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第四章 火花

 ソフォイダン公園。
 アミカは両足を前に投げ出して、芝生の上に座っていた。
 その横には、風邪が治ったばかりのアイリー。三日ぶりの再会だ。アイリーも同じように、芝生の上に足を投げ出している。
「今日さ、お兄ちゃん来れないのよ。さすがにテスト勉強しないとヤバいみたいでさ。朝から勉強してるの。さっきも朝ごはん食べ終わって、またすぐ勉強してたし」
 ごめんね、と申し訳なさそうにアイリーは話した。
「うん。わかってる。きのうログアウトする前にリッキが言ってたから。いっぱい遊んでもらったから、だいじょうぶだよ」
 アミカには罪の意識があった。
 自分の欲望のままにリッキを連れ回したせいで、テスト勉強するはずだった時間を奪ってしまった。そのせいで成績を落とすようなことになったらどうしよう。
 私が悪いんだ。私のせいで。
 そう思わずにはいられなかった。
 自然と、隣に座っているリッキの妹のことも気になる。
「アイリーもテストがあるんじゃないの?」
「あー、いいよ私は。なんとかなるって。それより何して遊ぶか決めようよ」
 いつもと変わらない様子で、アイリーはアミカに話しかける。
 アイリーと会う前、アミカの心は不安に埋め尽くされていた。
 リッキは絶対にアミカの正体を明かさないと約束してくれた。でも妹のアイリーになら、もしかしたら言ってしまったかもしれない。そうだとしたら、アイリーはいったいどんな態度に出るのだろうか……。
 しかし、アイリーはこれまでと何も変わりがない。
 アイリーは何も知らないんだ。
 リッキは約束を守ってくれている、それだけでアミカは嬉しかった。
 アイリーは本当に勉強しなくていいのかアミカは心配だったが、向こうから遊ぼうと言ってくれているのを無下に断ることもできない。
「うーんとねえ……そうだ、あの人、会えるかな?」
 アイリーのブログに画像が載っていた、あの人のことが気になっていた。
 アミカと出会う前、リッキとアイリーは数日間続けてその人と遊んでいた。戦闘では後方で回復魔法を担当している、文字通り癒し系の女の人。胸が大きくて、少し大人っぽい感じがする。ナオと同じくらいの年齢なのかもしれない。大学生だろうか。
 アミカが説明をすると、
「ああ、シェレラね」
 アイリーはまた申し訳なさそうな顔になった。
「実はさ、お兄ちゃんは今シェレラに勉強教えてもらってるの。だから今は会えないよ」
(リアルでも知り合いなんだ……。勉強を教えているってことは、やっぱり大学生? 沢野君が女の人と二人っきりで……)
「シェレラはかていきょうしなの?」
 探りを入れてみた。
「違うよ、家庭教師じゃないよ」
 アイリーは苦笑いした。
「シェレラはね、リアルで家が隣なの。だからお兄ちゃんは勉強がわかんなくなると、よくシェレラに家に来てもらって教えてもらってるの」
(そういうことか……、って、え、と、隣の家? ってことは、まさか?)
 アミカは急いで右手の人差し指を空中で動かした。
 フレンドリストからアイリーのプロフィールを開き、そこからブログを開く。画像の中のシェレラの姿を、脳内のイメージで少しずつ、去年クラスメイトだった、名簿順がひとつ後ろだった女子に近づけていった。
(ま、松川、さ……ん…………?)
「お兄ちゃんが言うには、教え方がすごい上手らしくってさ。いつも助かってるみたいだよ……って、アミカ、どうしたの? なんで固まっちゃってるの?」
「う、うん、な、なんでも、ないよ。そ、そうだ、アミカも勉強しようかな。じゃあ、ま、またね」
 再びアミカは急いで指先を動かす。
 メニューアイコンを開き、最下段の「ログアウト」を選択すると、アイリーの前から姿を消した。

   ◇ ◇ ◇

 いつものように食パンとサラダだけだから、片付けるのは簡単だ。
 朝食が片付いたリビングのテーブルの上に問題集とノートを広げ、僕は隣に座っている智保から勉強を教えてもらっていた。テスト前になるといつも勉強を教えてもらって、智保にはいくら感謝しても足りないくらいだ。智保自身の勉強もあるだろうに、と思うのは僕のような一般人らしい心配で、智保の言葉を借りると「テスト前だからって勉強しているようじゃ本当はダメなのよ」ってことらしい。でもいつものシェレラの活躍っぷりから考えると、普段からたくさん勉強をしているようには思えない。やっぱり智保はただの天然じゃなくて、特殊な何かを持っているとしか思えない。
 七月になって最初の土曜日。梅雨はまだ続いているけど、今日は雨雲はお休みだ。窓から射していた朝の爽やかな太陽の光は、時間が経つにつれもう真夏なのではないかと思わせるほど激しくなってきている。

 スマートフォンが聞き慣れた電子音を鳴らした。
 まさかまたパーティに誘おうってのか? いくらなんでも今日は絶対に行かないからな。

 Amica: 今から行く

 え? どういうこと? アイリーからじゃなくてアミカから?
 僕がログインしていないことは当然わかっているはずだ。今日はリュンタルには行かないということはアミカには言ってあるし、それにフレンドリストを見れば、ログインしているかいないかはすぐにわかる。それなのに「今から行く」っていうのはどういうことなんだろう?
「どうしたの? 誰から?」
 困惑している僕を見て、智保が不思議そうに尋ねた。
「アミカだよ。あれから毎日一緒にいたからさ、今日も一緒に遊びたいのかもしれないけど、さすがに今日は無理だね」
 智保にスマートフォンの画面を見せながら答えた。
「アイリーのブログ見たけど、アミカちゃんかわいいよねー。リッキをお兄さんだと思って懐いちゃったのかな? だってアイリーがいなくても二人で一緒に遊んでたんでしょ?」
「うん、そうだね、そうなのかもな」
 智保はアミカが年下の幼い女の子だと思っているみたいだ。智保だけではなく、きっとみんながそう思うのが自然だろう。この状況が続いてくれれば、僕としてもごまかしやすくなって助かる。
「ねえねえ、アミカちゃんと何をしていたの?」
「え、何って、一緒に戦ったりとか」
「とか?」
「いや、とかって言うか……戦っただけだけど」
「本当に?」
 なんでこんなにしつこく訊いてくるんだ?
「うん、戦って……それだけかな」
 さすがにそれ以外のことは言えない。
「本当にそれだけ? だって、リッキがどこかの女の子と二人でいるなんて、初めてじゃない?」
「ちょっと待って? 何かおかしな方向で考えてない? さっき智保も言ってたじゃないか。アミカにとって僕はお兄さんみたいな存在で」
「だってアイリーとデートしたじゃない。だったらアミカちゃんとデートしてもおかしくないよね?」
「うっ……」
 これってひょっとして、智保は何か勘づいているのか? 牧田に言われたように、自分が意識しないところで何か情報を漏らしてしまったのか? それともいつもの天然っぷりを発揮しているだけ?
「と、とにかくさ、今は勉強しようよ。なっ?」
 冷や汗タラタラの僕に、智保はどことなく冷たい笑顔を見せつけている。
 微妙な間が開いた。
「えーっと、どの問題を解いていたんだっけなー。ははは」
 僕は無理矢理テーブルの上の問題集と向き合った。
「この問題ね。これはね……」
 智保も勉強に戻ってきてくれた。助かった。
 今日はリュンタルのことは忘れて、勉強に集中しよう。

 それから十分くらい、時間が過ぎた。

 愛里がリビングに入ってきた。
 なんだかあまり元気がない。まだ風邪が治りきっていないのだろうか。
「あれ? リュンタルに行ってたんじゃなかったのか? まだ具合が悪いなら寝てたほうがいいぞ。それともついに勉強する気になったとか? だったら勉強道具こっちに持ってきて智保に――」
「うん、そのことなんだけどね」
 愛里は立ったまま話し続ける。
「シェレラがリアルで家が隣ってこと、別に隠してないよね?」
「うん、隠してないよ」
「あたしも隠してないわ。普通に言ってる」
「だよね……」
 愛里はちょっと俯いている。やっぱり元気がない。
「さっきね、アミカと一緒にいたんだけど、シェレラがリアルで家が隣だとか、お兄ちゃんが勉強を教えてもらっているとか言ったら、急に様子がおかしくなって落ちちゃったの。何かまずいこと言っちゃったのかなと思って。お兄ちゃん心当たりある?」
 心当たりがありすぎる。
 まずいって、それ。
 もしかしてさっきの「今から行く」って、まさか。
 ――ピンポーン
 玄関のチャイムが鳴った。
 愛里を押しのけ、リビングのドアをバタンと閉め、廊下を数歩走り玄関まで行く。
 おそるおそる、少しずつドアを開く。
 明るい日差しとともに徐々に見えてくる、牧田の顔。いつもと違って眼鏡をかけている。その向こうから覗く切れ長の目が、鋭く僕を見つめる。
「お邪魔していいかしら?」
 僕の返事を聞くことなく、牧田はドアを大きく開くと家の中に入ってきた。
「ちょ、ちょっと待って」
 僕は囁くような声で牧田を制止した。
「さっきのアミカのメッセージ、智保も見てるんだよ。今来ちゃったら牧田さんがアミカだってバレちゃうから」
 そう言いながら一瞬だけ、リビングがある方向をつい振り向いてしまった。
「そっちの部屋ね」
 牧田は僕の制止などお構いなしに、靴を脱いで廊下を進む。
「ちょ、ちょっと待てって」
 慌てて僕も追う。でももう止めようがない。
 何もためらうことなく、牧田はリビングのドアを開けた。
 そのままの勢いで、ずかずかとリビングの中に入っていく。
 その背中を追いかけて、僕もリビングへと入る。
 牧田は座っている智保を冷たく見下ろしている。
「牧田さん、お、落ち着いて」
 僕は牧田の正面に体を入れた。
 そして振り返り、座っている智保を見る。最初の一瞬だけ戸惑っていたようだけど、すぐに優しく微笑んで牧田を見上げた。
「あら、こんにちは牧田さん。まさか立樹の家で会うとは思わなかったわ。それとも……」
 優しく微笑んだままの智保のこめかみがピクピク震えている。
「初めまして、って言ったほうがいいかしら?」
 うわあ。
 当たり前だけど、完全にバレてる。「初めまして」は、シェレラとしての、アミカへの挨拶だ。
「えっ? 何? どうなってるのこれ」
 愛里だけが状況をわかっていない。何度も顔を左右に往復させ、牧田と智保の顔を見ている。二人がぶつけあう視線の火花を感じ取っているのか、少したじろいでいるようにも見える。
 牧田がテーブルの上のノートに目をやった。
「沢野君の成績が落ちたら私の責任だから。私が教えてあげる」
「あ、あの、牧田さん、僕は」
玻瑠南(はるな)って呼んで」
「え? えっと、は、玻瑠南、さん」
「いきなりやってきて、何を言い出すのかと思ったら」
 智保が立ち上がった。優しい微笑みの表情ではなかった。ふてぶてしいとも思えるような自信満々の顔をして、ニヤリと笑った。
「牧田さんに立樹の何がわかるというの? あたしはこれまでずっと立樹に勉強を教えてきていたから、立樹が何をわからないのか、どんな問題なら解けるのか解けないのか、ちゃんと把握できているけど? それがわからない牧田さんが、いったい何を立樹に教えられるというの?」
「くっ……」
 二人の視線がさらに強烈にぶつかる。
「二人とも、ちょっと落ち着いて。とにかく落ち着いて。ほ、ほら、愛里も困っているだろ」

   ◇ ◇ ◇

「お兄ちゃんごめんっ! まさかアミカの中の人がお兄ちゃんのクラスメイトだとは思わなかった!」
 愛里は顔の前でパチンと手を合わせ、頭を下げた。
「いや、しょうがないって。僕も昨日知ったばかりなんだし」
 テーブルには僕の右側に智保、ドアに最も近い、僕の正面にあたる席に牧田、その隣、つまり僕から見ると右斜めに愛里が座っている。とりあえず勉強道具は片付けて、代わりにオレンジジュースとクッキーがテーブルの上に置かれている。ただ、まだ朝食の時間からそれほど経っていないこともあり、クッキーはそんなに減っていない。
「それにしても……」
 愛里は隣の牧田の姿をまじまじと見つめている。
「いいのよ、何を言っても。呆れたでしょう? アミカの正体がこんな人間で」
 今の牧田は力みが抜けてサバサバしている。さっきまであった殺気のような鋭さは、もうない。
「えっとね、ハルナ、安心して。詳しいことは言えないけど、私ギャップのある人には耐性できてるから。だから全然変だとは思わない。それに、ハルナがアミカの中の人だってことも、絶対誰にも言わないから」
 この「ギャップのある人」っていうのは、もちろんお父さんのことだ。でも牧田はそんなこと知るはずもない。アイリーの広い交友関係の中にはそういう人もいるのだろう、だから慣れているのだろう、くらいに思っているかもしれない。
「それにね、ハルナ。私ハルナみたいな体型、すごい羨ましい。私もなりたいけど、一年後にこんな体になってる自信なんて全然ないもん」
 なれないに決まってるだろ。憧れているのは知っているけど。
 そういえば牧田の私服姿を見るのは初めてだ。体にフィットした薄い茶色の長袖Tシャツに、細めのジーパン。ストレートな長髪も相まって、スラリとした長身がさらに目立つ。眼鏡は……伊達なのだろうか? よくわからない。
 比べちゃいけないとは思いつつ、右を向く。ゆるふわな服を着た智保が、歯形がついたクッキーを手にしていた。うん。比べちゃいけない。
 牧田はちょっと照れて笑っている。
「でも私、あんまり自分の体好きじゃないのよ。小さくてかわいい体が欲しかった。アミカは私の理想なの。愛里ちゃんも私も、無い物ねだりをしているのね」
「でも……そうだ、お兄ちゃん! お兄ちゃんからも言ってよ! 背が高くていいところ! 例えばさ、ほら、高い所の物を取るとき便利とか」
「愛里までそれ言うのかよ」
「だって……」
「まあ、それは確かにそうなんだけどさ」
「沢野君は背が高くていいのっ!」
 牧田が割り込むように早口で言った。
「沢野君がそばにいると、私の背の高さがごまかせるし、その、ごまかせるっていうか、沢野君がそばにいてくれると安心するっていうか、背の高さとか、そういうのじゃなくって、ほらアミカもリッキがいてくれると心強いし楽しいし、リッキと沢野君って似てるし、似てるしっていうか本人だしそのままだし、私沢野君がいてくれると」
「ちょ、ちょっと落ち着いて、牧田さん、落ち着いて。言ってることが文になってないって」
 顔を赤らめて早口で言葉を放ち続ける牧田を、両手の掌を向け抑えるしぐさをしながら制止する。
 牧田は止まってくれなかった。
「沢野君、また私のこと苗字で呼んでる。愛里ちゃんは玻瑠南って呼んでくれているのに……そうだ、私が沢野君のことを立樹って呼べばいいのね。そうよね立樹、ねえ立樹」
 テーブルに身を乗り出し、眼鏡をかけた顔をぐいっと近づけて、僕の名前を呼ぶ。
 パキッ、という音がかすかに聞こえた。
 迫ってきた牧田から逃れるように、音がした右側に顔を背けた。智保がこっちを向いている。真正面から目が合ってしまった。右手にあったクッキーは粉々に砕けて、テーブルの上に散らばっている。いつものように優しく微笑んでいるけれど、怖い。これは怖い。
 なんだかちょっと震えてきてしまった。
 二人の顔を、交互に見る。
「あ、あの、智保も、それと、牧田さ」
「玻瑠南」
「は、玻瑠南さんも」
「呼び捨てでいいから」
「は、は、玻瑠南も、れ、冷静に、お、おい愛里、愛里からも何か言ってくれよ」
「お兄ちゃん、私も実はお兄ちゃんのことが……」
 愛里は目を潤ませて僕を見つめている。
「あ、愛里!? お前まで何言ってるんだ!?」
 僕だけではなく、牧田も智保も目を見開いて振り向き、愛里を見つめた。
「……なーんてね」
 愛里はおなかをに手を当てて、クックッと笑っている。
「ごめん、からかうつもりはなかったんだけど、お兄ちゃんが免疫なさすぎて見てらんないから、今日のところは智保もハルナも引いてあげて? ね?」
 呆然と愛里を見続ける二人。
 やがて、
「……わかったわ。ここは私から下がるべきね。元はといえば私がいきなり押しかけてきたせいでこんなことになっちゃったんだし。愛里ちゃんにも迷惑かけちゃったね」
 身を乗り出して僕に迫っていた牧田が、椅子に座った。
 ふー。助かった。
 ドッと力が抜ける。
 愛里はあんなこと言っていたけど、牧田の気持ちは僕にはちゃんとわかっている。ただ僕がそれをきちんと受け止められないでいるだけなんだ。でも隣に智保がいる状況でまさかこんなことになるなんて考えていなかった。いや、っていうか智保は彼女じゃないんだから仮に牧田と付き合ったとして別に二股とかじゃないし、智保のことをいちいち気にする必要なんてないのに、なんでこんなに智保のこと考えているんだ?
 そういや智保の反応も意外だったな。こんなに牧田に対抗心を燃やすとは思わなかった。二人は仲がいいと思っていたのに。いや、ちょっと待てよ? なんで智保は牧田に対抗しているんだ? それってつまり、智保も僕のことを? いや、そんなまさか。ありえないって、そんなこと。
 牧田はオレンジジュースを飲んだ。顔の赤みはすっかり引いて、元の色白な顔になっている。空になったコップをテーブルの上に置くと、椅子から立ち上がった。
「お邪魔しちゃってごめんなさい。私帰るね。愛里ちゃんも、さすがに勉強したほうがいいんじゃないかな。期末テストが終わったらまた会おうね」
 僕はこのまま牧田を帰してしまっていいのか?
 牧田の気持ちに応えなくていいのか?
 でも隣には智保がいるし、智保の気持ちも考えなきゃ。
 どうしよう、どうしよう……。
 リビングのドアを開けようとした牧田を、僕は止めた。
「玻瑠南、待って玻瑠南」
「な、何? 立樹」
 振り向いた顔は、またうっすら赤くなっていた。体の回転に沿って、長髪がなびく。
「玻瑠南、愛里に勉強教えてやってくれよ」
「え、私?」
 愛里はびっくりして大きな声で言った。
「お兄ちゃん、私勉強なんて」
「勉強したほうがいいって、玻瑠南も言ってるだろ? これ以上成績悪くなったらどうするんだよ。せっかくだから、教えてもらえばいいじゃないか。……玻瑠南頼むよ。今日だけでいいからさ」
「……愛里ちゃん、そんなに成績悪いの?」
「悪いっていうか、その……うん」
 だんだん消えそうになっていく声で、愛里は答えた。指先を絡めてもじもじしている。
「わかったわ。愛里ちゃん、勉強道具持ってきて。私がしっかり教えてあげる」

   ◇ ◇ ◇

 テーブルの上には再びノートや教科書、問題集が広げられようとしていた。
 僕は智保と一緒に、さっきまでやっていた勉強の続きだ。そして愛里は……ノートも教科書も、落書きでいっぱいだな。全然勉強してないだろ。
「愛里ちゃん、牧田さんは前回の中間テストで学年一位だったのよ。しっかり教えてもらってね」
「うそ! 一位って智保じゃなかったの? ハルナってメチャメチャ頭いいんじゃん!」
 順位のことを智保から聞かされ、愛里は驚いている。
「そうだぞ、玻瑠南はすごく頭がいいんだ。だからしっかり教えてもらうんだぞ」
「はーい」
 気持ちがまるでこもっていない声で、愛里が返事をした。
「玻瑠南も遠慮することないからな。愛里が泣きそうになるくらい厳しくていいから」
「……って、立樹が言っているから、頑張らなきゃ」
「えー、そりゃないよー。ハルナもそんなニコニコしないでよー。むしろ怖いよー」
「もういいかげん諦めて勉強しろよ……。じゃあ智保、さっきまでの続きを頼むよ。それと玻瑠南、玻瑠南の気持ちもうれしいけど、僕はやっぱり智保から勉強を見てもらったほうがいいと思うんだ。智保は僕のことをよくわかってくれているしさ」
「牧田さん、立樹のことはあたしにまかせておけば大丈夫だから」
「うっ……」
 また二人の視線がバチバチとぶつかる。
「……残念だけど、これまでのこともあるし、今の立樹のテスト対策には松川さんのほうが適役なようね。私は愛里ちゃんに集中するわ」

 正解なのかどうかわからないけど、これが僕なりの答えだった。
 これだけ「玻瑠南」って呼んだんだ。ちょっとは気持ちに応えられただろうか。
 不思議なもので、何度も玻瑠南って呼んでいるうちに牧田さんじゃなくて玻瑠南って呼ばないと変な気持ちになってきた。玻瑠南からも立樹って呼ばれるのが自然に思えるようになったし。
 何度か休憩を挟みながら、勉強は進んだ。休憩中にはいろいろ話した。玻瑠南は、リッキが僕であると気づき秘密を探るためにつきまとった、ということも話した。愛里は全然気にしなかった。智保はそもそも関係していないこともあってか、的外れな相槌を打ちながら、まるで他人事のように聞いていた。僕と愛里、智保の三人にとっては、リュンタルという異世界が本当にあるということさえ知られなければ、あとは大した問題ではないのかもしれない。
 それと、もうひとつ。
「玻瑠南、その眼鏡なんだけど……」
「ああ、これ?」
 玻瑠南は眼鏡のフレームを指でつまんだ。
「いつもはコンタクトなんだけどね。でも仮想世界は目が悪くても関係ないでしょ? だからコンタクトしないで朝からリュンタルに行ってたのよ。それでここに来る時にとにかく急ぎたくて、コンタクトする時間が惜しかったから、眼鏡で来ちゃったってわけ。……やっぱりおかしいかな? 私、あんまり眼鏡が似合っているとは思ってなくって」
 恥ずかしいのか、玻瑠南は少し照れている。

 『リュンタル・ワールド』に限らず、仮想世界の視覚は脳が直接捉えているから、視力が悪くても仮想世界ではちゃんと見ることができる。『リュンタル・ワールド』にも眼鏡はあるけど、普通は見えないはずの特殊なものを感知するためのアイテムだったり、ただのファッション用だったりで、視力を矯正するためのものではない。

「似合ってると思うけどな」
 僕は素直に感想を言った。
「そ、そうかな?」
「うん。全然おかしくなんかないよ。それにさ、玻瑠南は目つきがキツいとか言われてしまうことがあるけど、眼鏡をかけるとちょっと雰囲気が変わるんじゃないかな」
「私もハルナの眼鏡は似合っていると思うなー。知的なお姉さんって感じがする、っていうか実際すごい頭いいけどさ。教えてもらっててわかるもん。すごいわかりやすいし、学校でもハルナが先生だったらいいのに。そうすれば私だってちゃんと勉強するよ……そうだ、私も眼鏡かけようかなー。頭がよくなるかも」
 愛里が眼鏡をかけた顔を想像してみた。全く似合わない。
「やめとけ」
 僕は一言だけで切って捨てた。
「……だよねー」
 自分でもそう思っているなら言うなよ。呆れるよ全く。そもそも全然目が悪くなんかないのに。

   ◇ ◇ ◇

 外が薄暗くなってきた。いつの間にか夜が近づいてきていた。
「今日はここまで!」
 シャーペンを置いて、思い切り背伸びをした後、テーブルに突っ伏した。
「智保、ありがとう。おかげでだいぶ進んだよ。玻瑠南もありがとう。愛里も感謝しろよー」
「うん、私、すっごい頭良くなった気がする!」
 なんだか頭が良くない発言だな。

 帰る玻瑠南を見送るために、みんなで外に出た。玻瑠南は自転車で来ていたのか。一日中晴れていてよかった。
「私、後先考えないでここに来ちゃったけど、来て良かった。愛里ちゃんとも知り合えたし。それと……」
 玻瑠南は智保を見下ろした。
「松川さんも、もちろん私がアミカだってこと、黙っていてくれるよね?」
「……お互い様、ってところかしら?」
 智保がニヤリと笑った。
 また視線が強烈にぶつかる。
 智保にとっても、シェレラが智保だということはバレたくないようだ。
 智保とシェレラとでは確かに体型が違うけど、やっぱり気にしているのだろうか。智保に訊いて確かめる……ことはさすがにできないけど、きっと気にしているのだろう。僕はそんなに気にならないんだけどな。
「そうだ、期末テストが終わったらさ、四人でパーティを組んでクエストしようよ。みんなもそれでいいだろ?」
 僕の提案に、玻瑠南も智保も火花を飛ばすのをやめ、賛成してくれた。もちろん愛里も。
「あーでも私テスト終わるまでなんて待てないよ! ハルナ、夜、時間ある? 本当は今日一緒に遊ぶ予定だったじゃん」
「愛里! 今日は一日こっちの都合で付き合ってもらったんだから」
「いいよ。遊ぼう」
「玻瑠南! 玻瑠南だって勉強しなきゃ……」
「今さら勉強することなんか、もうないって」
 玻瑠南は半分笑いながら答えた。智保と同じタイプなのだろうか。羨ましい限りだ。
「それに、愛里ちゃん今日勉強頑張ったし、ちょっとは気分転換しないとね。でも風邪が治ったばかりなんだから、遅くならないうちに寝なきゃね。だからちょっとだけだよ? いい?」
「はーい、ハルナ先生」
 愛里は右手をビシッと挙げて返事をした。
 玻瑠南は軽く微笑むと、「じゃあね」と言って自転車に乗り、帰っていった。

「……智保と玻瑠南って、仲いいの? 悪いの?」
 ふと僕は智保に訊いてみた。
「ん? んー、あたしも帰るね。バイバイ」
 智保はそう言うと、駆け足で隣の家に入っていった。
「……どうなんだろ?」
 残された僕は、愛里の顔を見て呟いた。
「お兄ちゃん次第じゃないの?」
 愛里はニヤッと笑った。
 なんだよ、その答え。

しおり