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納豆タイムリーパー(09)

 日曜の朝。校門も閉じられたままの静かな通学路を、浩平は一人歩いていた。休日なのに、制服のズボンを履いているのはただの習慣で、きっちりと折られたシャツの袖も、出かける予定があるわけではなかった。けれど今日は、どうしても“あの場所”をもう一度、確かめに行かなくてはならない気がした。

 水戸東照宮の境内に入ると、空気が凛としていた。夏の湿度を帯びた風が木々の葉を擦り、鳥のさえずりが遠くで交差する。人影はなく、拝殿前の石畳が朝陽に白く光っている。浩平は迷わず、あの池のほとりへ向かった。

 一年前の“巻き戻し”の中で、何度もここへ来た。封印された壺、赤い霊、そして“時間の選択”――すべては、ここで始まり、終わった。けれどあの日以降、池の水は濁りもせず、鏡のように静かだった。まるで何も起きなかったかのように。

「なあ……お前、まだ見てるか?」

 問いかけた先に、応える声はなかった。

 けれど、池の底に揺れる自分の顔が、ふいに歪んだ気がした。さざ波でもない、風でもない、記憶そのものがざらりとした手触りで揺れたような錯覚。浩平は試しに、池のほとりにしゃがみこんで、小石をひとつ水面に落とした。ぽちゃんという音と共に、波紋がゆるやかに広がる。

 その瞬間だった。

「やっぱり、ここにいた」

 後ろから聞こえた声に、振り返ると、はるながいた。白いワンピースに麦わら帽子、肩から下げたメモ帳。彼女は日曜になると時々この神社に来て、“心を整える時間”を持つのが習慣だった。

「何してるの?」

「……いや、何かを“見たくて”来た。でも、何もなかった」

 はるなは隣に腰を下ろし、メモ帳に何かを走り書きしながら言った。

「時間のこと、覚えてる人……もう誰もいないの?」

「たぶん、ないと思う。優花も、“夢”って言ってたし」

「夢でも、それが残ってるなら、それでいいと思うけどな」

 浩平は小さく息を吐いた。

「本当にそれでいいのか、まだ迷ってるんだ。“繰り返し”の中で、失ったものが大きすぎて。戻らなかった時間が正解だったのか、ずっと考えてる」

「ねえ、浩平」

 はるなが急に真面目な目をした。

「私ね、ちょっとだけ思ってる。“納豆を混ぜて戻る”って話、あれってきっと“希望”の話だったんじゃないかって」

「希望?」

「うん。だって、人間は後悔して、やり直したくて、もし過去に戻れたらって思いながら生きてるでしょ。だから“納豆を混ぜる”って、ただのきっかけで、本当は“今の自分を見つめ直す儀式”だったのかもしれない」

 浩平は何も言えなかった。確かにそれは、正鵠を射ていた。過去に戻っても変われなかった自分。何度も何度も同じことを繰り返し、ようやく“今”を受け入れた。あの儀式がなければ、きっと彼は永遠に“昨日”にとらわれたままだった。

「だから、ね?」

 はるなは池を見ながら、静かに続けた。

「もう戻らないって決めたなら、それでいいの。きっとそれが、“浩平”って人間の答えだって思うから」

 言葉は柔らかく、それでいてまっすぐだった。浩平ははるなの横顔を見て、それ以上何も言わなかった。彼女の言葉に、余計な解釈は不要だった。

 帰り道、参道の途中で雄飛とばったり出会った。小さなビニール袋をぶら下げて、いつものようににこにこと笑っていた。

「納豆、買ってきた」

「お前もかよ……みんな、なんで納豆関連で動くんだよ」

「だって、あれがきっかけだったでしょ。君がいなくなりそうな気がして、怖くてさ。俺、信じてなかったけど……“感謝”って言葉だけは、本当だったなって、今思うんだ」

 浩平は苦笑いしながら歩き出した。

「じゃあ、俺もお前に感謝しとくよ。“戻らなかった未来”に、立ち会ってくれたことに」

「うん、なんか照れるなぁ」

 ふたりは並んで歩いた。小さな通学路、同じ学校に向かう道。だが、確実にその景色の中には、誰にも消せない記憶があった。

 浩平は空を見上げた。

 青く高い夏空が広がっていた。

(次:10へつづく)

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