?」
「手抜きじゃないって。チャーハンだってちゃんとした料理だろ。もしかしておいしくなかった?」
「おいしかったよ。お兄ちゃんの料理なんだからおいしいに決まってんじゃん。でもどうして今日チャーハンだったのかなって思って」
 時間がなかったから、とは言えない。言えば、どうして時間がなかったのか、そんなに遅くまで何をしていたのかと追求されてしまう。
「たまたまだって。たまたま気が向いたんだよ!」
「ふーん」
「……なっ、何だよ。チャーハンの何がそんなに気に入らないんだよ」
「そうじゃないんだけどね。で、明日は何作るの? やっぱり手抜き?」
「だから手抜きじゃないって!」
「……ふーん」
 なんだかすっきりしない言い方のまま、愛里は自分の部屋に戻っていった。
 もしかして、本物のリュンタルに行っていて時間がなかったから簡単にできるチャーハンにした、ということに気づいているのだろうか。
 まさか。
 ……さすがにそんなことはないだろう。考えすぎだ。

   ◇ ◇ ◇

 あの日以来、三人で給食の弁当を食べるのが当たり前になっていた。
 右隣には玻瑠南、正面には西畑。
 三人になってからも、やっぱり会話はない。この場で話せる共通の話題がないからだ。玻瑠南はアミカとして、西畑はフレアとしてスマートフォンでメッセージを送り合うことはあっても、声に出して話すことはない。
「沢野君、どうしたの? 食べないの?」
「え?」
 だから、西畑が話しかけてきたのが意外だった。そして、二人と比べると僕の弁当はまだほとんど残っていることも、言われるまで気づかなかった。
「さっきから外見てばっかりだけど。何かあったの?」
「いや……なんでもないよ」
 そんなに外を見ていたっけ、と思って曇り空が広がる校庭を一瞬だけ見て、遅れを取り戻すように弁当に箸を伸ばした。
「立樹、何か悩みでもあるの? もしよかったら私に言って?」
「沢野君、だったら私が相談に乗るわ」
「なんであんたなんかに相談しなきゃならないのよ」
「そっちこそまともに話し相手が務まるの?」
 ズズッと椅子を引く音が鳴り、二人が立ち上がった。
「ちょっと二人とも! 落ち着いて!」
 今にも掴み合いの喧嘩になりそうな二人に割って入って静止する。
「あのさ、そもそもだけど、悩みなんてないから」
 できるだけ穏やかにそう言うと、身を乗り出していた二人はにらみ合いをやめ、椅子に座った。
「たまたまちょっとぼーっとしていただけだから。本当になんでもないよ」
「そう? なら、いいんだけど」
 西畑は弁当を食べながらも、心配そうな顔を僕に向ける。
 右を見ると、玻瑠南もやっぱり心配そうに僕を見ている。
 本当は、なんでもないなんてことはない。
 シュニーはどうしているだろうか。
 昨日はあの二人組を追い払うことができたけど、また襲ってくるかもしれない。やっぱり気になってしまう。
 でも、今はいくら気になったとしても何もできない。学校が終わるまでは考えないようにしよう。またぼーっとしていると、玻瑠南や西畑に何かあると思われてしまう。
 タルタルソースがかかったエビフライを口に入れ、よく噛んで飲み込んだ。今日始めて味を感じた気がした。

   ◇ ◇ ◇

 放課後になった。
 駆け出したい気持ちをこらえ、できるだけ何事もないかのように普通に歩くことを心がけて学校を出た。下校中も普通に歩く。見ず知らずの人に走っているところを見られても何もないんだけど、それでも気になってしまって普通に歩く。
「ただいまー」
 家に着いてからも、油断はできない。愛里の靴がある。先に帰ってきているようだ。できるだけ普通を装って、何も気づかれないようにしなければ。
 でも、スマートフォンを見ると、愛里はすでにログインしていた。だったら大丈夫だ。急いで階段を上り、部屋に入る。
 制服から私服に着替えるのは、いつもよりちょっと速かったかもしれない。
 そして、ゴーグルを装着し、いつも通りにベッドに横たわった。

   ◇ ◇ ◇

 モーマノ山のふもとの『門』に、僕は姿を現した。
 ここにいるのは僕だけだ。僕がここにいることは、誰も知らない。
 やっと、誰の目も耳も届かない所まで来た。
 一歩目から全速力で走る。昨日と同じように剣の装備を外し、モンスターを無視して走る。昨日は山頂から下ったけど、ふもとから行ったほうが距離は近い。何匹かのモンスターを無視して走り続け、そしてあの大岩が正面に見えてきた。道は二手に分かれている。でも僕は右の道は最初から見ていない。スピードを緩めることなく左の道へ進む。カーブを曲がり、その先の分岐も迷うことなく進み、走って走って走り続けて、行き止まりに着いた。その先の木々の間を縫うように進むと、畝が並んでいるだけの畑が現れた。畑の横の砂利道を、休まず走る。 
 小屋へ続く砂利道は……今日も、荒いドットと化していた。
 僕はためらうことなく、足を踏み入れた。

   ◇ ◇ ◇

 目を開くと、小屋がそこにあった。
 立ち上がって振り向く。真っ白いベユの綿が、雲のように畑を覆っている。
 小屋の扉をそっと開ける。農具や箱、そして布を織る機械が、昨日と変わらずそこに置かれていた。
 シュニーの姿はない。僕がここに倒れたままでいたということは、シュニーが畑に来ていないということだ。きっと家にいるのだろう。
 家のほうに歩いていくと……中から何か物音が聞こえてくる。壁や床に何かがぶつかるような、重々しい音。そして……男の声?
 僕は走った。走りながら剣を出現させ、左手に握る。扉は開いていた。家の中からカラスのような黒い鳥が飛び出してきた。でも嘴が異様に長く、体よりもむしろ嘴のほうが長い。黒い鳥はその長い嘴の尖った先を僕に向けて、一直線に飛んできた。僕はしゃがみながら剣を上に振った。頭上を通り過ぎようとした黒い鳥は体を前後に斬り離され、地面に落ちた。立ち上がると、家の中から別の黒い鳥が襲ってきた。僕はまた黒い鳥を斬った。五羽の黒い鳥を斬って、やっと僕は家の中に入ることができた。
「シュニー!」
 シュニーはうつ伏せに倒れていた。服は破れ、体中が傷だらけだ。
「リッキ……」
 ゆっくりと顔を上げたシュニーの口から、弱々しく僕の名前が漏れた。
「また、来て、しまった、のですね……」
「当たり前だろ! 僕はシュニーを助けるためなら、何度だって」
 家の奥から足音が近づいてくる。顔を上げると、男二人と目が合った。昨日のあの二人組だ。さっきの黒い鳥は、こいつらの魔獣に違いない。
「ちっ! こいつもいやがったか!」
 ローブの男が舌打ちする。同時に右手を前に伸ばした。ごつごつした指輪が嵌まった右手に、黒い稲妻が作られていく。
 一度敗れた魔法をまた使ってくるなんて。また同じように返り討ちにしてやる!
「お前ら! 絶対に許さない!」
 僕は剣を構えようとして、不利に気づいた。この小さな家の中では、長剣を振り回すことができない。
 でも、そんなことはお構いなしに僕は突っ込んでいった。それ以外なんて考えられなかった。剣を前に向け、突き出されたローブの男の右手を貫こうとした。しかし、
 ――キイイイィィン!
 ローブの男の背後から剣士の大男が前に出て、籠手で剣を払い除けた。そのまま肩から体当たりをしてきて、僕は部屋の中央にあるテーブルごと倒されてしまった。
 仮想世界にはない痛み。でもそんなことを言っている場合じゃない。僕は仰向けに倒れたまま、さらに近づいてくる剣士の膝を蹴りつけた。
 うっ、とうめいて顔をしかめる剣士に、ローブの男が「引くぞ」と一言告げた。二人は倒れているシュニーの体を飛び越え、外へ走り去っていった。
 立ち上がった僕は、すぐにシュニーのもとに駆け寄った。
「シュニー! 大丈夫? シュニー! そうだ、ポーションを」
 うつ伏せに倒れているシュニーを抱き起こし――。
 僕は、動けなくなってしまった。
 倒れていた時には見えなかった、シュニーの左胸。
 服は破れ、肉も裂かれ、その内側でかすかに輝いている、ヒビ割れた赤い宝珠。
 どうなっているんだ?
 これは、何なんだ?
 シュニーの左胸から、目が離せない。
「そ、そうだ、ポーションを」
「いいえ」
 ポーションを出そうとした僕を、シュニーが止めた。
「リッキ、聞いてください」
「黙って! 安静にしなきゃ」
「いいえリッキ、聞いてください」
 シュニーの目が、弱々しい中に強い意志を持って僕を見ている。
「五十年ほど前のことです。魔力工学の科学者であったソカノス博士は、魔力を使ったある計画を立てました。それは、魔力によって人形に命を宿すことでした。愛する家族を失った人々の心の穴を、擬似的な命ではあっても人形が代わりになることで少しでも埋めることができるのではないか、そう考えたのです。
 しかし、王はそれを戦争で使うことを考えました。大量生産した人形を兵士として戦場に送り込み、隣国を侵略しようとしたのです。博士はそれを嫌い、国を捨てて誰もいない森の奥へと逃げ、密かに研究を続けました。そして完成したのが、この私です」
 シュニーが……人形?
 僕はシュニーを支えたまま、何も考えられずにいた。
 シュニーは話し続ける。
「博士は私をまるで実の娘のように思い、接してくれました。私にとっても、博士は父のような存在でした。博士と私は本当の親子のように、ここで二人きりで暮らしていました。
 ですが、生まれた時からずっとこの姿の私とは違い、博士は次第に老いていきました。やがて、私は博士を……父を、失いました。そしていつしか、二人で暮らした年月の二倍、いえ三倍の年月が流れた時に……リッキが現れ、そしてあの二人組も現れました。父が張り巡らせていた迷彩が古くなって力を失ったのだということは、すぐに理解できました。私は、その時が来たのだと悟りました。そして思った通り、私の体は壊されてしまいました」
「シュニー! あ、あのさ、僕はよくわからないけど、体を治す方法があるんだろ? 何か、その」
「父の研究を理解できるほどの人間はいません。私を直せる人間は、父以外にはいません」
「そんな……」
 うろたえるばかりの僕の希望を、シュニーは簡単に否定した。
「私は父から人間を超える筋力や体力、そして回復力を与えられました。ですが、戦う力だけは、私には与えられなかったのです。おかげであの男たちに抗う術がありませんでしたが、それでも、私は、父を、憎んだりは……しません」
 シュニーの左胸の宝珠が、だんだん赤い輝きを失っていく。
「こんな姿をリッキに見られたくなかった。だから、リッキには無理矢理帰ってもらいました。でも今は……最期をリッキに看取ってもらえて、よかったと、思って、います」
 言葉が少しずつゆっくりに、そして途切れがちになっていく、
「最期ってなんだよ! そんなんじゃないって! 絶対に何か方法があるって!」
 本当は方法なんてないんだ。でも、そう考えないと、そう言葉にしないと、シュニーが……。
「人間は……死ぬと、死後の世界へ行き、別れた人々と再び会うのだと聞きました。私は……こんな体の私でも、父に会うことは、できるので、しょうか」
「…………できるさ」
 今にも輝きが消えそうな宝珠は、涙でよく見えなかった。
「絶対に、絶対に会えるに決まってるだろ!」
 僕は叫んだ。それ以外の言葉は見つけられなかった。
「……ありがとう、リッキ」
 シュニーが微笑む。
 ピシッ、と音が鳴った。
 宝珠に大きくヒビが走り、砕ける音だった。赤い輝きは、もうない。
 目を閉じ、命を失ったシュニーの体が、僕の腕に重くのしかかる。
 僕の目から落ちた涙が、宝珠のヒビに吸い込まれていった。
 何も起きない。宝珠は砕け、赤い輝きは失われたままだ。
 ここはおとぎ話の世界なんかじゃないんだ。

   ◇ ◇ ◇

 作業小屋からシャベルを見つけてきて、穴を掘った。
 シュニーのお父さんのお墓の横で、シュニーが一緒に眠るために。
 僕にできることは、それしかない。

 家に戻る。
 奥にある研究室は少し荒らされた程度だった。男たちがここに踏み入ってから僕が来るまで、そんなに時間がなかったのだろう。
 あの円盤型の転送装置は無傷で置かれていた。僕はその上に乗った。計器の下についているボタンを押す。計器の針が震え、白い光が溢れ出てきて、僕の体を覆った。

   ◇ ◇ ◇

「……アイリー?」
 目を開けると、アイリーが僕の顔を真上から見下ろしていた。
「お兄ちゃん! 本物のリュンタルに行ってたんでしょ! 私わかってるんだからね! どうしてひとりだけで行ったの? どうして教えてくれなかったの? 今度はちゃんと私もみんなも連れて行ってよ! ねえ聞いてるの!」
「……もう、終わったんだ」
 僕は力なく立ち上がった。
「お兄ちゃん……?」
 アイリーはまだ何か言いたそうだったけど、僕は構わずウィンドウを開いた。

 ――本当にログアウトしますか? <はい> <いいえ>

 ゆっくりと動かした手が、<はい>に触れた。

しおり