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第五章 雨

「りっくん、あいちゃん、もう少しゆっくり食べたら?」
 サラダが乗ったトーストを食べながら、お母さんは少し呆れている。
 そんなに急いで食べていたつもりはないんだけど、無意識のうちに早くなっていたのかもしれない。
「ごちそうさま!」
「りっくん、一枚だけでいいの?」
 いつもはトーストを二枚食べているけど、今日は一枚だけで朝食をやめた。階段を駆け上がると、下から愛里も「ごちそうさま」と言ったのが聞こえてきた。
 今日は土曜日だから、朝から遊ぶ予定だ。部屋に戻り、もう集合時間であることを確認した僕は、すぐにゴーグルを装着した。

   ◇ ◇ ◇

「リッキ、この子、なんとかしてよ!」
 先にログインしていたフレアが、噴水の周りを走っていた。その後ろから、アミカが追いかけて走っている。
「さっきから耳に触りたくてしょうがないみたいで」
 これは、仲が良くなった証拠、と見ていいのだろうか? それに、昨日はだいぶへばっていたアミカだけど、すっかり元気になったようだ。
「アミカ!」
「あ、リッキ」
「ダメだよアミカ。こんなことしちゃ」
「……はーい」
「よしよし」
 しゅんとしたアミカの頭をなでてあげる。
「えへへへ」
 途端にアミカの笑顔がこぼれた。
 そこに、『(ゲート)』から出たアイリーが駆け寄ってきた。
「シェレラがちょっと遅れるみたいで。これから朝ご飯なんだって。だから先に行っててほしいって」
 いかにも智保らしい理由だ。
 それに、いくら仮想世界で予定を立てたとはいえ、現実世界の都合だってある。こういうことが起こるのは、仕方がないことだ。
「とりあえずこの四人で行こうよ。それでいい?」
 シェレラの意向をくんだアイリーの提案に他の三人が同意し、ひとまず四人で出発することにした。

   ◇ ◇ ◇

『リュンタル・ワールド』では、統合のタイミングに合わせて新しい地域が追加されていた。
 僕たちはその中のひとつ、ハムクプトという場所に来ている。新しい場所だからよくわからないけどとにかく行ってみよう、という軽いノリで来てみたんだけど……。
「なんだか私たちの世界とあまり変わらないわね。リュンタルってこんな感じなの?」
「そんなことはないんだけど……たまたまかな」
 ハムクプトは、鬱蒼とした森だった。
 フレアが勘違いしてしまうのも、無理はない。
「草原とか岩山とか、FoMにないような場所って決めておけばよかったな。……どうする? 別の場所に変えようか?」
 これまで、『門』は街や村の中にあるのが普通だったんだけど、統合に伴うリニューアルでフィールド上にも『門』が置かれるようになった。僕たちが今いる『門』はハムクプトの森の入口辺りにある。周囲には何もない。森がある以外は、ただ荒れ地が広がっているだけだ。
「いいっていいって。冒険にハプニングはつきものでしょ。でもこれなら、私が一番活躍できそうね。リュンタルの人たちには悪いけど」
 フレアは軽い足取りで飛び跳ねながら、森の奥へと入って行った。
 僕もすぐについて行ったけど、でこぼこな地面や突き出た木の根のせいで、なかなか思うようには進めなかった。

「みんな遅いよ! FoMの私にリュンタルの道案内をさせる気?」
 僕たちは決して遅くはない。フレアが身軽すぎるんだ。フレアが道なき道を先に行って待ち、他の三人が追いつくというパターンが繰り返されている。僕たち以外に人は見当たらない。マップの拡張部分は人が集まりそうなものだけど、もしかしたらあまりに森の密度が濃すぎて、人が入れる場所だとは思われていないのかもしれない。
 先へ行ったフレアが止まり、振り向いた。木々が生い茂る森だけど、ちょうどフレアが立っている辺りだけは木が生えてなく、平らな地面に短い草だけが生えている。
 フレアは待っている間に、ふわふわと光る玉を出現させた。掌に乗る大きさの玉をつまんで引っ張ると、光がそれにつられて伸び、玉から細い棒が突き出ているような形になった。
 これは後からシェレラが来た時のための目印で、棒の向きで僕たちが進んで行っている方向を示している。FoMにしかないアイテムで、それだけFoMには迷いやすい森が多いのだろう。振り向くと、少し前に作った光る玉がふわふわと漂っているのが小さく見える。たしかあれが四個目、今作ったのが五個目だ。
 電子音が鳴った。フレアはただ立って、僕たち他の三人は歩きながら、指先を空中にすべらせる。

 Shelella: これから行くね。

 シェレラも含めた五人で共有する、グループメッセージだ。
 フレアに追いついた僕は光る玉のスクリーンショットを撮り、これを目印にするようにとメッセージを返した。
 そこへ、
「モンスターよ!」
 アイリーが叫び、杖を構えた。
 僕たちの前にいたのは、森によくいる樹人だ。
 樹人が二匹、根っこのような足をうねらせ近づいてきた。枝のような腕を伸ばし、蔓のような指で僕たちを絡め取ろうとしている。
 アイリーは炎の玉を放った。樹人が一匹、炎に包まれた。もう一匹の樹人が伸ばした蔓が僕の足首に迫る。素早く切り落とし、アミカとフレアの前に立つ。樹人は再び蔓を伸ばす。でも蔓が届く前にアイリーが炎を放ち、この樹人も炎に包まれた。二匹の樹人はもがきながら光の粒子と化した。
「ただの樹人だったみたいね」
「そうだね」
 アイリーにとっても僕にとっても、樹人など敵ではない。
「でも、新しい場所なんだから、新しいモンスターがいたっておかしくない。気を引き締めていこう。フレアも、なるべく離れないようにして」
「わかったわ。でも私にとって森は庭よ? たとえリュンタルの森でも、ちゃんと戦えるわ」
 そう言ってフレアが駆け出していった、その数秒後。
「きゃーーっ!」
 フレアは甲高い叫び声をあげ、尻餅をついた。
 蜘蛛だ。
 樹木の枝から糸を垂らし、巨大な蜘蛛が襲ってきたのだ。
 ちょうどフレアの顔の高さにぶら下がっている蜘蛛が、八本の足を動かしながら口から糸を吐いた。糸は尻餅をついているフレアを襲った。フレアの手足や胴体に糸が絡みつき、体が空中へと持ち上がる。蜘蛛の口が大きく開いた。このままフレアを食べるつもりだ。
 僕の後ろから、一筋の光が走った。
 アミカが放った光の矢が、蜘蛛の口に突き刺さった。さらに続けて光の矢を放つと、矢は蜘蛛の喉の奥を貫通した。大きな穴が空いた蜘蛛は、八本の足でもがきながら光の粒子となり消えていった。フレアの自由を奪っていた糸も消え、フレアは地面に倒れ込んだ。
「フレア、大丈夫?」
 僕たちはフレアに駆け寄った。
「ごめん、うかつだった。森だからと思ってちょっと調子に乗っていたみたい。リッキの言う通りね、気をつける。それに」
 フレアは僕の後ろのアミカとアイリーに目を移した。
「アミカの矢は大した威力ね。昨日の魔法もすごかったけど、一点集中の攻撃も全然問題ないなんて。それにアイリーの魔法もオーソドックスだけど威力はもちろん十分あるし、本当に二人とも戦闘能力が高いわね」
 フレアに褒められた二人は、お互いに見合った。
「アミカのほうがつよいよ!」
「うん、でも一匹だけなら弓でもいいけど、炎は撒き散らせるからね」
「そっかー……」
 モンスターは一匹だけで出現する場合もあれば、群れで出現する場合もある。それに炎や雷の雨を天から降らせるというアミカの魔法は、この鬱蒼とした森では使えない。アミカとアイリーのどちらが強いか、どちらが有利かというのは、地理的要因やモンスターの特徴にもよるだろう。
「それにしても……どう進んでいけばいいのかしら」
 ずっと先頭に立っていたフレアが、悩んでいる。
 先に何があるのかもわからず、ただ道なき道を進んでいるのが現状だ。もしかしたら、この先に洞窟があってお宝が眠っているとか、レアアイテムを持ったモンスターが潜んでいるとか、何かが待っているのかもしれない。でも、何もないのかもしれない。新しい場所だから、全てを開拓していかなければならない。
「そうだな……どうしよう」
「もーお兄ちゃんったら優柔不断なんだから!」
 フレアだって悩んでいたのに、なんでアイリーは僕だけを責めるんだ?
「じゃあアイリーはどうしたいんだよ!」
「ここでシェレラを待つよ。これからもっと強いモンスターが出てくるかもしれないでしょ? それならシェレラの回復魔法が必要になってくる」
 うーん。説得力がある。
「それにシェレラは一人なんだよ? ちょうどこの辺りからモンスターが出現し始めたんだし、私たちが先に進んでしまって、後からくるシェレラが途中のこの辺りで襲われちゃったら危ないよ」
「アミカもそれでいいよ」
「私も賛成」
 アイリーは単純なことに気づかない場合もあれば、こうしてちゃんと考えている時もある。どうしてそうなるのか、僕には違いがよくわからない。
 とにかく、僕もアイリーの意見には全く異論がない。
「じゃあ待つことにしよう。シェレラは今どの辺にいるのかな」
 シェレラにメッセージを送ってみたら、すぐに返ってきた。

 Shelella: ぽわぽわしてる。三個目かな。

 たぶん、目印の光の玉のことだろう。
 もう少し待てば、合流できそうだ。
 僕たちは五個目の目印がある平らな場所に戻って、腰を下ろした。
 そして、少し経つと、

 ――ぽつっ。

「えっ? 雨?」
 フレアが最初にそう言ったのは、肌の露出が多くて気づきやすかったからなのかもしれない。

 ――ぽつっ。
 ――ぽつっ。

 雨だ。
 雨なんて、普通は降らない。降る地域は限定されている。ハムクプトはデータがないから、雨が降る地域だとは知らなかった。そして、何かクエストが始まる合図だということも考えられる。
 思わず空を見上げる。
 頭上では周囲の木々が思い切り枝葉を横に広げ、空はあまり見えない。だけど僅かに見えるその空は、青い。

 Shelella: 四個目~

 後ろを見ると、雨の向こうにシェレラの姿が小さく見える。その辺りは、雨は降っていないようだ。
「ちょっと戻ろうか。あっちのほうは雨が降っていないみたいだし」
 僕はシェレラのいる方向を指差した。
 その時。

 ――ドオオォーーン

 大きな雷鳴が響き渡り、雨の勢いが激しくなった。
 また見上げると、木々の間から見えるのは、やはりいつもと変わりない青空。一体どこから降ってきているのだろうか。
「お兄ちゃん、おかしいよこの雨!」
 アイリーが叫んだ。
 声に反応して振り向く。異常はすぐにわかった。
 アイリーの体のあちこちが、一瞬だけ荒いドットのように変化していた。
 アイリーだけではない。アミカもフレアも、そして僕の体も、雨粒が当たった瞬間その部分がドットとなり、そして元に戻った。
 まさか。そんなまさか。
「逃げろ!」
 僕はシェレラがいる方向へ走り出そうとした。
 しかし。
 突然、地面から草が伸びてきた。僕たちを囲むように生えた草は、雨を受けてドットを作りながら、あっという間に僕の身長よりも高く伸び、行く手を阻んだ。
 シェレラがこっちに走ってきているのが、草の間から見える。しかし、さらに生えてきた草によって、それも見えなくなった。
「何これ! どうなってるの? リュンタルってこんな所なの?」
 フレアが叫ぶ。
 そうじゃない。『リュンタル・ワールド』は、本当はそんなゲームじゃない。
「リッキ! やだ! たすけて!」
 震えるアミカを、僕は抱きしめた。
 僕たちはもう草に囲まれているのか、ドットに囲まれているのかわからなくなった。そして、僕たちを包むように、それが内側に倒れてきて……。

   ◇ ◇ ◇

 目を開けた。
 ちょっとだけ、頭が痛い。
 なんだか懐かしい感覚だ。

 僕は倒れていた。
 小さな女の子を、抱きしめたまま。
「アミカ……」
 アミカは眠っているみたいだ。
 僕はアミカをそっと地面に寝かせ、起き上がった。
 アイリーも、フレアも、眠っている。

 周囲を見る。
 鬱蒼とした森。
 ハムクプト、という名前の森だったはずだ。

 あれ?
 シェレラは?
 シェレラは一緒じゃなかったんだっけ?

 シェレラにメッセージを送ってみた。
 あれ? 送れない…………。

 思い出した。
 はっきりと、思い出した。

「んっ……」
 アイリーが起きたようだ。
 アイリーがアミカやフレアより先に起きたのは、きっと慣れがあるからだろう。
「アイリー」
 僕はアイリーの元にそっと寄って、耳元で囁いた。
「ん? お兄ちゃん、おはよう。どうしたの?」
 ちょっと寝ぼけているみたいだ。でも仕方がない。これまでもそうだった。一回目も、二回目も、目が覚めるのは僕のほうが早かった。
「アイリー、大丈夫か? 立てるか?」
「う、うん、なんとか」
 アイリーは僕の体を支えにして立ち上がった。どうして立たされたのか、アイリーはたぶんまだわかっていない。
 僕はまだ目が半開きのアイリーを連れて数歩だけ歩き、アミカとフレアに背を向けたまま、そっと言った。
「アイリー、僕たちはまた、本物のリュンタルに来てしまった」

 アイリーは目をぱちくりさせた。
 半開きだった目が、すっかり開いている。
 アイリーは首をぐるぐると回して周囲を見て、そして僕の顔を見て、手を伸ばした。
「いい痛い痛いいひゃい、いらい」
 僕はアイリーの手を掴んだ。
 そして、僕の頬をつねっていたアイリーの手を、力ずくで引き剥がした。
「ほんとだ。痛い」
「なんで僕のほっぺたで確認するんだよ!」
「だってお兄ちゃんしかいないじゃん」
「自分のがあるだろ!」
「……そっか。ごめんお兄ちゃん、私まだ寝ぼけてる」
 絶対嘘だろ、それ。
「「う~ん……」」
 後ろから弱々しい声が聞こえた。
 僕が騒がしい声を出してしまったからだろうか。アミカとフレアが、目を覚ましたみたいだ。ゆっくりと起き上がろうとしている。
「どうする、アイリー」
「どうするって……どうしようもないじゃん」
「とりあえず、なんとかごまかして、なんとかしよう」
「なんとかばっかりじゃん!」
「じゃあどうするんだよ!」
「それは……なんとかするしかないでしょ」
「うん……なんとかするしかないよな」

「起きた?」
 僕は眠っていた二人に声を掛けた。
 アミカもフレアも、体を起こしはしたけれど、まだぼーっとしている。
「まだじっとしていたほうがいいかな」
 あまり下手に動き回られても困る。
 だけど、アミカが立ち上がろうとした。
「危ない!」
 よろけて倒れそうになったアミカを受け止めた。ケガをして痛みを感じてしまったら大変だ。
「アミカ、じっとしててアミカ」
 まだ頭が働かなくて、僕の言うことがわからないのかもしれない。
「……リッキ」
「アミカ、どうしたの?」
「だいじょうぶだよ」
「うん、よかった」
 アミカを地面に座らせ、頭をなでた。アミカの顔が、少しだけにやけた。
 フレアは……しっかり立ち上がった。頭に手を当てている。
「ここ、リュンタルよね。FoMじゃないよね……あー頭が痛い。どうしたのかな」
「頭が痛い? 気のせいじゃない?」
「うんうん、そうそう、気のせいだよきっと」
 僕とアイリーはなんとかごまかそうとした。とにかく「痛い」は禁句だ。
「そうだ、思い出した! 確か雨が降ってきて……って、濡れてないわね」
 フレアは乾いた地面を見つめている。

 仮想世界の仕様で、服や体は濡れたり汚れたりしてもすぐに元に戻る。だから、服が乾いていることには、フレアは不自然さを感じていない。でも、地面が乾いていることには、違和感を覚えたようだ。
「あめ……ふったよね」
 アミカも不思議がっている。
 雨が降ったのはあくまでも『リュンタル・ワールド』での出来事であり、今僕たちがいる本物のリュンタルでは降っていなかったということなんだけど、どうやってごまかせばいいだろうか。
「も、もしかして、バグったのかな」
「アイリー!」
 まるで片言のようにぎこちなく言ったアイリーの手を引いて、少しだけ離れた。
 また、二人に背を向けて小声で話す。
「バグとか言っちゃダメだろ!」
「だってしょうがないじゃん! 他にどうやって説明するの!」
「いや、それは……」
「こうなったら全部バグってことにしちゃおうよ。新しい場所だからきっとまだ不安定なんだよ、とかいうことにして」
「大丈夫なのか? そんなので」
「やってみなきゃわかんないじゃん!」
「うーん、じゃあそういうことにしてみ――」
「ちょっと、待って!」
 後ろで大きな声がして振り向くと、フレアが森の奥へと走り出していた。
「ねえ、待って」
「フレア、どうしたんだ!」
「ねえ、ちょっ、……わっ」
 フレアは大きく前につんのめり、転んでしまった。地面に張り出した木の根につまずいてしまったんだ。
「っつっ……痛っ」
 駆け寄ると、フレアは顔をしかめ、赤く腫れ上がった足首を押さえていた。
「フレア、大丈夫か!」
 大丈夫でないのは見てすぐわかったけど、他に言葉が思い当たらなかった。
 僕はすぐにポーションを取り出した。
「飲んで」
 ポーションを飲むと、フレアの足首からは腫れが引き、元に戻った。
「立てる?」
「うん、大丈夫」
 フレアは立ち上がると、足元を確かめながら、歩いて元いた場所に戻った。

「バグ? ありえないでしょ! 痛覚が遮断されないなんて!」
「でも、そうとしか考えられないでしょ。きっと新しい追加エリアだから、まだ不安定なんだよ」
 怒りと困惑が入り交じるフレアを、アイリーが必死になだめる。
「うんうん、そうだよそうだよ」
 僕もアイリーに合わせて、なんとか取り繕う。
「私、しばらく気を失っていたでしょ? あれもバグだっていうの?」
「そ、そうだよ、きっとバグだよ」
「地面が乾いているのも? それに、目印も消えちゃっているし。ここだけじゃなくて、向こうのも」
「それもきっと、バグなんじゃない?」
 アイリーが必死にバグだと繰り返すのを見ているのが切ない。
「そういえばシェレラがすぐそこまで来てたよね? シェレラはどうしたの?」
 僕とアイリーは、顔を見合わせた。
 シェレラのことは、全然考えていなかった。
「ア、アイリー、シェレラはどうしたんだっけ」
「さ、先に落ちたんでしょ? 忘れたの?」
 強引すぎるだろそれ!
「しょうがないわね……私たちもひとまず落ちよっか……って、ねえこれどうなってるの? ログアウトが反応しないんだけど!」
 しまった、という顔を僕に向けたアイリーが「やっちゃった……」と囁いた。
 やっぱり言い訳に無理がありすぎたんだ。
「本当にどうなってんのよこれ! 運営に文句言ってやる! 何? メッセージも使えないの? バカじゃないのこのクソ運営!」
 フレアは完全に切れてしまった。
「うんえい……」
 アミカがそっと呟き、僕たちを見ている。
 アミカはお父さんのことを知っているから、フレアのように運営に当たるようなことはしない。ただ、僕たちのことを不安そうに見つめている。
 僕はまたアイリーの手を引き、振り向いて数歩歩いた。
「どうする、アイリー」
「どうしよう……」
 次の言葉が、出てこない。
 後ろではフレアがまだ騒いでいる。
「そうだ! 追加エリアのバグなら、このエリアを出ればいいじゃない! 仮に『門』がバグっていたとしても、歩いていればいつかこのエリアを抜けられるんだし」
「待ってフレア! ここにいて」
 アイリーが振り向いて叫んだ。
「どうして? 名案だと思わない?」
 全然名案じゃない。
 この森から出て歩いていけば、いつか本物のリュンタルの街や村にたどり着き、本物のリュンタルの人たちと会うことになる。だから絶対にこの森からは出ちゃダメだ。
「お兄ちゃん! 最後の手段を取ろう」
 かつてないほど真剣な顔つきで、アイリーが僕を見つめた。
「最後の手段?」
「うん」
 何かいい案を隠し持っていたのか? だったらこんな引っ込みがつかなくなる前にさっさと言えばよかったのに――。
「正直に、この世界のことを打ち明けよう。私、もう嘘つけないよ」

   ◇ ◇ ◇

「バグのほうがまだまし……」
 フレアは頭を抱えてうずくまった。
「ありえないでしょ。絶対にありえないでしょ。そんな、異世界だなんて……」
「私、なんとかごまかせたらいいなって思ってた。騙そうとしてた。でも、本当は最初から言えばよかった。嘘ついてごめんね。本当に謝る」

 僕とアイリーは、ここが『リュンタル・ワールド』の元となった異世界リュンタルであることを話した。お父さんが二十年前の経験を元に『リュンタル・ワールド』を作ったのだということ、そして、僕たちもシェレラと三人でこの世界に来たことがある、ということを。
「ごめんな、フレア。こんなトラブルに巻き込んでしまって」
「あとで私が直接クソ運営に文句言ってやるんだから! ほんとクソ運営なんだから!」
「アイリー、それは私が悪かった。謝る。もう言わないで。お父さんにそんなこと言わないで。ねえ、それより私、どうしたらいいの? どうすれば帰れるの? ねえ? ねえ!」
「うん、大丈夫だから。ここにいれば、きっと助けが来るから。だから安心してほしいの」
 混乱してうろたえるばかりのフレアを、アイリーはなだめている。でも、助けが来る保証なんてない。初めて本物のリュンタルに来た時みたいに、お父さんがバグを再現して『門』を開いてくれることに賭けるしかない。
 それに比べて、アミカは意外と落ち着いている。
「アミカ、ごめんね、こんなことになっちゃって」
「だいじょうぶ。リッキがいるから」
 そうか、僕を頼りにしているんだ。僕がなんとかしないと。
「アミカ、リッキがいれば、どこにいたってへいきだよ。それにね」
 アミカは手招きをした。
「ん? どうしたの?」
 アミカは僕の耳に手を当てた。耳を貸して、ということのようだ。内緒話でもしたいのだろうか。
 僕はアミカの口元に耳を近づけた。
「これ、本物の体なのよね? アバターじゃなくて」
「は、玻瑠南!?」
 つい声が漏れ出て、慌てて手で口を覆った。
 聞こえてきた声はアミカの声だけど、口調や雰囲気は完全にリアルの玻瑠南だ。
「私、アミカの肉体を手に入れたってことなのよね」
 僕は思わず仰け反った。
「あ、リッキ」
 僕の耳を求めて、アミカが手を伸ばす。
 僕はアミカの手を掴み、首を左右に振って話を拒否する意思を示した。
 フレアほど不安にかられてうろたえられるのも困るけど、アミカはむしろ順応しすぎている。それはそれで困る。
「そうだ! あの子!」
 フレアが大きな声を出し、森の奥を見渡した。
「あの子? って、誰?」
 アイリーが首をひねる。
「さっき見たのよ。私みたいなネコ耳の子を。アミカよりもう少し小さいくらいで、銀色の髪をした子よ」
「フレア、それ本当?」
「本当だって。アイリー、信じて。本当に見たのよ。それで私、慌てて追いかけようとして、焦って転んじゃって。もしかしたらあの子も、この世界に紛れ込んできたのかもしれない」
 いや、違う。そんなことはありえない。
「それとも、もしかして、この世界の子なのかな」
 それも違う。
 僕はフレアに説明する。
「フレア、よく聞いて。リュンタルには亜人(デミヒューマン)はいない。普通の人間しか、いないんだ。本物のリュンタルがそうだから、仮想世界の『リュンタル・ワールド』でもそれが再現されている」
 フレアは真剣に僕の話に耳を傾けている。
「そして、仮想世界のハムクプトの森に入ってから、僕たちは他の誰とも会わないまま、この本物のリュンタルに来た。雨に降られ、草に囲まれたのも、僕たちだけだ。つまり、世界を移動したのは、僕たちだけだ」
「……つまり、見間違いだ、って言いたいのね」
 僕は首を縦に振った。
「アイリーも? アイリーもそう思うの?」
「うん……お兄ちゃんの、言う通りかな」
「そんなことないって! 本当に見たんだって!」
「お兄ちゃん……」
 返す言葉が見当たらないのか、アイリーが困った顔で僕のほうを向いた。

 突然、足元の地面が光り出した。
 円形に光る地面からとっさに跳び退き、様子を窺う。
 円形の光は、だいたい直径二メートルくらい。この大きさの円形の光は、僕だけではなく、全員が見慣れている。
 それは白く淡い光を立ち上らせ、円柱になっていった。その光景も、僕たち全員が見慣れているものだ。
 立ち上っていた光が、少しずつ降りていく。それと同時に、見慣れた顔が、見慣れた体が、姿を現した。
「なんだ、みんなここにいたの? あたし、みんなを探す冒険の旅に出ようと思っていたのに」
 白く淡い光が消え、地面の『門』だけが残った。その中央には、シェレラの姿。
「あたし、みんなを迎えに来たの。コーヤさんがみんなを待っているわ」

   ◇ ◇ ◇

『門』は、ピレックルの最高級の宿の最高級の部屋に繋がっていた。お母さん扮するイシュファと来たことがある、あの部屋だ。
 白銀の鎧を着たお父さんが、この部屋で待っていた。そして、
「このクソ運営! 何やってんのよ!」
 お父さんの姿を見たアイリーがダッシュで駆け寄り、握った手で白銀の鎧を叩いた。
「アイリー、やめて」
 フレアの静止も聞かず、アイリーは精一杯腕を伸ばして背が高いお父さんの首元に掴みかかっている。
「私の大事な友達が! どれだけ不安だったと思ってるの! ねえお父さん! わかってるの!」
「……俺が悪かったよ」
 お父さんは静かに言った。アイリーは手を離した。
「アミカと、それと、フレアだね? すまなかった。このゲームの責任者として、どれだけ謝っても足りないのは、自覚している」
「……お父さん、私、全部話したよ? 本物のリュンタルのこと。隠しておかなきゃとは思ったけど、隠しきれなかった。大事な友達にウソをつき続けることができなかった。でもいいよねお父さん。だって私、友達が、友達が……」
「わかってるよ。アイリーはよく頑張った」
 最後は泣いて言葉が続かなかったアイリーを、お父さんはそっと抱きしめた。

   ◇ ◇ ◇

 この部屋にはテーブルは四人用の正方形のものしかないんだけど、お父さんが同じものをもう一個出現させて並べた。椅子も二つ出現させ、六人用となったテーブルに僕たちは座っている。お父さんは空中からジュースとケーキを取り出し、テーブルに置いた。

 バグで僕たちが消えてしまった後、それを目の前で見たシェレラが、すぐにお父さんに知らせたのだそうだ。そしてお父さんは『門』を開き、シェレラを送り込んだ……ということらしい。

「お父さんは悪くない。むしろ良かった。すぐに戻ってこれたのは、お父さんの適切な対応のおかげ」
 アイリーはさっきまでとは全然違うことを言った。
「追加エリアだから不安定だったとか、そんなことない。本当は偶然起きた事故。予想はできなかった。そうでしょお父さん?」
「うん……そうだな、まさかこんなことになるなんてな。ちゃんと公開前にテストを繰り返したけど、異常はなかったし」
「……違うよね? わかってたんだよね? こういうことになるかもって」
 アイリーはまた反対のことを言った。
 ジュースを飲もうとしていたお父さんの手が止まった。
「ごまかそうとしたってダメなんだからね!」
 アイリーは立ち上がった。
「最近やたらとまたジムに行くようになったでしょ? あれ何? ストレス発散のため? 本当はそうじゃなくて、また本物のリュンタルと繋がるかもって思ってたんでしょ。また戦うことがあるかもって思って、体を鍛えてたんでしょ? そうでしょ?」
「か、考えすぎじゃないかな、俺、本当に最近ストレスが」
「じゃあ『門』は? 前にリュンタルに行った時は偶然起きたバグを再現するだけだったよね? でも今日の『門』はちゃんとしたやつだったじゃない。移動した時に気を失ったりもしないで、全然普通だったし。あれ、そんな簡単にできるもんじゃないよね? 前もって作っておいたんでしょ?」
 立ち上がったアイリーを見上げていたお父さんは、顔を斜め下に伏せた。そして静かに、持っていたコップを置いた。
「なんだ、全部わかっていたのか。確かに、ハムクプトで何かが起こる可能性は考えていた」
「だったらなんでハムクプトに行くなって言わなかったのよ!」
「行くなって言ったら余計に行きたくなるだろ!」
 お父さんも立ち上がった。座っていればアイリーが見下ろしているけれど、立てば当然逆だ。今度はお父さんがアイリーを見下ろしている。アイリーも負けずにお父さんを見上げて睨みつけている。
「私が信用できないっていうの?」
「じゃあ言えば行かなかったのかよ!」
「……………………」
 アイリー、そこで黙っちゃダメだろ。行くって言っているようなものじゃないか。
「あのう、ちょっと、お訊きしたいんですけど」
 会話が途切れた合間を縫って、フレアが発言した。
 アミカはいつもと変わらない様子だけど、フレアの表情は固い。まだショックが大きいのかもしれない。
「フレア、言いたいことがあれば全部このクソ運営に言っちゃっていいんだからね!」
 アイリーがビシっと指差すと、お父さんはへたり込むように座った。
「あー、クソ運営ね、はいはい、そうだよ、俺クソ運営だよ」
「そそそそんなことないです! ……その、私たち以外に、いませんでしたか? あっちの、異世界に飛ばされちゃった人って」
「他に?」
 沈んでいたお父さんの表情が変わった。
「いや、そんなことはない。ちゃんとデータを確認したけど、ログアウトしないままアバターが消えたのは、この四人だけだった」
「そうですか……」
「やっぱり気になる? その子のこと」
 アイリーは座りながら、フレアに声をかけた。
「だって本当に見たのよ! ネコ耳の小さな子供を! もしかしたら、FoMのプレイヤーが紛れ込んだのかもしれないじゃない!」
「でもお父さんも言ってるでしょ。私たち四人だけだって。ねえお父さん」
「……………………」
 お父さんは下をぼーっと見ている。話の途中なのに、考え事でもしているのだろうか。
「お父さん!」
 お父さんは慌てて顔を上げた。
「ん、そ、そうだな、間違いない」
「……わかりました」
 フレアは小声で答えた。
 絶対に見たって言っているけど、きっと見間違いだろう。そうとしか思えない。
「コーヤさん、ケーキおかわりありますか?」
 いつの間にか、シェレラの皿からケーキがなくなっていた。
「え、ああ、いいよ。どんどん食べて」
 お父さんは新しいケーキを取り出した。
「アミカも! おかわり!」
「はは、いっぱい食べてね」
 アミカにもケーキを差し出す。
 そして、お父さんは全員の顔を見回した。
「今日は本当に迷惑をかけた。悪かった。あの森にはもう絶対に行かないでくれ。そもそもあの森は人間が入るべき場所じゃないんだ。それと、今日のことは絶対に誰にも言わず、秘密にしておいてほしい」
「うん、わかった」
 アイリーが返事をすると、みんなも頷いた。
 それを見届け、お父さんはログアウトした。

「そういえば、アミカは私と違ってずっと落ち着いていたわね」
 お父さんがいなくなって、フレアは呟いた。
「なんか悔しい。私だけ取り乱しちゃったなんて」
 アミカは口いっぱいにケーキを頬張って食べている。自分のことを言われたアミカは、ジュースを飲みながらゆっくり噛んで、それを飲み込んだ。
「アミカは前にもふしぎなことがあったから。ねえリッキ、あのときのしろくろの人も、そうなんでしょ?」
「そうだね、隠していてごめんね」
 夏休み中に、アミカは本物のリュンタルから来た狂科学者(マッドサイエンティスト)・エマルーリと戦っている。あの時はお母さんのゴーグルのバグと合わせて、なんとなくうやむやにして終わらせてしまっていた。でも今となっては、エマルーリがどこから来た人間なのか、アミカには想像がついている。
 いきなりなんの前触れもなく異世界に行ったフレアと違って、本来ありえないことを経験していたアミカには、比較的ショックが少なかったのかもしれない。
「これからどうする? 僕はもう落ちるよ。これ以上続けて遊ぼうって気になれなくって」
「そう? 私はまだいるけど。だってまだ午前中だよ?」
 アイリーは遊ぶ気力だけは誰にも負けない。僕には真似できない。
「とにかく、僕は落ちるよ。みんなも、また今度一緒に遊ぼう」
 そう言って僕はログアウトした。

   ◇ ◇ ◇

 その後、僕は自分の部屋で勉強をしたり漫画を読んだりして、一人で過ごした。
 ベッドに寝転がって漫画を読んでいて、ふと床に目をやってしまうことがあった。何もない床。だけど、あの時の記憶がよみがえる。僕の部屋のこの床に現れた、本物のリュンタルから来た、僕よりうんと小さいくせに一つ年上の、あいつの姿が。
 今、どこにいるんだろうか。
 ちゃんと旅を続けられているのだろうか。
 喧嘩っ早い性格は、直っているだろうか。
 体はやっぱり小さいままなのだろうか。

 僕はまた、あいつがいる世界に行ってしまった。
 これからも、また行ってしまうことがあるのだろうか。
 もしかしたら……また、会えるのかな。
 だとしたら……会いたい。
 ヴェンクーに、会いたい。

 どうしても、そう思わずにはいられなかった。

   ◇ ◇ ◇

 日が暮れるのも早くなった。外はもう薄暗い。
 愛里はまだ仮想世界から戻ってきていない。あんなことがあった後で、よくそんなに遊べるものだ。
「りっくーん」
 下で、お母さんが呼んでいる。
「はーい」
 お母さんは台所にいた。袋に入った肉や野菜がたくさん置いてある。
「材料買っておいたからね!」
「材料? 何の?」
「あら、聞いてないの? 今日はカレーライスだって、あいちゃんが言ってたんだけど。お友達が泊まりに来るから、いっぱい作っておいてほしいんだって」
「そうなの? 全然知らなかったよ」
「あら、そうなの? でも、ほらこれ」
 お母さんはスマートフォンを手に取り、『リュンタル・ワールド』のアプリの画面を僕に向けた。確かにそこには今お母さんが言ったことが書いてある。
 なんでアイリーは僕にメッセージを送らなかったんだろう。遊ぶのに夢中になっていて、うっかり忘れてしまったのだろうか。作るのは僕なんだから、ちゃんと僕にも連絡してほしいんだけど。
 それにしても、愛里が友達を家に呼ぶなんて。仮想世界のアイリーではなく、現実の愛里の友達なんて、『リュンタル・ワールド』をやり始めてから見たことがない。

 いつもより多めに米を研ぐ。にんじん、じゃがいも、たまねぎの皮を剥いて切る。秋らしくきのこも入れてみよう。お母さんは今日は買って来なかったけど、確か冷蔵庫に……あった。切った野菜ときのこを肉と一緒に軽く炒め、水を入れて煮込む。
 スマートフォンを見る。愛里はまだログインしている。友達はいつ来るんだ?
 メッセージを送って、訊いてみる。

 Airy: あと一時間くらい

 じゃあもういいか。炊飯器のスイッチを入れる。カレールーを入れるのは、もう少し後だ。リビングでスマートフォンをいじる。見ているのは、主に料理レシピのサイトだ。料理の合間に時間を持て余すと、つい見てしまう。
 時間が経ち、カレーの鍋にルーを入れ、かき混ぜる。愛里はまだ戻ってこないのか? 友達のほうが先に来ちゃうんじゃないのか? そう思いながらかき混ぜていると、
「おいしそうな匂いがする~」
 愛里が階段を降りてきた。
「やっぱお兄ちゃんだねー。匂いだけでおいしいってすぐわかるよ」
「褒めたって何もしないぞ」
「素直に褒めてんじゃん。私お兄ちゃんの料理、お店に負けないくらいだと思ってるよ。本当だよ?」
「わかったよ、ありがとう。うれしいよ」
「もー何なのその全然心がこもってない返事! 私本当にそう思ってんのに!」

 ――ピンポーン

「はーい」
 チャイムが鳴り、愛里が玄関に行った。

「あ、おいしそうな匂いがする」
「お兄ちゃん料理得意なんだよ」
「そうなの? 知らなかった」
 玄関から、ものすごく聞き覚えがある声が聞こえてきた。
「「おじゃましまーす」」
 リビングに現れたのは……玻瑠南と、西畑。
 えっと――。
「愛里? これは一体」
「あれ? お母さんから聞いてなかった?」
「友達が来る、と聞いてたんだけど」
「ハルナもトモミも、大事な友達じゃん!」
「……………………」
 やられた。サプライズだ。ドッキリだ。
「あいちゃん、お友達、来たの?」
 奥からお母さんが姿を見せた。
「あらあら、ハルナさんじゃないの! そうそう、こっちじゃ初めて会うわね! それと、えーと、ごめんなさい、どなたでしたっけ?」
 初めて会うのに、前に会ったことがあるつもりになっている。
「初めまして。沢野君のクラスメイトで、西は――」
「あらあらりっくん! やーねーモテモテじゃないの!」
 さっきまで前に会ったことがあると思っていたことなんて、今のお母さんはすっかり忘れているはずだ。
「お母さん! そういう言い方やめて!」
「照れなくていいのよ! りっくんったらもう、そんなに赤くなっちゃって!」
「いいからやめて!」
「さあさあ、みんな座って。ごはんいっぱい食べていってね!」
 僕が作った料理をまるで自分が作ったかのように勧めるのは、お母さんの癖だ。
「うん、まあ、とにかく座ってよ」
「えっとね、お兄ちゃんいつもあの席で、私がその隣なんだけど……、えっと、私、隣でいい?」
「愛里! そういう変な気遣い、いらないから!」
「でもほら、お客さん来た時とか、私違う場所に座る時もあるじゃん」
「いいから!」

 カレーライスができあがった。
 結局、いつもと同じように僕の席の右隣に愛里が座った。僕の正面に玻瑠南、その隣の、愛里の正面の席に西畑が座った。
 そして、僕の左の、テーブルの縦の席には、お母さんが座っている。
「いっただっきま~す。ん~おいしい! ほら、みんなも食べて!」
 お母さんはさっさと食べ始めてしまった。
「いや、まだ、運んでる途中だから」
 僕は台所から持ってきたカレーライスをテーブルに置きながら言った。お母さんの皿は最後にすればよかったな。ちょっと失敗だった。
 最後に僕のぶんのカレーライスをテーブルに置き、席についた。
「いただきまーす」
 一口食べた。ちゃんとおいしくできている。味見をしたから大丈夫なのはわかっているけど、実際に食事として一口食べてみると安心する。
「おいしい! 私、沢野君が料理得意だって知らなくって! すごい憧れる! 私も料理は嫌いじゃないけど、あまり上手くなくって。今度教えてよ!」
「う、うん、今度な」
「私ピアノやってるから、指をケガしないように刃物は使っちゃダメだって言われてて……。立樹が料理作ってくれたら、うれしいんだけど」
「う、うん、今度な」
 玻瑠南からも西畑からも好評だ。よかった。
「もう、りっくんったらもうちょっとちゃんとお返事したらどうなの? ふられちゃうわよ!」
「ふっ、ふられ……」
 お母さん! 何言ってんだよ!
 水を一杯飲む。そして、玻瑠南と西畑を見る。二人とも僕をじっと見ている。
「ちょっと待ってよ。ふられるとかふられないとか、おかしいって。愛里だってそう思うだろ? そうだろ?」
 逃げるように愛里がいる右を向いた。
「毎日お兄ちゃんの料理食べてる私が一番いいんじゃない?」
 愛里は平然とカレーライスを食べている。
 玻瑠南も西畑も、今は睨むように愛里を見つめている。それに気がつきながら、それでも愛里は普通に食べ続けている。
「あ、もし、おかわりが欲しかったらお兄ちゃんに言ってね。おたまが左利き用だから」

 左利きは、何かと不便なことがある。世の中には右利き用に作られたものが多い。先が尖ったおたまは、右利き用に作られているのが普通だ。でも沢野家では、僕が使いやすいように左利き用のものをわざわざ選んで使っている。他にはフライ返しも左利き用だ。包丁は以前は普通のものを使っていたけど、今は左利き用を使っている。やっぱり使いやすさが違う。
 右手を使う場合もある。例えば急須。急須は普通のものしかない。調理器具と違って、家族全員の共用だからだ。だからお茶を淹れる時は、仕方なく右手を使わざるを得ない。

「おたまが左利き……私そんなの考えたことなかった。左利きってなんかちょっとカッコいいなとか、そんなのしか考えたことなかった」
「トモミ左利き好きなの? よかったねお兄ちゃん、左利きで」
「いやあ……左利きは、別に関係ないだろ」
 左利きがちょっとカッコいい、っていうのは右利きの人が思うことはあっても、左利きの人自身がそう思うことは、ほぼないだろう。
「それと、お母さん若い! 最初見た時お姉さんかと思った!」
「あらーうれしいこと言ってくれるわねー。お姉さんで通用するかしら」
 それは、すると思う。僕から見ても、お母さんは若い。
 愛里はポケットからスマートフォンを取り出した。
「トモミ、これ見て。お母さんが『リュンタル・ワールド』やってた時のなんだけど」
 えっ? あれ見せるの?
「うわっ、ビキニアーマー? お母さん大胆! それにすごい綺麗!」
「あいちゃん、あまりこうちゃん以外には見せないでよ! 照れるじゃない!」
 そう言いながらもお母さんはまんざらでもない様子だ。ずっとにやけっぱなしだ。
 それに、西畑は驚いているけど、フレアの服装だって、面積的にはビキニアーマーと似たようなものだと思うけどな。
「えーと、それじゃ、本題に入るよ。特にお兄ちゃん、よく聞いて」
 スマートフォンをポケットにしまったアイリーの口調は、特にこれまでと変わらなかった。そんな普段の話し方で、信じられないことを言い出した。
「カレーライスを食べ終わってからやること。もう一回ハムクプトの森に行って、本物のリュンタルに行く。そして、あのネコ耳の子を探す」
「…………はああっ!?」
 一拍遅れて驚いた僕を尻目に、玻瑠南と西畑は真剣な顔で頷いた。

「お父さんは、何か隠している」
「こうちゃんが隠し事? どういうつもりなのかしら!」
「お母さん、ごめんね、ちょっと黙ってて」
 愛里は少し笑ってごまかしながら、怒り出したお母さんに注意をした。気を使ってなるべく優しく言ったはずなんだけど、それでもお母さんはシュンとしてしまった。
「お母さんにも、ちゃんと聞いてほしいの。大事なことだから」
「わかったわ、あいちゃん」
 お母さんは別に関係ないんだけど、でも愛里の言うことを聞いて沈んでいた状態から一瞬で回復し、真剣な顔つきになった。
「思い出して。お父さんはハムクプトの森は『人間が入るべき場所じゃない』って言ったよね。ということは、“人間以外なら入っていける場所”と考えることができる」
 それは……さすがに、考え方が飛躍しすぎていないか?
「その、人間以外っていうのが、フレアが見たネコ耳の子だって言うの?」
「そう。お父さんはきっと、あそこに人間以外の種族がいると知っている。行ったことがあるんだよ、ハムクプトの森に。そして、何かの経験をして、人間はこの場所に関わるべきではないと思った。じゃなきゃあんなこと言わないでしょ」
 考えすぎだ、と思う。
 でも、玻瑠南も西畑も、愛里の話を聞いて頷いている。
 本当に、そうなのだろうか。
「仮にそうだとしてさ、それなら余計、僕たち人間が行くのはダメなんじゃないのか?」
「行っちゃいけないなら、どうして行っちゃったのよ!」
 愛里の声が大きくなった。
「そうでしょ? 私たち、自分の力で、自分の意思で行ったんじゃないでしょ? バグに取り込まれて、自分の意思とは関係なく行っちゃったんでしょ? つまり……私たちは“呼ばれた”のよ」
「呼ばれたって……誰に? 何のために?」
「それはわからないけど!」
 肝心なところで、筋が通っていない。
「それに、また行くって言ったって、どうやって行くんだよ。そんなに都合よくバグが起こるとは思えないって」
「それは……なんとかする。とにかくあの場所まで行ってみる」
「いいかげんすぎるだろ」
「もしバグが起こらなかったとしても、私の計算では、『門』が開く」
 どんな計算だよそれ。
「お父さんしかできないことじゃないか。何もない場所に『門』を開くのは」
「うん。お父さんが『門』を開く」
「そんなバカな」
「お父さんは最初から、本物のリュンタルと繋がるかもって思っていたんだよ? でも、ただ追加エリアで不安定だからっていう理由でバグが発生するとは思えない。実際、テストを繰り返したけど異常なかったって言ってたでしょ。それがどうして今日バグが発生したのか。それは、本物のハムクプトの森で、今日何かが起きたから。そして私たちが仮想世界のハムクプトの森にいたから、私たちが呼ばれた。お父さんはきっと、それがわかってるんだと思う。
 それに、行くなって言われたら余計行きたくなる、ってわかってるのに『絶対に行くな』って言ったでしょ。あれ、“行ってこい”って意味だよね?」
 あまりにも都合の良すぎる考え方ばかりだ。特に最後なんかは。
「――っていう話を、お兄ちゃんが落ちてからしてたんだよ。みんな賛成してくれた。あとはお兄ちゃんだけ」
「……………………そうなの?」
 玻瑠南も西畑も、うんうんと頷いている。
「どうしてもあの子のことが気になっちゃって。それでアイリーに相談したのよ」
「私も最初は気のせいだと思ってたけど、お父さんのやってることを考えるとね。そうとは言えなくなってきちゃった」
「でも……僕はやっぱり、気のせいだと思うけどな」
「大丈夫だって。とりあえず一緒にあの場所まで行こうよ。もし何もなかったら、それはそれでいいじゃん。現実に戻って、ただのお泊り会ってことでボードゲームでもして遊ぼうよ。後で智保も来ることになってるし」
「……なんだか急激にボードゲームがしたくなってきたよ。今すぐにでも始めたいよ」
「それと、お母さん」
 愛里は僕を無視してお母さんに話を振った。
「もし何かあったら、すぐにお父さんに知らせて。それと、このリストの……」
 お母さんの隣に行って、スマートフォンの見方の説明を始めた。名前が薄いグレー、つまりログアウトの表示なのに、体が眠っている場合は、本物のリュンタルに行っているということなのだと。この間はメッセージが通じないから、返信がなくても心配しないようにと。
「わかったわ。ヴェンくんは元気なのかしら? 会ったらよろしくね!」
「うん、会えるといいね」
 やっぱりお母さんはよくわかっていない。そんな都合のいいこと、あるはずがない。今ヴェンクーは広大なリュンタルのどこかを旅している。いくら偶然が重なったって、会えないに決まっている。愛里だってそれがわかっていて、方便で返事をしているにすぎない。
 そりゃあ、会えるものなら僕だって会いたいけど……。
 いや、どうしてこんなことを考えているんだ? 僕もやっぱり、向こうの世界にまた行きたいと、心の底では願っているということなのだろうか。
「立樹、お願いなんだけど」
 玻瑠南が小声で僕を呼んだ。
「何? ボードゲームのリクエスト? 玻瑠南はどんなのが好きなの?」
「カレーライス、おかわり」
「……うん」
「沢野君、私も。これ、すごいおいしい」
「……うん、ありがとう」

   ◇ ◇ ◇

 カレーライスを食べ終わった僕たちは、リュンタルへ行くための準備を始めた。玻瑠南と西畑は愛里の部屋からログインするので、一階から布団を運んできたりしている。
「智保、今お風呂に入ってるらしくってさ。ちょっと遅れるけど、今度はちゃんと一緒に出発するから。先にログインして装備とか揃えておこうよ。お兄ちゃんは鎧を買いに行くんだよ! 前みたいに変なの買わないように、私も一緒に行くから!」
 前に本物のリュンタルに行った時にも鎧を買ったけど、オフィシャルショップの普通の鎧だというのに、アイリーは全然似合わないと強烈なダメ出しをした。今度はそんなことがないように、ということなのだ。
 僕は鎧なんて防具の役割さえちゃんと果たしてくれればいいと思っているし、似合わないのだって、普段着ていないから違和感があるっていうだけのはずだ。でも、今回はアイリーに任せることにした。文句を言われてばかりでは、さすがに辛い。

『リュンタル・ワールド』の夜は、真っ暗にはならない。薄暗くなるだけだ。それに加えてピレックルの街は魔石の魔力による明かりが煌々と光っていて、空の色以外は夜を感じさせることがない。
 ログインすると、さっそくアイリーに引っ張られるようにショップに連れて行かれた。アイリーの見立てで少し値の張る鎧を買わされ、その鎧を着たままアイリーの買い物に付き合わされた。なんだか恥ずかしい。
 噴水の広場に戻ると、アミカとフレア、それにシェレラも来ていた。
「どうしたのリッキ、鎧が似合ってるじゃない」
 僕の鎧姿を見て、シェレラが驚いている。そんなに違うものなのだろうか。
「今日は私が選んだからね。間違いないでしょ」
「なんだ、そうだったのね。どうりで」
 似合ってると言われたものの、なんだか複雑な気分だ。

   ◇ ◇ ◇

 ハムクプトの森に来た。
 二回目ということもあって僕たちは迷うことなく進み、バグが起きた場所に到着した。
「……何も起きないな。よし、すぐに落ちてボードゲームをしよう」
「お兄ちゃん! まだ着いたばっかじゃん!」
「わかったよ。じゃあちょっとだけ待つぞ。ちょっとだけ――」

 ――ぽつっ。

 雨だ。
 まさか。

 ――ぽつっ。
 ――ぽつっ。

 少しずつ、雨粒が多くなってきた。朝と同じように、このままバグが発生するのだろうか――。

 突然、地面が光りだした。
 朝とは違う。こんなバグはなかった。
 いやこれは……バグではない。
『門』だ。
「やっぱり! お父さんわかってた!」
 アイリーが歓喜の声をあげる。
 あんな自分勝手な考えだったのに、本当に当たっていたのか?
 考える間もなく、『門』から立ち上った光が、僕たちを包んでいく――。

しおり