第120話 追われる者と追う者
「確かに君の警告の通り遼帝家の武帝が仕組んだ情報網を掌握している嵯峨君だ。私の行動の一部は漏れているだろうし、それによって私の宿泊場所も数箇所に限定されていることだろう。そのことくらい私は分かっている。伊達に年を重ねてきたわけでは無いんだ」
余裕のあるカーンの表情に桐野はいまひとつその真意が読めないと言うような顔をした。
「だが、彼は自分の情報網でつかんだと言うことでここに踏み込むことはしない。私はそう確信しているよ。彼は君が思うよりよっぽど複雑な男だ。単純に私を捕まえて地球に引き渡せば事が済むとは考えていない。むしろ私を泳がせておいて利用しようと考える。私が言うのも何だが彼は非常に狡賢(ずるがしこ)い。見ているこちらが嫌になるくらいにね」
その老人の余裕をいぶかしげに眺めながら桐野は四合瓶に入った大吟醸を惜しげもなくグラスに注いだ。
「もし私の身になにかあれば遼州ばかりでなく地球にも投下した私の手にある資産が消えてなくなるんだ。そうなれば地球人の入植したすべての星系の経済がある程度の打撃を受ける。彼も経済学の博士号を持っているんだからそれからの経済や社会情勢のシミュレーションくらいできているはずだ。そう考えれば、今嵯峨君が私を捕まえる理由は無い。彼もそのタイミングくらい分かった上で行動を取るだろう。それに彼は今、『武悪』の受け入れと言う地球圏の連中から目を付けられかねない危険な作業に従事している。私に地球圏の関心が分散してくれればそれこそ彼にとっては好都合だ。嵯峨君も意地の悪い男だ。こんな老人を囮(おとり)にして何が楽しいと言うんだろう」
そう言ってカーンは不味いコーヒーの入ったグラスをテーブルに置いた。そしてにやりと笑った。
「それに今わずかでも経済のバランスが崩れれば発足間もない遼州同盟がどうなるか……それを知らないほどおろかな男ではないよ、嵯峨君は」
そんな御託など桐野には興味がなかった。左手に支えている無銘の刀に力を込めた。
突然ノックも無く部屋の扉が開いた。入ってきたのは革ジャンを着たサングラスの男、桐野の腰ぎんちゃくとして知られた北川公平、そしてそれに続いて長い黒髪に黒いスーツを身にまとった女性が続いて入ってきた。桐野の視線は表情を殺している女性に向かった。
「北川、ノックぐらいはするものだな。客が居るんだ」
そう言って桐野はダンビラから手を離した。革ジャンにサングラスの男はそれを見て大きく深呼吸をした。
「なあに気取ってるんですか?桐野の旦那?また斬ったらしいじゃないですか。いけませんよ、労働者をそんなに簡単に殺したら。どうせ殺すなら資本家にしなさい。連中の替えはいくらでもあるんだ。それなら俺も協力しますよ。こう見えても元学生活動家なんで。労働者の敵を皆殺しにするのが学生活動家の本分ですからね」
北川はにやりと笑うとそのまま老人の隣にどっかと腰を下ろした。そしてそのまま入り口で立ち尽くしている女性に顔を向けた。
「こういう時は気を利かせてビールぐらいサービスするもんだぜ」
その言葉に女性はぶらぶらと下がっていた手を水平の高さまで上げた。
次の瞬間、その手に黒い霧が立ち込める。そしてその霧が晴れると彼女の手にはビールが握られていた。その一連の出来事に北川は思わず頭を抱えた。
「なんでこんなところで力を使うかなあ……そんなこと俺がいつ教えた?」
「ビールを出せと言ったのは貴様だ。どんな出し方をしようが私の勝手だ」
抑揚の無い言葉。仕方なく彼女が差し出すビールを受け取った北川は勢いよくプルタブを引くとそのまま缶ビールを飲み始めた。
「洗脳もやりすぎると日常生活も送れなくなってリハビリが必要になると言うことだろうな。力のあるのが普通だと思い込み始めたら力を無制限に使うようになる。それではいざと言う時に役に立たない。その為の教育を俺達はしているんだ」
桐野の一言にカーンは静かに頷いた。