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3-12 Preparedness required

 秋葉原の悪夢から3日が経った。盆休みが終わった途端、巷は一気に普段の平日に戻る。相変わらず、真夏らしい天気でとにかく暑い。
 あの日のことは、2人して話題に出すことを避け、日常のどうでもよい話だけを貪った。5月の池袋の時と同じやり方だったが、それでどうにか泥沼から這い上がれた感は有る。

 夏休みも残り2週間ほどしか無いが、流雫にとってはペンションの手伝いが日課の時点で、別に暇を持て余しているワケでもない。尤も、その方が好都合だと思っていたが。
 流雫はあの日と同じように、モーニングの片付けを終えると、地元河月の図書館に行き、残っていた自由研究を片付けようとした。澪は澪で、既に自由研究も含めて全て終わらせていると話していた。そして、早い人は既に1年半後の大学受験に向けて机に齧り付いているが、2人にその様子は皆無だった。
 サインペンを置いた流雫は、ルーズリーフの束をバインダーにまとめた。レポートパッドに清書するのは1時間も有れば終わる。時間は正午を少し回った頃で、一気に終わらせようと思った。
 ミュートに設定してあったスマートフォンの通知が、何も無いことだけ確かめた流雫は、ボトル缶入りのコーヒーを半分ほど喉に流し、ボールペンを手にした。流雫はテストの時ぐらいしかシャープペンシルを使わず、授業中は基本的にサインペンしか使わないが、自由研究は何故かシャープペンシルかボールペンに限定されている。
 ……1時間も掛からず、清書は終わった。ボールペンはサインペンより力を入れる必要が有り、少し疲れた流雫は、背筋と腕を伸ばした。僅かに疼きを伴う刺激が心地よい。
 一仕事を成し遂げた、安堵の溜め息を洩らした少年は、スマートフォンのバイブが震えるのに気付いた。ニュース速報の通知だった。
「秋葉原テロ容疑でOFA関係者逮捕」
 秋葉原……OFAの関係者……?
 背筋から脳にかけて、電流に襲われたような感覚がした流雫は、慌ててルーズリーフやレポートパッドをバックパックに詰めながら、記事を開く。
 ……秋葉原で青酸ガスが散布されたテロ事件の首謀者として、OFAの職員4人が都内で逮捕された。警視庁による本格的な取り調べはこれからだが、5日前の強制捜査の根拠となる、2023年8月の東京同時多発テロとの関連性が最大の焦点になるものと思われる……。
 流雫は席を立ち、バックパックのハンドルを掴むと階段を駆け下りた。
 そのタイミングで、流雫のスマートフォンの通知が鳴る。
「ルナ、ニュース!」
澪からのメッセージに流雫は、
「見た。今から時間有る?」
と打ち返し、返事までの間に図書館を後にする。3日前と言い、あのシルバーヘアの少年は慌ただしい奴だと、受付の人に思われているのだろうか。
 「あたしは有るけど、まさか今から東京に!?」
と澪は打った。
 ……そのまさかだった。驚くのも当然だった。河月から新宿へは、特急でも1時間以上掛かる。それも約束していないのに、今からとは。驚かないワケがない。
「僕は行ける。ミオに会えるなら行く」
と流雫はメッセージを送りながら、既にマルチタスクで開いたNRのアプリで、新宿までの特急券の購入ボタンを押す直前まで進めていた。
 「……じゃあ、新宿で……1時間後かな?待ってるわ、ルナ」
と送られてきたメッセージに、
「サンキュ。着く時間、また送る」
と返した流雫は、購入ボタンを押して、河月駅の券売機で発券ボタンを押す。一度オンラインを通すと、窓口で買うより僅かに安く、しかも今は全席指定席だが座席指定も早い。
 そして澪に新宿の到着時間を教えると改札前のコンビニに立ち寄り、遅めのランチにと選んだクロワッサンとボトル缶のストレートティーを手に入れ、5分後の特急に乗るべくスマートフォンを改札機に翳した。
 平日昼過ぎの特急、流雫が乗っている車両の乗客は、他に10人もいなかった。バックパックからクロワッサンを取り出し、歯を立てた流雫はアイスティーを喉に流す。そして、落ち着くと同時にふと苦笑いを浮かべた。
 ……ミオに会えるなら行く。そう先刻澪に送ったメッセージを思い出す。……あの日、行けばよかったのに、と。

 突然の誘いに乗った澪は、朝からルームウェアのままスマートフォンのゲームをしたり、母とパンケーキを焼いたりして過ごしていた。
 しかし、ニュース速報に反応し、その流れで流雫と会うことになり、慌てて着替え始めた。
「突然過ぎるわ……」
と呟いた澪は、しかし内心は嬉しかった。
 あの事件のことで話したいことが有るのだと澪は思ったし、それは正しかった。しかし、それが理由だろうと、あの事件の後初めて流雫と会える。それだけでよかった。
 ハンガーに掛かったシャツだけだと味気ない、と澪は薄手のパーカーを羽織る。図らずも、流雫と色違いながら似たようなコーディネートだった。
 両親からの誕生日プレゼントだった、濃いめのコーラルピンクのトートバッグを肩に掛けた澪は、母の美雪に
「流雫が東京で会いたいって。アレのことで。……じゃ、行ってくるね」
とだけ言い残して靴を履こうとしたが、止められた。
 「澪?判ってはいると思うけど、深追いはダメよ?澪たちは、警察でも探偵でもないのだから」
そう言って釘を刺す美雪。数十キロも離れたところに住んでいる流雫が来て、会う。しかも急に。そして、アレが何を指しているのかも判る。……少し迂闊だった。
 デートとは呼べない、年頃の高校生らしくない話をするのだと、予想はついていた。それでも、話を止めさせることはしなかった。
 高校生でも政治や時事社会の話をするのは、タブーどころか寧ろ推奨していた。ただ極右や極左に、過激派に走らなければ自由だと云うのは、室堂家の方針だった。
 そもそも、政治を語る市民は少し頭がヤバい輩だ、と云うレッテルが有るが、そうやって政治に触れる機会が授業しか無いことが若年層の政治への無関心、投票率の低さの一因ではないか、との持論を、特に母が持っていた。
 ただ、テロの話はあまりにも生々しく、母として不安になることは当然のことだった。
 澪は母の顔から目を背けたまま、少しだけ悲壮感を滲ませて言った。
「……あたし、どうしても知りたいの。どうして銃を握らないと、普通に生き延びることさえできなくなったのか……。それは父の仕事だってのも判ってるし、何時かは必ず解決する」
「でも、そもそもテロなんて無ければ、結奈も彩花も青酸ガスなんて吸わなくて済んだし、それに流雫だって泣くことは無かった……」
と続けた娘と言葉に、美雪は
「……誰に似たんだか」
と呟くように言った。それに対して
「誰と誰の娘だと、思ってるの?」
と澪は言い、微笑みながら母に振り向くと、ブレスレットを手首に通す。学校以外で外に出る時は、これが無いと何か落ち着かない。
 胸までのロングヘアが綺麗な美雪は、微笑みながら、しかし改めて一人娘の強さ……そして表裏一体の弱さを感じていた。

……澪の言葉には「あたし」が入っていなかった。3月以降、自分も何度もテロに遭い、時には戦うことを強いられるようになった。
「あたしだって、何度も殺されそうになったんだよ?気になるのは仕方ないわ」
と挟むのは寧ろ自然なことで、澪自身も言わないだけで思ってはいるのだろう。ただ、それでも澪は、愛しい3人の名前だけを口にした。
 「血は争えないわね」
美雪は言う。澪は微笑みを浮かべ、
「遅くならないようにはするね」
と言い残し、玄関のドアを開け、蒸し暑い空気に包まれた世界へ足を踏み出した。

 新宿駅のプラットホームに、何時ものように澪は立っていた。流雫が特急から降りると
「流雫っ!」
と微笑みながら名を呼ぶ少女が目に止まる。
「澪……!」
流雫は、3日前とはまるで正反対だろう、その表情に微笑み、目の前に寄ると無意識に抱く。澪は、彼のシルバーのショートヘアに指を触れた。
 ……あの日、流雫はこうしたかったし、澪はこうしてほしかった。しかし、東京に来てはダメだと引き留めたのは澪だし、それに逆らわなかったのは流雫だ。そうして2人が、あの日の夜に抱えていたリグレットは、しかしこの瞬間に霧散した。
 十数秒経って体を離した2人は、澪の提案で秋葉原へ向かった。3日前を思い出す……としても、それは自分自身の問題だと、少女は思っていた。

 秋葉原駅電気街口、その駅前には花束が置かれている。
 3日前の青酸ガステロ事件は、結果として実行犯4人を除くと6人の死者と数百人の負傷者を出した。臨海副都心で開かれていた大規模イベント帰りの寄り道で、普段より多い人出だったことが被害者が増えた原因だと、あの日の夜のニュースでは語られていた。
 しかし、花束以外普段と何も変わらない光景は、爆発の影響で建物が多数損壊したトーキョーアタックとは正反対で、それが化学テロと云うものの恐怖を人々に新たに植え付けようとしていた。
 ……生死と負傷の有無を分けたのは、居合わせた場所と一瞬の判断。その意味で澪のそれは大正解だったが、もし澪が走ってきた男に抱き付かれでもしていれば、犯人と一緒に中毒死していただろう。そう思うと、偶然が重なった結果無事だっただけの話だと思い知らされる。
 ……人に限らず生命と云うものは、常に断崖絶壁の縁に沿って歩いているようなもので、文字通り生死が背中合わせ、表裏一体なのだ。何かのドキュメンタリー番組で、有名な寺院の住職が取材スタッフにそう語っていたことが、澪の記憶に残っている。その意味を、テロに遭遇したことで思い知らされるとは思っていなかった。
 険しい表情で花束を見つめる澪の隣で流雫は、しかしこの場所でテロが起きたとは思えず、少し不思議な感覚に襲われていた。今までその目で見てきた、テロの概念が崩れたように思えていた。
 「……ターニングポイントに、なるのかな……?」
澪は言った。
 それは、今日2人が会うきっかけとなった、OFA職員の集団逮捕を指している。当然ながら、言い出しっぺの流雫は彼女よりもそう思っていた。
「なる……と思ってる。でも、引っ掛かるんだ」
 「引っ掛かる?」
澪は問う。流雫は頷く。
「青酸ガスを撒けば、警察は必ず集まってくる。それに、滞留しにくく上空に拡散されやすいと云っても、その現場になった場所でデモをするのはリスキーだと思ってる。……何故同じ場所でやったのかは判らない。ただ、デモのための撹乱とはどうしても思えないんだ」
「……撹乱じゃないのなら、同じ場所で起こしたのは、メディアの目に止まらせるため?」
澪は再度問うた。流雫は頷き、
「……だと思う。連中の関心を引き付けて、全国に知らしめたいんだろう」
と言って、ボトル缶に残っていたストレートティーを飲み干し、続けた。
「知らしめたいのは、己の正義と強制捜査に踏み切った警察の横暴ぶり、かな。そして、新たな支持者を得られれば、或る意味成功したと思ってたりして」
「メディアと云う観衆を集めるために、無差別テロ……!?」
と言った澪は目を見開き、流雫に顔を向ける。……その可能性、盲点だったが妄想止まりではない予感がする。
 「人が普段より何倍も集まる日を狙って、無差別テロを起こして混乱と同時に、事件現場への注目とテロへの関心を集める。そして叫ぶんだ、先刻のテロは日本転覆を狙う難民の仕業であって、だから日本から排除しなければならない。そのための最適な指導者を正当に扱え、と」
と言った流雫は溜め息をつき、続けた。
「前に僕が書いたマッチポンプ……。あれが此処でも当て嵌まるのなら、澪が言ったように、自分の首を絞めていようと形振り構わないんだと思う。……首を絞めても、望んだ以上の結果が得られるのなら」
「でも、その容疑で逮捕者が出た」
と、澪は流雫の言葉に被せるように言う。
 「予想外なのか、これも策略のうちなのか……」
流雫は言い、花束の前で名も知らない犠牲者に手を合わせたまま、続けた。
「……本当に撹乱が目的だったとするなら、何よりも目を逸らさせたかったものが他に有る……」
「……もっと、隠したいこと……?」
そう言った澪は、喉を一度鳴らす。飲んだのは何を聞いても驚かない、怯えないと云う覚悟か。
 流雫は一度閉じた目を開けて、その言葉に答える。
「……僕にも想像がつかないけど、この場所に釘付けにさせたいだけの何かが有った」
「それって、テロ直前の騒ぎと関係してるのかな……?」
と澪は言う。
 OFA本部前で左派集団による抗議活動が有り、警察沙汰になった騒ぎのことは、ニュースにはならなかったが流雫にも話してあった。
「……関係していたとしても、不思議じゃない。それほど、疑われても仕方ないことがOFAには多過ぎる……」
と流雫は言った。

 左派集団の抗議活動を警察に通報したが、同時にその警察を早い段階で秋葉原駅に向けさせる必要が有った。語弊を招く言い方をすると、OFA本部前にいられるのも邪魔だった。デモ隊の出発もできない。
 ただ、偶然青酸ガステロの計画と重なった。デモの邪魔になる左派集団はその直前に排除できて、警察もテロの対応に追われ、OFA前の障壁は消えた。そしてデモ隊が出発した。
 そして一連の騒動に発展している間に、例えば何か隠したかったものを運び出す。それが何かは判らないが、それなら誰にも怪しまれず目的を達成できる。
 そして、その囮となったデモ……そこから発展した暴動の末に、新たな支持者を得られるのであれば、「支持者が勝手にやらかした」デモと、民衆の義憤が暴走した結果の暴動で、或る意味とばっちりを受けたように見せつつ、今後の展開に弾みを付けられる。
 ……それは、OFAと伊万里雅治と云う政治家が、完全に悪だと云う前提が有るからこその推理でしかない。ただ、妄想であってほしいと思いつつも、有り得ないと一蹴できないことが、流雫にとっては別の意味で悩ましい。

 2箇所から同時に鳴った、ニュースアプリの通知音に条件反射を示すのは、もう2人にとっては仕方ないことだった。流雫はスマートフォンを取り出して画面を開く。
「熱帯低気圧、台風に成長か」
その程度だったことに、彼は安堵の溜め息をついた。
 今年、台風は2つほど関東に接近してきたが、粗方弱くなった後で強風域が外房……房総半島の太平洋側を掠める程度。日本に上陸した2つは全て九州南部から九州を縦断する形で、今年も九州での自然災害のニュースが、テロや選挙の話題に隠れつつも流れていた。
 だからか、進路予想図には未だ日本列島が出ていなかったが、これも関東には向かってこないだろう、と思っていた。

 流雫と話している間は紛らわせていられた、3日前の出来事をふと思い出し、澪は目を閉じる。
「澪?」
自分の名を呼ぶ流雫の声は届いていない。周囲の雑踏を拾う耳に、全ての感覚が集中する。
 ……中央通りに向かって走り、弥陀ヶ原と偶然会って、車に乗せられたから流れてきたガスを吸わず、助かったようなものだ。それから記憶を逆再生する。
 薬のような異臭、その前に見えた4人の男。……全ては1発の銃声から始まった。
 ……突然街中に響いた銃声。何かに似ている。……思い出した。ゆっくりと目を開けた澪は言った。
「……池袋」
「えっ?」
流雫は問う。
「……夕方、いきなり銃声が聞こえて、皆が走り出したの……あたしたちも逃げようと走った」
澪は言った。
 5月、大型連休最終日のことだった。澪と同級生2人が遭遇した。夜、スマートフォンのスピーカーから聞こえてくる恋人の声に、少しの無力さを感じていたことを、流雫は思い出した。
 「……あの時、銃声だけだったけど、やっぱり皆怖くて……誰もが我先にと逃げようとするよね。……まさかあれで、人がどう逃げ惑うかシミュレートして……?」
と澪が言うと、流雫は
「……今回の実行犯を何人、どう走らせるか決めた、と?」
と続いた。澪は頷き、言った。
「あたしも、結論ありきで話してるのは判ってる。でも全てを1つにつなげたい……そう思ってるあたしもいる……」
 それは流雫も同じだった。
 自分にとって好都合なことを好みたがるのは、本能によるものだと思う。全てを1つにつなげることで、別方向からの脅威を否定したかった。それなら、余計な心配や不安を抱えなくて済む。
 流雫は呟くように言った。
 「行けるところまで行き、死ぬべきところで死ね」
「……行けるところまで行き、死ぬべきところで死ね……?」
流雫の言葉をトレースする澪。初めて聞いたが、死ぬべきところで死ね、とは過激な言葉だと思った。好きなアクション映画の台詞なのか?
 「フランス語に、そう云う意味の言事が有るんだ。……大雑把に云えば、やれるだけやれって感じかな?……僕は真実に触れたい。でも、澪には生きてほしい。澪はこんなところで死ぬべきじゃない……そう思ってる」
その言葉に
「……流雫がいない」
と呟くような声で被せた澪の目は、曇っていた。
「えっ?」
と小さな声を上げた恋人に、澪は
「流雫の言葉に、流雫がいない。流雫も、テロなんかで死ぬべきじゃないんだから」
と言った。
 澪ファーストの流雫の言葉には、「僕」が入っていなかった。しかしそれは、何かに似ていると少女は思った。

 「血は争えないわね」
家を出る前、母の美雪は澪に言った。
 そのきっかけになったのは、澪の言葉だった。思い出せば、確かに「あたし」が入っていなかった。恐らく流雫が聞いていれば、澪と同じことを言っただろう。
 我が侭なのも判っている。ただ、今だけは流雫には言ってほしい、
「僕も死なないし、殺されない」
と。
 流雫が澪の生に救われているのと同じで、澪も流雫の生に救われているのだから。
「……澪の手は放さない。僕も、テロなんかで死なない。絶対生き延びる」
と流雫は言った。
 澪は漸く微笑みを浮かべ、頷いた。その言葉だけで、救われた気がした。

 折角東京まで出て来た流雫と、何もしないまま別れるのも癪に障る、そう思った澪は、流雫を福徳神社に案内した。
 秋葉原駅から1駅だけ列車に乗って、神田駅から10分ほど歩く。秋葉原から20分ほど歩いても着くが、如何せん今は暑過ぎる。
 3月の雨の日、渋谷の慰霊碑に手を合わせた澪が、その後に向かった神社だ。高層ビルに囲まれるように鎮座し、そこだけ時間の流れが違うような印象を受ける。
 5ヶ月ぶりに訪れた澪は
「あの御守りも、此処のものなの」
と言った。
 流雫が渡された旅守のことだ。彼は二つ折り財布の小銭入れに入れている。そのために、わざわざコインケースを買い足したほどだ。
 「……何事も無く東京に行けるのも、この御守りを持ってるからかな……」
そう言って流雫は、財布から旅守を出す。澪は
「そうじゃない?」
と微笑みながら、自分がその御利益を誰よりも受けていると思った。
 ……あの日、澪が手にしたのは恋守。その願いは、流雫が帰国した日に叶った。今は、それが途切れないようにと願っている。
 小銭を賽銭箱に投げると、2人で手を合わせる。目を閉じて願っていたのは、2人が無事でいられるように、だった。それだけは叶って欲しいし、叶えたいと思っていた。

 夕方、新宿駅の山梨方面のプラットホーム。帰宅ラッシュが始まる前に帰るのを勧めたのは澪だった。流雫も慌てて出て来ただけに、帰ってペンションの手伝いをしなければならなかった。
 ……ただ、あと2週間もしないうちに、また会える。何度も思うが、それは遊びではない。それでも、2人にとっては会えることに意味が有る。
 列車の接近チャイムが鳴り、東京駅からの特急列車が目の前で止まる。
 「……行かなきゃ」
「次は、あの日だね」
澪はそう言い、ブレスレットを通した左手を差し出す。流雫はそれに同じくブレスレットを通した右手を出すと、指を絡めた。
「……またね、流雫」
澪は言った。流雫は
「うん、また」
とだけ答えた。
 指が解け、蒸し暑い空気が流雫の手に代わって澪の掌にまとわりつく。彼女は窓側に座った流雫に少しだけ大きく手を振ってみせたが、同時にその熱気を振り解こうとしていた。流雫の体温なら、それより高くても寧ろ欲しかったのに。

 特急列車がプラットホームを離れると、ふと寂しさに襲われる澪は、しかし顔を上げて、頷いた。
 ……澪の手は離さない、その流雫の言葉を思い出しながら、11日後に目を向けるだけだった。澪は列車のテールライトを見つめながら、呟いた。
「……流雫の手は離さない、あたしもテロなんかで死なない。絶対、生き延びてみせる。流雫のためにも」
と。

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