納豆タイムリーパー(15)
SNSに投稿されたのは、ごくありふれた内容だった。「納豆を混ぜてください」という一文と、「朝に四十回混ぜたらいいことが起きるらしい」という噂めいたタグ、そして六人が並んで納豆を混ぜている写真。校庭の隅、夏空の下、全員で笑っている姿は、どこか手作りの部活動紹介のようだった。それが“儀式”だとは、誰も気づかない。けれど、そこには確かな祈りが込められていた。
投稿はささやかに拡散された。面白半分、話題作り、ネタ探し。だが、それで十分だった。町中の小さな飲食店、保育園の給食室、病院の夜勤食、コンビニの休憩室。様々な場所で、いつもより一回多く、あるいは意識的にカウントされながら納豆が混ぜられていった。
“33人”という数字が、明確に可視化されたわけではない。それでも、投稿のログを追い、位置情報と重ね合わせながら、はるなが地図に赤い印をつけていくたびに、世界がわずかずつ“正されていく”感覚があった。誰もが少しずつ“昨日”を受け入れ、もう一度“今日”を生きることに集中し始める。曖昧だった空気が澄み、まるで“時間”が正常な呼吸を取り戻すようだった。
その中で、浩平は毎朝同じルーティンを続けていた。目覚めて、顔を洗い、食卓につき、納豆のフィルムを剥がす。箸を持ち、ゆっくりと、心の中で数える。
「いち、に、さん……」
そして必ず三十七回で止める。
「……これでいい。これが俺の、今なんだ」
部屋の窓の外では、蝉が鳴いていた。夏の光が網戸を通して斜めに差し込み、食卓の上に小さな光の枠をつくっている。何の変哲もない、ただの朝。それが、彼にとってどれほど尊くなったかは、もう誰にも説明できなかった。
優花からの連絡は、変わらず日々の中にあった。「今日、駅前でアイス」「夕焼け見に行かない?」そんな一言の向こうに、かつて失われかけた“ふたりの昨日”が確かに回復しているのを、浩平は感じていた。彼女の夢は、もうあまり続いていないらしい。「納豆混ぜても何も起きないし、ちょっとつまんなくなったね」と笑う顔が、どこか誇らしげに見えた。
町の空気も変わっていった。風紀室には“納豆研究会”のポスターが貼られ、生徒たちは冗談めかして「混ぜた?」「俺今日四十五回やったぜ」と言い合っていた。冗談だった。だが、そこにはどこか本当の“連帯”があった。“混ぜる”という単純な動作が、他人と繋がる手段になっていた。
「なぁ、浩平」
放課後、ベンチで缶ジュースを開けながら、明が言った。
「こうしてみるとさ、“戻れる”って、すごく危うい願いだったんだな」
「そうだな。俺、何回も“もう一度”って思ってた。でも結局、何も変えられなかった」
「けど、お前は“選んだ”。それがすごいよ。“やめる”って、勇気要るからな」
浩平は照れくさそうに缶のプルタブを見つめた。
「でもさ、思うんだ。“やり直したい”って気持ちは、誰にでもある。ただ、やり直せないって知ってるからこそ、今がちゃんと生きられるんだろうなって」
「……哲学者かよ」
明が笑った。ふたりは視線を空に向けた。夏の雲が、静かに流れていた。
その夜、六人は再び水戸東照宮の池の前に集まった。静かな風が木々を揺らし、虫の声が辺りを包む。あの日、霊が目覚めた場所。今はもう何の気配もない。ただの静かな水面に、空の星が映り込んでいる。
「三十三人は、超えたと思う」
はるながそう告げた。
「明確な証拠はないけど……でもね、記録帳の最終ページが、今朝閉じてたの」
亜里沙が言った。
「霊の気配も、記憶の“にじみ”ももう感じない。私自身、夢を見なくなった」
「なら、もう……大丈夫なんだな」
浩平は池にそっと背を向けた。
「最後に一度だけ、“混ぜよう”」
全員が頷き、小さなキャンプ用の机の上に、コンビニで買った納豆を並べた。パックの蓋を開け、フィルムを剥がす。箸を構え、全員で静かに数え始める。
「いち、に、さん……」
「四十!」
ぴたりと混ぜ終わった瞬間、空気が澄んだ。
池の水が、やわらかく一度だけ揺れた。
そして、何も起きなかった。
それが、何よりの“証”だった。
納豆は、もう何も戻さない。
そして、今日という時間が、本当に始まった。
(完)