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第五章 風の馬

 日曜日は一人で勉強を頑張った。さすがに智保に頼ってばかりはいられないと思ったからだ。もっとも、智保はまたどこかのパーティに誘われてリュンタルに行っていたみたいだったけど。
 そして、月曜日から三日間の期末テストも、無事終わった。

 最後のテストが終わって一分もしないうちに、スマートフォンが電子音を鳴らした。

 Amica: ダッシュで!

 反射的に壁側の玻瑠南の席を見た。玻瑠南もこっちを見ていた。一瞬目が合った後、玻瑠南は小さく頷き、すっと立ち上がると、教室を後にした。
 バレたらどうすんの!
 まあ、これくらいじゃ、誰もわからないか。

   ◆ ◆ ◆

 アミカはソフォイダン公園の『(ゲート)』の前で待っていた。
 期末テストか終了し、約束通り四人でクエストに挑むためだ。

『門』が円筒状に光った。光が解けると、『門』にはアイリーの姿があった。
 アイリーはすぐにアミカに駆け寄った。
「アミカ、早いね」
「うん。学校が近いからかな。リッキは?」
「ちょうど私がログインしようとした時にお兄ちゃんが帰ってきた物音がしたから、すぐ来ると思うよ」
 そう言っている間に『門』が光った。
 アミカの心臓が高鳴る。
『門』の光が解けるほんの数秒を、今か今かと待った。

 リッキが姿を現した。

 目が合った。

 リッキはゆっくりと歩き出した。
「やあアミカ。久しぶり」
 声をかけられたものの、アミカは返す言葉に迷った。
 さっきまで一緒に同じ教室にいたのに。それなのに「久しぶり」だなんて。
 なかなか言葉が出てこず、ただただ呆然とリッキの顔を見続けた。
「……どうしたのアミカ? 僕、なんか変かな?」
「えっと、その、ひさしぶりって」
「いやあ、ほんの何日か会っていなかっただけだけどさ、それまで毎日会っていたから、なんだか久しぶりって思っちゃったんだけど、おかしかったかな?」

 近づいて来るリッキを、アミカはずっと見続けていた。近づくにつれ、アミカの顔の角度が少しだけ上がる。

(リッキが見ている私は……誰なの?)

 アミカは思い出していた。
 初めて会った日のリッキ。
 無理に誘って一緒に戦った時のリッキ。
 正体を知っても、一緒にいてくれたリッキ。
 泣きじゃくって叫んだ気持ちを、聞いてくれた時のリッキ。

 ずっと、変わっていない……。

 ずっと変わっていないリッキが、ずっと変わらず私をアミカとして見ている。
 私はアミカなんだ。これまでも、これからも。ずっと。

 呆然とリッキを見上げていたアミカの顔がほころんだ。
「おかしくないよ。ひさしぶりだね。アミカ、リッキに会いたかった」

  ◇ ◇ ◇

「うん。僕もアミカに会いたかった」
 アミカの笑顔に釣られて、自然と左手が伸びてアミカの頭をなでた。薄紫色の髪がサラサラしていて気持ちいい。
「えへへー。もっとなでてー」
 アミカもうれしそうだ。僕も、ずっとなでていたいくらいだ。
 でも、そうは言っていられない。
 僕の後ろで、『門』が光った。
 振り返り、光が解けるのを待つ。
 数秒後、よく見知った金髪のショートカットの女の子が、徐々に姿を現した。
「やあシェレ……ラ…………」
 僕は口を開けたまま、固まってしまった。

 いつもと服装が違う。
 胸元が大きく開き、大きな胸をさらに強調したデザインの服。
 タイトなミニスカート。
 かかとが高いブーツ。
 金のピアス。金のブレスレット。
 一言で言うと、大人、だ。
 これはひょっとして、アミカに対抗して? なんでそこまで意識するの!?

 シェレラは『門』から出て、こっちに向かって歩き出した。
 ずっと一点を見据えている。視線の先は、アミカだ。
 シェレラは僕やアイリーがまるで存在していないかのように、アミカの正面に立った。
 両手を腰に当て、少し背中を反らせて大きな胸を突き出す。
 一瞬のけぞったアミカだったけど、すぐに体勢を立て直した。
 身長でも、そして態度でも見下ろすシェレラを、アミカは鋭く見返した。
「アミカだよ! はじめまして!」
 視線は微動だにしない。見つめ合う、長い数秒間。
 腰に当てたシェレラの手が、ゆっくりアミカに伸びていく。
 アミカは動かない。
 シェレラの手が、アミカの背中に回った。
 次の瞬間。
「かわいい~」
 シェレラはアミカを抱きしめた。アミカの顔が、シェレラの豊かな胸に埋まる。
「なんてかわいいの! こんなにかわいいとは思わなかった! 画像で見るより本物のほうが断然かわいい!」
 アミカを胸に固定したまま、シェレラはとろけそうな顔で僕とアイリーのほうに振り向いた。
「ずるいよ、リッキもアイリーも。なんでもっと早く紹介してくれなかったの? 二人だけこんなかわいい子と一緒に遊んでいたなんてずるいよ」
 アミカはシェレラから脱出しようともがいているけど、シェレラの腕はアミカをしっかり抱きしめたまま離さない。
「いやあ、だって、シェレラは他のパーティに呼ばれてて……」
「こんなかわいい子と赤の他人のパーティと、どっちが大事だと思ってるの? もうリッキったらわかってないんだから!」
「そんなこと言われても……っていうか、シェレラ、アミカを離して! 早く!」
 もがいていたアミカの動きが、だんだん弱まっていった。今は動いているというより、痙攣に近い。
 僕の声に反応して、シェレラはぱっと腕を離した。
「ぜーぜーぜー。はーはー。し、死ぬかと思った。ぜーぜー」
 シェレラから開放されたアミカは、全身を使って全力で呼吸を再開した。
「リッキ、あ、安心して。アミカは、こ、こんな殺人凶器を持ってないから」
 思わずシェレラとアミカの胸を見比べてしまった。ついでに、横にいるアイリーも。
「お兄ちゃん、意外と興味あるんだ?」
 視線を向けられたことに気づいたアイリーが、ニヤッと笑った。
「バ、バカ、そんなんじゃないって」
「お兄ちゃん、ちゃんと成長してるねー」
 肘で横腹をクイクイっとつついてきた。
「成長ってなんだよ!? それ、妹が言うことか?」
 アイリーの肘攻撃を躱しながら、僕は反論した。
「じゃああたしが言おうかしら。リッキは、どういうのがいいの?」
 今度はシェレラが体をぴったりと寄せながら言ってきた。
「どういうのって何が!」
「アミカみたいなのだよね!」
 アミカが僕の手をぎゅっと握りしめた。
「だから何が!」
 僕は三方向から詰め寄られた。なんで!?
 冷や汗が背中を伝う。
「え、えっと、今日のク、クエストは、どんなクエストなのかな……」
 なんとかして逃げなければ。僕は震える声で尋ねた。
 ……三人とも僕をじっと見つめたまま動かない。だからなんで!
 クククッ、とアイリーは笑いを漏らした。
「お兄ちゃん面白すぎ。お兄ちゃん、いいかげん自覚しないとね。悪いけど、恋愛のことならシロンのほうがまだ上」
 そこでシロンを出すのかよ! シロンのほうが上って……。たとえどんなことについてでも、シロンより下って言われるのはさすがに堪える。
「アミカ、お兄ちゃんにクエスト教えてあげて?」
 まだ笑いが残っている顔をしたまま、アミカに説明を促した。
「じゃあ、アミカが案内してあげるね。みんなアミカについてきて!」
 アミカはそう言うと、街の中へと歩き出した。

  ◇ ◇ ◇

 アミカに連れられて、ボールにじゃれる猫の像がある大通りから細い道へと曲がって進んで行く。大通り沿いには店が多くて人で賑わっていたけど、裏通りは職人たちの工房が並んでいて、人通りはほとんどない。芸術の街らしく、楽器や額縁、アクセサリーなどの工房が多い。きっと本物のリュンタルでは、ここで作ったものを大通り沿いの店で売るという仕組みになっているのだろう。
 この地域の職人たちはみんなNPCだ。作っている物もクエスト用のアイテムで、工房とは言っても僕たちPCが持つ工房とはちょっと意味合いが違う。
「シェレラはアクセサリー作るのが上手いんだから、工房持てばいいのに」
 まだβ版だった頃、シェレラは現実世界で手芸が趣味なのを生かしてアクセサリーを作っていたことがあった。とても上手で、僕が真似して作ってみても全然敵わない、なんてこともあった。
「そうだった! 忘れてた!」
「忘れてた……って、何を?」
「あたし、アクセサリー作れるんだった!」
「…………へ?」
「そういえば昔はアクセサリー作ってたね。リュンタルに人が増えてからは戦闘ばっかりやってたから、すっかり忘れちゃってたわ。今度リッキにアクセサリー作ってあげるからね!」
 まさか、本当に忘れていたの!?
「……う、うん。思い出せてよかったね。じゃあ、今度作ってもらおうかな」
「シェレラ! 抜けがけしてリッキにプレゼントするなんてずるい!」
 突然アミカが立ち止まって振り向いた。シェレラを睨みつけている。
 ちょっとまずいぞ、この展開。
「ち、違うんだアミカ。そうじゃない。シェレラのことだからきっとあっという間にいっぱい作りすぎちゃって、あちこち配ったりするんだ。な、そうだろシェレラ?」
「あら、あたしは『リッキに作ってあげる』って言ったんだけど?」
 シェレラは流し目で僕を見ると軽く微笑むと、睨みつけるアミカを睨み返した。
 何なんだよこの二人!
「アイリー、なんとかしてくれよ!」
 僕はコソッと小さな声でアイリーにささやいた。
「お兄ちゃんモテモテだねー。お兄ちゃんにこんな日が来るなんて考えもしなかったよ。あー羨ましい」
 アイリーはあさっての方向を見て、さっぱり感情がこもっていない声で話した。普通の声の大きさで話しているから、僕がコソッと言った意味がまるでなくなってしまった。
「アイリー! 他人事みたいに言うなよ! これから一緒にクエストしようってのに、喧嘩してちゃダメじゃないか!」
「だったらお兄ちゃんが直接言おうね。はい二人とも聞いて! お兄ちゃんから一言あります!」
「ええっ!?」
 僕が驚いて声をあげると、シェレラもアミカも睨み合いをピタッと止めて、同時に僕に顔を向けた。
「えーっと……」
 冷や汗が全身を流れる。
 四つの瞳が、次の僕の言動を待ち構えている。
 僕はぎこちなく口を動かした。
「みんな、なかよく、クエストしましょう。ははは……」
 なんだこの幼稚園の先生みたいな言葉は。
 それに、自分で言っておいてなんだけど、棒読みにも程がある。
 僕を見つめる四つの瞳が、全然動かない。
 ど、どうしよう……。パーティ崩壊の危機だ……。
 しかし。
「アミカは、リッキの言うこと、ちゃんと聞くもんね!」
 アミカ……! 先生うれしいよ……!
「だから、なでなでして」
「うん。よしよし」
 自然と左手が伸びて、アミカの頭を、薄紫のサラサラの髪をなでた。
「わーい」
 アミカの笑顔につられて、僕も笑顔になった。
「リッキ、こんなところで立ち止まっていないで、早くクエストに行きましょう?」
 声のほうを見ると、シェレラが腕組みをして僕を見ていた。大きな胸が組んだ腕に寄せられ、さらに腕の上に乗っかって持ち上がるようになっている。ただでさえ胸元が大きく開いていて目のやり場に困るってのに、さらに強調させて見せつけてきた。
 アミカをライバル視して大人路線で行こうとしているのかもしれないけど、ひょっとしたらいつもの天然っぷりが全開でこうなっちゃったのかもしれないし、判断に困る。
 でも、わかることもある。
 シェレラは僕を見て微笑みながらも、微妙に顔のあちこちをひくつかせていた。
 こ、これは、怖い時のシェレラだ。治まっていた冷や汗がちょっとだけ復活した。
 思わず左手を引っ込める。
「うん、そ、そうだったね。クエストに行こうか」
 僕たちはまた歩き出した。

 ある工房の前で、アミカが止まった。どうやら楽器を作る工房のようだ。
「ごめんくださーい」
 アミカがドアを開けて中に入った。僕たちも続いて入って行く。
 中にいたのは、楽器職人のおじいさんだ。ちょうど作業中のようで、のみで木を削っているところだ。
 棚の中にバイオリンがいくつも置いてある。ということは、おじいさんが作っているのもバイオリンなのだろう。
「何か用かい?」
 おじいさんは手を休めることなく、白いひげの顔をこっちに向けることもなく、低い声で静かに言った。
「材料が足りないと聞いて来たんだけど」
 アミカの声を聞いたおじいさんの手が止まった。
「そうかい。あんたらが探してきてくれるのかい。では、頼んでみようかのう」
 そう言ってのみを置いたおじいさんが取り出したのは……木の棒?
「これはバイオリンの弓なのだが……。ここに張るべき馬の尻尾の毛がないのだよ」
 馬の尻尾? バイオリンの弓って馬の尻尾でできているのか。知らなかった。
「でも、馬の毛ならすぐに手に入るんじゃないのかな?」
 僕は仲間三人の顔を見回した。
 アイリーとシェレラが首を縦に振る。でも、
「ちゃんと最後まで聞いて」
 アミカにそう促されて、おじいさんの続く言葉に耳を傾けた。
「ただの馬ではない。風の馬と呼ばれる、まさに風のように草原を駆け抜ける馬だ。この馬の毛を使った弓は、実に涼しく爽やかな、そして時に激しく、時に優しい音色を奏でてくれるのだよ」

 風の馬――。
「アミカは知ってるんだよね? 風の馬のこと」
「うん。聞いたことはある。見たっていう人はほとんどいないけど」
 アミカが持ってくる話はいつもハードルが高いな……。大丈夫なのかな。
「もし手に入れることができたのなら、この値段で買い取ろう」
 視界にウィンドウが現れた。クエストの条件が提示されている。その下に、

 ――このクエストを受けますか? <はい> <いいえ>

 と書かれているんだけど……。
「こ、これは……」
 僕だけではない。アイリーもシェレラも驚いている。アミカだけは知っていたのか、表情を変えていない。
「な、なんか、おかしくないか? こんな大金、見たことないぞ」
 現実世界では、最高級のバイオリンがとんでもなく高い値段だというのは知っている。『リュンタル・ワールド』でもそういう設定なのだろう。でもこれはバイオリン本体ではなく、弓に張る毛だけの値段だ。だというのに……。
「ひょっとして、この四人の装備一式より高くない?」
「お兄ちゃん、違うよ、そんなのより全然高いよ」
「あら、そんなことないわ」
 シェレラはそう言うと、人差し指で空間をなぞった。動きが止まり、今度は空間をつついた。すると、人差し指と中指だけにしか指輪が嵌っていなかった右手の薬指に、指輪が出現した。シェレラは続けて空間をつつく。今度は左手の指に次々と指輪が嵌っていく。
 これだけ指輪が揃えば、確かにかなり高そうだ。
「シェレラ、どうしたのそれ?」
「パーティに誘われて行った時、プレゼントされちゃった。くれるのはみんな男の人ばっかり」
「そ、そうなんだ。ははは……」
 男って、そういう生き物なんだな……。

 今日のシェレラは、アミカとは逆に大人を意識している。
 シェレラだって、アミカのように現実世界ではできないような生き方を『リュンタル・ワールド』でやってみたいのかもしれない。それに、今日のシェレラの服装には指輪でいっぱいの両手が似合っている気がするし、魔法が強力になるのなら、これはこれでいいのかもしれないけど……。
 でも、なんか違うんだよな。
「シェレラってさ、意外と……その、セクシーというか、アダルトというか、そういうところがあるんだな。そういうシェレラのことが好きだっていう人も、いると思うよ。でもさ、僕はそういうシェレラ、あんまり好きじゃないな」
 シェレラの目つきが鋭くなった。
 たぶん、僕も目つきが鋭くなっているはずだ。
「シェレラがあちこちのパーティに呼ばれるのって、純粋に回復魔法の力を買われてるんだと思ってた。でも、もしかして色仕掛けみたいなこともやってたの? そういう服を着て、そういう態度をとってさ。だとしたら、僕はそんなシェレラは好きじゃない。いつも僕の前で見せてくれる、自然体のシェレラのほうが、僕は好きだ」
 シェレラはまだ僕のことを見ている。いつも笑顔が絶えないシェレラが、厳しい表情を僕に見せている。負けじと僕もシェレラだけをじっと見つめ続ける。

 シェレラの右手が動いた。
「一週間くらい前からかな」
 人差し指が、空間をなぞる。
「リッキが、小さなかわいい女の子と遊んでいたから」
 空間をつつくごとに、シェレラの指からさっき出現した指輪が消えていく。
「嫉妬しちゃった」
 最後に全身が一瞬だけ仄かに光り、いつもの見慣れた服装になった。
「でも」
 シェレラが一歩踏み出し、僕に近づいてきた。
 そして。
 飛びついてきた!
「『好きだ』って、言われちゃったー!」
「ええっ!?」
 シェレラは僕をぎゅっと抱きしめた。
「今言った! 『好きだ』って! 絶対言った!」
「い、いや、ちょっと待って? 『好きだ』って、そういう意味じゃなくて、その」
「言ったって! 『シェレラのほうが、僕は好きだ』って!」
「それ、なんか誤解生みそうな切り取り方なんだけど!」
「絶対言った! 『あんな小娘より百倍も千倍も、シェレラのほうが僕は好きだ』って!」
「絶対言ってない!」
「シェレラのほうが百万倍も一億倍も好きだって!」
「なんか増えてるんだけど!」
「ごめんね。本当は十倍だった」
「いやそれも本当じゃないけど!」
「シェレラ! 『あんなこむすめ』って、どういうこと!」
 アミカが僕からシェレラを引き剥がそうと、シェレラの背中から服を引っ張っている。
「あら、あたしはアミカだなんて一言も言っていないけど?」
「リッキと遊んでいた小さなかわいい女の子なんて、アミカしかいないじゃん!」
 ああもうなんでこんなことに?
「アイリー! なんとかして――」
 なんで笑いながら見てるんだよ! 全然面白くないから!
 とにかくなんとかしないと!
「二人ともやめ! やめないと二人とも嫌いになるから!」
 僕がそう叫ぶと、シェレラもアミカも、ピタッと動きを止めた。
「えーっと……、お騒がせしてごめんなさい」
 静かに見守っていた(反応できなかっただけかもしれないけど)バイオリン職人のおじいさんに謝った。
「クエスト、受けるよ? いいね?」
 僕はみんなに確認して、<はい>を選択した。

  ◇ ◇ ◇

 工房から出て、人通りのない裏通りの細い道で、僕たちはこれからどうするか考えていた。
「アミカはどうすればいいと思ってるの? 何もあてがないのにこのクエストを選んだなんてことはないでしょ?」
「うん。リッキならなんとかできると思った」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
 アミカは真顔でそう答えた。
 僕を信用してくれているのはうれしいけど、さすがにこれはちょっと困る。
 他の二人はというと、アイリーは忙しく指を動かしている。たぶん掲示板で風の馬についての情報を調べているのだろう。シェレラは窓越しに工房の中のおじいさんを見ながら、作業に合わせているのだろうか、のみで木を削る手の動きをしている。アイリーがやっていることはわかるけど、シェレラは相変わらず理解不能だ。
「僕、何も知らないんだけど……」
 風の馬のことは今回初めて知った。お父さんからは何も聞いたことがないし、もちろんこのクエストのことも全く知らない。
「しょうがないなあ。じゃあ教えてあげるよ。アミカに感謝してね!」
 アミカは小さな胸を目一杯張って答えた。
「いや、感謝って言われても、もともとアミカが選んだクエストなんだし……」
「風の馬っていうのはね」
 僕が言うことは無視して、アミカは話し続ける。
「ギズパスの北東に、山も谷もなーんにもないだだっ広い草原があるんだけど、そこで走っている姿がたまーーーーにもくげきされているよ」
 うんうん、とアミカはしたり顔で頷いた。
「他には?」
「え、えっと、ほかにはね……」
 アミカは胸を張ったまま、視線を逸らした。
「アイリーがたぶん調べてるんじゃないかな……。アイリーにゆずってあげるよ……」
 震えながらゆっくりと消え入る声だった。顔がうっすら赤くなっている。
 威勢よく言い始めたわりには、これ以上は本当に知らないみたいだ。
「アイリー、何かわかった?」
「うーん……」
 表情が冴えない。どうやら芳しくないようだ。
「じゃあ、ここにいてもしょうがないから、とりあえずその北東の草原に行ってみようか。行ってみれば何かあるかもしれないし」
「アミカもそう思ってた!」
「……思ってなかったよね?」
「思ってたって!」
 そんなに必死になって言うことじゃないだろ……。まあいいか。
「よし、じゃあ早速行こう……シェレラ、何やってんの」
 僕たちが歩き出しても、シェレラは相変わらず工房の中を見ながら手を動かしていた。
「シェレラ! おーいシェレラ!」
「えっ? あ、リッキ、どうしたの? どこか行くの?」
 やっぱり。全然話聞いてなかったでしょ。っていうかクエスト自体忘れてたでしょ。

  ◇ ◇ ◇

 北東の草原は、山や谷どころか本当になんにもない所だった。
 そもそも名前がない。そして道もない。途中までは豚人間の森に行く時の街道を通ればいいんだけど、街道は東に伸びているので、そこから街道を外れて北へ向かわなければならなかった。
 モンスターもいない。もしこれがピレックルなら、街道から外れて進めばみんながイモムシと呼んでいるホワイトワームとかがいるけど、ここにはなんにもいない。ただ草原が広がっている。
 もちろん、僕たち以外には、誰もいない。
 ここに来れば何かあるかもしれないと思ったけど、甘かったみたいだ。
 本当に何もない、ただの草原だ。
「風の馬……見つかるかな?」
 不安になってきた。
「情報がないはずだよ。こんな所、誰も来ないって」
 アイリーが投げやりな態度で言った。
「だったら、見つかるかもしれないわ」
 シェレラは逆に自信がありそうだ。
「だって、風の馬が現れにくいから情報が少ないってことではないんでしょ?」
 確かにそうだ。
 情報が少ないのは、単にここに来た人が少ないだけなのかもしれない。街道があると言っても、実際には『門』で移動するから街道を使う人はいないし。モンスターもいないから、レベル上げに来る人もいない。
 もしかしたら、風の馬は普通に草原を走っているんじゃないのか?
 辺りを見回してみる。西を見ると、この間攻略した三本の塔が霞んで見える。北にはうっすらと森が見える。ここからはだいぶ距離があるようだ。東はずっと草原が広がっている。街道が東に伸びているから街があるんだろうけど、ここからは遠すぎるのか、それらしきものは見えない。そして南は、さっきまで僕たちが歩いてきた街道が見える。その向こうは森。豚人間の森の裏側に当たる場所だ。

 何か動いた?

 森の中から、人が現れた。子供だろうか。ちょっとふらついて歩いている。どうしたんだろう……と思ったら。
 倒れた!
 前のめりに倒れこんだまま、動かない。
「行こう!」
 僕たちは急いで駆け寄った。

  ◇ ◇ ◇

「ありがとうございます。おかげで助かりました」
 僕たちが助けた少年の名前はビフィン。NPCだ。飾り気のない地味な色の服を着ていて、いかにも田舎の純朴な少年といった感じだ。見つけた時は傷だらけだったけど、シェレラの回復魔法のおかげですっかり元気になっている。
 この少年は、クエストと関係あるのだろうか?
 見たところはただの少年だ。でも、全く何のクエストとも関係ないのに、いきなりケガをしたNPCが出現するなんていう不自然なことはありえない。きっと何かあるはずだ。
「森で何があったのか、よかったら聞かせてくれないかな?」
「はい。実は、ぼくが飼っている馬が、脚をケガしてしまったんです。それで、この森の奥にある池の水がケガに効くので汲みに来たんです。その池にしか生えていない水草が薬草なんですけど、成分が池に染み出していて、池の水が薬になっているんです。でも、行く途中でモンスターに襲われてしまって……」
 ビフィンは水筒の紐を肩に掛けている。これに入れて持ち帰るつもりだったのだろう。
「そうだったのか。それは大変な目に遭ったね……」
 やっぱり馬と関係していた。この少年はきっと重要なカギになる。
 あれ? ちょっと待てよ?
「アミカ、ここって豚人間の森だろ? どういうことだ?」
 この森はテストプレイで来たことがあるから知っているし、だからこそ豚人間のクエストも順調に進めることができた。だから、全く知らないクエストがこの森と関係しているということがよくわからない。
「たぶん、豚人間のクエストで使われていない場所なんじゃないのかな。森は広いから、べつのクエストで来ることになってもおかしくないよ」
「あー、そういうことか」
 一つの森であっても、崖や川などで区切られていて別の入口からじゃなければ行けない場所があったり、出現するモンスターが全く違っていたりすることはゲームではよくあることだ。この森もきっとそうなのだろう。でも、森の反対側から入ったっていうだけでいきなりモンスターが強くなるなんてことも考えにくい。僕たちでも戦えるレベルのはずだ。
「僕はビフィンを池がある所まで連れて行ってあげたいんだけど、みんなはどう?」
「お兄ちゃんがお人好しなのはわかるけど、私たちにだってやることはあるんだからね」
 アイリーが呆れている。
「そう言われてもな……。だってほっとけないじゃないか」
 ビフィンを助けることが、クエストクリアに近づくはずなんだよな……。
 そうだ。
「ビフィンは馬を飼っているんだろ? だったら馬のことに詳しいのかな? 僕たち、風の馬って呼ばれている馬を探しているんだ。何か知ってることはないかな?」
「風の馬……」
「うん。この辺りの草原を走っているらしいんだけど」
「……し、知りません」
 急にビフィンの表情が険しくなった。いかにも何か隠している感じだ。
 たぶん、ビフィンが飼っている馬が風の馬なのだろう。僕の脳内で、ビフィンを助けて水を汲みに行き、病気が治ったお礼に尻尾の毛を分けてもらう、というありがちなストーリーが瞬時に組み立てられた。
 ただ、ビフィンは自分が風の馬と関わっていることを知られたくないようだ。襲って奪おうとしている奴らがいる、とかいう設定なのかもしれない。ビフィンが僕たちのことを悪く思ったり、機嫌を損ねたりしないよう、注意しなければならない。
「僕たちはビフィンの力になりたいんだ。池がある場所まで、一緒に行かないか。モンスターなら僕たちが倒すから、心配ないさ」
 僕たちはビフィンを手放すわけにはいかない。
「……わかりました。お願いします」
 ビフィンはまだ表情が険しく、どこか僕たちを疑っているところがあるようだけど、池の水を手に入れるには僕たちの力を借りるしかない。
 ここはゲームとして、プレイヤーとAIとの駆け引きだ。感情は抜きにして、頭脳で攻略する場面だ。まずビフィンと行動を共にすることには成功した。次はビフィンの心を開くことだ。そのためには池の水を持ち帰ることができるよう、僕たちがしっかりとモンスターを倒すことが必要だ。
「じゃあ、早速行こうか」
 僕が先頭に立って、森の中へと入っていった。
「もー、気持ちはわかるけどさ、お兄ちゃん……」
「大丈夫。これでいいから」
「うん。リッキは合ってる」
 不満がるアイリーを、シェレラとアミカがなだめた。
 アイリーとは違って、二人はちゃんとわかっているみたいだ。

  ◇ ◇ ◇

「ビフィン、どんなモンスターに襲われたのか、教えてくれないか?」
 森に道はなくて、木々が葉を繁らせているから日光が届きにくい。薄暗いでこぼこの地面を僕たちは歩いて行く。まだモンスターとは遭遇していない。でもこれから出現するのは間違いないのだから、あらかじめ情報を得ておくべきだ。
「巨大なカマキリのようなモンスターが、ギザギザがついた大きな手を振りかざしてきました。かいくぐって先へ進もうとしたのですが、攻撃が激しくてできなかったんです」
「だったら私の出番だね」
 アイリーが即座に反応して言った。昆虫系は火に弱いというのが定番だ。
「でもさ、クワガタみたいなモンスターと違って、カマキリなら剣でも攻撃が効くから、僕だって攻撃できるさ」
「アミカだって弓で攻撃できるもんね!」
「あたしだって本当は攻撃できるのよ? ただあたしに合う武器がないだけで」
「「違うから!」」
 シェレラはなぜか、自分は本当は打撃系の攻撃が向いていると思っている。ことあるごとに言い出すので僕もアイリーもすっかり慣れてしまって、息ピッタリのツッコミをアミカに披露してしまった。
 いったい何が起きたんだろう、といった感じのアミカだったけど、
「リッキ、手つないで。ころびそうだから」
「うん。いいよ」
 差し出した右手を、アミカはぎゅっと握った。手を繋いだことはこれまでにもあるけど、比べるとなんだか妙に力がこもっているような気がする。確かに地面はでこぼこだけど、そんなに歩きにくいのかな?
「シェレラ、抑えて抑えて」
 歩き出した僕たちの後ろで、アイリーが小声でシェレラに言ってるけど、どうしたんだろう?

「この辺りです。モンスターが襲ってきたのは」
 ビフィンの言葉に、僕は剣を抜いた。注意深く周囲を見回す。モンスターはまだ現れない。
 アイリーは杖を構えた。アミカも弓を手にしている。

 バサッ、バサバサッ。
 羽音が聞こえてきた。
「上だ!」

 頭上から巨大なカマキリが翅を広げて降りてきた。木の上に止まっていたのだろう。ただでさえ人間より大きな体のカマキリが翅を広げているから、とんでもなく大きく感じる。このまま飛びかかられては押し潰されてしまいそうだ。でもカマキリが大きすぎて逃げるのが間に合わない!
 アイリーが炎の玉を放った。攻撃を受けたカマキリは仰け反り、降りてくる軌道がずれた。さらにアミカが光の矢を放つ。腹を貫かれたカマキリの羽ばたきが止まった。さらにアイリーが追撃の炎を放つ。カマキリは前方の地面に激突するように墜ちた。横倒しになった体は、巨大な鎌の腕や脚、触覚の先をピクピクさせている。ろくに動けないようだけど、まだ生きている。僕はカマキリに駆け寄り、剣を振り下ろした。細い首が切断され、三角の頭が転げ落ちた。同時にカマキリは光の粒子となり消えていった。

「ビフィン、池がある場所は、もっと先なのかな?」
 この辺りに水場はない。剣を鞘に収めながら、ビフィンに確認する。
 ビフィンは呆然としていた。自分に重傷を負わせたモンスターを、僕たちがあっという間に倒してしまったからだ。
「ビフィン、池の場所は」
「あ、はい、まだ先です」
「わかった。じゃあもう少し、一緒に歩こうか。ビフィンは何も心配することはないさ、大丈夫だよ。モンスターは全部僕たちが倒すから」
 ビフィンに信用されること。それが今の僕たちには必要だ。ビフィンのためにモンスターを倒し、ビフィンのことを想う態度や言葉遣いを心がけなければならない。
 と、僕は考えているんだけど。
「ねえねえ、ビフィンは普段何をしているの?」
 アイリーが気さくに話しかけている。
 誰と話す時でも、アイリーはまるで友達かのように親しげに話す。交友関係の広さはそれが一因でもあるんだろうけど、NPCにも同じように話しているのは初めて見た。でもアイリーならやりそうだ。僕がソロプレイが多くてアイリーと一緒にいる機会が少なかったから初めて見たのであって、実際にはいつもNPCに対してこういう接し方をしているのだろう。
 NPCともPCと同じように話をしたり、PC以上に愛情を持って接したりする人もいるけど、僕はどうしてもNPCは人というよりゲームシステムの一部として考えてしまうんだよな……。
「ぼくは、普段は畑仕事をしています。馬も畑仕事をしたり、あとは荷車を引いたりしています。ひとりぼっちで暮らしているので、馬が家族のようなものです」
 風の馬が畑仕事や荷車を引いたりするのか? そもそもこの近くに畑なんてあったっけ?
 やっぱり、ビフィンは風の馬の存在を隠そうとして嘘をついているように思える。
 でもアイリーはビフィンを疑っていない。
「そっかー。私、馬って走ってるのしかイメージしてなかったよ。お兄ちゃん、ひょっとしたら風の馬も走っていないのかもしれないよ?」
「えっ? そ、そんなことあるか?」
 急に話を振ってくるなよ。
 僕はアイリーとは違って、ビフィンをクエストの攻略対象として見ている。なにげない日常会話をするつもりはない。会話のすべてが攻略だ。当然、聞かれてはまずいことは言わない。だから、急に話を振られると考えがまとまらずに困る。
 でも何か言わなきゃ。よく考えるんだ。
「だって、バイオリン職人のおじいさんが言ってたじゃないか。風の馬ってのは風のように草原を駆け抜ける馬だって。畑仕事なんかしてるわけないだろ」
「バイオリン?」
 ビフィンがやや戸惑い気味に僕を見つめた。
 すかさずアイリーが話しかける。
「うん。私たちね、バイオリン職人のおじいさんに頼まれて、風の馬の尻尾の毛を手に入れるためにここに来たの。この辺りの草原に風の馬がいるらしいって聞いて」
「……そうだったんですか」
 偶発的ではあったけれど、僕たちに風の馬を奪ったり傷つけたりするつもりはない、ということが自然な流れでビフィンに伝わった。
「ビフィンは、音楽は好き? バイオリンの演奏聞いたことある?」
「ぼくは音楽のことはよくわかりませんけど……。でも、きっと素敵な音色なんだと思います」
 ビフィンは風の馬の尻尾の毛をバイオリンの弓に使うことを肯定しているみたいだ。
 最初に風の馬のことを言った時とは違って、ビフィンの表情はずいぶんと穏やかになってきている。アイリーは攻略を意識しないで話しているはずだけど、ちょっとクリアに近づいたのかもしれない。

 僕たちはさらに森の奥へ進んだ。
 途中でまたモンスターが現れたけど、はっきり言って僕たちの力からすれば敵と呼べるほどではなかった。豚人間のクエストでも倒した樹人がまた現れたけど簡単に倒したし、リスのようなモンスターの集団に囲まれて爆裂玉に似た木の実を投げつけられた時はちょっと焦ったけど、僕たちのHPをゼロにできるほどの攻撃力ではなかった。
 このまま順調に進んで湧き水を手に入れれば、引き換えにビフィンから風の馬の尻尾の毛を手に入れることができるのかもしれない。
 でも、本当にこのままでいいのか?
 順調に進みすぎる。
 高額すぎる報酬に釣り合わない。

 疑問なら、すでにある。

 僕はパーティ用のメッセージウィンドウを開いた。

 Rikki: 何かおかしいと思わないか?

 直接話せばビフィンに聞かれる。それでは都合が悪い。

 Shelella: そうね。おかしいわ。
 Amica: うん。おかしいよ。

 Airy: えっ? 何が?

 不思議そうに僕たちの顔を見回すアイリーを、僕は苦笑いで迎えた。
 やっぱりアイリーだけがわかっていないのか。

 Rikki: じゃあ、ビフィンに話してみるけど、いいかな? 戦闘の準備に入って。

 シェレラとアミカがだんだん歩くスピードを落とした。自然と僕とビフィンが前に出る。それについて前に行こうとするアイリーを、シェレラとアミカが止めた。接近戦のタイプは僕だけだ。他の三人は離れて後ろにいたほうがいい。

 鬱蒼としていた森の頭上から、太陽の光が射してきた。
 この辺りの木は枝がなく、代わりに長いつるをはるか頭上から地面に向けて垂らしている。枝がないので、木々の間から簡単に青い空を見ることができる。足元に生えている雑草も、日光を浴びて少し丈が長い。

 僕はビフィンに話しかけた。
「ビフィン、池はまだ先なのかな? だいぶ森の奥に来たけど」
「もうそろそろ見えてきますよ」
 僕は一呼吸置いて、さらに言った。
「どうして正確な場所を知っているの? 行ったことないのに」

 一瞬、ビフィンの表情が固まった。
「それはどういうことですか?」
「言ってることの意味がわからないかな? そんなことはないと思うけど」

 僕はちらりと後ろを見た。遅れて歩いてくる三人との距離を測る。
 困惑しながらも歩き続けるビフィンに、僕はさらに話し続けた。
「だってそうだろ? 仮に以前、君がこの森に来たことがあったとしよう。あのカマキリにすら大ケガを負わされてしまうような君だ。君にはモンスターと戦う力はない。君は森にいるたくさんのモンスター全部と出会うことなく、出会ったとしても無事に逃げ切って、森の奥深くへ進んで、池にたどり着き、さらに帰り道も同じようにモンスターと戦うことがないまま森を抜けなければならない。
 そういう経験がなければ、君が池の正確な場所を知っているはずがない。でも、そんなことが本当にあったのだろうか? 考えられないだろ? そんな不自然なこと」
「な……何を言っているんですか? ぼくを疑っているんですか?」
「そろそろ正体を見せてもらおうか」
 僕は剣を抜いた。厳しい視線を突きつける。
「ま、待ってください。ほ、ほら、池が見えてきました。あれです」
「えっ!?」
 真横を歩くビフィンを見ていた僕は、視線を正面に戻した。ビフィンが慌てふためきながら前方をまっすぐ指差している。
 その先を見ると、確かに池があった。
 まさか……僕の勘違い?

 ビフィンと二人で池まで歩いて行った。
 とても澄んでいる、きれいな水だ。水面には僕の姿が映っている。なんとなく前髪に手をやって、仮想世界では髪型が崩れないことを思い出し、手を引っ込めた。
 水草が揺らめいているのが見える。これが薬草なのだろう。深さがあるのか、水草の根元のほうまでは見えない。
 なんだ。ビフィンは嘘を言っていなかったじゃないか。ちょっと考えすぎちゃったみたいだ。これは仮想世界のゲームなんだし、少しくらいの矛盾があっても問題ないのかもしれないな……。

 あれ?

 水面に映っている僕に、穴が開いた。小さな丸い穴だ。
 穴はどんどん増えていく。体のあちこちに、次々と穴が開いていく。
 どうなってるんだ?
 慌てて自分の体を見る。
 僕のあちこちに、小さな丸い穴が開いていた。
 そしてまた一つ、おなかに穴が開いた。
 何かが飛んできて、僕の体を通り抜けたんだ。
 前を見る。
 巨大なカエルが一匹、水面に浮かんだ葉っぱの上に乗っていた。
 カエルの頭の上にいるのは……ビフィン?
 なぜ? さっきまで僕の隣にいたのに?
 僕は右隣を、そして左隣を見た。誰もいない。
 また何かが飛んできた。僕の体の穴が増えた。
 もう一度前を見る。大ガエルの舌先が丸まり、水の弾を発射した。水の弾が僕の体を突き抜けた。なぜか当たった感触はない。
 HP表示がいつの間にかオレンジになっていた。
 そうか。僕は攻撃されたんだ。
 そう思っている間にも、水の弾が次々と僕の体を突き抜けていく。
 HP表示が赤になった。
 逃げなきゃ。
 でも体が動かない。足がもつれて、仰向けに倒れた。
「無駄だよ。この弾には麻痺効果があるから。当たっても認識することができないし、浴び続ければ体が痺れて動かなくなる」
 大ガエルの頭の上で、ビフィンが淡々と説明する。
 やっぱり、ビフィンは嘘をついていたんだ。
 大ガエルの舌が伸びた。舌先は僕に向かっている。僕を食おうとしているのだろう。

 僕は……、死ぬのか?

 僕に突き出された大ガエルの舌先が、ぐにゃり、と形を変えた。
 いびつに潰れた平面を、僕に見せている。

「まにあった!」
 小さな女の子の丸っこい声が聞こえた。
 アミカが防護壁(シールド)を張って、大ガエルの攻撃を遮断してくれていた。
「リッキ! 大丈夫?」
 僕の体に色白の右手がかざされ、人差し指に嵌められた指輪が白く輝く。
 シェレラの回復魔法が、僕のHP表示を赤からオレンジ、そして通常の黄色へと変えていった。体に開いた穴が塞がっていく。
「どういうことなの、ビフィン!」
 アイリーが大ガエルに乗るビフィンに呼びかけた。
「この子がたまには人間を食べたいって言うからさ。上手く騙せたと思ったんだけど、最後でバレちゃったね」
 大ガエルが防護壁に貼り付いていた舌を引っ込めた。アミカも防護壁を解いた。
「ビフィン……。すっごい優しいいい子だと思ってたのに、敵だったなんて」
 やっぱりずっとわかってなかったんだな。
「アイリー、そう思ってたの、アイリーだけだから」
 僕は立ち上がった。
「えっそうなの? 私だけ騙されてたの? お兄ちゃんはわかってたの? みんなも?」
「うん。さすがにさっきの攻撃は想定外だったけどね」
 僕がそう答えると、シェレラもアミカも首を縦に振った。

 ビフィンと出会った時に描いたシナリオは、完全に外れた。
 こうなってしまった以上、ここにいても仕方がない。
 僕は大ガエルの上のビフィンを睨みつけた。
「ビフィン、この勝負、そっちに勝ち目はない。なぜなら僕たちはもう」
「もうここに用はない、ただ引き返せばいい、とでも思ってるの?」
 ビフィンは笑みを浮かべながら僕たちを見下ろす。
 大ガエルの背後に、池の中から巨大な水球が出現した。さらにその下から水草がどんどん伸びてきて、水草に支えられた水球が空中に高々と掲げられた。
 水球の中にいるのは……馬? 白く透き通った馬が、白く淡く輝いている。四本の脚には水草が絡みついていて、動かせないようだ。
 まさか、あれが……。
「風の馬ならここにいるよ。戦うしかないよね? そうでしょ? さあ、戦おうよ」
 ビフィンの姿が変わっていく。
 肌の色は灰色にくすみ、目は釣り上がり、口は横に大きく裂け、ギザギザの歯を口の中から覗かせている。
 魔人だ。
 ただ、耳は魚のひれのようになっている。両手の指の間には浅く水かきがあり、指先は吸盤になっている。初めて見たけど、水棲の魔人なのだろう。
 純朴な少年のイメージは、全くなくなってしまった。
 でも、見た目もはっきりと敵らしくなったおかげで、気持ちとしてはむしろ戦いやすい。
 ビフィンは右手の指先を口に当てた。裂けた口が、器用に指笛を鳴らす。その旋律に合わせて、どこからともなくトンボや蜂、蝶や蛾が飛んできた。何十匹、何百匹――数えきれない数の昆虫の群れが、黒い雲のようになって空を埋めていく。
 いや、こいつらはただの昆虫じゃない。モンスターだ。

 ――ピッ!
 甲高い音が、空気を震わせた。
 指笛の号令に合わせて、昆虫のモンスターの群れが一斉に僕たちに襲いかかってきた。

 まずいな。
 僕はこいつらと戦えない。
 こんな小さなモンスターが相手では、剣士はまともな戦いができない。

 アイリーが炎の玉を放って爆発させ、虫たちを吹き飛ばした。アミカも空から炎の雨を降り注がせ、虫たちを焼き尽くした。炎の雨は大ガエルとビフィンの上にも降り注ぐ。大ガエルが大きく口を開き、シャボン玉のような巨大な泡を吐き出した。大ガエルの周囲が水の膜で丸く覆われ、炎の雨は水の膜に触れた途端に消えてしまった。
 虫たちの数が多すぎる。ちょっと攻撃したくらいでは全然減らない。虫たちはついに目の前まで迫ってきた。アミカは杖を構えた。杖の先から炎が噴射され、自分に迫る虫たちを焼き払った。今は広く炎の雨を降らせることより、目の前の虫たちをどうにかしなければならない。
「お兄ちゃんは下がってて!」
「アミカとアイリーにまかせて! リッキは出番が来るまで待ってて!」
 剣士なんだから本当は前に出てみんなを守らなければならないけど、この状況では魔法使いたちの言うことを聞くしかない。僕は後ろで待機だ。試しに爆裂玉を投げ込んでみたけど、このアイテムは衝撃が加わらないと爆発しない。爆裂玉は虚しく空を切り、池の中にポチャンと落ちた。

 大ガエルは水の膜を保つためか、僕を攻撃した水の弾を今は撃ってこない。
 その代わり、ビフィンが指笛を吹き続けている。昆虫のモンスターがどんどん森の中から集まり続ける。アイリーとアミカが頑張っているけど、いくら倒してもキリがない。
 炎の中をすり抜けて、虫たちが襲ってきた。トンボは噛み付いてくるし、蜂は針で刺してきた。一つひとつは大した攻撃じゃないけど、数が多いから意外とダメージを負ってしまう。蝶や蛾は鱗粉をまき散らしてきた。浴びると毒に侵されたり、吸い込んでしまうと睡眠効果が……
 あっ……やばいな、急に眠くなって……

「――リッキ! リッキ、しっかりして!」
 シェレラの回復魔法でステータス異常が治り、さらにHPも回復した。うっかり眠ってしまったみたいだ。気をつけなきゃ。
 アイリーとアミカもシェレラのおかげで無事だ。シェレラはさらに風を放った。空気を刃のようにして切り裂く攻撃魔法ではなくて、ただの風だ。でも虫を追い払うだけならこれで十分だ。僕たちにまとわりついていた虫たちが、風で遠くに追いやられた。

 僕以外の三人は、能力を生かして存分に戦っている。
 僕だけが、何もしていない。
 僕にできることがあるとすれば何だ?

 それはやっぱり、あの大ガエルを、そしてビフィンを直接攻撃することだ。
 でも、池は深いから歩いては行けない。
 ジャンプしても全然届く距離じゃない。
 だったら……。

「リッキ、押してあげようか?」
 僕が考えたことを、先にシェレラが言ってくれた。
 なんでだろう。僕が思っていることが、なぜかシェレラはわかっている。
 大事な時ほど、わかってくれている。
「うん。頼むよ」

 呼吸を整える。
 大ガエルを、その上にいる姿が変わり果てた魔人のビフィンを、しっかりと見つめた。
 シェレラが風を放つ。虫たちが飛ばされ、一瞬だけ道ができた。
「行くぞ!」
 僕は走り出した。
 アイリーとアミカの間を抜け、池のギリギリ手前でジャンプした。
 宙に浮いた瞬間、猛烈な追い風を背中が受けた。
 シェレラが魔法で吹かせた風だ。虫を追い払った時よりも、何十倍も強い風だ。体がバランスを崩しそうになるのを必死でこらえ、僕は剣を抜いた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
 僕は剣を真下に向けた。大ガエルを覆う水の膜に剣先が触れ、水の膜がはじけ飛んだ。水飛沫を全身に浴びながら、僕はそのまま落下する。大ガエルの背中に飛び乗ると同時に、剣を深々と突き立てた。
「なっ……?」
 なんの抵抗もない。
 根元まで滑らかに突き刺さった剣を、引き抜いた。やはりなんの感触もない。
 剣が刺さっていた部分に開いていた穴は、周囲の粘膜が覆い、そして消えた。
 僕は何度も何度も剣を突き立てた。大ガエルの背中に、いくつもの穴が開く。でもその穴はすぐに周囲の粘膜が覆って塞いた。今はもう傷跡すらない。
「無駄だよ」
 ビフィンが振り向き、魔人の姿で冷たく言い放つ。
「どんなに鋭い剣でも、この子を斬ることはできないよ。この子はとても柔らかいから、斬られることなく剣を受け入れられるし、開いてしまった穴も粘膜ですぐに治せるしね」
 悔しいけど、ビフィンの言う通りのようだ。
 でも、まだ手はある。
「だったらビフィン、お前を斬ればいい」
 僕は落ち着いて言い放った。

 今は水の膜がない。
 大ガエルが水の弾を撃った。アイリーの体に小さな丸い穴が開いた。すかさずシェレラが回復魔法をかけ、穴が塞がった。大ガエルは次々と水の弾を撃った。アイリーとアミカだけでなく、後方に控えるシェレラの体にも、いくつも穴が開く。アミカは目の前の虫に対応するので精一杯で回復魔法を使えない。シェレラだけが必死に回復魔法をかけ続けている。

 ビフィンは僕と向かい合っていて、地上の三人には背中を向けている。剣を構える僕に集中しなければ、斬られてしまうからだ。
 ビフィンは指笛を吹いた。さっきまでとは違う音色だ。
 すると、池の中から水草が勢いよく伸びてきて、僕に絡み付こうとした。僕は水草を斬り払った。でも水草はビフィンの指笛に合わせて次々と伸びてきて僕を襲う。僕も次々と水草を斬り続けた。
 とてもじゃないけど、ビフィンを斬るどころじゃない。
 でも、これは僕たちにとって、好都合だ。

 ビフィンが指笛を吹いているのは、水草を操って僕を攻撃するためだ。
 だから、もう虫たちは集まってこない。
 アイリーとアミカは、虫たちを退治し終わった。
 でもビフィンは、それに気づいていない。

 水草が僕を襲い続ける。
 ビフィン、そのまま僕を見ていろ。僕に集中しろ。僕を攻撃し続けろ。
 虫たちがいなくなったことに、空を遮るものがなくなったことに、気づくんじゃない。

 アミカが右手を上に伸ばして、呪文の詠唱を始めた。
 アミカの攻撃に備えて、大ガエルが口を大きく開いた。また、周囲に巨大なシャボン玉のような水の膜が張られていく。
 呪文の詠唱を聞いたビフィンが、空を見上げた。
「その攻撃は通用しないってことが、まだわからないの……」
 ビフィンの言葉が、口を開けたまま、途中で止まった。

 空の一点が、小さくキラリと光った。
 光は少しずつ大きくなって、そして。

 水の膜が、割れた。

 次の瞬間、大ガエルの開いた口の中に、真上から光の矢が突き刺さった。
 大ガエルが低い声で絶叫する。
 続けて炎の塊が、雨として散ることなく塊のまま落ちてきて、水の膜を失った大ガエルを襲う。大ガエルは池の中へ逃げようとしたけど、光の矢が乗っている葉っぱごと口を貫いていて、葉っぱから降りることができない。炎の塊は大ガエルに直撃した。大ガエルのさらなる絶叫が森に響き渡る。
「これも食らえ!」
 アイリーが大きく開いた大ガエルの口に向けて、特大の炎の玉を放った。アミカが呪文を詠唱している間、ずっと力を溜め続けていたのだ。
 光の矢が邪魔をして、大ガエルは口を閉じることができない。炎の玉は大ガエルの口に飛び込み、爆発した。大ガエルは全身を飛び散らせながら光の粒子となり、消滅した。

 大きな葉っぱの上に、僕とビフィンが残った。
 ビフィンは僕を見て震えている。足が震えて立てないのか、お尻をペタンと葉っぱにつけたまま後ずさっている。
「ま、待ってくれ。風の馬はあげるから、だから許――」
 最後まで聞くことなく、僕は魔人の姿のビフィンを串刺しにした。
 一撃でビフィンは光の粒子となり、消えていった。

  ◇ ◇ ◇

「お兄ちゃん、掴まって!」
 アイリーが木のつるをロープ代わりに投げ込んだ。しっかりと握ると、三人が葉っぱに乗った僕を岸まで引っ張ってくれた。
 僕は葉っぱから降りた。
「勝ったね。みんなの力で勝った」
 僕の言葉に、みんなも頷く。
「ビフィンが僕のほうを向いている間に虫がいなくなって、アミカが空に矢を放っただろ? それを見て勝ったと思ったよ」
 もし一直線に光の矢を放っていたら、大ガエルが水の弾ではじき返していたかもしれないし、それによってビフィンが気づいてしまっていたかもしれない。炎の塊を炸裂させるためにフェイントで光の矢を使うというのは、アミカの好判断だった。
 僕はアミカの頭をなでた。薄紫色の髪がいつもふわふわで、とても気持ちいい。
「でも、シェレラのおかげだから」
 なでてあげるといつも嬉しそうににやけるアミカだけど、今は真面目な表情だ。
「アミカが攻撃に集中できたのはシェレラがずっと回復魔法をかけてくれていたおかげだし、リッキをカエルの背中に運んだのもシェレラだし、シェレラがいなかったら勝てなかった」
 アミカにそう言われて、シェレラの頬が少し赤らむ。
「あたしはサポート担当だから、あたしがするべきことをしただけのこと」
 淡々と話すシェレラの両腕が少しずつ、宙を泳ぐように前に出ていく。
「でも、そう言われると嬉しいわ。それにアミカちゃん、とってもかわいいし!」
 獲物を捕らえるように、シェレラの両腕が伸びた。アミカを抱きしめようとした両腕は、しかし、空を切った。
 アミカは素早く捕獲から回避し、僕の背後に回っていた。
「アミカ、死にたくないから」
 アミカは僕の背中を掴んで離さない。
 アミカを抱きそこねたシェレラの両腕は、また宙を漂い始めた。
 そして、
「リッキ、やったね!」
 なんで僕を抱きしめる!?
「あーっ、シェレラ、ずるい!」
 アミカも背中から僕を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、二人とも! お、おい、アイリー、なんとかして――」
「あーあ。あのカエルにトドメを刺したの、私なのになー。いいなーお兄ちゃん」
 アイリーはいじけて小石を軽く蹴った。見るからにわざとらしいけど。
 もう覚えた。このパターンの時、アイリーは全然役に立たない。
 自力でどうにかしなきゃ。
「シェレラ、アミカ、まだ大事なことが残っているから」
 僕は必死に二人を振りほどいた。

 高く聳えていた水草が、ゆっくりとこっちに向かって曲がり始めた。
 その先端にある水球が、僕たちの前に降りた。
 役目を終えた水草は、池の中へと帰っていった。
 水球も霧のようになり、そして消えた。

 白く透き通った馬が、優しい瞳で僕たちを見ている。

 ――助けていただいて、ありがとうございました。

 落ち着いた女性の声が、脳に直接聞こえてくる。少しだけエコーがかかっている。
「私の名はクハージャ。皆は私のことを風の馬と呼んでいます」
 目の前にいる馬が、僕たちに語りかけている。
 風の馬ってメスだったんだ。いや、声を聞く限りは、大人の淑女だ。

 ――草原を自由に走っていたら突然虫の大群に取り囲まれ、囚われの身となってしまいました。あなたたちが助けてくれたおかげで、私はまた自由に草原を走り回ることができます。私はあなたたちにお礼をしなければなりません。何か望みはあるでしょうか?

 ついに、この時が来た。
「僕たちは、バイオリ……」

「あのね、クハージャ。私たちバイオリンの」
「その、ふわふわのしっぽの毛を」
「おじいさんのお願いで、それで」

 ああもう! なんでみんないっぺんに言うんだよ!

 ――わかりました。

 クハージャの声が脳内に響く。
 わかったの? 今ので? すごいな。風の馬って。

 クハージャの尻尾が、ふわりと浮いた。と同時に、一気に二倍の長さになっていく。
 次の瞬間に振り下ろされた尻尾は、もう元の長さになっていた。

 ――受け取ってください。

 僕たちの足元で、白く透き通った長い毛の束が一房、仄かに白い光を放っていた。

 ――では、私は草原に帰ります。

 クハージャは歩き出した。
 でも、どこかたどたどしい。

 ――水草に強く絡みつかれて、脚を痛めてしまったようです。

 そう言うと、池の水に脚先を浸し始めた。
 目がトロンとしている。気持ちいいのだろう。
 意外にも、池の水が馬のケガに効くということだけは、本当だったみたいだ。

  ◇ ◇ ◇

「おお、これぞまさしく風の馬の尻尾の毛だ。ありがとう」
 僕たちは工房に戻り、バイオリン職人のおじいさんに手に入れたものを渡した。おじいさんは毛を手に取ると僕たちに感謝し、そして
「では、報酬を支払おう」
 視界の上部にクエスト完了を知らせるウィンドウが開いた。電子音が音楽を奏で、報酬が振り込まれた。視界の右上に表示されているシルの数字がどんどん増えていく。これまで見たことがないような、大きな数字だ。
 こんな大金、どうしよう。何に使おう。
「アイリー、このお金、どうしよう? シェレラはどうする? アミカは……アミカ?」
 工房の奥に置かれたピアノ。
 バイオリン工房なのに、なぜか立派なピアノがある。
 アミカはそのピアノの前に立っていた。
「お嬢さん、そのピアノが気に入ったのかい?」
 おじいさんがアミカに話しかけた。
「わしの父はピアノ職人だった。そのピアノは父が最後に作ったピアノでね。父はずいぶんと高い値をつけた。おかげで誰も買わず、わしの手元に形見として残ってしまった。もしかしたら、最初からそのつもりだったのかもしれない」
 おじいさんの話を聞いているのかいないのか、アミカはピアノをじっと見つめている。
 アミカは鍵盤の蓋を開けた。
「ダメだよアミカ! 勝手に触っちゃ!」
 僕が言うことも無視して、アミカは椅子に座ると、鍵盤に両手の指を添えた。
 ゆっくりと、ピアノが優しい旋律を奏で出した。

 そうか、アミカは――いや、玻瑠南はピアノを習っていたんだっけ。
 体は仮想世界のアバターでも、脳だけは現実の脳だ。現実世界で覚えたことは、たとえアバターでは未経験だったとしても、脳がアバターに経験を伝えることができる。
 僕だけでなく、アイリーもシェレラも、おじいさんもアミカの演奏に聴き入っていた。

 演奏のスピードが、少し速くなった。
 と思ったら、不協和音が鳴り、演奏は終わった。

「しっぱいしちゃった」
 アミカがぽつんと呟いた。

「アミカがこんなにピアノが上手いなんて知らなかったよ。アミカ、すごいんだな」
 ピアノの演奏なんて、学校の音楽の授業で先生が弾いているのくらいしか聴いたことがなかったから、アミカの演奏は新鮮だったし、本当に上手で驚いた。
「そんなことないよ」
 アミカは椅子に座ったまま、またぽつんと呟いた。両手の掌をじっと見て、何か考えこんでいる。一回ミスをしたのがそんなに悔やまれるのだろうか。
「ちょっと失敗しただけじゃないか。そんなの全然気にならないって。僕はもっとアミカのピアノを聴きたいよ」
「うん。私もアミカのピアノを聴きたい。そうだ! 今度私がコンサートやる時、アミカがピアノ演奏してよ! あーでもピアノの曲なんてないしなー。どうしよっかな……」
 アイリーがアミカの意見を全く聞かないまま、勝手に真剣に悩んでいる。
「あのなあアイリー。アミカ自身がアイドルだってこと、忘れてるだろ」
「あっそうか! そうだよね! そっかー、それじゃ無理だね。しょうがない、諦めよう」
「ごめんねアミカ。アイリーが変なこと言って」
 アミカはまだ、自分の掌を見つめている。

「ねえおじいさん」
 アミカは顔を上げ、椅子から降りた。
「このピアノ、いくら?」

   ◆ ◆ ◆

 アミカにとっては、ただ単に四人の力と比較して選んだクエストだった。
 ピアノが欲しかったのなら、そもそもバイオリン工房なんかに来ていない。バイオリン工房なのにピアノが置いてあったのは、ただの偶然だった。
 しかし、この四人で初めてクエストに挑んで、そしてクリアした場所にピアノがあるということに、何か不思議な力に引き寄せられたような気持ちを、アミカは感じていた。
 だから、思い切って尋ねてみた。
 ただ、父の形見であるピアノを、簡単に手放してくれるのだろうか。高い値をつけたと言っていたけど、いったいどのくらい高いのだろうか。アミカにはそれが不安だった。

 バイオリン職人の口が開いた。
「そうだな。老いたわしより、ピアノが好きな若い者のそばに置いておいたほうが、ピアノも喜ぶだろう。このピアノはお嬢さんに譲ろう。なに、金ならいらん」
「ほんとうに? ほんとうにいいの?」
 言ってみるものだ。
 アミカだけでなく、リッキたち全員が驚いている。
「ただ……」
 老人は言葉を続けた。
「父には弟子がいて、今もピアノを作っているのだが……。最近、材料がなかなか手に入らないと嘆いていてのう」
(また、楽器の材料か……)
 もともと高額を覚悟で買いたいと言ったくらいだから、多少の条件をつけられることは、アミカは気にならなかった。でも、
(私のわがままに、リッキたちを巻き込むことはできない)
 一人で解決できないような条件なら、素直に諦めるつもりでいた。
「希石を探しているのだそうだが……ただの希石ではなくてな。白の希石と黒の希石、形はなんでもいいのだが三つずつ必要なのだそうだ。すまんが、用意してはくれぬか」
「白と黒? みっつも?」
(レア希石か……。時間をかけて頑張れば一人でもなんとかなるかな)
「おじいさん、いまは持ってないけど、あとでかならず持ってくるから、だから」
「希石ならあるよ」

 ――えっ?
 アミカは声がした方向に振り向いた。

「ほら。白と黒」
 リッキの左手に、白と黒の希石が一個ずつ乗っている。
「え……、でも……」
 続けてアイリーとシェレラが右手を差し出した。リッキと同じように、白と黒の希石が一個ずつ乗っていた。
「いいの? ……じゃなくて、ダメだよ、そんなの」
「なんでダメなんだよ」
 リッキが不思議そうな顔をした。
「僕はアミカのピアノを聴きたいんだ。だからさ、いいだろ? これで」
「そうだよアミカ。私だってアミカにピアノを弾いてもらいたいもん」
 アイリーが頷く。
「あとはあたしがアミカちゃんをぎゅっと抱きしめれば完璧ね!」
 シェレラが優しく微笑む。
「シェレラ! アミカがかわいいのはわかるけど、それはもう諦めて」
「むぅ~っ」
 リッキに注意されて、シェレラは頬を膨らませている。

「もらっていいの? ほんとうに、ほんとうにもらっていいの?」
 自分の心を落ち着かせるために、アミカは念を押して言った。
「もちろんだよ。さあ、受け取って」
 リッキが希石が乗った左手を伸ばす。
 アミカも右手をゆっくり伸ばした。
「あ、ありがとう」
 アミカはリッキの希石を、続けてアイリーからも希石を受け取った。
 そして、シェレラからも――。

 アミカは、シェレラと“初めて”会った時のことを思い出していた。
 シェレラと会った時、あくまでもアミカとして振る舞った。リッキもアイリーも、正体を知っても変わらず自分のことをアミカとして見てくれていたからだ。
 いきなり抱きしめられるなんて、全く想像できなかった。現実世界ではこんなことはありえない。
 シェレラもまた、自分のことをアミカとして見てくれていた。

 そして一緒に行動をして、わかったことは。
 シェレラが、リッキにとって、とても近い存在だということ。
 現実世界と同じように。

 自分も、あんなふうになれるのだろうか。
 でも、そうなるためには、二人の間を崩して、割って入って……。

 いや、私たちは、そんな関係じゃない。

 アミカは、シェレラの手から、希石を受け取った。そして、
「シェレラ……ぎゅって、してもいいよ」
 シェレラの両眼が大きく開いた。
「だって、シェレラは、アミカのたいせつな仲間だもん」
 シェレラは両手で口を覆った。
 大きく開いた両眼が潤んでいる。
「ア、アミカ、僕たちは、アミカがピアノを弾きたい時に弾ければ、それでいいんだ。だから、希石のお礼とか、そういうの考えなくていいから……」
「アミカちゃん! 大好き!」
 リッキの心配の言葉を遮り、シェレラはアミカを抱きしめた。

  ◇ ◇ ◇

 僕は慌てた。
「シェレラ! 離して! アミカが死んじゃう……」
 と思ったけど、よく見たら、シェレラはそんなに力を込めて抱きしめてはいなかった。
 アミカも正面からシェレラの胸に顔をうずめることはなく、少し横を向いている。とりあえず呼吸は確保できているようだ。
 アミカは……完全にシェレラに体を預けている。目は半開きで、顔は少し赤らんできている。
「シェレラ、あったかい……ふわふわ……」
 苦しいというより、むしろ、うっとりしている……?
「どうしたのリッキ、そんなにじっと見て……。そっか、リッキも抱きしめてほしいのね。うん、わかってる。あとで二人っきりでね」
 シェレラはいつものように優しく微笑んだ。
「わかってないだろそれ!」
 僕はちょっと後ずさりながら、大声で叫んだ。
 アミカがシェレラの腕をすり抜けた。距離を取り、シェレラをキッと睨みつける。
「シェレラ! 仲間だと思ったけど、やっぱり仲間じゃない!」
 アミカはビシッと右腕を伸ばし、ぴんと張った人差し指をシェレラに向けた。

「ライバルだから!」

しおり