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いつまでも変わらないもの、そして変わってしまったもの。

私と佐織さんは電車に乗って横須賀に向かっていた。天気は晴れで空は青く太陽が燦々と輝いている。横須賀に向けて電車に乗るたびに思うんだけど、何故か日本ではなくて、どこか海外旅行に行く気分だ。体感的にヨーロッパの温暖なイタリア辺りを夢想している。通り過ぎていく風景はとても清涼としていて思わず安堵のため息が出る。旅というのは本当に心躍るものだ。しかも久しぶりの潤子(うるこ)宅訪問だ。彼女は今、どうしているだろう。毎日大好きな小説を読んで日々を過ごしているのかな。彼女のネット小説は無料で読むことができる。でも、書籍化されても買う人たちが大勢いるにちがいない。小学六年生が書いた小説とは思わないだろう。それは日々読んできた読書量に裏打ちされているのだ。それらを滋養分として自分の心のうちに溜め込んで結晶化して自ら研磨して輝き、発酵して新たな文学として生まれていく。そんな思いをもっているけど、はたして高尚な文学を私は目指しているのだろうか?でも、高尚というか、いや、そうではない。いかに一般大衆の心に達するような、言ってみれば究極的に考えれば一人の人の心を揺さぶるような文学を作り出せるかだ。それは最高級の料理というより、母が作った心のこもった温かい家庭料理と言えばいいんだろうか。私自身には作品を生み出す能力はない。だから作家さんに書いてもらう必要がある。よく、編集者だった人がその仕事を辞めて小説を書くといったことをする人がいるけど、私には到底無理だ。それほど、小説を書くことには、思っている以上に能力がいるからだ。本当に、だから私は作家に対して深い敬意を抱く。まるで崇敬にも似た感情をもっている。それに個人として一番最初に書いた作品を見ることができるのだ。こんな素晴らしい職業はあるだろうか。
電車が横須賀に着いた。私と佐織さんはドアが開くと降りて駅のホームでにっこりと笑った。
「ああ、なんて素晴らしい天気なんだろう。最高の気分」佐織さんは腕を真上に伸ばして言った。
「ほんと、空気が美味しいね。なんか新鮮なお刺身が食べたい気分。昼食はお寿司にしない?」
「うん、良いアイディア。私もお魚が食べたい気分だわ。ここのところ生の魚は食べたことがなかった。お刺身にマヨネーズをつけて食べるのほんと美味しいんだって。高瀬さん知ってた?」
「実はあるアニメで見たことがあるの。魚を捕る漁師がやっているんだから本当に美味しいってことよね」
「そう、私もアニメで見た。ぜひ一度やってみたいわ。でも、よく考えたらツナマヨのおにぎりがあって、とっても人気があるんだから当然と言えば当然ですよね。マヨネーズって万能調味料ね」私たちは駅を出て住宅街が建ち並ぶ坂を上った。十分くらい、少し傾斜のある坂道を歩くと丘の頂上に出た。私が以前、見た光景よりも建物が出来上がっている。サイコロのような住宅が並んでいて、きっと若い夫婦と小さな子供がいて、とても幸せな家庭を築いているんだろうなあ、と思った。私もこんな一軒家に住んでみたい。きっとここに住んでいる人たちは毎日のように潤子の喫茶店で食事をしながら幸せな時間を過ごすんだろうな。とっても羨ましい。本気でここに引っ越そうか?そうすれば、毎日潤子の様子を見ることができるし、アップルパイを食べることもできる。そう、潤子専属の編集者として見守ることができるのだ。それも良いかもしれない。東京のなんとも言えない華やか雰囲気もそれはそれで魅力的だ。でも、横須賀のような、飾らない、それでいて、シックな感じが心の底にある敏感なところに直接訴えかけてくる。何よりも気どらない純粋な感じが大好きだ。東京のごみごみした情景と、人に対して干渉しないといった、そんな所も大好きだけど、海に囲まれた自然と共存しているような、横須賀も良い。これは考える価値があるな。アパートに帰ったら恵太さんに相談してみよう。でも、唯一の問題点は通勤だ。横須賀から東京はとてつもなく遠い。朝早くに家を出て、夜遅くに帰ることになる。でも、そんな悪条件にあっても、それ以上の価値があるかもしれない。アップルパイ目当てに引っ越したなんて知られたら、きっとマスコミは放っておかないだろう。もちろんそれに加えて潤子の存在、さくらさんの絵画、家庭的な雰囲気の喫茶店もある。恵太さんに相談してみよう。きっと彼もこの土地を気に入ってくれるだろう。それに職場までの通勤時間が長くなったとしても電車に乗っている時間を利用して担当している作家さんの小説を読むことができる。前向きに考えると、現実とのギャップと言うんだろうか、とても良い発想に思えてきて、将来が明るく見えてきた。何にもまして、あの新鮮でフルーティーなアップルパイを毎日食べられると思うとよだれが出てくる。ワンホールをたいらげる自信がある。まるで白米のように飽きさせぬ味だ。
私たちは坂を登りきって、丘の頂上に到達した。私が住むことになるかもしれない新興住宅街が拡がっていた。微かに木材の香りがした。そして草原の爽やかな匂いも。大工さんの姿もちらほらと見かける。家を一件造り上げるということはどんな気分なんだろう。小説を書いて、書籍化して、本屋で自分の作品が並べられている。そんな気持ちなのだろうか。でもひとつ言えることは、それは本当に誇りを抱ける仕事をしたということだ。私も今まで以上に自分が取り組んでいる作家さんのことを支援して彼ら、彼女らが安心して心ゆくまで、快適というか、自信をもってその創造力を行使して、素晴らしい作品をかくことができるように手伝おう。
住宅街を抜けて林の奥に潤子の住んでいる喫茶店が見えてきた。
「わー、素敵な家。なんだか家全体がシロップで塗られた見たい。甘い香りがしてきそうですね」
「そうね。夜はまたロマンチックになるみたいよ。バーになって美味しいウイスキーを飲むことができるの。佐織さんはお酒飲むの?」
「ええ、しょっちゅうネットでウイスキーのことを調べることが趣味みたいになっている。YouTubeでも色々と専門的なことが動画としてアップされているし。でも困ったことに、最近のウイスキーブーム価格が上がっていることに一抹の寂しさを感じるんです。もっと庶民的なお酒だったのに、付加価値がついて、とても悲しいです。だから今は一本千円くらいのお酒しか飲みません」佐織さんはホッとため息をついて言った。
「そうよね。今日は私のおごりだから、好きな銘柄のウイスキーを飲んでね」
「良いんですか?とっても嬉しいです。楽しみだな」
喫茶店に辿り着くと、店のドアを開けて店内に入った。いつも混んでいるな。観光客にも評判が良いのだろう。夜になればシックなバーになる。楽しみだ。よし、決めた。今までに貯めたお金を担保にしてここの近くに住むことにしよう。
潤子の両親が忙しそうに働いている。私たちに気づくと、にっこりと笑って手を振った。そして奥から潤子が歩いてきた。にっこりと微笑んで私たちに手を振った。
「ハロー、みつき。元気にしてた?」
「ええ、潤子も元気そうね。って言うか潤子が落胆している姿って想像もつかないけどね」私は潤子の両手を取ってぎゅっと握りしめた。そして潤子も強く握り返した。
「今、ほんと忙しくてね。店の手伝いをしたり、小説の構想を練ったり、でも充実してるんだけどね。みつきのことも心配していたんだよ」
「大変ね。私は大丈夫。それで言いたかったことがあるの。じつは小樽で出会ったピアニストの人と付き合うことになったの」
「ええっ、私たちを追いかけてきた人?」
「そうなの。偶然、私の家の近くで会ったの。これも運命かなと思って、それ以前にも気になっていたんだけどね。もうすでに一緒に暮らしているの」私は潤子に一番伝えたかったことを言えてすっきりした気分だった。
「へえー、そうなんだ。だからとっても幸せそうなオーラが体から溢れていたんだ」
「うん。それでね、もうひとつ、この事で、本当に出会いって大切なんだなって気づいたわけ。今の世の中誰が信用できて誰が信用できないか、選択に迷うけれど、直感に頼るのではなくて、人が本来もっている純粋な心で人を見れば、今起きている様々な状況を解決することができるんじゃないかって思うの。振り込め詐欺とか、人のお金を盗む新宗教とか、人の弱さにつけこんだ、そういう輩から。日本人特有の事件なのかな?世界ではそんなことって起きているのかな?」
「そうだね。確かに世界は破滅に向かっているのかも。これだけネットの普及によってみんな一致しそうな感じだけど、それとは真逆のことが起こっている感じがする。人類は様々な能力を開発してきたのに今起きていることって昔の戦争をしていた時代とほとんど変わらない。むしろ悪くなってきた気がする。これだけ人と人が密接に接する機会が増えたのに。でも、どこかにひっそりとお互いに理解することができている場所がありそうだね。私たちみたいに。こんな世界が広がれば良いのにね」私は潤子の純真な瞳に吸い込まれながら、彼女の将来を想像した。文壇にデビューした後に、センセーショナルな話題を各地に及ぼすだろうということを。でもそれが快感でもある。
「そうだ、忘れていた。紹介するわ。作家の佐織さん。私の担当なの」
「初めまして、佐織です。潤子さんのことは高瀬さんから聞きました。ほんと小学生なんですね。話を聞いていて、世界はホントに広いんだなって気づかされました」
「どうもこんにちわ。作家さんに会えて光栄です。潤子(うるこ)と言います。今日はゆっくりしてくださいね」
「ありがとう。ここの名物のアップルパイを食べるのを楽しみにしていました」
「ほとんどのお客さんが注文するの。楽しみにしてね。お飲み物は何にしますか?」
「ホットコーヒーで」
「かしこまりました。こちらの席に座っててください。みつきは何にする?」
「私もホットコーヒーで」
「了解」
私たちは席に座って辺りを見回した。サクラさんが書いた絵画が飾ってある。とっても心を打つ素敵な絵だ。佐織さんも店内中央におかれているその絵画に興味をもって見つめている。
「この絵、凄いですね。なんて言ったらいいんだろう。心の底から語りかけたいことがあるみたいな」佐織さんはその絵に近づいてじっと見つめた。ハッ、と吐息をついて絵から遠ざかり全体を見る。
「なんて素敵な、って言うか、心に迫ってくる絵なんだろう。この男の子と手を繋いでいる女の子、こんなに小さいのに世界と戦っているんだね。まだ、自分達がどういう状況におかれているのかもわからないのに。大人たちのしたたかな企みを瞬時に理解していて自分なりに抵抗しているんだね。私たちとは訳が違う」佐織さんは絵の前に立ち尽くして右手を少年に触れようとした。
「私にとってもこの絵、凄く励みになっているんだ。大事な友達みたいな感じ。いつも朝の6時に目が覚めて、この絵を見たくなってベッドから起きあがるの。パッと目が覚めて、とても大切な人に会いに行くって感じ」潤子は佐織さんの絵に差し出された手に触れて言った。
「この画家の絵、まだたくさん広まっているのかな?」
「サクラさんっていう画家なんだけど、まだ数万円で買うことができるの。今のうちに買っておいたほうがいいっていうか、値段を別にして、とっても価値があるっていうか、それらを除いてとっても人の心に訴えかける作品だと思う。私たちサクラさんと知り合いだから紹介しようか?」
「ほんと?ぜひ、サクラさんの他の作品を見てみたいわ」
「じゃあ、ネットの画廊で展示しているから、サクラさんのメールアドレスと電話番号教えてあげるね」私はスマホを取り出して佐織さんに連絡先を教えた。
潤子の母親がコーヒーとアップルパイをもってきた。テーブルに置くとにっこりと微笑んで去って行った。
「いただきます。あー、良い香り。バターの豊潤な豊かさと、小麦のふくよかな感じ。うん、リンゴの酸味と自然な甘さ、最高だわ。こんなに食べ物で感動したの初めて」
「今日はゆっくりしていってね」潤子はそう言ってカウンターの奥に行った。
「ね、とっても美味しいでしょう」私は唖然としている様子の佐織さんに言った。
「なんだか毎日食べても飽きない味っていうか、とにかく驚きだわ。ほんと最高!」
「夜になると、とっても素敵な場所になるの。楽しみにしていてね」
店内には微かなクラシック音楽が流れていた。周りにいるお客さんたちもアップルパイの美味しさと店内の装飾品と絵画に見とれていた。みんな楽しそうだ。自然な笑みを浮かべていて、まるで新鮮な光合成によって産み出された酸素をいっぱい吸い込んだみたいだ。
「佐織さん、私ね、さっき通った新興住宅街に住もうかなって考えているんだ。なんだか気にいっちゃってね。仕事場からは遠くなっちゃうけど、それにも増して良いところがあるんじゃないかってね。朝早く起きて、電車内で本を読めるし」
「とっても良いと思います。空気も綺麗で、潮の香りがなんとも言えないくらい清々しいですし。これで私や高瀬さんが担当している作家さんたちが遊びに来れる理由が作れますから」
「うん、そうだよね。ぜひ、お越しくださいって感じだわ」
私たちは香り豊かなコーヒーと大自然からぽっこりと生まれたようなアップルパイを食べ終わってとても安らいだ気持ちになっていた。じっくりとサクラさんが描いた絵を眺めて、作中の主人公である少年と少女のことを思った。彼らはどんな最後を迎えるのか。背景に巣くう大人たちの勧誘というか、誘いに抵抗することができるのだろうか?そう考えていると、目の前に潤子が立っていた。まるで絵画から抜け出してきた少女のようだった。
「よかったら私の部屋に来ない?」
「潤子さんの部屋、見てみたいな」佐織さんは純粋な表情を浮かべて言った。
「正直言って、驚くわよ。ねっ、潤子」
「そう、来てからのお楽しみ」
私たちは店の中央からカウンター横の階段を上って二階に向かった。潤子が部屋のドアを開けた。
「さっ、どうぞ入って」
私たちは潤子に続いて部屋の中に入った。
「わー、凄い。これが小学生の部屋?まるで小さな書店か図書館みたい」
「私の夢が詰まっている部屋なの。どう、最高でしょ?」潤子はベッドに腰掛けて言った。
「さあ、これから潤子劇場の開幕よ。彼女が語る物語を聞きましょう」
私たちは部屋の端の二人掛けソファーに座って潤子の物語を、若しくは彼女が経験してきた思いを経験を聞くべく目を閉じた。まるで昔昔、吟遊詩人が旅をしてきて、その土地土地で見てきた様々な情景を静かに聞く村人のごとく。私たちは遠くへ飛翔して時間が圧縮されて伸ばされて遠い過去から未来へと長い航路を彼女に導かれて歩んでいくことになるだろう。その体験はどんな語り部をも凌駕するとても激しくて懐かしくて母の胎内で静かに囁かれる、または口ずさむような言葉の羅列なのだ。

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