納豆タイムリーパー(06)
朝の光が、カーテンの隙間からじわじわと差し込んでくる。時計の針は、7時12分。いつもの時間、いつもの空気。だがその朝は、どこかしら違っていた。混ぜなかった納豆が、冷蔵庫の中で沈黙している。それだけのことが、浩平にとっては“世界の定義”を変える出来事だった。
箸を持たない。混ぜない。戻らない。
その選択をした瞬間、背中からじわりと汗がにじみ、胸の奥がきしむような緊張に満たされた。戻らないということは、今日という一日が“初めて”になるということだ。もう“経験済み”ではない。失敗すれば取り戻せない。誰かに言い損ねれば、二度とチャンスはこない。
だが、それでこそ“生きてる”という実感がある。
「……いってきます」
その声は妙に張っていた。誰もいない部屋に対する言葉でも、口に出しておきたかった。それは決意表明のようでいて、どこか救いを求めるようでもあった。
駅へ向かう途中の道が、少しだけ眩しかった。信号のタイミングが違っていた。歩いている中学生の顔ぶれが違った。風の吹く向きが変わった。目に映るすべてが、浩平にとっては“初見”だった。
優花は教室に先に来ていた。窓際の席に腰をかけて、まだクラスメイトもまばらな静かな時間の中で、彼女はゆっくりとノートに何かを書いていた。ペンを走らせる姿は以前と変わらなかったが、どこかに違和感を感じる。言葉にできない、微細な“ズレ”。
浩平は意を決して、彼女の隣に立った。
「……おはよう」
優花はふっと顔を上げ、きょとんとした顔をした。
「あ、……おはよう、浩平。どうしたの、急に」
返ってきた言葉に、浩平の胸が冷える。
彼女の声から、“記憶の共有”が感じられなかった。
これまで何度も繰り返したはずの朝会話、あの池のこと、壺、霊、明の言葉、そして納豆。それらすべてが、彼女の中から“削除”されたかのように存在しなかった。
浩平は、思わず視線を逸らした。
「いや……なんとなく」
それ以上は言わなかった。言ってしまえば、また何かが崩れる気がした。世界は確かに“元に戻った”のだ。いや、正確には――“上書きされた世界”だ。
記憶の共有者がいない孤独。その冷たさは想像以上だった。だが、それでも浩平は笑った。
昼休み、校舎の裏で明とすれ違った。彼はイヤホンをつけていて、目を細めながら頷いた。
「……お前、“混ぜなかった”んだな」
浩平は立ち止まり、彼に向けて言った。
「お前も覚えてるのか?」
「完全には。でも、夢を見た。何度も。火の中で、何かから逃げるお前と優花。言葉じゃない。感覚だけ。でもそれが、“本物の昨日”よりも、ずっと鮮やかだった」
明は笑った。あの、いつも少し斜に構えた笑いだった。
「俺はさ、思ったんだ。“記憶をなくすこと”が、必ずしも“不幸”じゃないって。“知らない”ってことが、誰かを傷つけないこともあるんだって」
「……優花も、そう思ってるかな」
「どうだろうな。でも、お前が今日、“おはよう”って言ったとき、あの子ちょっとだけ笑ってただろ? それだけで、十分じゃねえか」
浩平は黙った。そして、わずかにうなずいた。
帰り道、川沿いの道で、ふと空を見上げた。夕暮れが空に滲み、オレンジと群青が交錯していた。
風が吹く。
もう戻らない今日が、確かにここにある。
それは、不安で、不完全で、手探りのままだけれども――
たしかに、美しかった。
(次:07へつづく)