バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第六章 森に住む一族

(ゲート)』の白く淡い光が降りていき、僕たちの目に、本物のリュンタルが映っていく。
 仮想世界とは違い、本物のリュンタルの夜は暗闇だ。『門』から漏れた光を頼りに、周囲の様子を探る。
 ――人!?
 それも、一人じゃない。はっきりとは見えないけど、何人もの人が僕たちを見ているようだ。
『門』の光が消えた。松明の炎と、滑るように漂う青白い小さな光が、僕たちを挟んでいくつも暗闇に浮かんでいる。
「だ、誰だ」
 野太い声の男が、ごつごつした腕に握った松明をこっちに向けた。その反対の、右手には幅の広い剣を持っている。
 炎の数は五つ。ということは、人数も五人か。
 反対側を見る。小さな青白い光が飛び交い、人の姿を、顔を照らす。
 細い手に持ったナイフが、青白い光を反射している。体は傷だらけだ。シワが寄った眉間、男たちを睨みつける青い瞳、歯を噛みしめた口。肩まで流れた金髪は乱れ、前髪の数本は汗ばんだ額に貼り付いている。年齢は僕たちと同じくらいだろうか。そして、頭には……ネコ耳。
「こんばんは~」
 僕の隣で、シェレラがのんびり挨拶をしている。
 でも、そんな場合じゃない。どうやら僕たちは、戦闘の真っ直中に出現してしまったようだ。
「見ろ。ニローク人の女だ」
 振り向くと、野太い声の男の後ろで、ひょろ長い男が松明を突き出していた。
 松明の先には……フレア。
「よくわからねえけど、ちょうどいいや。もう一度来た甲斐があったってもんだぜ。あいつを攫っちまおう」
 攫う? フレアを?
「やるぞ!」
 松明の男たちが、剣を振りかざして迫ってきた。
 僕は剣を抜いた。ごつごつした腕が振り下ろす剣を、ギリギリで受け止めて弾く。まさかいきなり戦闘になるなんて。鎧を着ておいてよかった。
 他の男たちは、一斉にフレアに向かっている。アイリーがフレアの前に立ち、杖の先から炎を噴射した。男たちは怯んで下がった。炎の玉を飛ばすのとは違って、この攻撃は距離を取られたら通用しない。でも、陣形を整えて戦闘態勢に入るための時間を稼ぐには、これで十分だ。
「こいつらの狙いはフレアだ! フレアは下がって!」
 僕が先頭に立ち、その後ろにアイリーが杖を、アミカが弓を構えた。フレアはシェレラと一緒にその後ろにいる。
「うおおおおおおおっ!」
 野太い声を轟かせ、男が松明を投げ捨てて力任せに僕に斬りかかってきた。幅の広い剣を、細身の長剣で必死に弾き返す。隙を突いて反撃したいけど、暗くて相手の動きがよく見えない。それに……生身の人間と刃を交えるなんて初めてだ。緊張とためらいで、腕が思うように動かない。
 他の男たちも襲いかかってきた。僕の後ろからアイリーが炎の玉を飛ばし、アミカが光の矢を放つ。こいつらは松明を持ったまま突っ込んできていて、的を絞りやすい。攻撃を受けた二人の男が、(うめ)き声をあげて倒れた。それを見た残りの二人は足を止め、身構えて様子を見ている。
「ちっ、しょうがねえ、引くぞ」
 僕と戦っていた男が少しずつ後ずさる。後ろで身構えていた二人が、倒れている二人を担ぎ上げた。男たちはそのまま、でこぼこの地面に足を取られながらも走り去っていく。
「待て、逃げるな」
 ネコ耳の少年が弱々しい声を漏らす。追おうとして足元をふらつかせ、倒れそうになった。僕はその体を受け止めた。
「シェレラ!」
「うん」
 シェレラは回復魔法をかけた。少年の体から傷が消えていき、表情からも苦しさがなくなっていく。
 フレアは遠ざかっていく男に何か小さな玉を投げつけた。玉は男の背中で小さく破裂したが、男は特に気にする素振りもなく、そのまま去っていった。

 相変わらず、いくつもの青白い小さな光が、滑るように暗闇の中を漂っている。
夜光蝶(やこうちょう)の微かな光でも、これだけ暗いと頼りになるわね」
 光の動きを追いながら、フレアが呟いた。
「夜光蝶?」
「あれ? リッキ、夜光蝶知らない? FoMにしかいないんだっけ?」
「うん、僕は知らないけど……誰か、夜光蝶って知ってる?」
 首を縦に振った人は、いなかった。
「すまん、ひとつ、訊きたいのだが」
 ネコ耳の少年は傷が塞がり、今は一人で立っている。僕たち全員を軽く見回した後、フレアに向かって言った。
「君は……ニローク人なのか」
「ニローク人? ……て、何?」
 フレアは僕に目で疑問を投げかけた。
 ニローク人なんて知らない。僕は首を横に振った。
「もしかして、忘却の水を飲んでしまったのか? それで自分がニローク人であることを忘れたのか?」
 少年がフレアに詰め寄る。
「私はその、この世界のこと、あんまりよくわからないから。どうしようリッキ」
「えっと、僕も、よくわからない」
 ひどい答えだ、と言いながら思った。本物のリュンタルのことを知っていた僕が、ちゃんとしなければならないのに。
 どうすればいいのか迷っていると、
「あのね、こっちからもちょっと訊いていい?」
 アイリーが言った。
「今日の朝なんだけど、この辺りで銀色の髪の子を見かけ――」
「フィセを見たのか! 教えてくれ! フィセはどこにいるんだ!」
 少年はアイリーに詰め寄り、両肩を掴んで揺さぶった。突然激しく迫られてアイリーは困惑していたけど、冷静さを失った相手をなだめるように、優しく語りかけた。
「私たちもわからない。だから気になってまた来てみたの」
「その子は私が見たのよ。同じネコ耳だし、どうしても気になっちゃって」
 フレアが補足する。
 少年はアイリーから手を離すと、そのまま腕をだらりと下げた。そして、細々と呟いた。
「フィセは俺の妹だ。さっきの野蛮な男たち……あいつらに、攫われたに違いない」
 やはりそうか。
「だったら、僕たちの手で助け出そう」
 僕は即座に答えた。
「僕たちはこのために『呼ばれた』んだ。そうだろ? アイリー」
「うん!」
 アイリーは大きく首を縦に振った。他のみんなも、それに続いて頷いた。

   ◇ ◇ ◇

 男たちを追って森の外へと歩きながら、少年は話した。
 少年の名前はヴィッド。妹のフィセの行方がわからなくなって探していたらさっきの男たちに遭遇して戦闘になり、その最中に僕たちが出現した、ということなのだそうだ。
「我々ニローク人の村はこの森の奥にあり、外の人間とは接することなく暮らしている。外の人間を見たのは今日が初めてだが、なぜ外の人間と関わってはいけないという掟があるのか、よくわかった。外の人間とはあんなにも野蛮なものなのか。我々とは違いすぎる。耳の形もサルのようだし」
 妹を攫われ、自分自身も傷を負わされ、ヴィッドが外の人間に対して抱く感情は最悪なものになっている。
「いや、全ての人間があんなに悪いわけじゃない。あいつらが特に悪い人間なんだ。僕たちだって、あんな人間は許せない」
「簡単には信じられない。……しかし、君たちが僕を助けてくれたのも事実だ。君たちが言うことなら、信じてもいいのかもしれない」
「信じてくれてありがとう。それと、耳の形も悪さとは関係ないから、ついでに信じてくれないかな」
「……そうなのか。わかった」

 夜光蝶の微かな光を頼りに、ヴィッドは簡単に先へと進んでいく。フレアも楽々とヴィッドに続いている。でもそれ以外の『リュンタル・ワールド』組の人間は、相変わらず苦労しながらやっとの思いでついて行っている。でもいいことを知った。鎧を着ていれば、枝で体をひっかかれることがない。これだけでも鎧の効果を十分に感じる。でこぼこの地面につまずくのは、どうしようもないけど。
 そして、僕たちは森を出た。
「これが、森の外」
 目の前に、ただの荒れ地が広がっている。暗闇でよく見えない。それでも、ヴィッドにとっては初めて見る光景だ。
 地面を叩く音が、遠くからかすかに聞こえる。馬の蹄の音だ。さっきの男たちが馬で逃げ帰ったのだ。
「早く追わなくては!」
「大丈夫、絶対に見失わないから」
 焦るヴィッドを、フレアがなだめた。フレアが伸ばした指先に、一匹の蜂が止まっている。
「さっき、あいつらに蜜玉を投げつけておいたから。この蜂が場所を教えてくれる」
 蜂はフレアの指先からゆっくりと飛び立った。本物の蜂ではない。フレアが持っていたアイテムだ。蜜玉というのはさっき逃げていく男にぶつけた小さな玉のことで、蜂は男の背中についた蜜を求めて飛んで行くのだ。
「行こう」
 フレアは蜂を追って歩き出した。僕たちもそれに続こうとした。しかし、
「待ってくれ」
 進もうとする僕たちを、ヴィッドが止めた。
「夜光蝶が森から出たがらない」
 まるで僕たちを見送るように、夜光蝶は森の境界に留まって羽ばたいている。
「夜光蝶は森の生き物だから仕方がないわ。でも大丈夫。私に任せて」
 フレアは空間をなぞった。
「うわっ!」
 ヴィッドが驚いて、一瞬仰け反った。ネコ耳の先が小刻みに震えている。
 フレアは人の頭くらいの大きさの揺らめく炎を出現させた。暗闇だった周囲が照らされる。
「『プゴシュ湖の光』ってアイテムなんだけど、炎のように見えて全然熱くないのよ。空中に浮かんだまま一緒に動くから、ランタンと違って手ぶらで済むのよね」
「これは一体、どうなっているんだ? 外の人間とはこういうことができるものなのか?」
 何が起きたのか、ヴィッドはよくわかっていない。
「うん、じゃあ、その辺りのことを、歩きながら説明するよ」
 たぶん言っても伝わらないだろうなと思いつつ、僕は苦笑いしながら言った。

「僕たちは、実は森の外で暮らす人間ではなくて、こことは別の世界から来たんだ。その世界では、こうやって空中から物を取り出すことができるんだ」
「……別の世界?」
 仮想世界の仕組みとかゲームのこととか、あまり複雑な説明をしても仕方がない。
 僕はそれだけ言うと、空中を指でなぞった。そしてクムズムの実を取り出して、ヴィッドに渡した。
「これは……食べられる、のか?」
「はは、いいよ。食べて」
 僕はもう一個クムズムを取り出し、かじりついた。
 それを見て、ヴィッドもクムズムをかじった。
「……ふむ、うまい」
 自分の歯型がついたクムズムを見つめている。
「そうだ、もう一つ驚かせちゃうけど……森を出たし敵もいないし、鎧はいらないだろうから脱ぐよ」
 僕は空中をなぞり、鎧の装備を解いた。一瞬でいつもの青い服装になる。
「なっ、何をやったんだ? 鎧は? 鎧はどうしたんだ?」
 慌てたヴィッドは持っていたクムズムを落としそうになってしまった。お手玉してなんとか落とさず掴み直し、もう一口かじった。
「まあ、こういうこともできるんだよ、ってことで」
「普通では考えられないことばかりだ。別の世界から来たというのは、本当のようだな。……ところで、その」
 僕を見ていたヴィッドは、フレアに目を移した。
「フレアは、本当にニローク人ではないのか? やはりフレアも別の世界から来たのか?」
「そうよ。私がいる世界は、人間やネコ耳だけじゃなくて、翼があったり尻尾があったり、もっとたくさんの種族が入り混じっているわ。見た目で区別することなんてないわね。たまたま気が合ったりだとか、考え方や目指すところが同じだったりして、仲間になっていくのよ。別の種族でも仲間になるし、同じ種族でも敵対してしまうことはあるわ」
「そうなのか……。そんな世界があるなんて……」
「僕が言ってることもフレアが言ってることも、ちょっと想像しにくいだろうからさ、あまり深く考えなくてもいいよ」
 どんな世界なのか詳しく教えてくれ、とか言われてしまうと、かえって困る。なんとなく納得してくれたほうが、僕としてはむしろ気が楽だ。
 でも、ヴィッドは僕の期待とは別の方向で違うことを言った。
「いや、わかる」
 ヴィッドはクムズムを一口かじり、少し間を置いてから言った。
「なぜなら、ニローク人の伝承では、先祖はどこからともなくハムクプトの森に現れたと言われているからだ。そして、最初は外の人間たちと共に暮らしていたが、次第に迫害を受けるようになり、森に帰ったのだと。所詮伝承にすぎないと俺は思っていた。しかし、君たちの話を聞いて思ったのだ。もしかしたら、我々の先祖も別の世界から来たのではないかと」
 そんなことがあるのだろうか。人間しかいないリュンタルにネコ耳がいる理由としては、もっともらしい気もするけど……。
「そうだ、きっと先祖は君たちの世界から来たのだ。君たちが今日、森に現れたように。我々ニローク人もフレアも、元をたどればきっと同じ一族だったに違いない!」
「いや、それは、えっと……違うんだ、ヴィッド」
 まずいな。なんだかややこしい話になってきた。
「ど、どうしよう、フレア」
「私に言われても、こ、困るって」
 そうだ! こういう時は!
「シェレラ! シェレラからヴィッドに言ってくれよ」
 これまでも、僕が説明に困った時は、シェレラが説明してくれていた。シェレラの説明は本当にわかりやすい。きっとヴィッドにも上手く説明してくれるはずだ。
「う~ん、あたしとヴィッドは髪の色も目の色も同じだから、もしかしたら同じ一族だったのかも」
「何言ってんだよシェレラ!」
 ちゃんと説明してくれると思ったけど、残念なことに普段の天然っぷりが全開だ。
「いや、リッキ、シェレラが言うことにも一理あると、俺は思うのだが」
「一理ないから!」
「シェレラが同じなら、私も同じ一族かもしれないね! だって家が隣なんだし!」
「全然関係ないだろ! っていうかだったら僕も同じってことになるだろ!」
「アミカは? アミカはちっちゃくてかわいいよ?」
「もうみんな黙ってくれよ! そうだフレア、その蜂は方向しかわからないの? 距離は?」
 なんとか話題を変えるしかない。
「え、う、うん。距離はわからないわ。でもそんなに遠くないはずよ。だって今日だけで森との間を二往復してるんでしょ? 森に来てフィセを攫って一旦戻って、また今森に来た訳だから。だったらそんなに離れた場所であるはずがないわ」
「そ、そうか、そうだな」
 アイテムに頼らない答えを、フレアは返した。冷静に考えれば、きっと僕だってわかっただろう。冷静に、冷静にならなきゃ。
「もーお兄ちゃんったらそんなこともわからなかったの?」
 なんだか腹の底からこみ上げてくる感情がある。でも冷静に、冷静に……。
「歩いて行こうとしてるんだから、歩いて行ける距離に決まってんじゃん!」
 冷静に、冷静に…………。
「ほんっとお兄ちゃんバカなんだから」
「アイリー! いいかげんにしろよ! じゃあアイリーはどのくらいの距離かわかってんのかよ!」
「えっ……だから、歩いて行ける距離でしょ」
「どのくらい歩くんだよ」
「そ、その……そこそこ? そこそこよ!」
「そんな答えあるかよ!」
「リッキ、そう怒んないで」
 アイリーに食ってかかろうとした僕はフレアに背中から止められ、羽交い締めにされてしまった。
「そうよリッキ、そんなに怒らないで」
 今度は前からシェレラが全身で押さえつけてきた! 胸が! 胸が!
「あんたどさくさに紛れて何やってんのよ」
「見てわからない? 抱きついているんだけど」
「ふ、二人とも、もう怒らないから離れて!」
 ヴィッドが呆然と僕とその前後を見ている。恥ずかしすぎる。
「ほらリッキが言ってるでしょ? 離れなさいよ」
「そう思うのなら、お先にどうぞ?」
「アミカも! アミカもだっこ!」
「あはははは! お兄ちゃん面白すぎ」
「だあーーーっ! みんなやめて! ヴィッドが見てるだろ!」

   ◇ ◇ ◇

「私ね、後悔してるの」
 僕の後ろを歩くアイリーが言った。さっきまでの騒ぎは収まり、今はまた蜂の導きに従ってひたすら歩いている。
「フレアがフィセを見つけた時、気のせいだって決めつけて全然本気にしてなかったから。もしあの時フレアを信じてフィセを追いかけていたら、悪者に連れ去られるのを防げたのに。そのために私たちはこの世界に呼ばれたのに、って思うと」
「それは僕だって同じだ」
 あの時のことを、思い出しながら言う。
亜人(デミヒューマン)はこの世界にいないだの、僕たち以外にここに人がいるはずがないだの、全部僕の思い込みだったんだ。僕は自分が情けないよ」
 ぐっと奥歯を噛みしめる。
「仕方ないって、リッキもアイリーも。私だって、もしリッキやアイリーの立場だったらそう思っただろうし」
 隣を歩くフレアが、僕の肩を叩く。
「ごめんなさい、あたしがすぐに迎えに来ちゃったせいで」
「シェレラ、それは関係ないって」
 シェレラはいつもの通りちょっとずれた発言をしている。それに、シェレラは後で話を聞いただけだから、どうしてもその場にいた僕たちとは感覚が違うだろう。
「ともかく、アイリーも他のみんなもこうして私のわがままを聞いてくれたんだから、絶対にフィセを救い出してみせるわ」
 フレアの目は、暗闇が続く先を力強く見つめていた。

 結局僕たちは一時間くらい歩き、とある洞窟の入口に到着した。どうやらここが敵のアジトのようだ。入口の近くに馬が繋いである。馬の数は六頭。あの五人以外にも、仲間が一人いるのかもしれない。
 道案内の蜂が洞窟の中へと入っていく。僕たちもついて行った。

 かなり広い洞窟だ。六人が横一列になっても歩くにはちょっと狭いけど、二列なら十分余裕がある。天井の高さはそれ以上で、およそピレックルの建国王の像二人分くらい……ということは、十メートルくらいだろうか。外と違って暗闇ではなく、壁が仄かに青白く光っている。『リュンタル・ワールド』の洞窟も同じように光っているけど、それはゲームとして暗闇だと不便だからなどという理由ではなく、本物のリュンタルを模したにすぎないのだ。
「これ、もういらなそうね」
 フレアは『プゴシュ湖の光』をウィンドウに戻した。それでも先へ進むには十分な明るさはある。仮想世界で慣れた明るさだ。道案内の蜂に従って、中へと歩いていく。ここから先はいつ敵に遭遇するかわからない。僕は鎧を装備した。
「この奥に……フィセがいる」
 ヴィッドが誰に言うでもなく呟く。緊張しているのだろうか、体が小刻みに震えている。
「私たちがいるから大丈夫。だって、そのためにリュンタルに来たんだから」
 アイリーにそう言われて少し落ち着いたようだけど、元々の肌の白さのせいか、それとも洞窟の青白い光のせいなのか、顔色はあまり良くない。
「そういえばさ、ヴィッドはお兄ちゃんの鎧姿、どう思う? 似合ってるかな?」
「鎧姿? ああ、特におかしなところはない。似合っていると思うが」
 そうか、似合ってるか。やっぱりアイリーが選ぶと違うのかな。でも前にリュンタルに来た時に着ていた鎧だって、似合わないと思っていたのはアイリーとシェレラだけで、リュンタルの人たちからは似合わないなんて言われていないし……。
 ――って、そうじゃない!
「アイリー! 今はそんな話をしている場合じゃないだろ!」
「だってヴィッドに少しでもリラックスしてもらおうと思って」
「だからって鎧の話しなくてもいいだろ」
「だってお兄ちゃん今鎧着たじゃん」
「それはそうだけど」
「静かに! 足音がする!」
 フレアが僕たちの会話を止めた。ネコ耳が左右別々にせわしなく動いている。
 洞窟は二股に分かれていた。蜂の導きに従い、左側を進む。
「うん、音もこっちから聞こえている。間違いない」
 いよいよ戦闘か。フィセを救出できるのか。
 僕は剣を抜いた。

 ――何だ?
 フレアのネコ耳だけではなく、僕にも足音が聞こえてきた。
 でも、何かおかしい。足音にしては、リズムが……。
「モンスター!」
 フレアが叫んだ。
 僕たちに向かってきたのは、あの男たちではなかった。その形や大きさからすると、虎のような生き物――魔獣だ。口を大きく開け、低く吠えながら走って来る。口の中には大きな牙やギザギザの歯。あんなのに噛みつかれたらひとたまりもない。
「お兄ちゃん、任せた」
「なんで僕!?」
 ここは仮想世界ではない。攻撃を食らえば痛い。あんな歯を見せられた後に任されられても困る――。
「だってお兄ちゃん鎧着てんじゃん」
「何かあってもあたしがすぐ回復するから大丈夫」
「ああもうしょうがないな!」
 僕は走って突っ込んでいった。虎の魔獣は大きく口を開いたまま突っ込んでくる。横に回りこんで避けながら剣を振った。肩口の辺りを切り裂き、血が飛び散る。顔の模様は虎と同じなのに、体の模様は虎のような縞模様ではなく、二重丸が散りばめられている。こんなありえない模様をしているあたり、さすが魔獣だ。
 虎の魔獣は一瞬バランスを崩しながら、走ってきた勢いのまま通り過ぎた。そしてすぐに体の向きを変え、止まった。傷を痛がる様子もなく、四本の足でしっかり立って僕を睨んでいる。
 僕は洞窟の奥へと後ずさっていく。虎の魔獣も、ひたひたと歩きながら僕を追う。
 次の瞬間。
「キャンッ!」
 あんなに低く吠える虎の魔獣が、甲高く鳴いた。
 虎の魔獣が振り向く。自然と僕に向けた尻に、光の矢が刺さっていた。虎の魔獣が睨む先には、弓を持ったアミカの姿。
 虎の魔獣はアミカ目がけて走り出した。アミカは二本目の矢を放つ。虎の魔獣は躱した。しかしそのタイミングに合わせて、アイリーが炎の玉を放っていた。虎の魔獣に炎の玉が炸裂する。倒れた虎の魔獣に、後ろから走り込んだ僕が剣を深く突き刺した。虎の魔獣は四肢を痙攣させながら、死んだ。
「まさか魔獣が襲ってくるとはな」
 仮想世界のモンスターとは違い、リュンタルの魔獣の体は死んでもすぐには消えない。僕は虎の魔獣の死骸から剣を抜いた。
「どうやら敵の中に魔獣使いがいるようだな」
「魔獣使い? 何それ」
 フレアはモンスターと魔獣の違いをまだ知らないけど、詳しく話している場合じゃない。
「モンスターを使役させるようなものさ」
 僕は吐き捨てるように言った。
 あの五人以外に仲間がいること自体は予想できても、魔獣使いがいることまでは考えていなかった。
 たぶん、一匹だけで終わりってことはないだろう。洞窟の先に目を凝らし、構える。

 ――来た。

 赤く光った小さな点が、いくつも現れた。点は次第に数を増やし、一回り大きくなっていく。足の裏が小刻みな振動を感じ、足音が聞こえてきた。そしてだんだん振動をはっきりと感じるようになり、足音も大きくなっていった。
 それは洞窟を埋め尽くしながら迫ってくる、狼の魔獣の群れだった。赤く光っているのは目だ。体は灰色で、首の周りだけがマフラーを巻いたように白い。赤い点は洞窟のずっと奥まで続いている。かなりの大群だ。
「嵌められたか」
 フレアが低く呟く。
「蜜玉を逆手に取られたようね。私たちがここに来ることがわかっていて、その魔獣使いってやつが仕組んだんでしょ、これ」
「でもどうせここに来るしかなかったんだし!」
 アイリーは杖をかざした。近づいてくる狼の魔獣の群れの中に、炎の玉を投げ込んで爆発させる。
 フレアの指が空間を滑る。取り出したのはパチンコだ。二股に分かれた棒に、ゴムではなく網が張ってある。続けてフレアはピッパムを取り出した。パチンコにセットして引くと、ピッパムの大きさに合わせた幅の網が伸び、光を帯びた。
「えいっ!」
 手を離すと、ピッパムは猛スピードで飛んでいった。狼の魔獣の群れに飛び込んだピッパムは爆発し、狼の魔獣たちを吹き飛ばした。普通のパチンコではこうはいかない。パチンコが持つ魔法の効果で、ピッパムに猛烈な勢いを与えているのだ。
 僕は先頭に立って剣を振った。相手は群れだ。主な攻撃はアイリーとフレアに任せて、倒しきれなかった魔獣を僕が斬り、これ以上進ませないようにすればいい。後ろでは万が一の場合に備えて、アミカが弓を構えている。魔獣の群れに呑まれてしまうことだけは、絶対に避けたい。
 アイリーとフレアは次々と狼の魔獣を吹き飛ばしている。それでも狼の魔獣たちは屍を踏み越えてどんどん押し寄せてくる。これじゃキリがない。
 そんな単純作業の戦闘が続いていた、その時。
「えっ、何?」
 後ろから聞こえた、フレアの声。そして、
「いやーっ! 何これ、離して!」
 声が聞こえたと思った直後には、フレアの声は叫び声に変わっていた。
 振り向いた僕の目に映ったのは、宙に浮くフレアの姿。そして、巨大なコウモリ。
 空中で足を激しくバタバタさせているフレアの両肩から二の腕に、まるで蛇のようなコウモリの長い両足が絡みついている。
 フレアを連れ去る気か!
「フレア!」
 ジャンプして右手でフレアの足首を掴んだ。そしてそのまま引きずり下ろす……ことは、できなかった。僕は着地することができず、体は宙に浮いてしまった。鎧を着た僕が飛びついたにも関わらず、コウモリの魔獣は高度を上げた。翼を洞窟の幅いっぱいに悠々と広げ、慌てる様子がない。いったいどこから来たのだろうか。天井に潜んでいたのか、それとも……分かれ道の右側のほうから、回りこんで来たのか?
 でも、今はそんなことはどうでもいい。落ちてしまっては大変だ。ぐらつきながらなんとか剣を鞘に収め、左手でもフレアの足首を掴んだ。
 フレアは爆裂玉のようなアイテム――ミニボムを手首のスナップだけで投げつけた。かろうじて当たり、小さな爆発を起こす。コウモリの魔獣は少しだけバランスを崩した。さらに、
「ッキキィーーーッ!」
 コウモリの魔獣が悲鳴を上げた。左の翼に、アミカの光の矢が刺さっている。振り返って見下ろすと、他の四人が小さく見えた。狼の魔獣も一匹一匹は小さく見えるけど、群れはかなり大きい。
 弓を構えたアミカが、また光の矢を放った。今度は右の翼を狙ったけど……外れてしまった。もう距離が離れすぎてしまったのかもしれない。
「このっ、離せこら!」
 フレアは怒鳴りながらミニボムを投げつけ続けている。僕はフレアの足に掴まっているだけで精一杯だ。コウモリの魔獣は翼にダメージを負って余裕がなくなってきたのだろう、バタバタと忙しなく羽ばたき始めた。進路は蛇行し、たまに右や左の壁にぶつかってしまいながら、それでもなんとか飛び続けている。
 やがて、眼下に人の姿が見えてきた。
 大きな白いコートにすっぽりと全身を包んだその人物が、僕たちを見上げていた。そしてその後ろには、森で出会ったあの五人が控えている。
 おそらくあの白い人物が、魔獣使いに違いない。
 魔獣使いらしきそいつは白いフードを目深に被り、小さな何かをつまんで口に当てている。おそらく笛だ。あれで魔獣を操っているんだ。人間には聞こえないけど、コウモリの魔獣の耳には聞こえる音で……。
 コウモリの魔獣は笛で操られ、魔獣使いの元へと舞い降りようとしている。しかし、
「離せ! 離せって言ってるでしょ!」
 フレアのミニボムがまた翼に炸裂した。コウモリの魔獣は自分の体をコントロールできず、だんだん左へと逸れていってしまった。そしてその先は壁ではなく、枝分かれした道が待っていた。まるで吸い寄せられるように、コウモリの魔獣は左の道へと進んでいった。
 道は複雑に枝分かれし、右へ左へ揺れながら飛んでいく。その間もフレアはミニボムを投げつけ続けている。翼がボロボロになったコウモリの魔獣の飛行能力は、もう限界だった。高度がだんだん下がりだした。そろそろ僕の足が地面につく。よし、もうすぐ助かる――。

 え? ええっ!?

 突然現れた、巨大な空間。
 まるで展望台から見下ろしているかのような、広さと深さ。
 地面を踏むつもりでいた僕の足が、宙を掻く。
 これはまずい。どのくらい深いんだ? 十階? 二十階? よくわからないくらい深い。とにかく、落ちたら死ぬ。絶対死ぬ。
 フレアの手が止まった。
「離さないで! お願い! しっかり掴んでて! しっかり飛んで!」
 今度はさっきまでとは正反対のことを叫びだした。とはいえ僕も同じ気持ちだ。絶対にここから落ちることだけは避けなければならない。
 それなのにコウモリの魔獣はふらふらと力なく羽ばたいている。だんだん高度が下がってきた。お願いだから墜落なんかしないで、ゆっくり飛んで、ゆっくり舞い降りてほしい。そう、ゆっくり羽ばたいて……。
 って、危ないぞこれ!?
 コウモリの魔獣の羽ばたく力が、急激に衰えてきた。
 そしてついに、羽ばたくのをやめた。
 ボロボロの翼をなんとか広げたまま、不安しかない滑空で宙を彷徨う。
「ダメ! ちゃんと飛んで!」
 自分が翼をボロボロにしたことなんかお構いなしで、フレアが叫ぶ。
「ザーム! 何やってんのザームは! 早く飛んで助けに来てよ!」
「無茶言うなよ!」
「わかってるわよ!」
 右に左にふらつきながら、高度はどんどん下がっていく。そして、
「えっ、やだ」
 フレアが怯えるように言った。
「どうしたフレア?」
「ダメ、ちゃんと掴んで」
 僕はずっとフレアの足首をしっかりと握っている。でもフレアが言うのだからと思い、さらに力を込めて握った。
「こう?」
「違う、リッキじゃないって!」
 フレアがそう言い終わらないうちに、フレアに絡みついていた蛇のようなコウモリの魔獣の両足が、だらりと緩み始めた。
「離さないで! お願い!」
「お、おい、コウモリ、頑張れ! 頑張れ!」
 しかし、必死の声援は効果なく、蛇のような両足は伸び切ってしまった。
 僕とフレアは、空中で捨てられてしまった。

   ◇ ◇ ◇

 落ちた場所が、湖でよかった。
 かなり深い湖だ。本当に幸運だった。たとえ落ちた場所が湖でも、体が湖の底に打ちつけられていたら、死んでいたかもしれない。
 慌てることはない。決してスポーツが得意ってことはないけど、泳ぐくらいはできる。あとは水面に向かって泳ぐだけだ……あ、あれ? 泳げない? いや泳いでいる。泳いでいるのに全然進まない。むしろ沈んでいく。なんで? どういうこと? 誰か、助けて!
 ――あ、そうか。
 僕はウィンドウを開き、剣と鎧の装備を解いた。その瞬間僕の体は沈むのをやめ、少しずつ浮かんでいった。さらに装備を解除し、上半身裸になった。泳ぎやすくなった僕は、水面へと泳いでいった。
「ぷはーーっ!」
 助かった。とりあえず助かった。でも岸までは遠いな。まだまだ泳がないと……。
 ――じゃない!
 フレアは? フレアはどこだ?
 見当たらない。まさか沈んでいるのか!?
 と思ったその時。
 突然、水面に大きな球体が二個、出現した。よく見ると球体は繋がっている。そして――。
「あーーっ、死ぬかと思ったーっ!」
 球体の一つに、フレアがしがみついていた。どうやら無事だったみたいだ。
「フレアーっ!」
 僕は泳ぎながら叫んだ。
「リッキ!」
 フレアは球体にしがみついたまま、こっちを振り向いた。僕はフレアに見守られながらたどり着き、もう一つの球体につかまった。
「大丈夫? フレア」
「本当に死ぬかと思った。私、泳げないのよ。リッキは泳げるのね。いいなあー」
「FoMには海がないんだろ? だったら泳げなくてもしょうがないって。……それより、これ何?」
 捕まっている球体を、ポンポンと軽く叩く。結構心地いい音が響いて、さっきまで死にそうだった僕の心がちょっと和んだ。
「これはポッコルの実。なんとなくそんな音がしたでしょ」
 そう言われるとポッコルと表現してもいいような、よくないような……。
「ひょうたんみたいなものよ。つまり容器ね、これは。魔法成分を含んだ素材を調合する時、決まった容器を使わないと効果が現れない場合があるのよ。ポッコルもそういう容器の一つ。だから本当はこんな使い方じゃないんだけどね」
 魔法のアイテムを作る時って、そんなところにも気をつけなければならないのか。ただ素材アイテムを混ぜればいいって訳じゃないんだな。
 僕たちはポッコルにつかまったままバタ足で泳ぎ、岸までたどり着いた。水から出て、灰色の地面に立つ。やっぱりちょっと安心する。
 フレアは頭を大きく振った。水しぶきが辺りに飛び散る。
「あーーーーーーー」
 声を出しながら首を傾け、片足で飛び跳ねている。
「フレア、耳、大丈夫?」
 ネコ耳だから、中に水が入ってしまうと人間の耳以上に厄介だ。
「うん、なんとか大丈夫っぽい」
 と言いながら、まだトントン飛び跳ねている。やっぱり心配だ。
「ちょっと見せてよ」
「いいって。大丈夫だって」
「だって心配だよ。ちょっと見てみるだけだから」
 遠慮するフレアのネコ耳を、頭を押さえて覗き込んだ。でも、見てもよくわからないな……。
「キャッ!」
 フレアは聞いたことがないくらいの甲高い悲鳴を一瞬あげ、僕を突き飛ばして逃げてしまった。
「ご、ごめん。そんなに嫌だとは思わなかった。気をつけていたんだけど」
 ネコ耳に触られるのを嫌がっていたのはこれまで何度も見ていたから、触らないようには十分注意していたんだけどな……。
「い、息が、息がかかった」
 息? それだけでもうダメなのか? 想像以上に敏感なんだな。
「ごめん、そこまで考えてなかった」
「そ、それより、その」
 フレアは一瞬だけ振り向いて僕を見た後、また顔を背けた。思い出したようにポッコルをウィンドウに戻し、また僕のほうをちらっと見て顔を背けた。これは……嫌われてしまったかな?
「その……服、着てよ。なんか、照れる」
 フレアは僕に背を向けたまま言った。
「え……う、うん」
 自分は露出度高い格好しているくせに、僕だとダメなのか? 男なんだしズボンはちゃんと穿いているんだし、別に上半身裸でもいいと思うけど。
 でもこれ以上フレアに嫌われたくはない。素直に指を動かし、服を装備する。すると、
「うわあ……」
 思ってもみなかったことが起きた。
 インナーは肌にぴたりと貼り付いているし、上着はずっしりと重い。そして、しずくがボタボタと落ちている。
 湖の中でたっぷりと水分を含んだ服が、そのまま出てきてしまったのだ。
 こんなことは仮想世界では起こらない。どんなに汚れたり濡れたりしても、服は新品同様に戻るのが当たり前だ。でもここは現実。異世界は僕たちの現実世界とはまた別の、現実の世界なのだ。
 他に服はないのか? 服装なんて全然気にしたことなかったし、買ったことなんて……。
 あった。
 アイリーとデートした時に着させられた、一般的なリュンタルの普段着だ。
 さっそく上下とも着替えた。街中(まちなか)ではよく見る服装だけど、こんな洞窟の奥深くではなんだか変な感じだ。
 ようやくフレアがちゃんとこっちを向いてくれた。
「へー、そんなシンプルな服もあるんだ。意外と似合うね」
「そうかな? これ、前に一回着ただけだから、なんか自分じゃないみたいで」
「一回だけ? 気になる。どんな時に着たの?」
「どんな時? そ、それは、普段着なんだから普段かな」
 一回しか着ていないのに普段なんていう答えはおかしいけど、アイリーとのデートで着させられた、なんてさすがに言えない。
 これ以上突っ込まれないように、間を空けずに僕のほうからもフレアに言った
「ところで、フレアは着替えなくていいの?」
「そうね、どうせこんな水着みたいな格好だし別にいいかなと思ったけど、リッキが着替えたのに私はそのままってのもおかしいから、着替えようかな」
 フレアは空中を指でなぞった。どんな服に着替えるんだろう。この格好のフレアしか見たことがないから気になる。もっと露出度の低い、普通の服がいいんだけど……。
「どう? これ」
「どうって……ただの色違いじゃないか」
 完全に期待は裏切られた。オレンジが黄色になっただけで、他はすべて同じだ。
「やっぱりこの格好がいいなーって思って」
「まあ……慣れているほうがいいよね」
 少しがっかりしてそう言いながら、周囲を見てみる。
 洞窟の中とは思えないような、巨大な空間。一方は壁になっているけど、それ以外の方向はどこまで広がっているのか、うっすらと白い靄がかかっていて遠くのほうまでは見渡せない。でも、洞窟の中だというのに木が何本も生えているのは見えた。かなりの大木だけど、枯れているのだろうか。葉や花、実はない。灰色がかった太い幹から、枝だけが大きく広がっている。壁を見上げると、はるか上のほうに穴が開いている。あそこを通って、僕とフレアはここに落ちてきたんだ。壁を登って戻るには、いくらなんでも高すぎる。他の出口を探さなきゃ――。
「リッキ、あ、あれ」
 フレアが声を震わせ、左手で僕の右腕を掴んだ。右手が指差している大木の枝を見上げると、蔓の先に何か大きいものがぶら下がっている。葉が一枚もない枝にぶら下がっているから、余計に目立つ。
 その何かが、突然大きくなった。――いや、翼を広げた。
「モンスター、よね、あれ」
 コウモリの魔獣が、逆さまにぶら下がったまま翼を大きく広げていた。蔓のように見えたのは、実際にはコウモリの魔獣の蛇のような両足だった。
 でも、僕たちをここに運んだあの魔獣は、フレアに翼を破られていたはずだ。それがどうして……。
 よく見ると、フレアが指差している魔獣以外にも、同じコウモリの魔獣が何匹か枝にぶら下がっている。僕たちを襲ってくる様子はない。ただ自然に、野鳥が森の木に止まっているかのように、灰色の木の枝にぶら下がっている。ということは、つまり――。
「ここは、魔獣の巣だ」
「魔獣の巣!?」
 少し上ずった声で、フレアは僕が言った言葉を繰り返した。僕の腕を掴む手に力がこもる。
「大丈夫。心配しないで。こっちから手を出さない限り、攻撃してこないはずだから」
「本当に大丈夫なの?」
「うん……そうだな、ちょっと座ろうか。そうだ、こないだ食べたあのクッキー、まだある?」
「え……うん、あるけど」

 僕は小さな紙袋に入ったクッキーをぽりぽりと食べながら、フレアを連れて壁まで歩いた。おなかが空いていたわけじゃないけど、何か食べながらのほうが落ち着くと思ったし、フレアがパニックにならないように、僕はなんとも思ってないんだという姿を見せたかったということもあった。最初は僕だけが食べていたけど、隣で見ているうちにフレアもその気になったみたいで、壁に着く頃には二人でクッキーを分け合って食べていた。
 壁を背にして腰を下ろした。僕たちが通ってきたあの穴の、ちょうど真下だ。
「ところで、リッキって」
 腰を下ろすなり、フレアが質問してきた。
「ここに来る時も果物食べていたけど、結構食べるほうなの? 料理得意だし、背が高いし」
 現実世界の立樹と仮想世界のリッキが混ざった質問が来た。
「料理が得意なのは、現実世界の話。リッキである僕は、料理をしたことはないよ」
「そうなの? なんで? すればいいのに」
「別にする必要ないじゃないか。仮想世界では、食べ物は空腹にならない程度に適当に買って食べているだけだよ」
「意外ね、食べ物にはもっとこだわりがあるのかと思ったのに」
「どうせ仮想世界なんだし、そんなに食べ物にこだわったってしょうがないって」
 仮想世界でも食べ物が大好きなシェレラみたいな人もいるけど、僕はそうではない。
「それに現実世界でもそんなに食べるほうじゃないし……あ、でも、前にこの本物のリュンタルに来た時はかなりお腹いっぱいに食べたよ。なんせ周りがよく食べる人ばっかりだったから」
「周り? 誰? リッキたち以外にも誰かいたの?」
「ああ、それはね――」
 本物のリュンタルのことを打ち明けた時、リュンタルの人たちのことまでは話していなかった。だから今がいい機会だと思って話すことにした。ヴェンクーのこと、リノラナのこと、そしてこの二人の父親であり、二十年前にお父さんと一緒に冒険の旅をしたフォスミロスのこと。
「――フォスミロスは体が大きいからたくさん食べるのは当然として、どうして体の小さなヴェンクーがあんなに大食いなのか、僕には全然理解できなかったよ。……ああそうだ、魔獣のことを話さなきゃ」
 話しているうちに、クッキーを食べ終わってしまった。空になった紙袋を地面に置く。
 個人的なことを一方的に話しすぎてしまったかな。途中からフレアはつまんなそうに聞いていたし。でも、フレアに安心してもらうためにも、魔獣の話はしておくべきだ。
「本物のリュンタルでは、フィールド上にはモンスターはいないんだ。こっちの人は魔獣って呼んでいるんだけど、魔獣は魔獣の巣にいるもの、と本来は決まっているんだ。人間のほうから何かしない限り、魔獣は襲ってこない。ただ、魔獣使いってやつがいて、魔獣の心を操って人を襲うんだ。だから、さっき僕たちを襲ったのも、魔獣使いに操られた魔獣だったんだよ。実際、あいつらの仲間に魔獣使いがいたみたいだったし。
 そして、ここはたぶん、魔獣の巣だ。実際に魔獣の巣を見るのは、これが初めてだけどね」
 コウモリの魔獣は、蛇のような両足でぶら下がったままブランコのように前後に揺れていて、まるで遊んでいるかのように見える。
「じゃあ、あのモンスター……じゃなかった、魔獣も、私たちが何もしなければ襲ってこないってこと?」
「そうだね、実際にああやってぶらぶらしているだけで襲ってこないし、大丈夫だよ。……でも、一度魔獣使いに心を支配された魔獣はもう元には戻らないから、殺さなければならない。だからヴェンクーは魔獣使いを心の底から憎んでいた。魔獣は普通に巣で暮らしていたっていいんだ、魔獣だって生きてていいんだ、って本気で考えてたから」
「だったら安心していいのね? あの魔獣は敵じゃないのね? それならこんなにのんびりしている場合じゃないじゃない。早く戻らなきゃ。他のみんなは戦っているんだから。それにフィセを助け出さなきゃならないんだし」
 フレアは立ち上がって、どこかへ走り出そうとした。
「あの程度の魔獣にやられはしないよ」
 僕は座ったまま答えた。
 僕だって本当は一刻も早く戻りたい。でも、だからって焦ってしまってはダメだ。
「もしかしたら、もうフィセを救出しているかもしれないよ? だから僕たちはゆっくりしていようよ。今って何時頃なのかな? もう夜遅いはずだよね。ここでちょっと寝ていかない?」
「なんでそんな悠長なことを言っていられるのよ!」
「だってそうじゃない? アイリーもアミカも強いんだしさ。それにシェレラだって完璧に守ってくれるし」
「……バカじゃないの」
 うん、バカだよな僕。こんな状況なのに寝ようなんて言い出すんだから。
 でも、フレアはまた僕の隣に座ってくれた。感謝しなきゃ。

   ○ ○ ○

「まさか倒しきれないとは思わなかったなー。やっぱり剣士って重要だね。MPなくても戦えるんだもん。お兄ちゃんのありがたみがよくわかったよ」
「うん、リッキはだいじなひと」
「そうね、リッキはあたしの大事な人」
「アミカの! アミカのだいじなひと!」
「二人ともさ、お兄ちゃんがいない時に言ってもつまんないから、帰ってきてからにしようよ」
 別の世界の女子三人がおしゃべりに興じているのを、ヴィッドは呆然と眺めていた。
「君たちはどうしてそんなに呑気でいられるんだ? まだ戦闘は終わっていないというのに。それに、リッキとフレアだってどうなってしまったのかわからないじゃないか。心配じゃないのか?」

 アイリーたち四人は、撤退していた。
 リッキとフレアがいなくなり、魔法攻撃だけで戦わざるを得なくなったアイリーたちは、いつまでも押し寄せる狼の魔獣の群れの前に苦戦を強いられた。死骸の山を築いたものの戦闘を終わらせることはできず、やむを得ずひとまず退いて洞窟の入口に防護壁(シールド)をドーム状に張り、その中で狼の魔獣の群れから身を守っていた。

「大丈夫。フレアを連れ去るのが目的のはずだから、無事に決まっているわ」
「お兄ちゃんだって、そんな簡単にやられるはずがないって。きっとどこかに身を潜めているとか、そういうことなんじゃないかな。」
「……だといいのだが」
「心配いらないって。ヴィッドが思っているより、お兄ちゃんずっと強いから。それよりもこの魔獣をどうするか、考えたほうがいいって」
 アイリーは辺りを見回した。半分は青白い洞窟、半分は暗闇の荒れ地。見上げれば半分は洞窟の天井、半分は星空。防護壁の周囲は狼の魔獣が何重にも取り囲んでいる。
 馬のいななきがずっと聞こえている。入口付近に繋がれている悪者たちの馬が、狼の魔獣を見て怯えているのだ。
「この魔獣、私たちを殺さなきゃ気が済まないみたいだし」
「洞窟の外に出ても追ってくるようね。勝手に逃げ出したりはしないみたい」
 防護壁の荒れ地側を取り囲む群れを見たシェレラが推測する。
「どうするシェレラ? どうやって戦えばいいか、何かいい方法ある?」
「ようするに剣の使い手がいればいいんでしょ? だったらあたしが」
「シェレラ、やっぱりいい。とりあえず見張ってて。一応、あいつらが強行突破してくることも考えなきゃ」
 魔獣を倒しきれなかったのは誤算だったが、悪者たちにとってもアイリーたちを倒しきれなかったことは誤算だっただろう。アイリーたちがこの場所に居座り続ける限り、洞窟から出て行くことは容易ではないからだ。
 周りを取り囲む狼の魔獣は牙や爪を防護壁に立てることができず、攻めあぐねている。悪者たち自身が動き出す気配も今のところはなく、特にしっかり見張りをしていなければならないということはない。それに、シェレラが見張り役でなければならない理由もない。ただ、シェレラが剣の話をし始めたので、アイリーはいつもの調子で適当な理由を言ってシェレラの話を止めたのだった。
「俺にもっと力があれば、こんなナイフなんかじゃなくてリッキのような剣を使えたのに」
「ヴィッドは全然悪くないから!」
 落ち込むヴィッドを、アイリーが励ます。
「ずっと森の奥にいて、戦ったことなんてなかったんだからしょうがないよ。シェレラもそう思うでしょ? ヴェンクーみたいに戦い慣れたナイフ使いじゃないんだし」
「そうね、あたしもそう思うわ」
 そう答えたシェレラは、全く見張りなどしていない。
「ヴェンクー? ……だれ?」
 アミカが首をひねる。
「ヴェンクーはね、こっちの世界の友達だよ。じゃあせっかくだから、前にこっちに来た時の話をしよっか。ただ防護壁の中にいるのもヒマだし」

   ◆ ◆ ◆

 ――私がたまたま一瞬見かけただけのネコ耳の子を気にしていなければ、またこの世界に来なくてすんだのに。
 ――私がパニックになってコウモリの魔獣を攻撃しまくったから、こんなところに落とされてしまった。素直に捕まっていれば、こんなことにはならなかったのに。
 ――私がネコ耳じゃなかったら、悪党どもに目を付けられずにすんだのに。そもそも私が沢野君をFoMに誘わなかったら、リッキを、みんなをこんな目に合わせることもなかったのに。

 そんな考えが、フレアの頭に浮かんでは消え、また浮かんていた。クッキーを食べながら、リッキの仲間の話を聞きながら、後悔の念がフレアを責め続けていた。リッキが楽しそうに仲間の話をしているというのに後悔は強くなっていく一方で、ついフレアはうわの空になってリッキの話を聞いてしまっていた。
 一刻も早く、みんなの元へ戻りたい。一刻も早く、元の、自分たちが住む世界へ戻りたい。そんなフレアの逸る気持ちとは裏腹に、リッキは妙にのんびりしている。おまけにここで寝ようなどと言い出す始末だ。どうしてこうも余裕があるのだろうか。必ず帰ることができるという根拠でもあるのだろうか。フレアには不思議で仕方なかった。
 ただ、自分よりもこの世界をよく知っているリッキが動かないのであれば、自分もそれに従うしかない。リッキを信用するしかないし、そもそも自分はリッキを信じている。そう思っているからこそフレアも動くのをやめ、リッキの隣に座り直し、リッキと同じように岩壁に背中を預けていた。

「ありがとう、フレア。ここにいてくれて」
「えっ……何? どういうこと?」
「さっきさ、フレアだけで脱出しようとしないで、残ってくれたじゃないか。それがうれしくて」
「バカなこと言わないでよ。私だけで行くはずがないじゃない」
「フレアくらいしっかりした強い人だったら、きっと一人でも脱出できると思うんだ。身軽だから複雑な道でも楽に進めそうだし、いろんなアイテムを使ってトラブルを解決できそうだし。でも僕はそういうの無理だからさ。ただ剣を振るしかできないんだ。だからあの時、本当は置いていかれるのが怖かった。一人になってしまったらどうしようかと思った。でもフレアは残ってくれたから、それがうれしかったんだ」
 こんな弱気なことを言う人だっただろうか、とフレアは思った。決して常に強気でポジティヴなことを言う人ではないけれど、かといってネガティヴになることもない、ただ感情の起伏が少ない、穏やかな人だと思っていたのに。
「フレアはリュンタルに来たのは今日が初めてだし、ここに落ちてくる時にだいぶパニックになっていたみたいだったから、僕はリュンタルの経験者として、リュンタルのことを知っている人間として、フレアを落ち着かせなきゃ、安心させなきゃってずっと考えていたんだ。
 でもさ、フレアがいなかったら、僕がパニックになっていたかもしれない。フレアのためと思ってやっていたことが、本当は自分を落ち着かせていたんだ。クッキーを食べたり、思い出話をしたりしてね。僕は冷静なんだ、なんとも思っていないんだって姿を見せようとすることで、僕は自分を保つことができたんだ。フレアがいてくれて、本当に良かった。僕一人じゃ耐えられなかった」
「いや、その、リッキ、大事なことを忘れているって。私が一人でここに来ることはあっても、リッキが一人でここに来ることはなかったでしょ。連れ去られたのは私なんだから」
「でも、もし魔獣が力尽きていなければ、僕だけが振り落とされて、フレアは魔獣に捕まったままどこかへ飛んでいっていたかもしれない。それでもフレアは脱出できただろうけど、僕はきっと、ここに一人で取り残されたままだったはずだよ」
 フレアはだんだん呆れてきた。リッキの正面に移動し、壁に手をつき、リッキに覆い被さった。
「あのね、私がリッキを一人にするはずがないでしょ。もしリッキだけが先に落ちていたら、私はどんな手を使ってでも連れ去られる前に自力で落ちていたわ。いくらパニックになっていたって、それくらいのことできたし、絶対にやっていた。私を見くびらないで」
 リッキは迫るフレアに気圧されてたじろぎ、弱々しく言葉を返した。
「……フレアは強いな。僕なんかが心配することはなかったんだ」
「まだそんなこと言っているの? 今私がこうしていられるのも、リッキがいたからに決まっているでしょ? リッキが私のことを気遣ってくれたからでしょ? そうでなかったら、もし私一人だったら……私、とっくに気が狂ってる」
 フレアはリッキの隣に座り直した。
 リッキは恥ずかしそうな表情を浮かべて、隣のフレアの顔をそっと見た。それに気づいたフレアが、リッキを見返す。
 フレアの指先が空中をなぞり、毛布が出現した。リッキとフレアの二人を、一枚の毛布が覆う。
「もう寝るんでしょ!」
「あ、ありがとう。僕のぶんまで」
「いい? 私が目を覚ますまで、絶対に毛布から出ないこと! 私もリッキが目を覚ますまで、絶対にここにいるから」
「うん、わかったよ」
 リッキは正面を向き直し、フレアも前を見た。

 フレアは囁いた。
「リッキ……耳、触ってみる? 私、リッキなら許せる」
 返事はない。
「ねえ、リ……」
 返事を求めて横を見たフレアだったが、途中で名前を呼ぶのをやめた。
「……意外と、だらしない寝顔をするのね」
 思わずクスッと笑ってしまった。

   ○ ○ ○

「ひとつ気になったことがあるのだが、お父様が初めてリュンタルに来たのは二十年前、ということだったな」
「うん、そうだよ」
 フォスミロスとコーヤの活躍は今もなおリュンタル中に伝説として残っている。しかし、ハムクプトの森の奥まではその名が伝わっていなかった。アイリーとシェレラが話したことは、アミカにはもちろんのこと、ヴィッドにとっても何もかもが初めて聞く話だった。
「……メイニ、という名前を聞いたことはないか?」
「メイニ? ううん、知らないよ。シェレラは?」
「あたしも知らないわ」
「そうか……」
 ヴィッドはそのままうつむき、黙ってしまった。
「その、メイニって人がどうかしたの?」
 今度はアイリーからヴィッドに尋ねた。
「メイニは俺の母の名なのだが、実は……母も、子供の頃に外の人間に攫われたことがあったのだ」
「ええっ、そうなの!」
 アイリーだけでなく、シェレラとアミカの顔にも驚きが浮かぶ。
「ニローク人の掟で、外の人間と関わってはいけないことになっている。だから母は村に戻った時、何をしていたのか訊かれても、外の人間に攫われたと答えることができず、森の中で迷っていたと答えたのだそうだ。
 最近、絶対に誰にも明かさないことと約束をして、母は俺にだけこの話をしてくれた。その時に言っていたのだが、捕まっていた母を救い出してくれたのが、二人組の男だったそうなのだ。どこからともなく現れて悪者を叩きのめし、母を森まで送った後、すぐに去っていったらしい。それがちょうど二十年前のことなのだ」
「それ絶対にお父さんだよ! 名前は聞いてないの? 筋肉モリモリのほうがヴェンクーのお父さんのフォスミロスで、ちょっと細くて白銀の鎧を着ていたのがコーヤ、私のお父さん」
「すまん、そこまで詳しくは話してくれなかった」
「そっかー……。私、帰ったらお父さんに訊いてみるね」
「ああ、俺もフィセを救い出して村に帰ったら、母にだけは君たちのことを話すつもりだ。……くそっ、いつまでこうしていなければならないんだ! 早くフィセを救い出さなければ」
「しーっ、静かに」
 シェレラの優しい声が、ヴィッドを落ち着かせる。
「あ、寝ちゃった?」
 シェレラの膝枕でアミカが寝息を立てているのを見て、アイリーが確認する。
「あたしも眠い」
「じゃあ、寝よっか」
「寝るだって! 何をそんなにのんびり構えているんだ!」
「だってちゃんと休まないと回復しないよ? 大丈夫だって、あいつらだって寝てるよきっと」
「……だったら勝手に寝ればいい。俺は起きている」
「見張りがいてくれて助かるわ~。あたし寝るね。おやすみなさい」
「私もおやすみー」
「お、おい、本当に寝るのか、君たちは。本気なのか……」

  ◆ ◆ ◆

 仄かに青白い光。
 どこまでも広がる空間と、湖。灰色の地面。
 ああ、そっか、ここは……。

「あ、目が覚めた? おはよう」
 すぐ隣から声を掛けられ、フレアは思わずネコ耳を震わせた。そして、自分の体が斜めに――リッキの肩に寄りかかっていることに気づいた。反射的に体を真っ直ぐに起こす。
「あ、お、おはよう、リッキ」
「ちゃんと眠れた? この毛布あったかくて気持ちよくて、僕はすぐに眠っちゃったけど、やっぱり女の子にこんな場所で寝させるなんて、僕はどうかしてるよな」
「大丈夫。ちゃんと眠れた」
「そっか。良かった」
「そんなことより……」
 フレアは気になっていた。
「もしかして……私、ずっと寄りかかってた?」
「ずっとなのかな……。少なくとも、僕が目を覚ました時にはそうだったけど」
「ご、ごめんなさい」
 フレアの顔が赤く染まる。
「なんで謝るんだよ。僕のせいでこんなところで寝るはめになったのに」
「だって……」
 フレアは毛布に顔を埋めた。
「それにさ、毛布から出ちゃいけないって言われていたし、できることなんて肩を貸すくらいしかなかったから。こういう時、自分の背が高くて良かったって思うよ。もしフレアより小さかったら、こうはいかないからね」
 毛布に顔を埋めたまま、フレアはちらりと斜め下からリッキを見上げ、小さく呟いた。
「わ、私も、背が高い人が好きで良かった。私が背が高い人が好きなのって、きっとリッキに会うためだったんだと思う」
 フレアは再び毛布に顔を埋めた。
 その時、ふとある気配に気づいた。
 顔を上げる。
 ――下手に動かなくてよかった。ここでじっとしていて正解だったんだ。
 フレアは立ち上がった。めくれ上がった毛布を、ウィンドウに戻す。
「行くわよ! 上でみんなが待っているわ!」
 歩き出したフレアを見て、リッキは慌てて立ち上がり、ついて行った。

   ◇ ◇ ◇

 湖の水で顔を洗う。
 前にリュンタルで朝を迎えた時は、アバターの姿なのに頭に寝ぐせがついているのを見て、ここが現実の世界なんだということを実感した。でも今日は座ったまま眠ったこともあって、寝ぐせはついていない。
 背が高くてよかった。学校の昼休みに玻瑠南に寄りかかられた時もそうだったし、今もフレアの体を支えることができた。何よりもし僕の背が低かったら、連れ去られそうになったフレアの足に飛びつくことができなかっただろう。背が高い利点として「高い所に手が届く」ということを散々言われてうんざりしてきたけど、もうそう思うのはやめよう。
「ところで……、どっちに行こうか?」
 湖を背にして、隣で顔を洗っていたフレアに訊いた。正面にはさっきまでいた巨大な壁。右に行くか、左に行くか、どちらかだ。
「あっちよ」
 フレアは全く迷うことなく左を指差した。何か理由があるのだろうか。
「ほら、これ見て」
 方向を示した人差し指を、顔の前に立てた。その指先で、一匹の蜂が飛んでいる。
「寝ている間に、私を探してくれたみたい。戻ってきてくれたわ」

   ○ ○ ○

「……………………はっ」
 ヴィッドは突然頭を起こし、周囲を確認した。相変わらず狼の魔獣の群れがドーム状の防護壁を何重にも取り囲んでいる。洞窟の中から人が出てくる様子はなく、外に星空が広がっていることにも変わりはない。
 しかし、防護壁の中は違った。眠っていたはずの他の三人が、しっかり起きている。
「おはよう、ヴィッド。ちゃんと眠れた?」
「アイリー、おは……いや、そんなはずはない。俺はずっと起きて……、いや、もしかして、眠っていたのか、俺は」
 ヴィッドの白い顔が赤く染まった。
 シェレラはいつものように優しく微笑んでいる。
「ちょうどあたしが目を覚ました時、ヴィッドがうとうとしていた感じだったわ」
「そうか、やっぱり眠ってしまっていたのか」
「大丈夫。ヴィッドが見張ってくれていたおかげで、他のみんながしっかり休むことができたんだから。そうだよね?」
 アイリーが同意を促し、シェレラとアミカがうなずく。
「ヴィッドだって疲れていたでしょ? 無理しちゃダメよ?」
「アミカもちゃんとねたからがんばるよ!」
 アミカは持っている紙コップを口につけ、一口飲んだ。
「ヴィッドも飲む?」
 紙コップがヴィッドの目を惹きつけていることに、シェレラは気づいた。アミカが飲んでいるのは、とうもろこしに似た野菜であるカンルンを使ったスープだ。シェレラはカンルンスープのポットを取り出し紙コップに注ぎ、ヴィッドに差し出した。湯気がヴィッドの鼻をくすぐる。
「あ、ありがとう」
「サンドイッチもあるよ? 食べる?」
 紙コップを受け取ったヴィッドが一口飲み終わらないうちに、シェレラは次々とランチボックスを取り出してヴィッドの前に積み上げた。シェレラの前にはすでに空になったランチボックスが置いてあったが、それを片付けるとヴィッドの前に積んだランチボックスから一箱取り戻して開け、おいしそうにサンドイッチを食べ始めた。
 紙コップを持ったヴィッドが、呆気にとられてシェレラを見ている。
「どうしたの? 食べないの? おいしいよ?」
「あ、ああ」
 ヴィッドは目の前に積まれたランチボックスを一つ開け、迷いつつもニワトリに似た鳥であるクークーの厚切り肉のサンドイッチを選び、一口食べた。
「おいしい! なんておいしいんだ! 別の世界にはこんなにおいしい食べ物があるのか!」
 あっという間にサンドイッチを食べ終えたヴィッドは、ランチボックスからタマゴサンドを掴み取ると、それを口にくわえたまま次のサンドイッチに手を伸ばした。
 あまりの勢いに、今度はシェレラが呆気にとられている。
「ヴィッドの村にはサンドイッチはないの?」
「んっ……、んん」
 次から次へとサンドイッチを口に放り込んだヴィッドはシェレラの問いに答えることができず、首を縦に振ってサンドイッチがないことを肯定した。
「サンドイッチがないなんて……。あたしやっぱりニローク人の親戚じゃないほうがいい」
「シェレラまだその話するんだ」
 苦笑いを浮かべながら、アイリーもサンドイッチを食べ始めた。
「たぶん、そろそろかな? しっかり腹ごしらえしないと」
「そうね、夜が明けたら動きがあるかもしれないわ。魔獣の死体の山が消えて通りやすくなるし」

   ◇ ◇ ◇

「この蜂、高い所飛べないのよ。あくまでも人を誘導するのが目的だから。蜜玉の場所に行かずに私のところに戻ってきたのも、私と一緒に目的地に着くことを優先したっていうことね。それに、人の高さの場所を飛んで戻ってきたわけだから、私たちが帰る道が絶対にあるっていうことよ。何も心配はいらないわ」
 フレアとはまだ出会って数日しか経っていないけど、その中で今が一番元気があるように見える。この場所を脱出する手段が見つかったというのは、やっぱり大きい。
「リッキにはさんざん心配させちゃったから、もうそんなことはないようにしなきゃね。元気出していくから。こんなとこ早く抜け出して、とっととみんなに合流するのよ。それに何よりも、フィセのためにがんばらなきゃ」
 少し早足で歩くフレアに遅れないように意識して、並んで歩く。
「でも、フィセはもう助け出されて、ヴィッドと一緒に森へ帰っているかもしれないよ?」
「もしそうだとしたら、むしろそのほうがいいって。フィセが助かればそれでいいのであって、別にフィセに会えなくても、私は構わないんだから。でもどうなっているかわからないからには、一刻も早く合流すること、合流しようとすることが大事でしょ。どうせアイリーたちを心配させていることには変わりないんだし」
 早足になっているだけではなく、話すのも少し早口だ。
 僕とフレアは巨大な壁を右に、灰色の大木を左にして歩いている。コウモリの魔獣はぶらぶら揺れたりせず、翼を閉じて静かにぶら下がっている。眠っているのかもしれない。
 十分ほど歩いて見えてきた灰色の大木の根元に、何か得体のしれない大きなものがあった。ゴミのような、ガラクタのような……。
「ねえリッキ、あれって……」
 フレアも気がついて、歩きながらそれを指差す。
「うん、僕たちをここに連れてきた魔獣の死骸だ」
 落ちた時の衝撃なのだろうか、ひしゃげた体の上に、ボロボロの翼が本来ありえない角度に折れて重なっている。
「やっぱり、そうよね……。私、悪いことしちゃったのかな」
「そんなことはないさ。一度魔獣使いに心を支配されてしまったら、もう元には戻れない。殺すしかないんだ。フレアがやったことは、間違いなんかじゃじゃない」
「だったらいいんだけど……」
「それと、魔獣の死骸があるということは、まだ夜が明けていないってことだ。仮想世界のモンスターは死ぬとすぐ消えるけど、この世界の魔獣の死骸は朝日が昇ると同時に消滅するから」
「……ということは、あまり眠っていなかったってことなのね。よかった。早く戻れるに越したことはないんだし」
 壁にぽっかりと穴が空いていた。蜂はその穴へと入っていく。僕もフレアと並んでその穴に入っていった。二人が並んで歩くにはちょうどいい幅だ。
 穴の先は、くねくねとカーブを繰り返す緩い上り坂が続いていた。何度も道が分かれていたけど、蜂の案内のおかげで僕たちは正しい道を進むことができている。
「こう曲線ばかりだと、走りたくてもなかなか走れないわね」
「歩いていけばいいじゃないか。仮想世界じゃないんだし、走ると疲れるよ?」
「だって! 早く戻りたいし!」
 走りにくいとはいえ、フレアが少し早足で歩いていることに変わりはない。最初は並んで歩いていたけど、だんだんフレアが先に行って距離が開いてしまった。曲線の道だから見通しが悪く、あまり離れると姿が見えなくなってしまう。
「ちゃんとついて来てね! リッキがいないと私発狂しちゃうから。壊れちゃうから。死んじゃうから」
「わかったって!」
 フレアは少しその場で待ってくれて、僕はなんとか追いついた。
「そういえば、もし死んじゃったらどうなるの? 仮想世界みたいに強制ログアウトで現実世界に戻る、ってことにはならないのかな?」
「ログアウトはないよ」
 緩いとはいえ、上り坂が続くのはやはりきつい。乱れかけた呼吸を整えつつ、僕は説明する。
「誰も死んだことはないから、どうなるのかはわからない。ただお父さんは、もし世界の移動に失敗して帰って来られなくなったら魂が抜けた空っぽの肉体だけが残るだろう、ってことを言っていた。だから、死んだ場合もたぶんそうなるんだと思う。やっぱり仮想世界と同じではないと思うんだ。ここは異世界だけど、現実の世界なんだから」
 それを聞いたフレアの足が、だんだんゆっくりになっていく。左手の五本の指を僕の右手に絡め、強く握った。
「私、やっぱり怖い」
「うん、僕だって怖いよ」
 フレアは僕を見上げた。
「でも! リッキは本当に死ぬかもしれないこの世界で、何度も戦ったんでしょ?」
「僕はただ無我夢中で戦っていたよ。怖かったけどね。でも僕たちでなんとかしなきゃって思っていたし、何より仲間の後押しがあって、戦うことができたんだ。今だって、僕の隣にフレアがいる。だから僕は大丈夫なんだ」
「私だって、むしろ私のほうこそ、リッキがいるから大丈夫なの! リッキがいないこの世界なんて、私絶対に耐えられない。……やだ、どうしよう」
 僕の顔を見ていたフレアが、反対側に顔を背けた。
「どうしたの?」
「私、今、ずっとこのままならいいのにって思った。もしこのまま上に行ってみんなと合流したら、もうリッキと二人っきりじゃいられなくなる。現実世界に戻ればこの姿でもいられなくなる。そんなの嫌、ずっとこうしてリッキと二人っきりでいたい、もう帰りたくないって、そんなこと思っちゃった。頭ではいけないってわかっているのに、さっきまでずっとすぐ帰りたいって思っていたのに、それなのに今はどうしてもそう思ってしまうの。……だって私、本当に、リッキが好きになってしまったから」
「……ありがとう」
 僕はそう返すのが精一杯だった。
 フレアが僕を好きだと言ってくれたことは、すごくうれしい。初めてFoMに行ってフレアの部屋で迫られた時とは、また違う感じがする。
 でも、僕の中にはやっぱり、「好き」を受け止められるものが、まだない。
「フレア、僕は」
「わかってる。片想いだってことは」
 片想い。
 そう言い切られてしまうのも、ちょっと辛い。
「僕は別に、フレアのことを何も考えていないわけじゃなくて」
「勘違いしないで。いつか両想いにすることができるかもしれない、それもわかってるから。……そっか、ってことは、やっぱりここにいちゃダメなんだ。絶対に帰らなきゃ」
 フレアは繋いでいた手を離し、前を向いて力強く歩き始めた。僕もフレアについて歩いて行く。道がだんだん広くなっていき、そろそろ出口なんじゃないか、みんなの元に戻れる時が近くなってきたんじゃないかと感じさせる。ずっと坂道を上ってきて、この先もまだ上り坂が続くけど、けど、なんとなく足が軽くなってきた。
 しかし、前を行くフレアが急に立ち止まってしまった。勢いづいた僕の足も止まる。
「どうしたのフレア?」
「リッキ、あれ……」
 道が二つに分かれている。
 いや、道ではない。大きな空洞が、道に繋がっている。覗いたその空洞にあったものを見て、僕は言葉を失った。
「卵よね、あれ。ものすごく大きいけど」
 何百、いや千を超えているかもしれない大量の卵が、整然と並べられていた。薄く紫がかっていて、一つひとつがまるでダチョウの卵かと思わせるような大きさだ。
 驚きながらのフレアの言葉に、僕は静かにうなずいた。
「これはきっと、魔獣の卵だ」
「魔獣の? 魔獣って、卵から生まれるの?」
「ヴェンクーが言っていた。魔獣使いは魔獣の巣から卵を攫ってきて、自分の思い通りに動くように育てるんだって。きっとここがそのための部屋だ」
「そんな……かわいそうよ、なんとかならないの?」
「……僕には、どうすることもできない」
 僕だって本当はなんとかしたい。魔獣を自然のままで生かしてあげたい。でも……。
 卵が一個カタカタと震え出し、僕の迷いを遮った。
 卵は震え続け、ピシッとヒビが入ったかと思うと、中から魔獣の頭だけが勢いよく飛び出した。灰色のその顔からは、僕たちを襲った狼の魔獣を思わせる。きっとあの狼の魔獣たちも、こうやって魔獣使いの手で、人を襲うための道具として育てられたのだろう。
「行こう、フレア」
 僕は初めて、フレアの前に出た。
「この卵のために僕たちにできることは、魔獣使いを倒すことだ。それだけだ」

   ○ ○ ○

 洞窟の外は、わずかに朝の白い光を取り戻そうとしていた。
「アミカ、あさになるまえにたたかったほうがいいとおもうんだけど」
「アミカちゃんも? あたしもそう思ったわ」
「どうして? 明るくなってからのほうが戦いやすくない?」
 アミカとシェレラの考えに、アイリーは気づいていない。
「あさになってからたたかったら、たおしたまじゅうがジャマになってリッキと会えなくなるかも」
「あー、あれ道塞いでるもんねー。そっかー。朝になる前に倒したら、きれいさっぱりなくなってくれるもんね」
 洞窟の中では大量の狼の魔獣の死骸が山積みになっていて、移動を困難にしている。魔獣の死骸は朝日とともに消えるので、朝になった後で死んだ魔獣は翌日の朝まで死骸が残り続けることになってしまう。
「それに、もし夜が明けて通りやすくなった瞬間にあいつらがここを抜け出ようとしたら、魔獣と戦いながらあいつらも相手しなきゃならないでしょ? それだと逃げられてしまう危険性が高くなるわ」
「それだけは絶対に避けなければ! 今すぐ戦おう!」
 そう言ってヴィッドは立ち上がろうとして、積んであった空のランチボックスをうっかり蹴飛ばしてしまった。
「す、すまん」
「いっぱい食べたね。おいしかったでしょ?」
 シェレラは空になったランチボックスを片付け始めた。
「おいしかった。こんなにおいしいものがあるとは思わなかった。フィセにも食べさせてやりたい」
「任せて。すぐに食べさせてあげるから」
 アイリーも立ち上がった。
「もうMP満タンだから。とっとと魔獣倒しちゃうから。朝になってあいつらが出てくるのを待ったりなんかしない。こっちから乗り込んでやるんだから」
「アミカ、外ならめいっぱいたたかえるよ」
「そうね。この魔獣は洞窟の外に出ても散って行ったりしない。必ずあたしたちに向かってくる」
 狼の魔獣が群れをなして防護壁を取り囲んでいる状況に、何ら変化はない。
「だから洞窟の外でも戦闘になるわ。アミカちゃんの魔法があれば、きっと全滅させられるはず」
「じゃあその作戦でいこう。アミカ、防護壁を解除した瞬間に魔法が発動するように準備して。私も炎を振りまいてフォローするから」
「うん、いいよ」
 アミカは目を伏せ、静かに呪文の詠唱を始めた。

   ◇ ◇ ◇

 あんな卵の部屋があるということは、魔獣使いがよくここに来ているということだ。おそらく出口は近い。
「リッキ、何か聞こえない?」
 フレアがネコ耳を左右別々に動かしている。
「いや、特に何も聞こえないけど。もしかして、アイリーたちの声?」
「そうじゃなくて、もっと低くてずっしり響く地鳴りのような音が、聞こえたり止まったりしているんだけど……」
「地鳴り? まさか、この洞窟が崩れる……なんてことは、ないよな。はは」
「そっ、そんなこと、あるわけない、でしょ」
 自然と足の動きが早くなる。僕もフレアも、蜂を追い抜いてしまうくらいの早足になってしまった。
 そして――。
 ついに僕たちは、平らな直線の道に出た。
「戻って……きた」
 思わず声が出た。
 ホッとして、その場に立ち止まる。
 でも止まったのは僕だけだった。遅れて来た蜂が僕を追い抜いて飛んでいき、フレアがそれについて行った。ちょっと気を緩めた僕だったけど、引き締め直してフレアの後に続いた。少し歩くと直角に左に曲がる分かれ道が現れた。蜂の導きに従い、左に曲がる。
 今度は右に曲がる道が現れ、蜂が飛んでいく。しかしフレアは立ち止まった。慎重にその先の様子を窺っている。
 理由はすぐにわかった。声が聞こえてきたからだ。
「いいかお前ら」
 あの野太い声だ。どうやらこの先が隠れ家になっているようだ。
「もうすぐ日の出の時間だ。あのニローク人の女は諦める。日の出とともに魔獣を放って外の奴らを追い払い、ここを出て行くぞ」
 外の奴らってのはアイリーたちのことか? アイリーたちは今どうなっているんだ?
「私はどうなるのだ! ここを捨てろというのか!」
 激昂する若い男の声が聞こえてきた。
「白装束の男よ」
 魔獣使いの発言であることをフレアが補足して、後ろに控える僕に伝えた。僕も少し身を乗り出し、中の様子を窺う。野太い声の男と魔獣使いが言い争っているのを、仲間の四人が後ろで突っ立って聞いていた。かなり広い空間だ。テーブルやベッド、それに本や薬品、実験器具らしきものが並んだ棚が置いてあるけど、羨ましいくらいに場所を持て余している。
「お前なんかの儲け話に乗っからなければ、こんなことにはならなかった。どうしてくれるつもりだ」
 魔獣使いはフードを脱いでいて、激しく怒っているわりにはずいぶんと顔が青白いのがはっきりと見える。
「こうなっちまったからにはしょうがねえだろ。死にたくなかったら言うことを聞け。おいお前ら、チビを運び出す準備はいいか」
「へい」
 仲間が二人がかりで、ロープで縛られた長方形の木箱を持ち上げようとしている。あの中にフィセがいるのか――?
「そうはいかないわ!」
 いてもたってもいられなくなったのだろう。ミニボムを投げつけながら、フレアが部屋に突入した。
「な、なんだお前ら! 生きていたのか!」
 野太い声の男が叫ぶ。
 僕も素早く鎧と剣を装備し突入した。相手は決まっている。この野太い声の男だ。フレアではさすがにこいつの相手は無理だ。僕は剣を抜き、男に斬りかかった。男は立てかけてあった幅の広い剣を手に取り、鞘に入ったままで僕の剣を受けた。
 男は体勢を立て直すと鞘を投げ捨て、剣先を僕に向けた。
「お前には死んでもらうしかねえな」
 怒鳴りながらごつごつした腕で振りかざしてきた剣を、僕は細身の長剣で受ける。重い。ずしりと響く。
 やっぱり戦いにくい。
 向こうは僕を殺す気で来ている。でも僕は……。
 生身の人間と戦ったことなんて、これまでなかった。森でこいつらと遭遇したのが、初めての生身の人間との戦闘だった。あの時もやっぱりためらいがあった。そして今も――殺されるかもしれないとわかっているのに、どうしても思い切り剣を振れない。自然と防戦一方になってしまい、少しずつ後退していった。
 フレアもミニボムや羽毛がついた針を投げつけていたけど、さすがに一人で四人の男を相手にするのは難しかったようだ。威勢よく突っ込んでは行ったものの、押し戻されてしまっている。
 なんとか、なんとかしなければ……。
 ――ガリッ
 しまった!
 石ころに足を取られた僕は、仰向けに倒れてしまった。
 これは殺し合いだ。待ってくれるはずがない。
 ごつごつした腕が、僕の首を落とすために幅の広い剣を振り上げる。
「ダメ!」
 フレア?
 二人の間に割って入ったフレアが、短剣を手に立ちはだかった。
「フレア、無理だ! 逃げるんだ!」
 僕の忠告も虚しく、フレアは男に襲いかかった。
 男はニヤリと笑った。そして、
「ぐっ……かはっ」
 男の強烈な拳が、フレアのみぞおちに食い込んだ。気絶したフレアが膝から崩れ落ち、地面に倒れ込む。
「お前は大事な商品だ。おとなしく寝ていてもらおうか」
 その隙にフレアと戦っていた四人が僕を取り囲んだ。もはや出口に向かうこともできない。
「お終いだな」
 倒れたままの僕に、男が野太い声で冷酷に告げる。
 幅の広い剣を、再び振り上げた。

 死ぬのか。
 仮想世界ですら死んだことがないってのに、死んだら終わりのこの現実の異世界で、死んでしまうのか。

 激しい爆裂音。
 僕を囲む男たちが、次々と倒れていく。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「アイリー!」
 突入してきたアイリーが、続けざまに炎の玉を放つ。アミカも光の矢を放った。光の矢は野太い声の男のごつごつした腕に刺さり、男は剣を落とした。
 形勢逆転だ。
 アイリーとアミカの攻撃が続く中、僕は倒れているフレアを抱き起こした。シェレラが回復魔法をかけると、フレアは意識を取り戻した。アイリーとアミカは悪者たち四人を倒し、残った野太い声の男も攻撃を受けて後退している。
「フィセは? フィセはどこに?」
「ヴィッド! あの木箱だ!」
 ヴィッドは木箱に駆け寄り、ナイフでロープを切った。
「フィセ!」
 ヴィッドに抱き起こされ、銀の髪とネコ耳の少女が姿を現した。ヴィッドはフィセの口を塞いでいた布を剥がし、体を縛っていたロープを切った。
「お兄様!」
 フィセは泣きながらヴィッドに抱きついた。
 ヴィッドもフィセを抱きしめる。
「うわああああああん! お兄様! こわかった、こわかったよお兄様、わああああああん。わあああん」
「大丈夫、もう大丈夫だ」
 抱き合う二人の腕に、さらに力がこもる。
 良かった。本当に良かった。
 でも僕はまだ感傷に浸っている時ではない。戦いは残っている。
 僕は剣を握り直し、アイリーたちに加勢した。走っていった勢いのまま、体のあちこちが焼け焦げている野太い声の男に斬りかかった。剣を落としたままの男は受けることができない。後ずさりながら、僕が繰り出す剣を回避していく。
 そこへ、僕の後ろからアミカの光の矢が飛んでいった。男の体に光の矢が突き刺さり、体勢を崩す。続けてアイリーが炎の玉を放って炸裂させた。男の体は大きくのけ反り、今にも倒れそうだ。さらに、
「こいつも食らいな!」
 フレアがパチンコを手にし、ピッパムを飛ばした。
 鼓膜が痛くなるくらいの破裂音。
 僕たちにも爆風が届く。思わず腕をかざし、目を閉じた。
 そして、目を開けると――。
 男は白目を剥き、口から泡を吹いて倒れていた。
 あとは――。
 僕たちが来てからずっと、棚の影で震えていた男。
 白いコートに全身を包んだ、魔獣使いだ。
「も、もうダメだ。終わりだ。全てが終わりだ」
 青ざめた顔を震わせながら、小さな声でぶつぶつ呟いている。
「アイリー、こいつが魔獣使いだ」
 僕たちは魔獣使いを取り囲んだ。抵抗する気配はない。魔獣使い自身には、戦闘能力はないのだろう。
「おとなしくしろ」
 僕は魔獣使いに剣先を向けた。アイリーも杖を突きつけている。
「そ、そうだ、どうせ助からないんだ。こんなことなら」
 魔獣使いは虚ろな目をしていて、どこを見ているのかよくわからない。相変わらずぶつぶつ呟きながら、懐から何かを取り出した。
「おい、聞いているのか! 降参しろ!」
 魔獣使いが取り出したものは、占い師が使う水晶玉に似ている。暗い色の中に無数の白い点がキラキラしていて、まるで星空のようだ。ただ、占い師の水晶玉とは違い、なぜか小さな筒状の突起がついている。
「目覚めさせる準備はしておいたが、本当にこの時が来るとは。はは、やってやる、やってやるさ」
 またぶつぶつ呟いた魔獣使いは、トランペットのマウスピースに似たその突起を口に当て、息を吹き込んだ。
 星空のような無数の白い点が、激しく光り輝く。
「くっ!」
 あまりの眩しさに、目を固く閉じずにはいられなかった。
 まずい。この隙に逃げられてしまう!
 それでも眩しすぎて目を開けることができない。
 数秒後、光はだんだん弱くなっていった。少しずつ、少しずつ、目を開く。
 意外にも、突きつけた剣先の向こうに、魔獣使いは逃げずにそのまま立っていた。
 魔獣使いの口が歪んだ。
「はははは、あっははははは」
「何を笑っている。何がおか――」
 うなるような重低音。
 耳ではなく、体で、内臓でその振動を受け取るような、経験したことのないズシリと響く重苦しい音が、僕を襲った。
 思わず周囲を見回したけど、変化はない。
「リッキ、これよ! 私が聞いてた音って!」
 フレアがそう叫ぶのと同時に、地面が、いや洞窟全体がガタガタと揺れだした。
「ふははははは! どうせもう終わりなんだ! こうなったら全てを道連れに――」
 突然、魔獣使いは気を失い、その場に倒れ込んでしまった。首に紫の羽毛がついた針が刺さっている。
「うるさいから眠らせたわ。……でも、まだ揺れているわね」
 音は止んだ。でも、揺れは一向に収まらない。むしろだんだん激しくなっている。
「とにかく、急いで脱出しよう」
 僕たちは出口へと走った。

「お兄ちゃん、なんか……近づいていってない?」
 アイリーに言われるまでもなく、それは感じている。
 揺れはどんどん強くなっている。でもそれは揺れ自体が強くなったというよりも、僕たち自身が震源に近づいていっているような、そんな感覚だ。
 なぜだ。僕たちは洞窟から出ようとしているのに。それなのになぜ――。

 洞窟を出た僕たちを出向かえたのは、今まさに地平線から離れようとしている真っ赤な朝日。そして、
「な……なんだ、あれは」
 巨大なクモの巣のようにヒビ割れた、広大な荒れ地。
「あんな、だったっけ?」
 ここに来た時は暗闇だった。ひょっとしたら、元からこんな地形だったのが見えていなかっただけなのかも、という思いがよぎる。
「違うよ。こんなのなかった。私たちついさっきまでここで戦闘していたんだもん。間違いないよ」
 アイリーが即座に否定した。アイリーと一緒にいた三人も、首を振る。
 だとしたらこれも、魔獣使いの仕業なのだろうか?
 地面の振動は、今も収まらない。
「とにかくすぐに逃げなきゃ! ねえ、あの馬に乗ったら?」
 フレアが振り向いて、繋がれている馬を指差した。
 悪者たちが使っていた馬は、繋がれたまま怯えていなないている。
「私、馬なんて乗れないよ! フレアは馬に乗れるの?」
 アイリーが叫ぶ。
「私も乗ったことなんてないけど、でも急がなきゃ! 何かが起こってからじゃ遅いって!」
「そんなこと言ったって! ……あっ、あれ」
 アイリーが指差した、クモの巣状のヒビ割れの中心。
 地面の中から、何か尖ったものが突き出てきた。

 なんとなく、想像はついていた。
 これが魔獣使いの仕業だとしたら、当然、結果がどうなるかを。

 さらに地面を突き破って、尖ったものの下から何かが見えてきた。
 まるでワニのような、大きく、ギザギザの鋭い歯が生え揃った口。
 額には、最初に地面を突き破って出てきた長い角が、真上を向いて生えている。
 つまりこれは……、魔獣の頭だ。
 その魔獣の頭の口が、大きく開いた。
 強烈な重低音。
 さっき感じたのよりも何倍も強い空気の振動を、全身で浴びる。体の中が掻き乱されるような、おぞましい感覚。精神がおかしくなりそうだ。
 目をつぶって、意識を集中する。耐えろ。耐えろ。
 すると突然、空気の振動が止んだ。
 シェレラが防護壁を張り、全員を覆ったのだ。
 重低音から遮られ、緊張が解けた僕はその場にへたり込んでしまった。振り向くと、他のみんなも同じように脱力し、放心状態になっていた。
 ただ一人、シェレラだけがしっかりしていた。僕なんか耐えるだけで精一杯だったのに、シェレラはこんな状況でもきちんと考え、防護壁を張るという正しい判断をしてくれた。どうしてこんなことができるんだろう。生まれたときからずっと身近な存在なのに、未だに僕はシェレラのことがよくわかっていない。
「あ、ありがとう、シェレラ。助かったよ」
「どうせ逃げようとしても動けなかっただろうし、それに逃げる気もないんでしょ?」
 いつものように優しく微笑みながら、いつもの調子でシェレラは言った。
 シェレラには、僕が考えていることなんてすべてお見通しなんだ。いつもそうだったし、今だってそうだ。
 両手をついてへたり込んでいた僕は、立ち上がった。手に付いていた砂を払う。
 そして、最初からそのつもりだったことを、そのまま言った。それがシェレラへの答えだからだ。
「うん、戦うよ。このまま放ってはおけないから」
 僕が見つめる先では、地中から抜け出た魔獣が全身の姿を見せていた。

しおり