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あー、幸せって物語の世界でしか感じないことだと思っていた。

恵太さんは私のアパートに住むことになった。彼はこれからの生活を、ピアニストとしてデビューすること、そして作曲をするために、ネットで電子ピアノを注文してヘッドフォンを着けながら朝から晩までピアノを鳴らしていた。何か天井を向いてじっと念じている。そんな様子がまるで年老いた男性の仕種に見えて、なんとも微笑ましかった。私はそっと彼の背後に近づき、両手を彼の肩に置いた。彼は鍵盤から手を離して私の右手をつかんだ。
「幸せってほんと些細なことなんだよね。こうしてわずかな時間も空間も凌駕して温かな感触をもつことができる。いくら資産がたくさんあるとか、物質的なものを所有しているとかは全然関係ないんだよね。愛する人が隣にいること、それが最も自分を愛していることに繋がるのではないか、そんな気がする」当たり前のことだけどそれは私にとっても真実で救いのある言葉だった。
「そうだ、今度何処かに旅行に行かない?僕が今まで行ったことがない、たとえば四国とか九州とか」
「九州では豚骨ラーメン、四国ではうどん!私、あまり麺類は食べないけどその土地土地の人たちが食べている食事には興味がある。なんだか故郷の味が恋しくなってきた。ジンギスカンとか味噌ラーメンとか食べたくなった」私は北海道の色々な食べ物をイメージして、故郷の風景を焼きつけた。あの、青々とした風の香り、ずっと部屋にとじ込もって生活をしていて、久しぶりに外の空気を嗅いだ時に、微かに感じた海の潮の匂い。
「恵太さん、今度、北海道に行かない?私たちのふるさとへ。きっと素晴らしい旅になると思う」
「そうだね。僕たちはどうあがいても、北海道という土地に縛られている、そう感じるんだ。不思議なことだよね。みんな故郷という響きに心を踊らされたり、初めてのキスみたいに記憶に残っているんだ。いつまで経っても忘れない母親が作った料理みたいなものかな。ジグソーパズルのように、百ピースのうち、99ピースが北海道の大地なんだ。そして残りの1ピースが僕たちっていうわけ」恵太さんは両手で私の右手を握った。そして自分の口許に近づけて、そっと甲にキスをした。私は心の底から安堵のため息をついた。アパートの外で雀のチュンチュンという鳴き声が聞こえて、とても懐かしい気持ちになって、雀は空を飛ぶことが出来て、それでいてその事を誇りに思ったり自慢したりしないことに感動した。世界には様々な生き物がいて、それぞれ一生懸命に生きている。でも、人間だけが唯一自分が優秀だと思ったりしている。確かに人間ははるかに優れた脳を持っていて、理性を備えて自分を制御することができる。人を愛したり、憎しみ合ったり、同情したり、喜び悲しんだり、様々な感情がある。世界は何十億の人たちで満ちているけど、みんな幸福を願っているはずなのに何故お互いに憎しみあっているのだろう?たった一つ、微笑みあうだけで幸せになれるのに。今まで、人は戦いに続く時代を生きてきた。これから先数十年、数百年後も戦い続けるのだろうか?もうまっぴらだ。私は恵太の穏やかな表情を見てとても幸せな気分になった。人の幸福って些細なことなんだな。きっと、人に対して攻撃的な人って笑顔じゃない。テレビを見ていてそう思った。人を迫害している人っていつも固い表情をしている。必ずも猟奇的な残忍な笑顔ではないかもしれないけど、深刻な自分の姿を鏡で見ていないんだと思う。私は小説という形態を通して人々に幸せを提供している。何百万人もの人がその恩恵にあずかっているのだ。そのことを誇りに思う。これからも人を惹き付ける物語を書いてもらうよう作家を励ましたい。そうだ、久しぶりに竹田佐織さんに会いに行こう。私の担当している作家さんだけど、ここしばらく執筆をしていない。もう二年にはなるだろうか。どうしているだろう。私の仕事が忙しくてしばらく会っていない。思い立ったが吉日だ。これから連絡をとって近況を聞こう。私は佐織さんに連絡をした。
「こんにちわ。お久し振りです。高瀬です。元気にしていますか。この頃忙しくて連絡を取れませんでした。もし良ければお会いしたいです」
「ああ、高瀬さん、ぜんぜん連絡しないですみませんでした。少し小説から離れようと思ってました。でもこれからまた復帰できるように頑張ってみたいと思います。みつきさんから連絡があったこと、きっと、転機になると思います」
「ああ、良かった元気で。もし忙しくなかったら、これから会えませんか?」
「ええ、喜んで。私も高瀬さんに会って話したいなあと思っていたんです。小説が書けなくて、ちょっと、というか、だいぶ落ち込んでいたんです」
「そうだったんだ。それはちょうどよかった。どこで待ち合わせしようか?」
「私の家で良いでしょうか?」
「分かりました。それじゃあ、何時頃がいいですか」
「夕方7時でどうでしょうか。私、夕食を作ってお待ちしています」
「ありがとうございます。楽しみだわ。これから先、きっと佐織さんには良いことが訪れると思います。それじゃあね。お料理楽しみだわ」 
私は六時半にアパートを出て、歩いて佐織さんの住宅まで歩いた。彼女は親元に住んでいて、仕事をせずに、小説を書くことで精一杯生きていた。もちろん小説を書くことだけで生きていくことはできない。親からの愛情を受けて生きていると言えるだろう。私はそんな彼女がとても羨ましいというか、両親の真摯な姿勢にひかれて、彼女の両親に会えることを期待していた。
彼女が住んでいる住宅街はとても閑静で、長年そこに住居を定めているお金持ちの人たちがほとんどだ。佐織さんのお父さんもたしか有名な企業の重役を勤めていると聞く。一人娘で、きっととても愛されて育ったのだろう。彼女は幸せそうな人生を過ごしてきた。高校生の時に初めて小説を書いて、その作品が文学賞のノミネートを受けて、受賞はならなかったものの、注目を浴びて、私が勤務する出版社からデビューすることになった。まだ若いのにもかかわらず、とても文学性のある作品を書くことで注目されていたのだけど、その重圧からか、ここのところ作品を途中まで書くことはできたのだけど途中で筆を折ることが度々で、最近は連絡が途絶えていたのだった。でもこうして久しぶりに会えることになって、とても嬉しかった。
佐織さんの家に着いてインターホンを押すと、彼女の声が聞こえた。
「はい、ちょっと待ってください。いま開けますから」とても明るい声だったので、私の心に灯火が湧いた。それだけで気分が明るくなった。
ドアが開くと佐織さんが私の胸に飛び込んできた。
「高瀬さん、とても会いたかった。ほんともう何十年も会わなかったみたい。とても心配してました」彼女は私をぎゅっと抱き締めて言った。
「私こそ、佐織さんどうしているかなっていつも心の隅で思っていたの。でも元気そうで良かった。思いのなかできっとふさぎ込んでいるんじゃないかなあと心配だったの」
「もちろんそんなこともあったわ。でも、きっと私の小説を読んでくれている数少ないかもしれないけど、ファンでいてくれている人たちの姿が思い浮かんできて、頑張らなければと勇気と自信をもらっていたの。それに出版社の人たちが私のことを長い目でみてくれていることも励みになったの。その事には感謝しきれないわ」佐織さんは私の手を取って玄関の中に招き入れた。
「さあ、夕食の支度ができたから、最初に食事にしましょう。小説の話はその後でね」
「なんかいい匂いがする。とっても家庭的って言うのかな。暖かい感じ」
ダイニングルームには佐倉さんの両親がいた。
「どうも初めまして、佐織がお世話になっています」佐倉さんのお父さんが素敵な笑顔で迎えてくれた。お母さんもキッチンから出てきて挨拶をしてくれた。
「今日は豚汁だよ。私の大好物なの」佐織さんは私の手を握って居間のソファーに座らせた。
「とても素敵な家ですね」
「ありがとう。今日はゆっくりくつろいでくださいね。心配させたことでしょう。佐織は小説を書くことができなくて、悩んでいたんです。でも高瀬さんが来てくれたおかげで少しは肩の荷が降りた感じがするわ。ほんと会いに来てくれてありがとう。佐織のこと、実の妹だと思ってなんでも相談聞いてやってください」
「はい、私のような不甲斐ない姉で良ければ」
私たちは食卓で夕食を食べることにした。豚汁は様々な具材が入っていて、とても美味しかった。それから佐織さんの部屋に移って彼女が抱えている問題や悩みを聞くことにした。
「高瀬さん、私、まるで車のガソリンが切れたみたいになって、もう走れないって感じになったんです。辺りをさまよってどこに燃料はあるんだろうってフラフラしている感じ。何時間もパソコンに向かっても全然イメージがわいてこないし情景も浮かんでこない。そんなことってあるかな?」
「うん、私も経験があるわ。そんな時ってあまり悩まずに、うっちゃって違うことをする。小説について考えるのをやめて、大好きな小説を読みまくる。そして自然と心の底から小説を書きたいという気持ちが沸き上がってくるまで何も考えないようにするの。時間がかかるかもしれないけどそれが一番いい方法かも。でも現実的に苦しんでいる瞬間って辛いけど耐えていく必要ってあるよね。曇りの日でもその奥に太陽が輝いている。自分の心の曇り空の向こうにも燦々と温かい陽光が照り輝いていると期待して光が射し込んでくる日を忍耐強く我慢して待つこと。そういうことも大事なの」
「ありがとう。本当に肩の荷が降りた感じがする。なんでもっと早くに相談しなかったんだろう?こうやって、直接話し合うって大切なんだね。こんな人と接することが容易になった時代だけれど、正直、本当に信頼できる人って限られている。そんななかで自分のことを身内になってアドバイスしてくれる人ってごくわずかだよね。ほんとありがとうございます。体の中の毒素が排出されたみたい」佐織さんは両腕で自分の体を抱きしめて言った。
「そうよね。今はほんと危機的な時代だと思うわ。ネットやSNSを通して様々な人と繋がっていられるのに、本当に自分のことを大切に思ってくれる人って限られている。こんな時代だからこそ、作家は人との繋がりがいかに大切だということを発信しなければならないと思う。佐織さんもそのうちの一人なの。孤独だからこそ、愛情や勇気や人を信じる心といった人が生きるうえで本来必要とされる感情を文章を通じて発信する。それが今、作家に求められていることだと思う」私は自分の気持ちを人に伝えられること、そしてそんな仲間が身近にいることを幸せだと感じた。これから潤子の家に行こうか。何故、潤子の家なのだろう?それは彼女が全てを包含しているからではないだろうか。でも、何故、彼女?たった、か弱いように見える彼女が?みんなと同じような弱さをもっている、潤子。でもその弱さには、どんな強い者ももっていないような真摯な姿勢が現れている。佐織さんに是非とも紹介したい。きっとお互いに引かれるものがあるだろう。
「佐織さん。明日よかったら横須賀に行ってみない?紹介したい人がいるんだ。私が勤めている出版社からデビューすることになった女の子なんだけどね。潤子(うるこ)っていう子なの。とってもチャーミングで愛くるしい子なんだ。まだ小学生なのにどこか達観しているような文章を書くの。きっとすぐに打ち解けると思う」
「なんか面白そうですね。是非行ってみたいわ」
「それじゃあ、明日行くことにしよう。私も久しぶりだから、ほんと楽しみ。彼女の家、アップルパイを作っている喫茶店なの。とっても美味しいんだよ。中毒性のあるいつまでも頭の中に残る、まるで白米を食べている感覚って言うのかな。毎日食べても飽きない味なんだ。きっと記憶に残る体験をすると思う」私はすでに想像のなかで潤子が作るアップルパイを食べていた。最高に美味しい。記憶にしっかりと結びついた、彼女が純粋な瞳で私を見つめている。こんな幸せはそう無い。そんな身近にある幸福感を私はとても、最大級の賛辞を込めて祝福した。なんて最高の気分なんだろう。今までにいろいろな感動を味わってきたと思うけど、一ミクロンほどのこの些細な幸せは、どんな地球規模の革命をも揺るがす、蚊に刺されてできた腫れ物のように静かに静粛にじわじわと私の心に巣くう秘密の謎に満ちて、それでいて太陽のように燦々と輝くきらめきのような美しいというより圧倒的な重力をもって私の肉体に迫るものがあったのだった。

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