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2.秋の物語

 その子を初めて見たのは、ジョア・ロイヤルクラブの横の路地だった。
 まだ知らない人のために書いておくと、ジョア・ロイヤルクラブって言うのは、僕たち「シチズン」の中でも、特にずばぬけて成績優秀な一級の人しか入れない、すごく特別な施設だ。中がどうなってるのか、一級以外の人には知ることができない。でも、外から見ても木々の緑が多いし。きっと中には広い庭とか、素敵な場所がいっぱいある。
 馬や孔雀もいるらしい。
 そんな噂も、誰かに聞いた。
 そう、それはバーチャルな映像なんかじゃなく、本物の生きた馬や孔雀。今ではもうどこでも見られなくて、たぶんもう、そこでしか会えない珍しい生き物たちだ。
 
 その子を初めて見た、とはじめに僕は書いた。
 だけど。
 見た、というのは正確じゃない。
 ほんとを言えば、ぶつかった、がいちばん正しい。
 ドンッ
 と正面から。
 いきなりぶつかってきた何かに跳ね飛ばされて、僕は歩道の上に投げ出された。世界がぐるりとまわって、頭がくらりとして。何がなんだかわからないまま目を開けると。
 そこにその子がいた。
 彼女はそこに立って、まっすぐこっちを見下ろしていた。
 長い髪は腰よりも下に延びている。
 やせた首筋と、すらりと伸びた手足と。
 歳はたぶん、十一か十二。
 そう、僕と同じくらいだ。
 だけどその子、何か変わった服を着ていた。
 ゆるゆるの黒いズボンは膝のところが破れているし、
 着ている上着も、お世辞にもきれいとは言えない。
 なんだかひどく擦り切れた、だるい色の長袖のシャツ。
 そこには少しも女の子らしさは感じられない。まるで男みたいな服だ。
 でも、彼女のあの目。
 まっすぐな、すごくまっすぐな瞳。
 瞳の色は黒だ。まじりっけなしの黒。
 一直線の眉は何かを思いつめたようで。
 そのきれいな眉をキュッと近くによせて。
 彼女はじっとこっちを見つめている。
 彼女は何か、迷っているようだった。
 その瞳の中に。いくつか違った光がキラリと同時に光った、気がする。

「左だ左。そっちへ曲がったぞ!」

 遠くで大人の声が聞こえて。
 バタバタと大きな足音が、道の向こうから響いてきた。
 それで魔法が解けた。
 その子はハッと一瞬で僕から目をそらし、
 身をひるがえして、風のように路地の向こうに駆けていった。
 その子は足がほんとに早くて、まるで童話に出てくる駆け足ウサギみたいだった。彼女の姿は間もなくロイヤルクラブの向こうの角を右に折れて見えなくなった。
 それから少しして。
 バタバタと足音をたてて、四人の「オフィサー」が僕の方までかけよってきた。
「君、どうした?」
「やられたのか、あれに?」
「見たのか、女を?」
「どっちへ行った?」
「おい、大丈夫か? 頭でも打ったか?」
「おいジェン、ひとまずお前はルキと行け」
「はっ」
「シカムは本部に連絡。あと二、三チーム、こっちに向けるように言え。はっきり言えよ、出し惜しみせず空からも来いと」
「はい。すぐに」

 そのあと自分はオフィサーのひとりに助け起こされて。
 色んなことを聞かれた。
 ここで何を見たか。
 何をされたのか。
 誰かを見たなら、それは誰か。
 その誰かは何をしたか。
 何を話したか。
 その誰かは何を―
 色んなことを一度にきかれて。
 頭のなかがグルグルまわって。
 なんだか僕はわからなくなった。

―よく、わかりません。
 何かにぶつかった気がするけど、それ以外は、ほんとに―

 僕は何度も、同じ答えを繰り返した。
 あの女の子の話は、結局そこでは言わなかった。
 言ってもいいかなと思ったけど。
 でも、言わない方がいい気もした。
 どうしてそう思ったのか?
 それは自分でもよくわからない。
 だけどたぶん。
 僕はあの子に逃げて欲しかった。
 どうして追われてるのか、何をしたのか。
 それはぜんぜんわからないけど。
 でも、なぜだかすごく。
 あの子の瞳が、忘れられなくて。
 あのまっすぐな黒い目が、僕にはとても、強くて―

「ねえ、『キャンプ』ってどんなとこなの?」

 夕飯のとき、僕は何気なくママンに聞いてみた。
「え?」
 ママンはスプーンを止めて、びっくりしたようにこっちを見た。
「あなたいまキャンプって言った?」
「ん」
「どうしてまた、そんな話を?」
 ママンは不思議なものを見るように、僕の顔を上から下まで眺めた。
「いや、別に。ちょっとアカデミーで習って。で、聞いてみただけ」
「アカデミーでは何て教えてるんだ?」
 横からパパが話に入ってきた。
「ん、何だったかな」
 僕はポリポリと頭を掻く。
「ええと、あれ、シチズンになるには能力も足りなくて、資格もなくて。あと、そのほかいろいろ、精神コウゾウ? それとかにもモンダイあって。レットウなんとかが―」
「劣等遺伝子」
「そうそう。それもあって。だからシティに入れるわけにはいかなくて。で、そういう人たちが、『壁』の外側に自分たちだけの町を作ってるって」
「その通りだ。で、それ以上、何が知りたいと?」
 パパが表情のない声をこっちに投げた。
 ん、これはよくないサインだ。
 内心、けっこうイライラしてる。
 でも、できるだけそれを表に出さないように。そういう時の声。
 こういうときは、あんまり話をひっぱらない方がいい。
 適当に、適当に。話をそらして―
「ひどいところだって噂よ」
 ママンがあくびをしながら言った。このところ連勤で、ママンは毎日眠たそうだ。仕事から戻ると、いつでもさっさとシャワーをあびて、食事のあとはすぐに寝てしまう。
「下水もなくって。飲み水にも不自由してるって聞いたけど」
「そんなにひどいの?」
「だが、それは何もこの街の問題じゃない。ヤツら自身の問題だ」
 パパが、また乾いた声で割り込んできた。
「……ヤツら自身って?」
 僕はおそるおそる、パパに言葉を投げてみた。
 パパは矯正ゴーグルの焦点をちょっと調整してから、僕の方を見ないで、テーブルに広げたシティジャーナルのどこかの記事に目を落とした。
「能力が足りない。努力が足りない。知恵も足りないし、節度も足りない。何もかもが足りない人間が、生活に不自由する。それは本人が足りないだけだ。で、キャンプだが何だか知らんが。そういう場所に集まって傷口をなめあっている。そういうところだ。話にのせる価値もない。落伍者の集団だよ、あれは」
「ねえニコラ。もうちょっと優しい言葉を使えないの?」
 ママンがスプーンの手をとめて、パパを睨んだ。
「事実を言っただけだ。子供だからって甘い言葉ばかり使うから、最近の教育が変になるんだ。だがもういいだろう、こういうくだらない話題は。もっと他にないのか? 食卓の会話にふさわしい話が?」
「ねえアビー」
「なに?」
「もうこの話はおしまい。また今度ね」
「ん……」
「ほら。スープが冷めちゃうわよ。あなたもボヤボヤしてると、そのうちキャンプに落っこちちゃって―」
「おい、ステラ」
 パパがきつい声を出した。
「余計なことを言うな。もういいから黙って食べなさい」
 ママンは一瞬、すごく怒った表情をつくって。
 それからすぐにそれを消して、はいはい、と気軽な声を出した。
 そのあとはもう、誰も話さなかった。
 僕のスープは、もう半分は冷めていたけど。
 どっちにしても、味なんてぜんぜんわからなった。
 僕の心は、そのときでもまだ、
 まだ、あの場所に飛んでいた。
 逆光。
 太陽を背にしてまっすぐに立つあの子。
 流れる髪。
 どこまでもひたむきな黒い瞳。
 その子の髪が、かすかな風にのってサワリと揺れた―

「『シティ』は世界でも最先端の暮らしを誇る理想都市です。現在の人口は五十万余り。過去には二百万を越えた不幸な時期もありましたが、徹底した人口管理と能力選抜教育労働制、いわゆる『アクアス』の導入によって、市域の環境は劇的に改善しました……」
 
「ジュピター」が、またあの眠たくなる平板な声で話をはじめた。
 ここはナビゲーションルーム。アカデミーの社会科学習に一番よく使われる長くて広い部屋。今ここには二十二人ほどの生徒たちが集められている。それぞれの席の前にはモニターがあって。
 今そこに映っているのは、小奇麗に髪をカットした長身の教師キャラ。ジュピターっていうのがその名前になっているけど。でも僕たち生徒の間では、「ナス」とか「もやし」とか。そういう名前でこっそり呼ばれてる。なんだか妙に顔が長くて、体も針金みたいに細くて、いつもクネクネ大げさに動いて。すごく妙なヤツ。で、声もなんだか出来そこないの機械みたいで。聞いてるとすぐ眠たくなる。

「改革の成果はすぐにあらわれました。過剰人口は徐々に減り、劣悪な不法占拠地や、もともと居住に適さない傾斜地などを中心に、人口整理と区画の整備が急ピッチで行われます。一時はゼロに近づいていた市域の緑も、少しずつもとの美しさを取り戻しました。市域を流れる各河川の水質も年々向上し、今では天然の淡水魚が遡上するまでのレベルに回復しました。」

 だけどこの話を聞くのは、もうこれが十三度目だ。
 九割以上は、もう聞かなくても、一字一句間違えずに暗唱できる。
 でも来週、僕たち五次の生徒たちが、三つ下の二次の子たちを模擬指導するって話になっていて。
 そのときの教材として、この「シティ物語」が使われる。
 だから五次の生徒はすべてすべからく、一時一句正しく、それまでにこれを暗記しなさいと。そういう話だ。今日はこれをあと最低四回は聞かされる。あーあ。

「ここに住むのは、まさしく世界のトップエリート。世界中から公募で集まった優れた知的人材の中から、さらに厳しい審査を何度も通り抜け、委員会が最適と判断した模範人口のみに限られています。毎年二回、春と秋に定例の審査がありますが、この審査には、世界中から何万という申し込みが一度に寄せられます。最終的に審査を通過した最優秀の人口には、委員会から正式に『シチズン』の称号が与えられます。シチズンに選ばれると言うことは、大変な名誉です。世界中の人々が、シチズンにあこがれています。なぜなら……」

 なぜなら、シティが保障するハイレベルな文明生活を享受できる町は、もう世界のどこを探してもないからです。混沌とした『大災厄』後の地球上で、清廉な都市生活の基盤が今でも生きている地域は、もうここ以外にはないのです、と。もう全部言えるよ。ジュピターの変なアクセントまで含めてね。
 僕はまたあくびをかみ殺した。万一あくびをしたところをミズ・ユミカに見られたら。そしたらきっと、また無駄にリスニング課題を増やされる。それだけはゼッタイゼッタイ、避けないといけない。

「今から約80年前、全世界を襲った『大災厄』以来。世界市民の生活水準は低下の一途をたどっています。正確な統計がないのであくまで推計ですが、『大災厄』後の二十年で、世界人口はそれ以前の四十分の一にまで減ったものと思われます。各国の統治機構は崩壊し、あちこちで内乱や戦争が起こりました。
 そんな中、『大災厄』以前のテクノロジーと都市機能をそのままとどめたシティは、全世界の注目の的となりました。世界中の人々が、シティを目指しました。北から南から。西から東から。そういった世界からの注目の中、シティは他地域での混乱の影響を最小限にとどめながら、その高い生活レベルを今日までずっと維持しています。
 いかがですか? これが世界に誇るシティです。ですから皆さんの手の中に何気なく埋め込まれている『シチズン認証』。それはつまり、世界の中から選ばれた特権の証です。その認証の価値、その本当の重みを。みなさん、ぜひあらためて感じてみて下さい。ここにいるみなさんこそが、全世界に選ばれた、真の地球市民なのです。ですからみなさん、日々の学習においても……」

 学習においても…… 学習に…… 模範の…… 特権… 享受した… 地域を… 導いて…… 導いて…… 導……

 結局そのあと寝てしまった僕は、リスニング課題を追加で四回。
 それから、ぜんぜん別の矯正エッセイを二題、補強教材で出された。
 や、失敗だったと思う、ほんとに。
 そのことでクラスのシンとユリアンにすごくすごく馬鹿にされた。
 ふん。笑えばいいさ。笑いたければ。

 だけどあのとき、僕の意識は。
 空調のきいたナビゲーションルームの、
 なんだか妙に心地よい浅い眠りの中で。
 僕はまた、
 あの子を見ていた。
 逆光。
 太陽を背にしてまっすぐに立つあの子。
 流れる髪。
 どこまでもひたむきな黒い瞳。
 その目がわずかに細められて、唇が少し、動いた―

 夕方ひとりでアカデミー出ると。
 僕はヤランスリ・パーカス通りをまっすぐ坂の下まで下って、市営の浄水工場の裏側にある「壁」のところまでやってきた。
 ここは住宅地からもビル街からも離れていて、昼間でも人が来ないエリアだ。「壁」と浄水工場の間になっていて、いつ行ってもひっそりしている。
 ここは僕たちアカデミーの生徒たちの、秘密の遊び場だ。地面の上には、誰かが置いていったロボティックの残骸だとか、何かを書いたノートの切れ端だとか、「スウィング」に使う棒だとか。そういうどうでもよさそうなモノばかりがゴチャゴチャとそのへんに散らばっている。やたらと潔癖なC・Cも、さすがにここまでは目が届かないらしい。ちなみにC・Cっていうのは、「シティ・クリーナ」の略だって言う人もいるし、「シティ・カウンシル」だって言う人もいる。ま、僕にはどっちでもいいけど。
 で、アカデミーが早くに終わった午後になると。
 暇な子たちはだいたい、ここに集まってくる。みんなでここに集まって、いろんなバカ話をし、ゲームをしたり、そこそこ人数が集まれば「スウィング」をやったり。それぞれ適当に好きなことをして遊ぶと。そういう場所だ。だからいつも、GPSの位置だけはアカデミーか家か、あるいはセントラルスクエア近くのどこかに変更しておいて―

 あ、そうそう。

 GPSのこと言ってなかった。まずはその説明からだね。
 僕たちの手首の皮膚の内側には、GPSチップとマーケットチップをぜんぶ一緒にした「シチズン認証」が入っている。これは僕らが小さな赤ん坊のとき、特殊な注射器のような器具で皮下に埋め込むものだ。とは言っても、別に何か特別なものじゃない。シティに住む人は、大人も子供も、みんなこれをつけている。すごく小さいものだから、指で外側からさわっても、そこに何かがあるってこと、本人の僕にもよくわからない。
 で、だけどこれは衛星としっかりリンクしてて。
 親でも先生でも、子供たちが今どこで何をしてるか、位置情報からすぐに確認することができる。でもこれ、子供にとってはいろいろ都合が悪くて。だってほら、ちょっとした寄り道とか買い食いとかも、いちいちチェックされるから。
 で、やっぱりどこにでも知恵のある子っているもので。
 誰がどこで仕入れてきたのが、「スマートコピー」と呼ばれる偽認証。こいつが僕らの強力な味方になってくれている。
 スマートコピーは、小指の先の半分もない薄くて小さなチップなんだけど。これがけっこうなスグレモノ。アカデミーの子であれば誰でも持ってるお得なツールなんだ。
 で、これを使えば、みんなが持ってる「デミタブ―アカデミックタブレットの略―」に入ってるシティマップの上で、サクサクと位置情報を書き変えられるってわけ。
 設定はいたって簡単。
 まずはスマートコピーを左手で握りしめ。
 次にデミタブのシティマップ上で希望の地点を選択。そのときに、一緒に出てくる赤色表示の「×」マークも同時選択。そのまま四秒待つ。
 以上。

 ね、簡単でしょ?

 これで今僕は、アカデミーからまっすぐテブレ街の家に戻って、部屋で宿題をやっているってことになった。GPSの上ではね。街の誰がチェックしても、そう表示されるはず。
 親なんて夜まで戻って来ないし。アカデミーの方でも、まっすぐ家に帰った生徒にいちいち確認の点呼を取るようなことはしない。だからこうやって、ちょっとくらいの寄り道をしても、絶対バレないってわけ。
 だけどそうは言っても。
 毎回けっこうハラハラなんだ。いよいよ今日こそは親にバレないか、アカデミーが疑ってないかってね。ま、実際にそういうことは、滅多にないんだけど。このスリルがたまらないってユリアンは言う。でも僕はまだ、さすがにそこまでずぶとくはなれない。
 なんだか余分な説明ばっかり長くなったけど。
 今日、僕が浄水工場の裏までやってきたのは訳がある。
 ネコ。
 何日か前から、ここにネコの一家が棲みついた。
 ネコなんて動物は、もうとっくにシティの中では滅びてしまった。
 もう一匹もいないことになっている。公式には。
 だけど実際、「壁」の外にあるという「キャンプ」という場所に行けば、今でもけっこう生き残っているらしい。で、ときどきごくたまに。そこから地下の水路伝いに、ふらふらシティの中まで入ってくるネコもいる。
 最初にそのネコたちを見つけたのはユリアン。そのあとすぐにクラスのみんなに広まった。
かわるがわる、みんなで見に行っては、ちょっとずつおやつを投げたりして。子ネコも親ネコも、どっちもよく人になついているから。けっこうみんなで可愛がっている。
 誰かがC・Cに告げ口すれば、すぐにシティ・カーゴが来て回収していっちゃう。だからくれぐれも、親とかC・Cには漏れないようにしている。それだけはみんなで守っている。
 なんでもネコは悪い伝染病とか、そのほかにも、ダニとかノミとかいう、今では伝説でしか聞かないような不潔な微生物を広げる恐れがあるからって。もう何十年も前に、シティの市域からすべて駆除してしまったらしいけど。
 でも、こうして実物のネコを見ると、べつにそんなに汚れていないし。
 鳴き声もかわいい。
「有害なんとか」って、そういうカテゴリにどうして入れられたのか、僕にはよくわからない。
 ま、だからそういうわけで。
 今日もまた、僕はここまでネコに会いにきたってわけ。
 きっと他にも誰か来てるだろうと思っていたけど。

 でも、どうしたわけか、今日に限って誰もいなかった。
 まあ、あらためて考えれば、いつもよりだいぶ遅い時間だ。みんなとっくに帰ってしまったのかもしれない。
 それに加えて。
 ほんとにどうしちゃんだんだろう?
 今日ここには、かんじんのネコの姿も見あたらない。
 どこにもいない。
 誰かが置いた合成プラスチックの皿だけが、水路の脇に残っていて。
 いつもネコが眠っている錆びたスチールの箱の中は、今日はまったくの空っぽだった。時間が遅いから、ネコもどこかに移動してしまったのかもしれない。
 がっかりした。ほんとに、せっかくわざわざ、ここまで来たのに。
 落胆して立ち上がった僕は。
 そこにあるモノを見て、そのまま凍りついてしまった。
 水路横の廃棄資材の山の脇に。
 何かの足が見えた。
 人の足、かもしれない。
 胸がドキドキした。のどが一瞬でカラカラになる。
 誰かが、誰かが。
 あそこに倒れてる。
 死んでるの?
 まさか、まさか。
 僕はあたりをうかがった。
 見えるのは、ゴミの散らばった道路と、音もなく流れる水路と、「壁」と、浄水工場の高いフェンスと。それだけ。
 ひとつ大きく深呼吸して。
 ぼくは一歩、一歩、また一歩。
 その資材の山に近づいて。
 そのあとそこで、それを見た。

 倒れている。
 女の子。
 ずいぶん髪が長い。
 僕と同じくらいの年?
 横向きに倒れて。顔を地面に伏せて。
 破れたズボン。色あせた上着。
 ん。これは、つまり。
 もしかして、もしかして。
 これってあの、あの日に見た、
 あの、あそこでぶつかった、あの日の―

 そのとき。

 その子がわずかに身体を動かして。
 顔を上げて。
 こっちを見た。
 なんだかとても、ぼんやりした目で。
 とても虚ろな目。
 その子はこっちを見てるけど、だけどぜんぜん見ていない。
 なにか心が、どこかよそをフラフラ飛んでいるみたいで。
「大丈夫?」
 僕はその子の上にしゃがんだ。
「怪我してるの? 病気? それとも―」
「おまえ―誰?」
 その子が言った。
 はじめて口をひらいた。
 とても小さな声で。
「僕? 僕はアビー」
「ア…ビ……?」
 その子はギュッと眉をしかめて。
 それから何か口の中でつぶやいた。
 バカといったようにも聞こえたし、マナといったようにも聞こえた。でもホントは何て言ったんだろう?
「ここで何してるの? ほんとに大丈夫? オフィスを呼ぼうか?」
 その言葉を聞いて。
 とたんに、その子の表情が厳しくなった。
 なにかに追い詰められたみたいに。
 先生にひどく怒られる前の生徒みたいに。
 その子は急に身体を動かして、
 膝をかかえて座り、肩は資材にもたれて。
 ようやく聞こえるくらいの声で言った。
「……お前もシチズンか」
 その子は言って、ギュッと唇を噛んだ。
「それは、そうだけど」
「あたしを…… つかまえに来たのか?」
「つかまえる?」
 僕はよくわからずに聞き返す。
「どうして? キミ、何か悪いことしたの?」
「………」
「どうしてここにいるの? 身体の具合が悪い?」
「………」
 その子は探るように、僕の方を見ている。
 小さく丸めた身体の中で。
 目の光だけが、やけに強く、ギラリと僕の心を射た。

 ぐうううううう

 すごく突然、その音はやってきた。
 どこから?
 たぶんおそらく…… その子の中から。
「それ、もしかしてお腹?」
「………」
「ひょっとしてひょっとして、お腹、すいてる?」
「………」
「あれなの? あの、何だっけほら、『行き倒れ』ってやつ?」
「………」
「そうなの? だったらすごいや。あんなの、本の中だけの作り事かと思ってたけど。ほんとにお腹がすくと、人って倒れるものなの? 動けなくなったりするわけ?」
「おまえ……」
「え?」

「……バカ、なのか?」

「え?」
 僕はあっけにとられた。
 バカ? 
 いきなりバカはない。
 会ってまだ、名前も聞いてないのに。
 そのあとその子は無言で顔を伏せ、
 二つの膝の間に、じっと顔をうずめてしまった。
 長い髪だけが、ときどきサラサラと波打つように揺れたけど。
 でも、それだけ。それ以外には、ほんとに何も。
 そのあと僕が何を言っても。
 その子はもう、返事をしてくれなかった。
 何を聞いても。何を話しかけても。
 
 日もだいぶ陰ってきた。
 あんまり遅くなると、両親が先に帰ってしまうかもしれない。
 とうとう僕は腰を上げた。
 仕方ない。これ以上ここに長居したって、もう、この子はこっちに話しかけてはくれないだろう。
 やっぱりすぐにオフィサーを呼んだ方がいいのかとも思ったけど。
 でも、さっき僕がオフィスと言ったときのあの子の顔。
 あれがまた、さっと心によぎって。
 あの怯えた目。追い詰められた目。
 きっと、そうだな。うん。
 たぶん、
 そっとしておく方がいいのかも。
 自分で口がきけるくらいだし。
 きっと今すぐ死ぬとか、そんな怪我ではないんだろう。
 よくわからないけど、たぶんそうだ。
 たぶん……

 立ち去る前に。
 ぼくはひとつ、少しはましなことを思いついた。
 背負っていたバックパックを下ろして、中から給食の残りの丸パンを二つ。ホントはネコにあげようと思って、こっそり休みのヤツの分をかすめてきたんだけど。
「ね、これ置いてくから」
 僕はそう言って、その子の顔の前にそのパンを持っていく。
 もしほんとにお腹がすいてるなら、少しはこれが役に立つかも。
 その子はハッと顔を上げた。
 まっすぐ僕のことを見る。それからパンを見る。
 それからまた、ゆっくりと僕の方を見た。
 すごく綺麗な黒い瞳で、射止めるように、僕のことを見た。
 僕はドキドキした。
 こんなに綺麗な子を、他では見たことないと思った。
 ほんとにその目は綺麗で、綺麗で―
 不意に、
 その目がうるんだ。
 涙?
 え? どうして?
 バンッ!
 と、
 いきなりその子が僕の手を払った。
 僕の手を離れたパンは、ころころ地面を転げて、ひとつは水路の中に。もうひとつは、水路脇の泥の中に落ちてしまった。
 はたかれた手の甲が、ヒリヒリと痛んだ。
 驚いてその子を見返すと。
 その子はもう、こっちを見ていない。
 またさっきみたいに両膝の間に顔をうずめて。
 泣いてるのか、そうじゃないのか。
 僕にはわからなかったけど。
 何がなんだかよくわからないまま。
 僕はふらふらと立ち上がって、
 追われるように、その場をあとに―

 ルルルルルルル……

 頭の上で、耳障りな高い音がして。
 空から降りてきた。それが。
 一機、また一機。
 スカイスクータ?
 こんなに近くで見るのは初めてだ。
 ルルルルと音をたてて三機目が下りてきた、そのとき。
 不意に。
 さっきのあの女の子が突然身体を起こして。
 どこにそんな力があったのかと驚く速さで。
 地面を蹴って駆けだした。
 と、思ったけれど。
 でもすぐに。
 その前を遮るように、またあれが二機、着地した。
 驚きの速さで機体から降りたオフィサーが、その子の腕をつかんだ。
 そのまま腕をねじふせて、地面に倒して押さえつける。
 その子は大声で何かを叫んでいた。でもその声は、スクータのルルルルの音に掻き消されて聞こえない。
 最後にその子が何かを叫んで。
 大きく身体をゆすって。長い髪をいっぱいにゆすって。
 それからまっすぐ、僕を見た。
 その子の黒い瞳が、食い入るように僕を見据えた。
 その目に宿る光。
 怒りと、絶望と。それから他の何かと。
 その光は僕の心を焼いて、溶かして。
 僕の心はバラバラに砕けてしまう。
 そうじゃないんだ、
 と僕は言う。
 僕が彼らを呼んだわけじゃない。
 違う。
 これはぜんぜん、僕が望んだものじゃない。
 僕は、僕は―

「アビー・リトルソンだね?」

 誰かが僕の肩を叩いた。
 ふり返るとそこに。
 長身のオフィサーが立っている。
 僕の方に少し身をかがめて。
 とても整った顔で、綺麗な前歯をちらりと見せて。僕の方を見ながら微笑している。たぶん三十過ぎの、金髪が美しい、若いハンサムなオフィサーだ。
「オフィスのネルス上尉官だ。アビー・リトルソン。この一週間、君の位置情報をマークさせてもらった」
「何なんですかこれは? 僕はただ、ここに、あの、僕は、ほんとに―」
「ネコのことだね?」
「え?」
「ここにはネコに会いに来たと。そう言いたいんだろう?」
「どうして…… それを?」
「ははは。我々オフィスもそれほどバカではない。君を含めて、『あれ』と接触のあった各人の位置と行動を毎日モニターしていた。で、キミがここに来る理由も早期に把握していた。たしかにネコはいたよ。それは我々も知っている。言うまでもなく、有害動物の管轄はC・Cであって、われわれオフィスではない。一度は君をモニターから外そうという意見もあったんだが。そこはわたしの判断でね。プロの勘と言えば、ちょっと言い過ぎかもしれないが―」
「でもどうして?」
 僕は思わず口をはさんだ。
「どうしてわかったんですか? スマートコピーを使ったのに。毎日あれで、位置を変えてたはずなのに―」
「あんなオモチャでオフィスがだませると。君は本気でそう思ったのか? だとすれば、あまりにそれは浅はかだな。あの程度の偽造コードに、オフィスのGPSは何ら影響を受けない」
 あんなオモチャで―
 オモチャ。
 あれはオモチャだったのか。
 そうなのか。
 でも。だけど。
「しかしまずかったね。もうネコがいなくなったあと、またここに来るというのは。C・Cからの報告で、昨日の時点でもうここにネコはいないことはハッキリしていた。なのにキミは、今日もまたここに向かう。しかも妙な時間だ。他の生徒の行動パターンとも外れている。これは何かあると。そう思ってね。どうだい、なかなか捨てたもんではないだろう、わたしの言う勘ってやつも?」
「何をおっしゃっているのか、ぜんぜんわかりません」
 僕は足もとを見ていた。
 自分の靴と、足の下の地面と。
「オフィスは何かを誤解しています」
「誤解かどうかは、このあと調べればわかる」
「調べても同じだ。誤解は誤解だし、僕はほんとに今日は、何もそんな―」
 そのとき。
 かすかにあの子の声が聞こえた気がして。
 僕はうしろを振り返る。
 僕の視界の隅に、あの子の後姿がちらりと見えた。
 両方から二人のオフィサーに腕と肩をつかまれて、
 滑るように入ってきたオフィスの車両に無理やり乗せられて。音もなく扉が閉まって。その子の姿は、もう僕からは見えなくなって―
「あの子は何をしたんです?」
「あの子が何をしたのか?」
 ネルス上尉官が僕の言葉をそのまま繰り返した。
「君は本当にそれを知らないのか?」
「どうして? そんなの僕が知るわけもない」
「本当に知らないのか。それとも知らないことにしているのか―」
 彼は僕の目を見ながら、ギュッと目を細めた。
「では、ひとまず知らないという前提で言おう。あの子が誰か? 何をしたか? なぜ我々が網を張っていたのか? それは君が知ることではない。本来、君にはまったく関わりのないことだ。だからその質問は、あまり意味がないね。アビー・リトルソン」
 僕はまた自分の足を見つめた。
 それは自分の足であって、だけどぜんぜん、自分ではない。ここにいるのは僕であって、だけどぜんぜん、僕じゃない。とても遠い場所に、僕はとつぜん来てしまった。
「アビー・リトルソン。家ではお母さまが泣いているぞ」
「……?」
 僕が彼の顔を見返すと。
 ネルス上尉官はほんの少し肩をすくめて、そのあと、なぜだかわからないけど、唇の端で笑いのようなものを作った。綺麗な顔なのに、その笑いのようなものは、あまり綺麗ではなかった。ぜんぜん、綺麗ではない。
「ミズ・ステラ・リトルソン。アセル上院議員のご令嬢だ。素晴らし母親を持ったね、アビー」
「……」
「これはわたし個人からのアドバイスだ。聞くか聞かないかは、君の自由だがね。いいかい、家の名を大事にすることだ。そういう財産は、誰もが持っているものではないからね。アビー、君は天使の一族だ。天使は汚れた地の獣と関わりを持ってはならない。持つ必要もない。君は頭の良い子だ。わたしの言うことはよくわかるだろう?」
 よくわかるかって?
 何がわかると?
 何がどう、わかると?
 この男はいったい、なんの言葉を話しているんだ?
 僕の心の中で、何かがグツグツ、音をたてた。
 僕はまだそのかすかな音に、正しい名前を与えることができない。
 でもその何かは、ほんとに、ほんとに、ほんとの、何かだ。
 その音は他のどんな何よりも静かで強くて何よりも一番確かな。
 そういう何かだ。
 でも僕はまだ子供で。
 僕はまだその何かに、ふさわしい名前を与えることができない。
 だから僕は黙って、黙って。
 震えていた。静かに心で、震えていた。
「もういいだろう。続きはオフィスで話そう。一緒に来なさい。どうした? 顔を上げなさい、アビー・リトルソン。今回の件の重要参考人として、オフォスへの同行を命ずる」

しおり