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1.夏の物語

 スカイスクータの音はもう聞こえない。
 俺は側溝から這い出して、茂みの中を這い進む。
 このまま直線で河まで出れば。
 そしたら流れに沿って一気に距離を稼げるのだが。

「危険です」

 インカムから「コード」の声が響く。
「危険です。今すぐ停止し、代替ルートの検討を」
「余計なお世話だ。それ以外の道はもう全部塞がってるだろ」
 イラついた声で怒鳴り返した――
 と言いたいところだが。
 怒鳴るとまたあいつらを呼んでしまうから、実際にはほんの小声で言っただけだ。
「現在のルートは危険です。今すぐ停止を」
「じゃあどこへ行けばいい?」
 顔にかかったクモの巣を払いのける。日はすっかり高く上って、またさらに気温が上がってきている。まったく嫌な天気だ。日が昇る前は寒いくらいだったのに、昼前からグングン気温が上がってきた。即戦用の重装備が災いして、ジャケットの下の熱の逃げ場がない。汗ばかりが水のようにまとわりつく。
「地下へ」
「地下?」
「8号系統の外れに共同溝の入り口があります。そこから地下へ下りてください」
「俺に命令するな」
「命令ではありません。提案です」
「同じことだ」
「もちろん共同溝も危険ですが、危険度は地上よりも低いと出ています」
「出てるって、それはどういう意味だ?」
「確率が表示されているという意味です」
「表示とか、確率とか、お前はいつもそんなのばっかりだ。確率論で封鎖が突破できたら苦労しない」
 とは言いながらも。
 確かに地上は危険だ。空からの襲撃が何と言ってもヤバい。さっきは奇跡的にかわしたが、次に見つかったら確実に殺られる。地上の人間は単独ではスカイスクータに勝てない。一機でも厳しいのに、三機四機も出されたら、これはもう。
「暗号化された信号を複数受信。やはり応援を呼んでいるようです。当地の配備状況から、次は六機以上で来ると予測。七分以内に8号系統へ移動を」
「おいおい、簡単に言ってくれるが。そいつは七分で移動できる距離なのか?」
「可能性は62ポイント。あなたの走力、持久力を考慮した場合」
 それは高いのか低いのかって聞きたかったが。
 今はあれこれ議論している場合じゃない。
「やれやれ。じゃ、ともかくそれでいこう。ビジュアルマップをこっちに飛ばしてくれ。すぐに移動を開始する」
 さいわい、このあたりの草丈はかなり高い。必死で這い回らなくても頭が出ることはない。そうだ。動け動け。今の俺にはそれしかない。
 
 共同溝の入り口は簡単には見つからなかった。
 長年かけて積もった泥が、強化スチールの蓋を覆い隠している。銃の尻でここかと思った地面を何箇所か掘って、最後にようやくヒットした。硬い手ごたえがあった。
 よし、ここだ。
 二分かけて、蓋の上の泥を払いのける。制限時間の七分は過ぎていたが、空にはまだ何の気配もない。
 まったく。
 コードの時間予測が一度だって当たったためしはない。が、今はそのいい加減さに感謝すべきだろう。
 しかし蓋は硬く地面に固着してびくともしなかった。
 なら、仕方ない。
 跳ね返りの金属片が目に入らないようゴーグルを着け、
 消音モードで五秒間連射する。
 それで蓋は破れた。
 近くの草をひきちぎって大量に集め。
 入り口を塞ぐ形に草を積み上げる。
 お世辞にも上手な偽装とは言えないが。
 それでもまあ、何もしないよりは若干、発見時間が遅らせるだろう。というより、若干でも遅れてくれ。
 共同溝の天井は低く、姿勢を低くしないとまともに頭をぶつけてしまう。ただでさえ暗くて陰気臭いのに、自由な姿勢もとれないとは。まったくもって感心な場所だ。
 背中を丸めた情けない姿勢で数分間暗闇をすすむ。
 最初のうちは馬鹿正直にマニュアルに従って暗視スコープをつけていたのだが。
 これがまた、驚くほど感度が悪い。
 まったくつける意味がない。むしろ逆効果だ。
 そう判断して、そいつは途中で外した。
 こいつに限らず、同盟の装備は大体において「シティ」の兵器庫からの流用品が多い。ほとんどすべて型落ちの粗悪品だ。なぜって、同盟が簡単に手を出せるような、そういう警備の甘い兵器庫は。結局のところ、ひたすら廃棄を待つだけのジャンク倉庫と相場が決まっているからだ。
だからこっちにまわってくる銃火器も工作機器も。
 どいつもこいつも見た目だけはご立派。だが、いざっていう時に役に立たない。
 話によれば、もっとずっと北の方じゃ、旧軍使用の、もうちょっとはましな装備が入ってくるらしい。が、南のこっちはまだまだだ。とくにC地区の製造拠点を失ってからは、俺たちにまわされる装備のグレードは落ちていく一方。まあ、だからと言って愚痴ばかり並べていても、それはそれでクソの役にも立たないわけだが。

 数分後。
 天井の高い場所に出た。
 天井の何箇所かに開いた小さな隙間から、外の光が入ってくる。長く暗闇を見続けてきた目には、そのかすかな光が眩しい。
 どうやらここは、複数の地下溝の合流点にあたるらしい。
 かなりの広さがある貯水池が中央にある。水はにごっていて、深さはよくわからない。下水も混じっているはずだが、臭いは案外キツくない。なるほど。これなら案外―
 
 あっ! クソったれが!
 
 タン、タン、タンッッ

 鋳鉄の配管を楯にして。
 消音モードで射撃する。
 しかし。
 なぜか相手は撃ち返してこない。
 む、なんなんだ、あいつは?
 もう死んだか? まさか、な。

「何があったのですか? いま銃撃音を受信しましたが」

 インカムからコードの声。
 くそ、空気の読めないヤツだ。音声を相手に拾われる。
「状況を報告してください。現在地点は―」
 慌てて俺はインカムを切り、緊急信号3の6を発信する。「交戦中につき交信不可」だ。
 慎重に頭の上部だけ出して。
 前方を目視。
 人影はまだそこにあった。
 が、伏せの姿勢にかわっている。
 わずかに体が上下に動いている? 目の錯覚か? まあいずれにしても―
 タンッ、タッッ
 床に伏せた影に二弾を打ち込む。

「ああああっっっっ、」

 と、そいつが声を出した。
「撃つな! 撃たないでっ」
 意外な反応だ。
 必死で叫んでいるそいつの声は。
 大人じゃなく、ガキの声だったので。

 四発が足に命中していた。
 出血はあるが、それほど大量でもない。止血帯できつく縛っておけばひとまずは大丈夫だ。まあしかし、少しは骨をやったか。ひどく痛がっている。いずれにしても早期に治療が必要だ。
「悪く思うなよ」
 俺は言う。
「俺の方も、お前に殺られると思ったんだ。まさかガキだとは思わなかった」
 止血帯の端をクリップで固定して、そいつの額に触れる。そいつは無言のまま、怯えた目で俺を見ている。
「まあ、頭や胴に当たらなかったのは幸いだ。お前、なかなか運の強い奴だな。というか、俺が案外、下手だったってことか。お前が敵なら、けっこうな反撃を食らってたかもしれんな」
 フンッ、と鼻で小さく笑う。
「しかしなんだってお前みたいなガキがこんなところに? ガキどもが遊びで来れるエリアじゃなかろうに?」
 俺はそいつの横に尻をついて座った。
 さて、どうする?
 さっきの銃撃をシティの連中にモニターされただろうか。
 可能性がないとは言えない。
 いずれにせよ、すぐに移動しないとヤバい。
 しかしこのお荷物をどうする? 
 俺ひとりでも逃げ切れるかは微妙なのに。
 どうする? 置いていくか? それとも―
「海?」
 おれは意味がわからずに聞き返す。
「海が何だって?」
「海を見たかったんだ。おれ、まだホントの海を見たことがないから」
 そいつが小声で言った。
「ホントの海って、いったい何だそりゃ?」
 俺は首をひねる。
「海なんてどこにでもあるだろ。キャンプの南にも、西にも。その気になったらどこでも見られる。何だったら飛びこんでもいいし、泳ぎたければ泳いでも―」
「あんなのは海じゃないよ」
「あれは海じゃない?」
 俺はそいつの顔を見返す。
 おかしなことを言うガキだ。
 頭がおかしいのか? 
 被弾のショックでいかれてしまったのか。
「あそこには、鉄とセメント護岸と、ごてごてしたコンテナ船があるだけだよ。あんなのは海じゃない。海ってのは、もっと違うでしょ」
「あ? 違うって、そりゃ何だ? 意味は?」
「おれ、写真で見たんだ。古い本の中でさ。ほんとの海には、白い砂があって、椰子の木が生えてて、大きな夕日が沈んでいくんだ。イルカやカメもいるんだよ。そういうのを、一回でいいから、ほんとに見たいんだ。だからそれで―」
「それでシティの制限エリアに侵入して、ちょっとは気のきいたビーチに行こうってか? そういう話か?」
 やれやれ。
 ほんとにやれやれだ。
 俺は急速に疲れを感じた。
「あんなのは、ガキが行って生きて戻れる場所じゃない。俺でもムリだ。警備が厳しすぎる。仮にそこまで行けたとして。発見即、殺されるな。戻ってこれやしない。おまえ、現に今、俺にも殺されかけたろ?」
 まったく。
 何かと思えば海が見たいだと? 
 くそっ、バカバカしい。いかれたガキだ。
「コード、聞こえるか?」
 数秒後。
 インカムから聞きなれた声が返ってくる。
「聞こえます。位置情報も更新。状況を報告してください。戦闘結果は?」
「おれは無傷だ。負傷なし。セミオートの消音発砲で7か8、命中4。敵兵1。敵兵は被弾し負傷。被弾部位は左下脚部と上脚部。だが、そいつは敵じゃなかった」
「それはどういう意味?」
「どこぞのガキが共同溝に入りこんでいた。そいつに遭遇。自己防衛のために先制で撃ったが、そいつは火器は持ってなかった。中立民間人ってやつだ。で、今、そいつに最低限の止血処置をした。出血量はそれほどでもない。ただ、自力での歩行は無理だ」
「シティの子供ですか?」
「いや、キャンプのだ。海が見たいって言ってる」
「海? 意味がよくわかりません」
「そうだろう。俺にもよくわからん」
 俺は小さく笑う。
「で、どうする? こいつを放置して移動を続けるってのもありか? 放置は許可されるケースなのか、負傷してても? それともやはりあれか、お前らが好きな『人道的観点』ってやつで、救出同伴を優先すべきケースなのか?」
「12秒待ってください。データベースにアクセスします」
「12秒? 長いな。早くしてくれよ」
 コードの沈黙は必要以上に長く感じた。
 俺の脇で、子供が荒い息をしている。
「提案します」
「ああ。提案してくれ」
「可能であれば救出同伴を。シティの制限エリア外まで同伴し、中立の治療機関で必要な措置を」
「なるほど。で、もし可能でない場合は?」
「その場合には、やむをえず放置して移動することも認めます。その場合、単独にてすみやかに制限エリアから撤収、最短距離内にある前線司令部に帰還し、今回の行動記録詳細を報告―」
「待ってくれ、待ってくれ。いま一番聞いときたいのはここだ。要するに。同伴可能、不可能の判断は、誰が、どのような基準に基づいて決めるのか?」
「それは当事者たる活動家が、その時点での周囲の多様な状況を総合的に分析し、判断します」
「ん、それはつまり、俺自身が、その場の判断で決めろと?」
「はい」
「なるほど」
 おれは深く頷く。
「なるほどよくわかった。いつもいつも素晴らしい提案に感謝する。涙が出るよ。じゃあもういいから、現在の位置情報から可能な経路を複数提案してくれ」

 コードの時間予測よりも二分以上早く地上に出た。
 時刻は1427。
 そこは淀んだ川で、川というより排水路といった感じか。
 両側を貨物軌道に挟まれている。
 軌道はここより高い位置にあるので、それより向こう側は、こっちからは見えない。逆に言えば向こうからもこっちが見えないってわけだ。まあ、逃走経路としては悪くない。
 空にも何も見えない。
 飛行するものも何もない。
 音も聞こえない。
 あの嫌なスカイスクータのルルルの高周波も。
 フィールドスイーパのグバグバいう低音も。
 空は憎たらしいほど青く、雲ひとつ見えない。
 陽射しはまっすぐで、殴りつけるように強い。
 ふん、コードのヤツめ。珍しく、わりにまともなルートを言いやがったな。
 俺は自分から先に這い出して。
 そのあと狭い穴の中から、子供の腕をつかんで引っぱり上げた。
 明るい場所で、子供の脚を再確認する。
「おい、どうだ。痛むか?」
「ん、まあ、わりとね。でもまあ、何とかなる」
 そう言って子どもは、ちらっと笑った。
 明るい場所で見ると、まったく貧相なガキだった。
 ガリガリにやせて、ボロい服を着て。
 そのくせ目だけがやけにギラギラ光っている。
 それに匂うな。ちゃんと風呂くらい入れよ。
 髪がまたヒドい。生まれてこのかた、まったくとかしたことないんじゃないのか。それともあれか、近頃はこういう髪型が流行ってるのか。
 クソッ。
 見るからに惨めったらしいキャンプのガキだ。
 根っからの落伍者。生まれながらの貧民。
 二級市民。三級市民。いや、市民ですらない。流民。棄民。難民。
 ま、とはいえ。
 俺は鼻をふくらませてひとりで笑う。
 俺の生まれもな。
 まあ自慢じゃないが、あまり人のことを言えた義理じゃない。
 ここいらのキャンプほどひどくはないが。
 それでもまあ、貧乏人ばかりの、しみったれた地区だった。
 マーケットに行ってもろくな服を置いてなくて。
 工具も銃も薬も何も入ってこない。
 仕方なく。
 夜毎に仲間と別の街区を荒らしに行っていた。
 靴もよく盗んだな。
 はじめに銃を盗んだのは、わりとこの近くだったか。あれもそうだな、半分は失敗して死にかけたな。馬鹿なガキだった。
 そうだ。
 きっとガキの頃の俺も、こういうふてぶてしい貧相な面をしてたんだろう。
 さぞかし汚らしいガキだったんだろうな。ま、違いない。
「いいか、よく聞けよ」
 おれは身を低くして、そいつの耳もとで言う。
「これから水路沿いにしばらく走る。たぶん十分くらいだ。この十分、いちばんリスクが高い。いいか、十分、ひとことも口をきくな。傷が痛んでも声を出すな。いいか、十分だ。おれが許可を出すまで、決して音をたてるな。わかったか? わかったら頷け」
 わかった、とそいつが首を動かした。
 真剣な目をしている。
 その目の中に、怯えの影は見えない。
 よし、いい目だ。
 俺はそいつを背中にかついで。
 頭を低くし、全速力で水路沿いを北上する。
 不自然な姿勢での疾走は、足にはかなりの負担だ。
 まもなく足の筋肉が悲鳴をあげる。
 が、俺はその悲鳴をねじ伏せる。
 バカやろう、今は痛いとかつらいとかキツイとか言っている時じゃないんだ。動けよ、ほら、動けっ、おれの体っっ!
 ジャケットの下は、防弾ベストの外まで汗でグチョグチョだ。
 子供の体温が直接俺の背中に伝わり、それがまた新たな汗を呼ぶ。
 傷が痛むのだろう、子どもはときおり「ウッ」という呻きを発した。だがその声はごくかすかで、遠くのセンサーが作動するようなレベルではない。よしよし。まずは及第点。ちょっとは褒めてやるよ。
 すでに五分は走った。
 ここまでは順調に来ている。
 コードの情報によれば、あと二分で別の水路と合流。
 そこから真東に進むと、すぐに貨物軌道の集積ポイントに出る。
 そいつは単なる資材貨物線の、ローカルな集積ポイントに過ぎない。
 警備は甘い。
 複数の動体センサーが設置されてる可能性はある。
 が、そいつにさえ注意すれば。
 基本、そこは無人のポイントだ。
 そこに着いたら。
 慎重に無理なく、北部方面行きの車両の間にとりつく。
 そのまま、自動操縦の貨物列車は、俺たちを第十八チェックポイントまで運んでくれる。
 そこが最後の関門。
 とは言え、基本、シティ外に向かう貨物線のチェックは甘い。何しろ、一日二百以上の貨物がそこを行き過ぎるわけだ。いちいち全車両を検査することはできない。
 無事にそこさえ過ぎれば。
 あとはもう、シティの制限領エリア外だ。

 やがて前方に。
 俺たちの行く手を遮るようにして、大きな水路が見えてきた。
 貨物軌道が四本、高架になって、水路の上で交差している。
 エンロン鋼製の橋脚が太陽の直射を受けてギラギラ光っている。
 目に入った汗を指で拭いとり、俺は少し走るペースを落とした。
 よし、ここが勝負どころだ。
 ここを通れたら、あとは―

「ああっ!」

 突然、頭の後ろで声がした。
「バカやろう! まだ声を出すなっ! 俺があれだけ―」
 俺は小声で叫ぶ。
 だが、そのとき。
 俺の首筋に。
 妙な感触が走った。
 液体?
 生ぬるい。
 血…… なのか?
 そうなのか?

 シュッ シュッ
 シュッ シュッ

「あっ! しまっ―」
 
 子どもは瞬時に全身を打ち抜かれた。
 腕はちぎれて吹き飛び、ボロボロになった体は、
 見とれるような放物線を描いて、
 赤い飛沫の軌跡を残しながら、
 落ちていく、落ちていく。
 はるか下の、よどんだ水面に向かって。
 
……を見たかったんだ。おれ、まだホントの海を見たことが……

 直後に俺は伏せの姿勢をとる。
 同時に、足もとのコンクリートを銃弾が叩いた。

 シュッ、シュッ
 シュッ、シュッ、シュッ

 くそっ、センサーライフルか。
 いったいどこから?
 あの正面のタワーか?
 それとも橋の上か?

 シュッ、シュッ

 銃撃は続く。
 上。
 前方から。
 やはりあのタワーか。
 シュッ 
 くそ、今のは近かった!
 だが、
 シュッ
 シュッ 
 あと少しだ。
 あそこまで……
 シュッ 
 あそこまで這っていけば、
 シュッ
 橋脚の、死角になる。
 シュッ 
 くそっ、死ぬかよ、こんなところで。
 シュッ 
 シュッ
 俺は、まだ死なねえ。
 死ねるかよ、こんな、こんなところで!
…………
…………


 百二十両編成の資材貨物。
 西バンガ湾に面した断崖の上を中速度で走っていく。
 日没が近い。海の上の空には雲が出始めている。
 後ろから十五両目。
 あるいは十七両目くらいか。
 ガクガクと上下に揺れる錆びた鋼製の荷台の隅で。
 俺は肩に巻いた止血帯を、ノロノロと交換した。
 利き腕じゃない方の手でやったから、ずいぶん時間がかかった。
 だが。
 何とかそれが終わると。
 俺は冷たい鋼鈑にもたれて。
 あとはもう、何も考えずに海の方を見ていた。
 ひどく疲れていた。もう、何をする気も起こらなかった。
 海の向こうに夕日がかかり。
 ハッとするようなオレンジの光。
 海と、俺を乗せた列車と。
 世界の何もかもを包んでいた。
 すべてが光の中にあった。
 海はほんとうに、輝いていた。
 眩しいくらいに。

「こちらコード。これより今後の行動計画を提案します」
 
 インカムからいつもの声。
 くはっ、本当に空気の読めない奴だ。
「提案はまたあとにしてくれ」
 小さな声で、俺は言った。
「それより。ほら見ろよ、あれ」
「不規則発言。いったい何を見ろと言うのですか?」
「海だ」
「海?」
「ああ」
 俺は、ゆっくりと目を閉じた。
 目を閉じても。
 オレンジの光は、まぶたを通して俺の眼球を焼く。
 焼く。
 その焼きつくす光の洪水の中で。
 俺はまた、あいつの声を聞いた。

……ホントの海には、白い砂があって、椰子の木が生えてて、大きな夕日が沈んでいくんだ。イルカやカメもいるんだよ。そういうのを、一回でいいから、一回でいいから、一回で―

「もうわかった。もういいから黙って見ろ」
 目を閉じたまま、俺は言った。
 あるいは俺は泣いていたのか?
 いや。そうじゃない。
 涙なんてものはもう、とっくに―
「見ろ。見えるか? あれがそうだ。お前が言ってたヤツだ」
 俺は小さく笑った。
「見ろ。あれがホントの海だ」

しおり