納豆タイムリーパー(07)
校門を出てからの帰り道は、どこか妙に長く感じられた。陽が落ちきる前の淡い空の下、水戸の街は静かな呼吸をしているかのようだった。歩道の脇を流れる那珂川の水音が、耳に心地よく響く。浩平はその音に自分の足音を重ねながら、考え続けていた。優花の笑顔は確かにあった。だがその中に、彼女が“自分を知らない”という事実が潜んでいた。それは、思った以上に苦しい感情だった。
もし、過去に戻れたら。もう一度だけチャンスがあれば。以前の浩平ならそう願ったかもしれない。だがもう、戻れない。“混ぜない”と決めた以上、過去は二度とこちらを向いてくれない。それが正しいことなのだと分かっていながら、感情だけが取り残されたままだった。
ふと、商店街の角を曲がったところで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。優花だった。学校帰りの姿のまま、古書店の前で立ち止まっている。硝子越しに並べられた古文書の複製品を、真剣な顔で眺めていた。浩平は歩みを緩めた。声をかけようか、迷った。話しかけたところで、彼女にとってはただの“同級生”だ。壺のことも、霊のことも、あの夜の池の風景も、もう何も覚えていない。
だが、彼女の手が一冊の薄い和綴じの冊子を取ったとき、浩平は立ち止まった。それは、まぎれもなく以前彼女が自分に見せた“家伝の記録”と同じ表紙だった。なぜそれがそこにあるのか、理由は分からない。ただ、彼女の指が無意識にその冊子を選び、ページをめくる仕草に、浩平は目を奪われていた。
優花はページを数枚めくり、そこで手を止めた。しばらく見つめたあと、小さく眉をひそめ、口元に手をやる。そして、まるで誰かに見られているように、ゆっくりと振り返った。
浩平と目が合う。
一瞬の沈黙。
「……浩平?」
その声は、いつものトーンだった。ただの同級生にかける、なんでもない呼び方。だが、浩平の心には確かに何かが“刺さった”。
「よう、偶然だな」
そう返したとき、自分の声がほんの少しだけ裏返ったのがわかった。優花は不思議そうに笑った。
「この店、来たことある?」
「ああ、前に何度か。……そっちこそ?」
「ううん、初めて。でもなんか……この本、見たことある気がして」
浩平の喉がごくりと鳴る。「それ、興味あるの?」
「うん。なんとなく……夢で見たことあるみたいな。変でしょ?」
彼女は苦笑する。だが、浩平はその言葉をどこかで待っていた気がした。
「夢で見た景色って、案外、前にあった本当のことだったりするかもしれない」
「ん? どういう意味?」
「いや、たとえばだけど……忘れてるだけで、大事なことって、本当は覚えてるんじゃないかって思ったりして」
彼女は数秒考えて、それから首を傾げた。
「それ、なんか……優しいね」
浩平は笑ってごまかした。
「そうか? 俺、昔からそんなキャラじゃなかったと思うけどな」
「うん、知らない。……けど、ちょっと気になる」
それは何気ない会話だった。けれどその中に、浩平の中で失われかけていたものが、確かに息を吹き返していった。記憶を共有しなくても、過去が消えても。今ここにある“彼女”がまた、何かを“感じてくれている”という事実だけで、胸がいっぱいになった。
「ねぇ、また話そっか。今度、学校じゃない場所で」
「……ああ、喜んで」
そう言ったとき、浩平の胸の奥で静かに“昨日”が溶けた。
壊さずに、繰り返さずに、守るために。
もう、納豆を混ぜなくてもいい。もう、戻らなくていい。
今日という日が、今この瞬間だけが、彼にとってすべてになっていた。
(次:08へつづく)