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納豆タイムリーパー(14)

 深夜、旧物理準備室の窓の外では、風が木々を鳴らし、遠くの線路の音がときおり震えるように響いていた。部屋の中、冷蔵庫の唸るような低音だけが一定のリズムで空間を支配している。その音が、今は奇妙に“心臓の鼓動”のように感じられた。

 浩平は記録ノートの最後のページを睨みながら、じわりと背中に汗をかいていた。再封印は不完全――器の目覚めは“その子”に辿る。文面の冷たさと曖昧さが逆に核心を突いていた。この記述が誰の手によるものかは不明だった。だが、筆跡は以前見た“番人の記録”のものと酷似しており、それが“誰かがなりかけている”ことを意味しているとしか思えなかった。

「“その子”って……やっぱり私なのかな」

 優花が囁く。声には明確な怯えがにじんでいたが、それを無理に笑ってごまかすことも、強がって拒絶することもしなかった。その静けさが、返って彼女の覚悟の深さを示していた。

「可能性は高い。あの壺の発見日、最初に夢を見始めた時期、どれも君の記憶と一致してる」

 明が静かに言う。感性で人を読む彼が、あえて事実のみに言葉を絞るのは珍しかった。

「混ぜてる意識がなくても、君の精神が“通路”になってたなら……その器は、君を通してまた目覚めるかもしれない」

 はるなが補足するように口を開いた。「意図して混ぜたんじゃない、けど夢の中で無意識に混ぜていたなら、影響はある。それに、納豆の混ぜ回数による“発酵振動”は、実は脳波に影響を与えるって研究論文、どこかで見たことがある」

「そんな理屈があるかよ……でも、妙に納得できるのが怖いな」

 雄飛が小さく呟き、頭をかいた。いつも人を疑わない彼ですら、今回ばかりは言葉に慎重になっていた。

「つまり、霊納豆の器は、再び“媒介”を求めてる。それが、優花――お前ってことか」

 浩平の言葉に、優花はゆっくりと目を閉じ、数秒黙った。

「ねぇ、もし私がまた戻っちゃったら、そのとき、どうすればいい?」

「もう混ぜない。戻っても混ぜないで。そのままじっとしてて。時間は自然に進む。俺たちが探すから。どこにいようと、絶対に迎えに行く」

 そう言いきったとき、優花の目に浮かんだ涙がすぐに溢れないよう、彼女は唇をかみしめた。

「ありがとう。でもね――」

 彼女はポケットから、破れた封筒を取り出した。中には、もう一枚だけ古文書の切れ端があった。古びた文字が薄れて読み取りにくいその断片に、かろうじてこう記されていた。

《“納豆を混ぜる者、三十三人に達すれば、扉は閉じる。器は沈み、番は眠る”》

「これが……終わりの条件か?」

 はるなが読み上げながら言う。

「つまり、“混ぜる者”を三十三人にすれば、“力”が分散されて霊は姿を失う。これ、儀式の分配か」

「じゃあ、協力者を探す?」

「……違うな」

 浩平は首を振った。

「これは、“巻き込まれた者”を集めろって話じゃない。“選んで混ぜた者”を、自覚的に三十三人にするってことだ。つまり、意志ある三十三回の混和。それが条件」

「でも今まで、俺たち含めて何人だ?」

「八人。俺、優花、明、はるな、亜里沙、雄飛……それに、記録にだけ名前のあった無名の混和者が二名。全部で八」

「……足りない」

 優花がそっと呟いた。

「でも、あと二十五人、“願って混ぜる”人がいれば、この器はもう目覚めない」

「じゃあさ、広めようよ。この話」

 浩平は静かに言った。

「“納豆を一緒に混ぜてくれる人、募集してます”って。冗談みたいでいいじゃん。SNSでも何でも使って、興味半分でも構わない。“混ぜること”に意味を与える。それでいい」

 皆がしばらく黙っていたが、明がふっと吹き出す。

「納豆混ぜようキャンペーンか。……やってやろうじゃん。俺、音楽にして投稿する」

「じゃあ私はポスター作る。部活のプリンター使えばいける」

「俺はカフェの店長に聞いてみる。“納豆混ぜてもらえますか?”って」

「私は……黙ってるの得意だから、裏で支える」

「私も一緒に混ぜるよ。納豆、嫌いじゃないし」

 こうして、新たな“儀式”が始まった。科学とも信仰ともつかない、霊とも都市伝説とも言い切れない、しかし本気の“納豆混和作戦”。それは冗談の皮をかぶりながら、本気の祈りを込めて拡散されていった。

 納豆は、誰かの時間を巻き戻すかもしれない。

 けれどそれを、分け合えたなら。

“戻らないための選択”もまた、希望になる。

(次:15へつづく)

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