納豆タイムリーパー(04)
それはまるで、薄紙を一枚ずつ剥がしていくような感覚だった。時間を巻き戻された世界にいながら、浩平の記憶だけが重なっていく。すでに何度も経験したはずの授業、教室、昼食の時間、帰り道。だがその一つひとつが“微妙に違っている”ことに、彼は気づき始めていた。
例えば、隣の席の生徒が発言するタイミングが半秒遅れている。朝の担任の挨拶が一語だけ違う。優花の鉛筆の持ち方が、以前よりもぎこちない。まるで、この世界が“完璧に復元されていない複製”であるかのように、微細なほころびを見せていた。
「これ、もう“本物の昨日”じゃない……」
教室の机に頬杖をつきながら、浩平は心の中でそうつぶやいた。朝の納豆で“戻された”先が、ただの過去ではない。どこか不安定な仮想世界のような、“再構成された昨日”に近い。彼は今、その世界の中で、自分が本当に誰で、何をしようとしているのかすら定かでなくなりつつあった。
そして、放課後。
再び彼は水戸東照宮を訪れていた。夕方、誰もいない境内は、まるで空気が沈殿しているような静けさを漂わせていた。石畳を歩くたびに、靴の音が鈍く響く。拝殿の裏手、小さな池のほとりに立つと、まるでそこだけ空間の密度が違うように感じた。
「……やっぱり、ここが“中心”なんだろうな」
浩平は、ポケットから小さな試験管を取り出した。中には今朝混ぜた納豆の一部が入っている。笑われるかもしれないが、これが唯一、自分が“時を超えた証拠”だった。
「戻る前の納豆をこっちに持ち込めた……なら、この場所も“重なってる”ってことだよな」
彼が試験管を池の水にかざした瞬間、水面が一度だけ揺れた。風もないのに、まるで誰かが底から覗き込んでいるような、そんな感覚。
「お前、やっぱ来てたか」
背後から聞こえた声に、浩平は驚きもしなかった。
「……明。やっぱ来ると思ってたよ」
明は制服のまま、手に古い和紙を抱えていた。白い息を吐きながら、ゆっくりと池の縁に近づく。
「見つけた。“霊納豆”の壺の位置。光圀が書いた手記に、“西日が池に差す時、影が指す先に“霊の器”あり”って」
浩平は顔を上げ、空を見た。ちょうど西日に照らされた木々の影が、水面に斜めに伸びている。その先、池の中に石がひとつ、わずかに突き出していた。
「そこか」
「でも、それをどうする? 壺を割れば、歪みが止まるかもしれない。けど同時に、記憶も、時間も、すべてが元に戻らなくなる。君も、優花も、俺も」
「俺は、もういいよ」
浩平はそう答えた。歪みに耐え続けた心が、ようやくひとつの結論に辿り着いたように。
「この世界は、“戻りすぎた”。何を信じて、誰を救いたいのか、わからなくなってきた。でも……」
「でも?」
「優花だけは、“忘れたくない”。たとえ、彼女が俺のことをもう思い出せなかったとしても、俺が覚えてる。それだけは、壊しちゃいけない気がするんだ」
明は少し目を伏せた。いつもの笑顔ではなかった。
「じゃあ……壺を開けよう。記憶を守るために」
浩平がうなずいたその瞬間、池の底から、赤い光が広がった。水がゆっくりと渦を巻き、その中心に、小さな壺が現れた。青白い陶磁器に、金で“封”と書かれた文字。壺の蓋は震え、内側から“何か”が跳ねるような振動を響かせていた。
「これが、“始まり”……か」
浩平が手を伸ばした瞬間、その背に風が吹いた。
振り返ると、そこには優花が立っていた。
「遅かった?」
「いや……ちょうど、いい」
浩平は言いながら、壺の封をゆっくりと外した。
その瞬間、世界が音を立てて、崩れ始めた。
(次:05へつづく)