納豆タイムリーパー(08)
放課後の図書室は、静かだった。校内放送で下校時刻が告げられた後も、夕陽はまだ窓際に長く射していて、木の棚に並ぶ本の背表紙をひとつひとつ、丁寧に金色に染めていた。浩平はその光に背を向けるようにして、参考書の陰から顔を出した。
すぐ向かいの机に、優花がいた。彼女は持ち込んだ文献を一冊ずつ開き、熱心に何かを調べている。その横顔は、以前の記憶の中で何度も見た光景とそっくりだった。けれども、そこにあるのは“まったく新しい現在”だった。
彼女の右手が止まり、ふとこちらを見た。
「……浩平。ねぇ、今日さ……変な夢、見なかった?」
「夢?」
「うん。なんか火事みたいな場所で。私、着物着てて、誰かの名前を呼んでて……。で、納豆がどうのこうのって」
彼女はそう言って笑った。けれどその笑いは、どこか不安げで、まるで何かを確かめようとしているかのようでもあった。
浩平は目を細めた。
「……俺も見た。今日の朝、妙に頭に残ってて。火の中で走ってて、誰かを助けようとしてた気がする。誰だったのかは、もう思い出せないけど」
「だよね。なんか……妙にリアルだったの。あの光景、どこかで本当に見たような気がして」
彼女は視線を落とし、自分のノートにペンを滑らせた。そこには、既に書き溜められた謎の単語がいくつも並んでいた。“霊納豆”“水戸黄門の家系”“時間の壺”“番人の影”。浩平はその文字をひとつずつ読んでいったが、口には出さなかった。
それらは確かに、かつて共有していた記憶だった。だが今はもう、彼女にとっては“夢の中の象徴”でしかない。
「記憶って、不思議だね。どこまでが夢で、どこまでが事実か、たまに分からなくなる」
優花がそう言ったとき、浩平は頷いた。
「でもさ、たとえ夢でも、それが“何か大切なもの”だったなら、意味はあるんじゃないか」
彼女は目を見開いた。そして、少しだけ笑った。
「うん、たぶん、そうだと思う。……って、なに真面目に語ってんの、あんたらしくないじゃん」
「おい、誰が“らしくない”だよ。これでも俺、ちょっとずつ成長してるつもりなんだけどな」
「ふーん、じゃあ、次に戻ったらもっとマシになってるかもね」
「戻らないけどな」
「……え?」
浩平はペンを置いて、まっすぐ彼女を見つめた。
「俺、もう戻らないって決めたんだ。“過去を選ばない”って。どんなに後悔しても、どんなにやり直したくても、このままの今日を歩いていく。たぶん、それが俺にできる唯一の“時間の修正”だから」
優花は言葉を失っていた。机の上で揺れる陽光が、彼女の頬に柔らかく当たる。浩平は、彼女が何かを思い出すのを期待していたわけじゃなかった。ただ、伝えたかった。今この時間を、自分は“真剣に生きている”と。
「……じゃあさ」
優花は立ち上がって言った。
「次、私が夢に出てきたら、“もう一度名前を呼んで”くれる?」
その言葉が、浩平の胸に深く残った。
「もちろん」
そう答えたとき、図書室のスピーカーが“閉室”のアナウンスを流した。
ふたりは荷物をまとめて、並んで出口へ向かった。図書室の扉を開けると、廊下に淡い光が伸びていた。過去ではない、やり直しでもない、“一度きりの今”がそこにあった。
ふたりの影が、長く伸びて、ゆっくりと並んで重なった。
そして今日という一日が、音もなく終わり始めていた。
(次:09へつづく)