地の巻
空手道部の稽古場は、校庭の端にあった。
剣道部とほぼ同じ広さの道場の床が、窓から差し込む日光で鈍い光沢を放っている。
部活を終え、すでに部員の姿は無かった。
ただ一人だけ、正座したまま精神統一している者がいる。
時空は静かな足取りで、その人物の
お互いの間合いギリギリのところで立ち止まる。
「
振り向きもせずその人物は言った。
「やはり来たか」
「ああ……」
時空も静かに言葉を返す。
「お前に話がある」
正座を崩し立ち上がったその人物──
「話?別にお前と話す事など無い」
鋭い眼光を向け、吐き捨てる幽巳。
自然体の立ち姿だが、一部の隙も無い。
「あの黒い甲冑……
「…………」
「俺に何か恨みでもあるのか?」
「…………」
眉一つ動かさず無言を貫く幽巳に、時空は首を振りため息をついた。
「なるほど……怨恨じゃないとすると、狙いはやはりこれか」
時空は、内ポケットから神鏡の入った御守袋を取り出した。
それを見た幽巳の眉がピクリと動く。
「それは……あの時の神器!?」
「ほう、やはり知ってたか……その通り。これは俺の神器、
そう言って、袋から神鏡を出して見せた。
「それが……八握剣……」
幽巳の視線が、食い入るように神鏡に注がれる。
「何故、私にそんな話をする」
そう言って、幽巳は
「なぁ、幽巳……」
時空は、幽巳の鋭い視線を受け止めながら言った。
「お前……別に好き好んで、こいつを狙った訳じゃないんだろ?何か、手に入れなければならない理由があるんじゃないのか?そいつを話してくれないか」
時空は、熱のこもった口調で言った。
その言葉に、幽巳の眼光が一瞬揺らぐ。
「無駄な闘いはしたくない。俺はお前を助けたいんだ」
「うるさいっ!」
時空の言葉尻を打ち消すように、幽巳が叫ぶ。
「神器の力で成り上がった奴の言う事など、聞く耳もたん!」
唇を震わせながら言い放つ幽巳。
先ほどまでの冷静さが嘘のように、怒りに顔が歪んでいる。
「神器の力で……成り上がる?」
時空が、不思議そうに首を
「一体、何の事だ?」
「とぼけても駄目だ!お前が剣道部で抜きん出た実力を持っているのも、試合で勝ち続けられるのも、全て神器の力によるもの。お前自身の力じゃない……お前は、皆を騙してるんだ!」
幽巳は時空の顔を指差しながら、鬼の形相でまくし立てた。
一度切れた自制心の糸は
「私たちは毎日必死で鍛錬し、自分の努力で実力を上げてきたんだ。お前のように偽物の実力じゃない。それこそ、血の滲むような努力をして……いろんなものを犠牲にして……姉さんに、あんなに苦労をかけて……」
叫び続ける幽巳の顔に、次第に
何かが、幽巳の心に重くのしかかっているようだった。
「……分かった」
黙って聴いていた時空が、
「これ以上、言葉を並べてもお前には届かないようだ。ならば……」
そう言って、時空は手に持っていた神鏡を足元に置いた。
そのまま数歩後ろに下がると、右手を突き出し正眼に構える。
「お前の実力とやらで、こいつを奪ってみろ……勝負だ!幽巳」
時空の挑発に驚いた顔をする幽巳。
だがすぐに不敵な笑みを浮かべると、両拳を胸元に構えた。
「いいだろう。時空!」
*********
凄まじい摩擦音が道場内に響き渡る。
時空と幽巳の足さばきが、激しく床を
スピード、パワーとも、両者の力はほぼ互角だった。
幽巳の繰り出す突きを、時空は紙一重でかわし続ける。
一見、剣を持たない時空の方が不利のように見えるが、古武道で鍛えた動体視力は幽巳の技を見切っていた。
「どうした、時空!逃げてばかりでは後が無いぞ」
矢継ぎ早に攻撃を仕掛けながら、幽巳が叫ぶ。
確かに後が無かった。
防御は出来ても、剣が無くては技が出せない。
かわしながら後退する時空の背中が、道場の壁面にぶつかる。
完全に追い詰められた形だ。
チャンスと見た幽巳の体が深く沈んだ。
「ていっ!」
満を持して放たれた回し蹴りが、時空の頭部を襲った。
時空の瞳が、キラリと輝く。
「しゃあぁっ!」
縮地法で瞬時に間合いを詰めると、
カウンター気味に入った一撃は、確実に手応えがあった。
「くぅっ……!」
呻き声を上げ、幽巳はその場に片膝をついた。
激痛で顔が歪む。
時空はその顔面目掛け、さらに手刀を打ち下ろした。
が……
その一撃が、ヒットすることは無かった。
手刀は、顔の数センチ手前で静止している。
「……どうした!?何故、トドメをささない?」
首に手を当てた幽巳が、苦しそうな声で言った。
荒い呼吸で、肩が大きく上下している。
「必要ない」
そう言って、今度は時空がその場に座り込んだ。
一気に吐き出した呼吸で、彼女の肩も大きく揺れる。
噴き出した汗が、額から
「お前こそ……今がチャンスだぞ。俺は、もう動けん」
荒い息混じりに呟くと、時空は床に置かれた神鏡を指差した。
幽巳は一瞬驚いた後、フラつきながら立ち上がった。
床から神鏡を拾い上げ、そのまま時空に差し出す。
「いいのか?」
見上げる時空に、幽巳は苦笑いを浮かべて手を伸ばした。
「私の負けだ。全く大した奴だよ、お前は……神器も使わず、剣も無しで私と渡り合うとは……」
時空は神鏡を受け取ると、そのまま幽巳の手を掴み立ち上がった。
「お前が、蹴り技を出すのを待ってたんだ。槍を使う相手と同じでリーチが長い分、懐に入ってしまえば隙ができる。一か八かだったがな。あのまま突き技でトドメを刺されたなら、確実に俺がやられてたよ」
そう言って、時空は満面の笑みを浮かべた。
その屈託の無い笑顔に、幽巳も
「そうか……今、分かったよ。お前は決して卑怯な事をする奴じゃない。お前の実力は本物だ」
噛み締めるように言うと、幽巳は片手を差し出した。
先ほどとは違い、その瞳には親愛の色が浮かんでいる。
「それじゃ……」
幽巳の手を固く握りしめ時空が呟く。
「話してくれるか……一体、何があったのか」
*********
書道部の部室には、いつものメンバーの姿があった。
皆の視線は、少し離れた席に腰掛ける朱雀幽巳に向けられている。
道場で大体の事情を聞いた時空が、召集をかけたのだ。
勿論、ここにいる全員が神器の継承者であることは、幽巳にも話してある。
それぞれが持つ変容前の神器を見て、幽巳は目を丸くした。
「驚いた。USBとかスティックとか色々あるのね……」
最後に凛の抱えるミョウに目が止まり微笑む。
「実は私も……猫大好きなの」
「みょ〜」
幽巳が優しく撫でると、ミョウが気持ち良さそうに目を細めた。
その様子に、やや緊張気味だった皆の表情が緩む。
「全く調子のいい奴っすね。この間体を拭こうとしたら引っ掻いたくせに」
「あれは、晶が鼻まで拭くもんだから……」
しかめっ面で愚痴をこぼす晶に、凛が抗議する。
「猫って口元敏感だから、触られるとイヤなのよ」
「そうそう。晶さん大きいから、ビックリしたんじゃないかしら」
尊の説明に便乗した柚羽が、
「い、いや、アタイのガタイは関係ないっしょ」
慌てて首を振る晶を見て、全員が笑い声を上げる。
「……仲がいいんだな」
その様子を見ていた幽巳がポツリと呟く。
どことなく寂しげな響きがあった。
「ああ、そうとも」
そう言って、幽巳の顔を覗き込む時空。
「そして、今はお前も仲間だ」
その一言に、幽巳はハッとしたように時空を見上げた。
続いて、皆の顔をぐるりと見回す。
優しく穏やかな眼差しが、彼女の上に注がれていた。
「大丈夫だ。俺たちが、必ず解決してみせる」
力強い時空の言葉に、幽巳もまた大きく頷くのだった。