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潤子(うるこ)の語り、それは本当にあったことなのか?

潤子は窓のブラインドを下ろした。部屋は暗くなって微かなエアコンの動作音が聞こえた。私たちはソファーの背に寄りかかって潤子の姿に注視した。表情は読みとれない。
「ある人物の経験を語りたいと思う。その人は世界中に見られる典型的な人物かもしれない。アメリカにも日本にも、タイにもオランダにもいると思っていいかもしれない。とにかく私たち一人一人の側に、身近に存在する父親や兄弟、姉妹のような存在。そしてその人は仮に義雄さんと名付けることにしましょう。ちょうど第二次世界大戦が終わった直後に生まれて義雄さんのお父さんは鉄道会社に勤めていたので兵士として戦争に行くことはなかった。生活は質素で魚の骨まで炙って食べていた。姉が二人いて、弟が一人いた。お父さんの知り合いに印刷会社の社長がいて、その会社に就職することになった。義雄さんは自分にしっくりとこの身にフィットする仕事を見つけてとても安心して、これが自分がやりたかった仕事なのだ。そう思って一生懸命になって働いたの。そしてその社内で事務の仕事をしている女性と知り合って結婚することになった。そして小さなアパートに住んで子供が二人生まれ、とても幸せな生活を送ることができて本当に毎日が楽しくて、まるで旅行に行って素晴らしい景色を思う存分眺めているような気分だった。でも何故かその幸せは続かなかった。義雄さんは妻に対しての愛情が希薄になっていることに気づいた。それで彼自身ではどうしてそんな風になったのか、自分自身に対して不思議に思ったのだけど、一つの性癖があることに気づいたんだ。それは今で言う、脇フェチだったんだ。女性の身体的な魅力がそこに集約されているのではないか、そう考えたというか、いつからそんな考えを抱くようになったのか、自分でもわからないけど、つくずく自分が最初に見るところといったら、毛を剃った脇だった。不思議なことに、って言うか当たり前かも知れないけど、もちろん男性の脇には見向きもしない。女性の脇には全ての美しさと言うか、その美が集約されていて、必ず隠していて、多くの男性が心をそそられる乳房や性器という多くの人が魅力的と思う存在より興味を引くことに自分は人とは違う性癖があるのかもしれない、そう考えるようになった。そしてそんな自分にくすっ、と笑ってしまったんだけれど、それは誇りでもあったんだ。私は他の人とは違う魅力的な、崇高な考えを抱いている。そして冬を何とか乗り越えて真夏の暑さを楽しみに待っていた。そしてある日、最高度に彼の心をかき乱すもっとも心に訴える素晴らしい、脇を持つ女性を見つけることに成功したの。それはイオンモールで一人ふらふらと歩いていた時、ジュエリーショップとスターバックスの間に居たのだった。とても美しい腕を持った女性で、年齢は二十五才位、すらりとしたカモシカの足のような美しい、しかし、隣には男性がその女性の腕を取っていて、義雄さんは、えっと、これからは義雄と呼ぶことにするわ。その義雄は男性に対して嫉妬を覚えたの。この男はすらりとした美しい腕を、またはみずみずしい脇にキスをすることができるのだ。それで義雄は彼らの後をつけることにした。見つかったらどうしよう。そんな不安が頭をもたげたけど、こんな美しい、それでいてエロチックな脇はきっと今後見ることはできないだろう。そう決意してなるべく相手に気づかれないように気配を消して彼らから十メートルほど距離をおいて、興奮を抑えて歩いた。緊張もあったけど、それより何故か分からないけどとても興奮していることに彼は気づいた。今までにない充実した達成感と言うか、心の底から満たされた気持ちになったんだ。きっと私はあの女性の脇に触れて舌で舐めることができる。たとえ警察に捕まったとしても。それさえできれば私はどんなものでも差し出すだろう。自分の命が縮まってもそれを成し遂げたい。そうして美しい脇を持っていた女性とその連れの男性はショッピングモールを出て歩き出した。車に乗ってしまったら追跡はそこまでだ。折よくタクシーが止まってくれるならいいが、そんな都合の良いことはないだろう。それでもこの出会いを大切にしたい。義雄はそうひたむきに願って、それは祈りにも似たものだった。その祈りが叶ったのかはわからないが、そのカップルはショッピングモールからわずか300メートルほどにあるマンションに入った。それを確認すると義雄は安堵のため息をついた。彼女はここに住んでいるのか。義雄はひとまず安心してこれからどうすればまた彼女の脇を見ることができるのか考えた。想像の中でイメージするだけで心がときめいてくる。とりあえず今回は引きあげよう。彼女が住んでいる場所がわかったのだから。また今度張り込みをして彼女の姿を見つけられる日を楽しみにしよう。義雄は心の内に芽生えた希望をそっと温めて自分が住んでいるアパートへと向かう。家に帰るとパソコンを起動させてネットにアクセスして、女性の脇とタイプし、その画像をひとつひとつ見ていった。先ほど見た女性の脇ほどではないにせよ、こんなにも女性の脇が儚(はかな)く繊細でキュートで希少部位だということを知った。私は今まで何を探求していたのだろう。こんなにも素晴らしい、美しいものがあったとは。これまで生きてきてこれほどまでに渇望したことはなかった。私はこれからの人生を女性の美しい脇を見るために生き抜くだろう。しかし何故これほどまでに脇に執着するようになったのだろう。理由があるはずだ。義雄はじっくりと考えた。きっと太古の昔、その部分は人に見せることはなかっただろう。本来あるはずの毛を剃って、みずみずしい脇を露呈させることはどんな部分よりも勝るエロチックを醸し出させるのだ。特に日本人の白人とは違ったキメ細やかな美しい白い肌は、まるで輝かしい黄金を凌駕する人を惹き付ける魅力をたたえている。その時何故かは分からない、義雄は亡くなった父親のことが突然のように脳裏に浮かんだ。その姿というのはもう七十才にもなろうとしていた父が椅子に座って新聞を読んでいる情景がまるで目の前にいるかのようにたたずんでいたのだった。そう言えば父はいつも椅子に座っていて、外に出たり、歩いている姿を見たことはなかった。どうしてだろう。別に足腰が悪い訳ではない。その父親はイギリスかぶれで、帽子とかパイプ、はたまたオートミールなど、まるで外国人みたいな生活を送っていたのだった。それはまるで国王のようなずっしりとして威厳があって尊敬を勝ち得る、そんな姿だった。そして義雄がこの瞬間に思ったことは、自分が生きていることがとても崇高で、この命を大切にして生きていくこと、それがもっとも価値のある貴重なものだと考えた。それと父の威厳に満ちた表情がそんなことを考えさせたの。私がこうして生きていることはどんなことよりも偉大なことだと思った。そしてこんなふうにも考えた。たとえ数兆円の富を得たとしても死んでしまえばそれはとても儚(はかな)いものだ。私たちは食べて寝て働いて貧しい生活を送っている人と金持ちは結局同じような生き方をしているに過ぎない。むしろお金持ちは贅沢をしても空しさを感じていく。高価な食事をしたり高価な車に乗ったりして満足する人もいるだろう。でもどんな人たちも同じ土俵に立っているのだ。イギリスのエリザベス女王も日本の天皇陛下も。そう考えてみるといくら派手で高価な衣装を着ていても、ホームレスが貧しい衣装を着ていても、そう大した違いはないだろう。むしろ彼らが同じ土俵に立っていることで、高価な衣装を着ている人は道化師のように見えるかもしれない。だからお金持ちの人を羨んだり、嫉妬する必要はない。義雄は心の内が川の流れのようにすっと軽くなるのを感じた。自分は貧乏ではあるけれど、心は貧しくないんだ。清貧という言葉がある。いかに富んでいるかは物質的なものがいくらあるかではなく、目には見えない精神的なものがいくらあるかだ。そうして義雄は毎日ひたむきに働いた。子供が三人生まれてこんなにも貴重な大切なものがほかにあるだろうか、と感慨深く思索して、この子たちの為ならこの命を犠牲にしてもかまわない。そう思った。しかしそれとは裏腹に妻に対して以前感じていた愛情が薄れていくのを感じたのだった。いったい何故だろう?それとともに子供たちが大きくなるつれて、自我が芽生えてきて自分の子供に対する関心も薄れてくることにも気づいた。妻も子供たちもそのことを敏感に感じるようになって父親である義雄を冷めた目で見つめるようになり、ほとんど自分から話しかけることがなくなった。義雄は昔、美しい脇を持っていた女性のことを思い浮かべた。
そういえばそんなこともあったなと懐かしく思い、それが遠い過去にあった記念ともいえる出来事で今頃その女性はいくつくらいになっているのだろうかと、まるで初恋にも似た妄想を抱いた。もう、そんな脇に対して恋慕を持つことはなかった。それが少し寂しく感じて自分も年をとったのだろうかと、妻に対しても愛情というより邪魔な飼い猫のような感情を抱いていることに自分でも驚くとともに、もうそろそろ決別という時が迫っているんだろうかと、侘しさにも似た思いが心の底にわだかまっていることに、どうしようもないなと諦めの気持ちが身体中の毛細血管に浸透していることに思い至り、それでいて何か安らかな自分に対して同情的な心境を、時計の針がコツコツと刻み込むような自然な流れに身を任せる心地だった。気晴らしに人の息づかいを聞きたいと思い近くの本屋に行った。人は自分とは違った生き物、まるで動物園に行ってその生態を観察することによってエネルギーを貰うように、見ず知らずの人間という生き物と接することによってそこから養分を受け取っているように思える。何気なく本の背表紙を眺めながら、十歳位のワンピースを着た女の子が私の隣に立って一冊の本を棚から取り出して読み始めた。とても綺麗な造形的な二本の足を持っていて、自然その美しい足に見とれてしまった。そこには一切のハレンチな感情は無かったと思う。ただ鶴の舞いに見とれてしまうような、純粋な美に対する憧れのようなそんな気持ちといったらよいだろうか。それがあまりにも印象に残って、その記憶が失われないように、絵にして留めたい、そういう感情が心のキャンバスに色濃く写って、家に帰って画用紙に目に投影された少女の姿を懸命に書きなぐったのだった。想像とは違う出来ではあったがそれでも少しは自分の心のもやが晴れてきて、自分が昔愛してやまなかった女性の脇に対して抱いていた感情は、エロチックなものではなく、少女の足に対して感じていた清らかな憧憬にも似たものであったのかと、そう理解した。それから義雄は女性の体の部分に対して熱狂的ともいえる感情でキャンバスに描きまくった。鋭利な指先、腕、首筋、顎、背中など、探究心を注いで何者かに憑かれたかのようにひたすら書きなぐった。行き着くところは究極に全てを排除した一本の線、ラインだった。そのたった一本の線は女性の足を現しており、まるで鶴のような美しい足を表現している。一見してみるとそれは幼い子供が描いた落書きのようなものに見えるかもしれない。しかし義雄はそのキャンバスに注意深く自分の全身全霊を、この瞬間にまるで核爆弾が破裂するかのように情熱を込めて描いたのだった。その絵はまず最初に近所で評判になり、それが新聞に取り上げられてある有名な画家の目にとまり激賞されてオークションにかかり今現在の価格で一億円で落札された。義雄はそのことには大した感興を覚えなかった。彼の心は昔見た美しい女性の脇をいつまでも記憶の下に、永遠にその脳裏に描いていたのだった」
潤子の話は終わった。私はブラインドの隙間から注ぐ太陽の光がちょうど胸の辺り照り輝いて暖かく心臓までとどいて、まるでその光が全身の血管を通って身体中を切なく回る様子を静かに見守っていた。この瞬間をじっと味わっていたい。そんな感じだ。遠くで金槌を使って釘を打ち込む音が聞こえる。なんて新鮮で心が晴れる音なんだろう。真夏の陽光の下に炭酸ジュースを飲むみたいに爽やかな気分。静かな、店内にいる客たちの会話が聞こえてくる。私は今、身近に誰も到達できないような輝かしい暖かな温もりにも似た透明の空気に包まれて呼吸をする度に、その清らかで昔から存在していた、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康が吸っていた酸素を共有しているのだ。そう思い、過去が現在に連なって、私たちは昔に比べて成長を遂げていると錯覚しているけど実は広い視野で見ると全く変わってないといえるかもしれない。紀元前の作家たちの書物を読めばそれが分かる。そして今までの政治形態を過去から現代に至るまで見てみると、全くと言っていいほど、私たちの外見が変わっていないようにそれら精神的にも大した変わっていないことが理解できるのだ。そして小説自体もそんなに進化しているとは言えないのかもしれない。これだけ個人の意見が大衆に広がりをみせる時代にあってそれでも本当に人へ影響を与えることはできていない。みんな一人で苦しんでいるんだ。友達とつるんでいるときも心の底では自分が寂しくてだからこそ仲間を求めている、そう感じている。私だってそうだ。心の飢えが、私はどのようにして生きていけばいいのか、これから先どんな歩みをしていけばいいのか、根源的な問題が山積みになっていて、哲学とか宗教に答えを見出だそうとする人たち、スピリチュアルなど様々な心を満たすためのツールがあって、でも私はきっと文学こそが人々の救いにつながると信じている。ナチュラルで優しく、人に対してもっと情熱的というか自分のことみたいに接することができること。
「潤子、人と人が真剣に向き合って語ること、それって今一番大切なことかもしれない。みんながみんなそのことを行うことはできないでいるけど、どこかにそんな自分の抱えている悩みだとか問題を発散させる場所があれば良いのにと思う。心に闇を内包している人たち、そんな人たちこそ労(いたわ)ってあげなければいけないんだよね」
「いつもネットに投稿しているけどたまにこうして語ることってスッキリするわね。凄く楽しかった」潤子は勉強机に置いてあったマグカップを手に取ってごくごくと喉を鳴らして飲み込んだ。
世界がまたひとつ開けたように輝いた。ブラインドの隙間から縫うように通り越した太陽光が本棚の背表紙に当たっていた。こうして私たちは少しずつ成長していくのかもしれない。それはほんとにエキサイティングでどんな力よりも圧倒的で激しくてまるで大好きな異性と抱擁をしている感覚に近いのかもしれない。

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