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納豆タイムリーパー(11)

 それから数日間、浩平は意識的に“納豆を混ぜる”ことを避けていた。朝の食卓に出されても、何気ない顔でみそ汁とご飯だけを口に運び、箸先は納豆パックに触れずにいた。最初の頃は、母親に「また偏食か?」と眉をひそめられたが、浩平はただ「気分じゃないんだ」と苦笑いでごまかした。やがて母も何も言わなくなり、代わりに冷蔵庫に納豆が溜まりはじめた。

 それでも、彼は“あの日々”を思い返さなかったわけではない。あの繰り返しの中にしかなかった特別な瞬間が確かに存在していたこと、後悔や迷いのすべてが“時間を戻せる”という救いによって変質していたこと――それらを思えば、いまこの一度きりの時間が、時に不安でたまらなくなった。

 夏休み目前の金曜日、下校途中に明からメッセージが届いた。「明日の昼、来れる?」という短い誘いだった。場所は例の池、つまり水戸東照宮の裏手。既視感と、ほんの少しの緊張を抱えながら浩平は「行く」とだけ返信した。

 翌日、空は鈍く曇っていた。風が強く、湿った空気が重く胸にまとわりつく。境内の木々がざわめくなか、浩平が池のそばに立つと、そこには既に明、はるな、雄飛、亜里沙の姿があった。

「なんだよこれ、同窓会か?」

 浩平が冗談めかして言うと、雄飛が相変わらずの笑顔で返した。

「同窓会ってほど昔じゃないけどさ、みんなで集まるのって久しぶりじゃん?」

 はるなは頷き、ノートを開いた。「“あの件”が終わってから、私たち、なんとなく避けてた気がする」

「記憶が薄れてるのがわかってたからかもしれないな」

 亜里沙が静かに言った。その声音には、ほんの微かに迷いのような影があった。彼女はあまり多くを語らないが、その分、選ぶ言葉には意味がある。

「でも今日、ここに来たのは……なぜ?」

 浩平の問いに、明が手にした一冊のノートを掲げた。それは、以前彼が持っていた“記録帳”だった。誰が何回戻ったか、どの言葉をいつ誰が使ったか、どこで“世界のズレ”が生じたかを記した、かつての“番人の備忘録”。

「ページが、一つ増えてたんだ」

「……え?」

「昨日まで白紙だったページに、“選択はまだ終わっていない”って書かれてた」

 はるなが眉をひそめる。「それ、誰が?」

「わからない。俺は絶対に書いてない。けどインクの色も筆跡も、俺の記録と同じだった」

 浩平は無言でノートを受け取り、そのページを見た。そこには確かに、明朝体のような整った文字で、たった一文が書かれていた。

《選択はまだ終わっていない。戻らないこともまた、選択である》

「……意味深すぎる」

 浩平が吐き出すと、明は神妙に頷いた。

「俺たちが思ってる以上に、“この世界”は柔軟なんだ。選び続ける限り、道は動き続けてる。止まっているようで、過去も現在も、微細に揺れてる」

「誰かが、また“混ぜ始めた”ってことか?」

 亜里沙がぽつりとつぶやいた。

「それが私たちじゃない誰かだとしたら、何のために……?」

 はるなが言う。

 その時、風がぴたりと止まり、木々のざわめきが消えた。まるで空気が凍ったかのように。

 池の水面が、不自然に揺れた。

 全員の視線が集まったその瞬間、再び“赤い光”が、底からじわりと浮かび上がった。

「……まさか、また?」

 浩平の声が掠れる。

 けれど、それは以前のような濁流でもなければ、破滅の予兆でもなかった。

 そこに現れたのは――人影ではなく、一冊の小さな古文書だった。

「これは……“水戸納豆之書”……?」

 優花の声が背後から聞こえた。振り向くと、彼女が息を切らせて立っていた。手には持っていたであろう封筒が破れ、その中からこぼれ落ちたメモの断片が風に舞っていた。

「夢を見たの。また……でも今度は、火じゃなかった。“扉”だった。誰かが“時間の底”から私を呼んでたの。納豆を混ぜろって」

「じゃあ――まだ、終わってない」

 浩平は小さく呟いた。

 物語は閉じたと思っていた。だが“やめた”と思っていた納豆が、また誰かの指先で回り始めたのだ。

 そしてその音は、確かに世界の奥で、再び時を溶かしていた。

(次:12へつづく)

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