納豆タイムリーパー(05)
壺の封が外れた瞬間、空気が変わった。池の水がまるで逆再生されるように渦を巻き上げ、赤い光が中心からあふれ出す。風がうねり、空が裂けるような音が響いた。あたり一帯の空間が震え、周囲の木々がざわざわと軋みを上げる中、浩平はまるで重力が変わったような錯覚に襲われた。
だが、逃げなかった。優花もまた、目を逸らさずに壺を見つめていた。彼女の顔には恐怖もあった。けれど、それ以上に強い決意が浮かんでいた。
「これが……“時の霊”……?」
優花の声が震えた。池の中心、赤い光の中に、ぼんやりと人のような影が立ち上がった。髪が風に逆らうように逆立ち、着物の裾がまるで炎のように揺れている。顔ははっきりとは見えない。ただ、両目の位置に“金色の光”が揺らいでいた。
それは、浩平が夢で見てきた“男”そのものだった。
「……お前が、“番人”か」
呟いた浩平の言葉に応えるように、霊は静かに口を開いた。
『定まらぬ時間、交わる記憶、揺れる心。汝らは許されぬ循環の中に、己の存在を刻んだ』
明が身を引き、額に汗を滲ませながら言った。
「……もう止まってる。霊が、この空間の“主”になってる。俺たちは、すでにこの“ひずみ”の中で動かされてるだけだ」
『繰り返しは、望んだか。忘却は、選んだか。未来を変えたか。あるいは、壊したか』
霊の声は男とも女ともつかない不明瞭な響きで、それでいて耳の奥に直接届くようだった。
「答えなきゃいけないのか、俺たちが何をしたかを?」
浩平は足を前に出し、池の端に立った。
「じゃあ言うよ。俺たちは“逃げた”よ。過去に戻れば、失敗をやり直せるって思ってた。誰かに優しくできなかった日、嘘をついた日、ちゃんと話を聞いてあげられなかった日、いくらでもやり直せるって思ってた。けど……」
彼は深く息を吸った。
「どれだけ戻っても、“同じ選択”しかできなかったんだ。俺は、自分を変えられなかった」
優花が隣で、口を開いた。
「私も。あのときの自分を許せなかった。誰かを守れなかった自分を、許すために戻ってきた。でもそれが、逆に“過去を壊してる”って、途中で気づいた。でも止められなかった……」
霊は黙っていた。だが空間に漂っていた“歪み”が、わずかに落ち着いたように感じられた。
明がゆっくりと口を開く。
「番人ってのは、記憶を調律する存在だ。今の俺にも分かる。記憶と歴史が乖離すれば、そのギャップを埋めるために、誰かが“消える”必要がある。お前たち、まだ戻りたいか?」
浩平は首を横に振った。
「もう十分だよ。優花とも話せた。自分が何を後悔してたのかもわかった。だから……“このまま”でいい。やり直さなくていい」
優花も頷いた。声は出さなかったが、その瞳はまっすぐに、池の中心を見据えていた。
『選択、受理。時の縁、断たれり』
その言葉とともに、霊の体がゆっくりと霧のように崩れていく。赤い光がしぼみ、池の水が静かにその輪郭を取り戻していった。空はふたたび夕焼けの色を取り戻し、鳥のさえずりがかすかに聞こえる。
明が静かに肩をすくめた。
「……終わったな」
「本当に?」
浩平が訊いたが、明は答えなかった。ただ、空を見上げていた。
そのあと、誰も何も言わなかった。ただ、三人はしばらくその場所に立ち尽くしていた。水面に映る夕空を、心に焼き付けるようにして。
翌朝。目覚ましが鳴った。
浩平はゆっくりと起き上がり、机に座る。いつものように納豆のパックを取り出し、蓋を剥がす。
箸を持った手が、一瞬止まる。
「……今日は、混ぜない」
そうつぶやいて、冷蔵庫に戻した。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋が金色に染まった。
今という時間が、確かに“動いている”ことを、彼はようやく信じることができた。
(次:06へつづく)