納豆タイムリーパー(03)
空気が重い。湿っているわけでもないのに、まるで空間そのものが水の中に沈んでいるようだった。浩平の視界には、いつもの部屋があった。安っぽい机、脱ぎ捨てた制服、朝焼けの差し込む窓――だが、何かが違う。いつもの“戻された”朝とは感覚が異なっていた。
箸はまだ手の中にあった。納豆の糸が指に絡んでいる。だがその先のパックは、空になっていた。
「……混ぜ終わってないのに、戻った?」
彼はそうつぶやきながら立ち上がり、カレンダーを見た。やはり昨日の日付。だが、時間だけが微妙にズレていた。戻る前は午前七時二十七分。今は――午前六時五分。
「“戻りすぎた”……?」
その瞬間、背中にぞわりと冷たい感覚が走った。自分がいた世界が、完全に“昨日”ではない場所にズレている。それは時間の乱れではなく、“空間ごと記憶が食い違っている”という違和感だった。
部屋の端に置いてあったはずの父親の形見の時計が、いつの間にか姿を消している。机に貼っていたメモが剥がれていた。壁に掛けられていた時間割表が、以前の学年のものに戻っている。
「まさか……“一日前”じゃなくて、“一年前”?」
喉が鳴った。指先がかすかに震える。だがその震えを無視して、彼は部屋を出た。階段を降り、台所のカレンダーを見る。赤丸で囲まれていた日付、母親の手書きの文字。“入学式”。
「マジかよ……」
浩平は階段に腰を下ろし、額に手を当てる。これまでの“巻き戻り”とは段違いの衝撃だった。時間が逆行しただけでなく、“自分の記憶を残したまま、過去の自分”に入り込んでいる。
学校に向かう途中、風景すべてが色褪せて見えた。見覚えのある道、すれ違う人々、だが誰もが“前の自分”にとってはまだ他人だ。通学路の先で見かけたはるなは、こちらに気づいても会釈もしない。それも当然だ――彼女は、まだ彼と友人になっていない。
校門をくぐったとき、あまりに鮮やかに記憶が重なった。最初に教室の席を間違えたこと、クラス発表で誰も知らず居場所がなかったこと、初めて優花に“納豆くさい”と茶化されたこと――そのすべてが、これから“やり直される”。
教室に入り、席に着く。まだ誰も到着していない。静かな朝。窓の外に、桜の花びらが一枚、ふわりと落ちた。
そして扉が開く。
優花が現れた。一年ぶりに見る彼女の“初対面の顔”。表情には戸惑いがあり、ほんの少し警戒心もあった。だが、浩平はゆっくりと立ち上がって言った。
「おはよう。……初めまして、って言うべきかな?」
優花は眉をひそめる。
「え……?」
「……あ、ごめん。変なこと言った。浩平、って言います」
そのとき彼女が見せた表情は、“見覚えがあるはずなのに見たことのない”不思議な微笑みだった。
「……私は優花。よろしく」
その声の中に、“思い出せない既視感”が混ざっていた。まるで彼女の奥の記憶にも、ほんのわずかに“残滓”があるかのようだった。
放課後、校庭の隅。もう一度彼女に声をかけた。
「なあ、納豆って好き?」
「え、いきなり?」
「うん。毎朝混ぜるの、何回くらい?」
「えっと……四十回、かな?」
その答えに、心臓が跳ねた。やはり彼女は“この世界でも”――
「どうして?」
「いや、なんとなく。好きな数字とか、そういうのあるかなと思って」
「うーん、私は適当。でもね」
「うん?」
「混ぜながら、時々思うの。“あ、これ、なんか違う”って」
浩平はその言葉を、胸に深く刻んだ。
その“違和感”がある限り、彼女は何度戻っても、自分を“思い出す”。その確信があった。
しかし、それと同時に気づく。
これはただの時間逆行ではない。この世界自体が、すでに“選び直された歴史”の上にある。
そしてその向こうで、またひとつの“時計”が動き出していた。
(次:04へつづく)