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納豆タイムリーパー(13)

 夏休みに入ってから、浩平の生活は驚くほど平穏だった。毎朝きちんと起きて、納豆を混ぜてご飯にかける。それでも、何も“戻らない”。日付は前に進み、天気予報通りの午後の雨に傘を差し、夕暮れには遠くの雷鳴が聞こえてくる。かつてなら“やり直せる”と思っていた数々の出来事が、今では一度きりの重みを持って響いていた。

 彼はそんな日々に、ようやく慣れ始めていた。

 その日の朝も、彼は納豆を三十七回で止めた。クセになってしまったのか、脳が無意識にカウントしてしまう。四十を超えれば“境界”を越える気がして、慎重にやめる。その行為そのものが、浩平にとっては“責任を持つ儀式”になっていた。

 だが、平穏を破るのは、いつだってほんの小さな変化だった。

 スマートフォンに届いた一通のメッセージ。

《風紀室前に来て。ちょっと、見てほしいものがある》

 送り主ははるなだった。彼女がわざわざ用件も書かずに呼び出すことは滅多にない。浩平は食器を片付けると、すぐに自転車に跨った。

 風紀室は、夏休み中の校舎の一角にぽつんと残された空間だった。管理の都合上、施錠はされていなかったが、訪れる人もほとんどいない。薄暗く静かな廊下の先、扉の向こうに、彼女はひとり座っていた。

「お疲れ。来てくれてありがと」

「どうしたんだよ。何かあったのか?」

 はるなはうなずき、机の上に一枚のプリントを広げた。それは校内の備品管理表だった。そこには不可解な項目が記されていた。

《納豆研究部・仮部室申請 備品:冷蔵庫・発酵器・記録ノート・高感度センサー・密閉壺(備考欄に“拝借元:東照宮”とあり)》

「……誰が申請したんだ、これ」

「分からない。先生たちも誰が書いたか分からないって。でもこれ、提出された日付が……7月15日」

「俺たちが“もう戻らない”って決めた日の翌日だ」

 はるなは頷いた。

「記録上の“納豆研究部”は存在しない。でも、実際にこの部屋の隣の旧物理準備室には、“壺”が搬入されてる」

「それって……また“誰か”が始めたってこと?」

「たぶん。私たちの知らない誰かが」

 浩平は目を閉じた。繰り返される“始まり”の気配が、背中にぞくりと這い上がってきた。終わったと思っていた“タイムリープ”の構造が、誰かによってまた開かれている。

「優花には?」

「まだ伝えてない。本人が“混ぜてない”って言ってたから。でも、雄飛と明にはもう声をかけてる。今夜、全員で“そこ”を見に行こうって話になってる」

「了解。俺も行く」

 夕暮れ、校舎裏の旧物理準備室前。人気のない時間帯、集まった六人が、まるで秘密の会合のようにひそやかに集結していた。

「じゃ、開けるよ」

 亜里沙が鍵を差し込む。ガチャリ、と鈍い音と共に開いたドアの先にあったのは、かつて浩平たちが見たこともない、新しい光景だった。

 部屋の中央には、銀色に光る冷蔵庫。その隣には、蓋のついた木製の壺が並んでいた。ラベルが貼られており、それぞれに“日付”と“混ぜ回数”が記されていた。細かく記録された表には、“38回”、“41回”、“45回”と、すでに数度実験が行われた跡があった。

「これって……研究じゃない。“記録”だよ」

 はるなが囁く。

「誰かが、“今度は意図的に”時間の干渉を計測してる。無自覚な混ぜ手じゃない。明確な意思を持った操作者がいる」

 明が冷蔵庫の上に置かれたノートを手に取った。

「これ……俺の字と似てる。でも違う。誰かが、“番人”の書式を真似してる」

「じゃあ――」

 浩平が言いかけたとき、部屋の奥からカサッという紙の音が響いた。

 誰も動いていない。

 ただ一枚、机の上の記録表が、勝手にめくれていた。

 そして、そこにあった次のページには、こう書かれていた。

《再封印は不完全である。器の目覚めは、いずれ“その子”へ辿る》

「“その子”って……誰だ?」

 優花が震える声でつぶやいた。

 部屋の中に、再びあの“赤い気配”が、ほんのかすかに立ち上った気がした。

 そして浩平は、再び覚悟を固めた。

 まだ終わってなどいなかった。

(次:14へつづく)

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