納豆タイムリーパー(12)
優花の手の中で震える文書は、風にあおられながらも決して破れず、赤い印の押された古びた和紙が静かにその全貌を露わにしていた。「水戸納豆之書」。その文字が誰の手によるものか、もう誰にも判別できなかった。けれど、そこに書かれていた内容は、今の彼らにとってあまりに明白だった。
《納豆は、時の底に棲む霊の“記憶の器”なり。朝ごとに混ぜられ、霊は目覚め、昨日の夢を歩む。だが混ぜすぎれば、霊は喰らう。命と時間を、等しく溶かす》
その文言を音読したとき、池の底で光っていた赤い輝きが、ふいに沈んでいった。まるで警告を伝え終えた“何か”が、ようやく眠りに戻ったように。
「……ねぇ、浩平」
優花が静かに口を開いた。いつもの調子ではなく、どこか怖がるような声で。
「これってつまり、誰かが“混ぜすぎた”んだよね。私たちじゃなくても」
「“誰か”が、か……」
浩平は空を仰いだ。夏の雲がゆっくりと流れていたが、空のどこにも“昨日の空”は見当たらなかった。記憶の器――それはただの比喩ではない。“過去”は誰かの手の中に保存され、朝ごとの無意識な習慣で開かれ、繰り返し使われ、そして疲弊していく。
「じゃあ、その“誰か”を見つけなきゃいけないのか?」
明が口を開いた。やや硬い声だった。彼は番人になりかけた記憶をまだ鮮明に残している。だからこそ、あの時間のひずみの正体を誰よりも恐れていた。
「もしくは、その“誰か”の混ぜる手を止める術を見つける」
はるながぽつりとつぶやいた。「納豆の呪術性って、現代じゃもう忘れられてるでしょ? でも昔は、“混ぜる”って行為自体が“交信”だったって資料、何冊かで読んだことある」
「誰かが意図せず“扉”を叩き続けてる……。なら、俺たちは――」
浩平の言葉が途切れたとき、亜里沙がそっと前に出た。
「……ごめんなさい。たぶん、私だと思う」
その声に、全員が息をのんだ。
「え?」
浩平が聞き返すと、亜里沙は鞄の中から、古びた包みを取り出した。それは彼女がずっと誰にも見せなかったもの、祖母から“日記帳”と称して受け取った家系の記録だった。
「私の家、ずっと納豆の仕込みをしてるの。昔から、毎朝五十回、混ぜるって決まってて。途中で止めると不吉が起きるって言われてた。……でも、最近変な夢ばかり見るの。私のせいで、誰かが泣いてる夢。毎晩、混ぜるたびに、誰かの時間が崩れていく気がしてた」
「それで、黙ってたのか?」
「うん。私、何も変えたくなかった。決めたことは続けたい。でも、もし……もしそれが誰かを壊してるなら、止めなきゃって……でも止められなかった。だってそれが、私の“唯一の習慣”だったから」
その言葉に、浩平は思わず近づいた。
「亜里沙、それを続けることは、別に悪いことじゃない。でも、それが誰かの時間に影響してると気づいたなら――それでも続ける理由は、何?」
しばらくの沈黙のあと、亜里沙がぽつりと答えた。
「……安心できるから。混ぜてる間だけ、“今日”を感じられる。昨日にも、明日にもなれない時間を、今だけはちゃんと“いま”にできるから」
その言葉に、誰も反論しなかった。彼女のような“日常の継続”の中で心を保つ者にとって、習慣とは呼吸に近い。否定すれば、それは“生きる形”そのものを否定することになる。
だが、浩平は言葉を選んで静かに続けた。
「じゃあ、せめて……混ぜる回数を減らさないか?四十回までにすれば、きっと霊は目覚めない。夢の記憶も消えていくかもしれない。……一緒に数えてみようか?」
亜里沙は、涙は見せなかった。ただ、わずかに頷いて、「うん……」と呟いた。
その夕方、神社の奥の祠の前に、みんなで小さな納豆パックを一つだけ持ち寄った。
そして、全員で箸を持ち、声に出して数えた。
「いち……に……さん……」
その数を、誰かが間違えればやり直し。でも、誰も焦らなかった。
「……三十九、四十」
混ぜ終わったとき、風がふわりと吹き、木々が柔らかく揺れた。
もう霊の気配はない。
もう時間は戻らない。
でも、それでよかった。
一回だけの“今”を、みんなで数えた。これからも、そうして生きていくと決めた。
そして浩平は、納豆を白ごはんにのせながら、初めて心からこう思った。
「納豆、うまいな」
誰もが笑った。
(次:13へつづく)