悪い死神と良い死神
気がつくと天井が見えた。
ポツポツ小さな穴が開いているのは、確か保健室の天井だ。
その天井をボーッと見ていると、大きな丸い眼鏡をかけた小さな顔が視界に入ってきた。
<本の虫>だ。顔に怪我はない。無事だったのだろう。
「先生! 気がついたみたいです!」
彼女が視界から消えると、今度は眼鏡をかけた怖い顔が視界に入ってきた。
担任のカオル先生だ。
「マモル! またやらかしたな!」
授業中の優しい声ではない。別人バージョンだ。
記憶喪失のふりをして
「俺、何かしましたっけ?」
「五人治療中」
「記憶がありません。また病院送りですか」
「いや、そこにいる。……おい、お前ら!」
カオル先生が視界から消えた。
「マモル相手に挑発するな! 自業自得だぞ!」
へーい、と複数の気が抜けた声がした。
こんな連中と喧嘩したのかと思うと、こちらも気が抜けた。
カオル先生がまた
「お前も挑発に乗るな。また兵隊さんと乱闘にでもなったら、大事だからな」
「へいへい」
そう言ってヨイショと起き上がった。ベッドが軋んだ。
五人がちょうど保健室から出て行こうとしているところが見えた。
ベッドの軋む音で五人全員が振り返った。全員包帯やら絆創膏で治療を受けた跡が痛々しい。
中央にいた真打ちが口を開いた。
「マモル。俺のこと、覚えているか?」
「いや。悪りぃ」
「だよな。俺はタケシ。昔よくお前と喧嘩したタケシだよ。お前とやり合って、なんか昔に比べてちと違う気がしたけど、今も相変わらずつえーな」
「そうか」
「それはそうと、そいつ、お前のカノジョか?」
彼は顎で<本の虫>を指す。
俺は彼女を見た。
彼女は顔を赤らめて目を逸らす。
一瞬迷ったが、あの行動の正当な理由を説明しなければいけないと思った。
「ああ、そうだよ」
俺は彼女をもう一度見た。
彼女は目を見開き一層顔を赤らめ、照れている顔をした。
「わかった。お前の彼女ならもう手は出さないから安心してくれ」
彼らはゾロゾロと保健室から出て行った。保険医の先生もカオル先生も続けて出て行った。
俺達は二人だけになった。
「もう手を出さないそうだ。安心だな」
「こんなことになって、ゴメンなさい。私のために大怪我までして」
「大丈夫。それより、なんで絡まれた?」
「ああ、……あの人達の一人が購買部で万引きをしたらしく、それが先生にばれて。私、そんな事件も知らないので、告げ口など出来るはずがありません」
「言いがかりだな。それだけで絡まれるのはおかしい」
彼女は言いたくなさそうだ。
「ゴメン、聞いちゃいけないことだったかな」
彼女はしばらく考えてから言った。
「学校で死神の話が広まっているの、知りません?」
「全然」
「私、その死神扱いされているの」
彼女は涙ぐんだ。
「ヒドイ話だな。でも、なんで?」
言いたくないだろうが、理由を聞かないと守ることも出来ないのだ。
「……私、
「ミガニシ イヨさん?」
「はい。これでピンときます?」
「全然」
「みんなそういう人ばかりなら良かったのですが……」
彼女が人差し指を下から上に動かして言う。
「逆から読んでみてください」
一文字一文字逆からたどって、その理由が分かった。でも納得はしなかった。
「私、自分の名前が嫌いです。だからペンネームがあります」
彼女はそう言うと、しまったという顔をして両手で口を押さえた。
「ペンネーム?」
彼女は
「どうした?」
しばらく沈黙が続いたが、彼女は諦めたらしく、深い溜息をついた。
「仕方ありません。絶対に秘密にしていただけますか?」
「ああ、もちろん」
彼女は声を低くして言う。
「……私、学校の誰にも、先生にも秘密にしているのですが、本を書いているのです」
俺も声を低くした。
「作家さん?」
とその時、急に遠い記憶が蘇ってくる。
(あれ?……作家か誰か探していたような気がする……なぜ?……どうして?)
同時に、心の奥底から何やら
(イヨを探せ……イヨを探せ……<本の虫>を探せ)
イヨなら目の前にいる!
(見つけた)
俺の後頭部に冷たい何かが走り、それが背筋や肩や腕に広がっていく。
俺は作家か誰かを探していたらしい。
イヨを探せ、と心の中で声がする。
今、目の前にいるのは作家のイヨ。
ならば
でも、何故イヨを探さなければいけないのか。
その
「詳しくは後でお話しします」
「わ、……わかった。じゃ、そろそろ帰らないと」
「大丈夫ですか? その怪我で」
「ああ、タフだから」
「……ちょっと聞いていいですか?」
「何?」
彼女はモジモジして言う。
「カノジョ……ですか?」
こちらも彼女の態度が移ってしまった。
「……タ、タイプ、……です」
彼女は真っ赤になって俺を見る。
「あ、あのー、……お名前を教えてください」
「
「わ、私もイヨでいいです」
「じゃ、帰るか」
「は、はい」
とその時、忘れ物を急に思い出した。
(そう言えば、17時に誰かと待ち合わせていたはず!)
しかし、もう待ち合わせ時間はとっくに過ぎているし、この怪我の状態では会いに行けない。<何とかかんとかさん>との待ち合わせは諦めることにした。
教室へ鞄を取りに行くと、遠くでピアノの音と合唱が聞こえてきた。
まだ練習しているらしい。
さっきも気になったので、音の聞こえる3階へ行ってみた。
合唱は音楽室の方からだ。
音楽室の近くに行くと、廊下でしゃがみ込んでいる女生徒が見えた。
大きな人形を抱えている。例の<小学生>だ。
音楽室の扉の前に陣取り、壁を背にして指をしゃぶっている。いや、爪を噛んでいるのだろう。
ちょうど音楽室の中では練習が終わったらしく、ガヤガヤと声がする。
「今日は私んちだよね?」
「そだよ。泊めてね。よろしく」
「明日は私んち」
「そだよ、よろしく」
「次は私んち」
「うん、ありがと」
なんか楽しそうだ。
扉が開かれて、色とりどりの髪の女生徒が出てきた。
その中に黄色い髪でマネキンのように美しい女生徒が混じっていた。
彼女は笑顔で「キャー!」と言って<小学生>の人形に近づいて言う。
「カワイイ~」
彼女は人形をなでなでする。<小学生>が微笑む。
「今日はクマさんよ。カワイイでしょー」
アニメに出てくる小さな女の子によくある可愛い声だ。
「ウンウン」
他の女生徒も二人を取り囲むように集まる。そんな
昇降口に行くと、イヨに会った。
彼女はちょうど靴を履き替えているところだった。
「まだ連中がうろうろしているかも知れないから、一緒に帰る?」
彼女は俺の申し出にちょっと迷っている様子だったが、軽く頷いた。
帰り道に彼女は少し秘密を話してくれた。
本を書いているとは、小説のことだった。
学校では普通の生徒の顔をして、学校に行く前と家に帰ってから執筆活動を続けている。
出版社の担当さんとは携帯電話で連絡を取り、秘密の場所で原稿の受け渡しをしている。
将来の夢は作家になることだそうだ。
でも、彼女は絶対に秘密にして欲しいと言う。
本を書いているという活動は素晴らしいことであるはずなのに、それを何故秘密にするのだろうか。
『私があの本を書いているのです』と鼻を高くするのはどうかと思うが、その本の作者であることが知られても本人が迷惑するとは思えない。
何か知られては困る内容の本でも書いているのだろうか。
全く自信がなくて読まれるのが恥ずかしい本なら、公表しないはずだ。
会話は読書の話題に移った。
「本は読みますか?」
「あまり読まないなぁ。漫画くらい」
「そう」
「書くだけでなく、本を読むのも好きなの?」
廊下で本を読んでいる彼女を何度も見ているから聞かなくても当たり前の話なのだが、どのくらい好きかを確認したかった。
「本は好き。読むのは小説、随筆、脚本だけ。時代考証等で他のジャンルの本を読むことはあるけど。もう学校の図書館は制覇したの。市内の図書館はもう少しで制覇できるわ」
「凄いなぁ」
「読み過ぎるから、活字中毒者と言われるの」
(そんな中毒もあるんだ)
彼女と言えば、廊下のとある定位置が前から気になっていた。意地悪に聞こえるかも知れないが尋ねてみた。
「いつも同じ場所で立ち読みしてない?」
彼女は恥ずかしそうにこちらを向く。
「見られていましたか……あの場所は私のお気に入りで、あそこで本を読むと、もの凄く落ち着きますから」
「チャイム鳴っても読んでいるよね?」
「気づかないの。それでみんなから放置され、毎回廊下に一人取り残されて先生に怒られて」
「帰り道にも本を読む?」
「それはもう」
「今日は読まない?」
彼女は
「話ができません」
気がつくと俺の家の近くだ。
「帰り道がずっと同じ方向だね」
彼女は首を軽く傾ける。
「怪我人を一人で置いていけませんから」
昇降口にいたのは偶然かと思ったが、そうではなかったようだ。急に頬がポッと熱くなる。
「あ、ありがとう。家はそこだから」
「お気をつけて」
「ああ」
彼女は一礼して逆方向に帰って行った。
(どう見ても死神に見えない。人を怪我させる俺の方が悪い死神かもな)
俺は薄暗くなってきた空を見上げた。
雲はほとんどなく、明るい一等星が瞬いている。
この時、彼女との出会いがその後の予想外、かつ波瀾万丈の展開になるとは微塵にも思わなかった。
これから並行世界で俺の人生が全く変わってしまうほどの事件が起こるのだが、その予兆すらなかったのだ。
なお、家に帰ってから妹に喧嘩のことで散々叱られたことは、波瀾万丈には含めていない。