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3-13 Embrace The Sleepless Night

 8月後半、フィリピン付近で発生した台風10号。それは週が明けると超大型で猛烈な台風となり、予報円の東側を突き進むようなルートを辿っていた。
 暖かい海上でパワーを蓄積している台風の瞬間最大風速は、時速換算だと280キロ以上。それは、全速力で走る新幹線の屋根に、磔の刑よろしく立たされている時に受ける風の強さだと思えば早い。
 5日間予報では、来週の月曜日に関東上陸の可能性を含ませている。既に暴風域に入った沖縄では、各地で被害が発生していた。
 ただ、その日には弱くなる予報を受け、トーキョーアタックの追悼式典は甚大な被害を受けた渋谷駅前から、最初に爆発が起きた東京中央国際空港に会場を変更した上で、予定通り行う……との発表が有った。ターミナルビルの地階なら、屋外の渋谷駅前より安全だと云う判断だ。尤も、これも台風次第で大きく変わる可能性を孕んでいるが。
 しかし、それに頭を悩ませていたのが、流雫だった。
 渋谷から神奈川県との県境に位置する空港までは、最短でも40分は掛かる。そして、最初の爆発が起きた時刻に合わせて黙祷をするように設定された式典の時刻も変わるらしい。
 そうなった場合、間に合わせようと思うと、当初の予定より2時間近く早く家を出なければならない。それでも、一緒の時間を目一杯確保しようとしたデートの日よりは多少遅いのだが、そもそも台風で列車やバスがどうなるか判らない。
 ただ、行かないと云う選択肢は少年には無かった。仮に式典自体が潰れても、空港はいいとして渋谷にだけは行く……台風で無謀だとしても、あの日からちょうど1年と云う節目を、流雫は誰よりも意識していた。

 台風は沖縄を通過すると、日本列島を目指しながら弱くなり始めた。そして8月最後の日曜日の予報では、明日未明に静岡県東部に上陸するとの予報だった。
 直撃は免れたものの、豪雨と暴風の影響は小さくないことは容易に想像がつく。そのため、日曜日の正午にNR線の計画運休が発表された。
 月曜日は始発から、東京と山梨、長野方面を結ぶ列車は特急も含めて、台風が去り安全が確認できるまで運休とのことだった。そして高速バスも高速道路の通行止で運休と云う可能性も有った。
 足が有る今日のうちに出なければいけないが、更に宿泊と云う問題も有った。
 未成年の宿泊は保護者の同意が必要で、ペンションを営む親戚がその役目を負うことになる。同意書をホテルのサイトからダウンロードして印刷し、署名されたものを当日フロントに提出すればよい。
 ただ、それ以前に都内の空き部屋が、公式サイトや代理店の予約サイトを見ても無かった。恐らく、翌日の出勤のためにと職場近くのホテルを確保しているのだろうか。
 首都圏の運転計画は、NRも私鉄も今のところ平常通りだから、最悪当日に都内へ行ければ隣県でもよい。尤も、山梨も隣県ではあるのだが。
「神奈川なら……」
と流雫は呟く。
 黒いズボン、白いカッターシャツに黒いネクタイと云う夏の制服に、腕時計とブレスレットを着けている。思えば、澪と会うのに制服は初めてだった。しかし、今回は追悼式典と云う重要な目的が有る。
 流雫はホテルが決まれば、すぐにでも出られるようには準備していた。
 理想は隣町になる川崎。タブレットPCで空室を探そうとしていると、スマートフォンの通知が鳴った。澪からだった。
「明日、どうするの?」
と送られてきたメッセージに、流雫は
「今日のうちに東京に行ければ、と思ってるけど……宿が無くて。今神奈川で探そうとしてる」
と打ち返しながら、PCで川崎に1軒だけビジネスホテルが空いているのを見た。
 泊まれるなら、一時期インバウンド向けに乱立したカプセルホテルのようなものでも十分だったが、値段もそう変わらない。そこにしようと思っていると、澪からのメッセージが届いた。
 「あたしの家、来る?」
「え?」
流雫は思わず声を上げた。

 澪は、明日のために今日はゆっくり過ごそうと思っていた。しかし昼の台風情報を見て、母に流雫を家に泊めてもよいのか問うていた。母の美雪は流雫なら寧ろ歓迎すると言っていたし、その話を聞いていた父の常願も異論は無かった。
 母は流雫とは直接の面識は無いが、父は何度も面識が有る。彼をよく思わない節も有るが、それはテロに対する命知らずな一面に対してだけであって、それ以外は好意的だった。
 「……有難いけど、どうにかするよ」
と流雫は打ち返した。他人の家に上がるのは、何だか気が引ける。どんなに、夜を一緒に過ごせると云っても、だ。
「でも父も母も、ルナなら歓迎すると言ってたわ」
「……それに今夜は、ルナといたい」
と澪は連投した。

 「……それに今夜は、ルナといたい」
その一言で、流雫は予約サイトを開いていたブラウザを閉じて、黒いショルダーバッグを手にした。
 ショルダーバッグには、財布とサインペン1本、普段のB5サイズより一回り小さいA5サイズ……A4の半分……のノート、そして銃だけを入れてある。
 ……明日だけは、銃を使うようなことにならなければよいけど。流雫はそう思いながら、傘を手にするとペンションのドアを開けた。

 意外なことに、流雫が高速バスで東京へ向かうのはこれが初めてだった。
 最初は、何時ものように列車にしようと思っていた。だが、流雫が河月駅に着く数分前に、1駅先の東河月駅で快速列車との人身事故が発生したようで、復旧の目処が立たない状態だった。
 駅ビルのバス案内所に行ってみると、10分後にやってくる新宿行きの高速バスには空席が有ることが判り、流雫はその乗車券を手に入れた。
 その直後に満席になった高速バスの、最後尾の窓側座席に座る流雫は、座席下から響くディーゼルエンジンが唸る音を遮るように、イヤフォンを挿して音楽を流していた。雨は次第に激しくなり、無数の雨粒は窓ガラスを斜めに流れていく。
 バスを追い越す3台の黒いワンボックス、そのヘッドライトとテールライトは、すぐにそれが生み出したウォータースクリーンに煙った。その様子を見ながら、流雫は、高速道路は通行止めになっていないことに、助かったと思っていた。遅れても、着ければ問題は無い。
 ……流雫といたい。澪のその一言で簡単にホテルに泊まる選択を覆したことは自分でも呆れる。ただ、本音を言えば流雫も同じだった。
 交わす言葉が無くてもいい、ただ澪と背中をくっつけていたい。澪が其処にいる、それだけで流雫は救われるし、1年前の惨劇に向き合えそうな気がした。尤も、それは自分次第だと云うのも判っているが。
 流雫は目を閉じる。何事も無ければ、後90分で新宿だ。

 夕方、澪は流雫を迎えに、新宿バステへ向かった。すぐ帰る予定ではあるのだが、都心へ出ること、そして流雫と会うだけに、普段のデートとほぼ変わらない服装にした。腕には、あのブレスレットを通してある。
 バスステーションに由来するこの建物は、かつて新宿駅周辺に散らばっていたバス停を集約させたもので、頻りに高速バスがやってくる。
 降車場のフロアで30分ほど待っていると、到着案内板の出発地欄に、河月駅の表示が出てきた。白に青のストライプが入ったバス、そのLEDの行先表示は、河月新宿線高速となっていた。これだ。15分遅れだが、雨だし仕方ない。
 最後に降りた乗客は、何処かの高校の制服を着ていたが日本人らしくなく、また中性的な顔立ちだった。それが誰か、澪には一瞬で判る。
「流雫!」
澪がその名を呼ぶと、少年は
「澪!」
と呼び返し、
「悪いけど、世話になるよ」
と続けた。それに対して澪は
「仕方ないよ、行けなくなって困るのは流雫だから」
と言った。確かにその通りだった。
 理由がどうあれ、追悼式典が無くなっても、流雫は渋谷だけには行く気だった。
 明日も、空港の式典が終わった後、1人だけでも空港に寄る。恐らく、澪も一緒に行きたがるが、流石にこの台風では危なっかしい。
 澪は問う。
「先に何処か寄る?」
「どうせだから、少しは」
と流雫は答えた。

 2人はすぐ近くの雑貨屋に行くことにした。必要なのは、持ってくるのを忘れた歯磨きセットだけだったが、見て回るだけでもちょっとしたデートになる。尤も、何度も自分に言い聞かせた通り、今回の目的はデートではないのだが。
 ふと、ウィスキーを熟成させた樽で寝かせたと云う、紅茶のティーバッグが売られているのを見て、流雫は手にすると会計に並んだ。限定販売だったらしく、地元の名産品ではないがせめてもの手土産にはなる、と思った。
 澪の家は赤羽駅が最寄りで、新宿駅からは列車で1本で行ける。その直前に2人は、夜食用にと紅茶に合うケーキを手に入れ、列車に乗った。

 澪の家に着いたのは、新宿駅で列車に乗って30分ほど経った頃だった。夕方ではあるのだが、台風の影響で薄暗く、雨と風は強くなってきていた。
 澪の両親は、山梨からの少年を好意的に出迎えた。特に常願は何度か仕事ではあるが会っていて、彼のことは判っている。
 流雫が泊まる部屋は、澪が自分の部屋で構わないと言った。構わないどころか、彼女にとってはそれが理想で、半ば押し切った。
 常願は、妻と娘が料理をしている間、流雫をリビングに呼んだ。家庭に仕事はあまり持ち込みたがらないが、娘の恋人には少し話す必要が有る。
 「……明日で1年か。早いものだな」
澪の父は、流雫にコーラを差し出しながら話を切り出した。
 ……流雫が空港で遭遇し、渋谷で美桜を殺されたトーキョーアタックからもう1年なのだ。
「何か、色々有り過ぎる1年でした……。未だ、空港で出会したあのテロを鮮明に覚えてて」
流雫は言い、続ける。
「でも、いずれ全てが解決して、銃を持たなくてよくなると思うと……」
 「残念だが、銃刀法は戻らない」
少年の言葉を遮ったベテラン刑事の言葉に、流雫の表情が曇る。
「この1年で、日本には7千万丁もの銃が出回り、全て輸入とは云えマーケットが大きくなり過ぎた。このマーケットを潰すワケにはいかない」
と言った常願は、続けた。
 「寧ろ、国内限定の流通を条件にライセンス生産や自社開発と生産を容認すべきだ、練習場としての射撃の場を整備しろ、アフターマーケットの整備を、と云うのが大方の財界の意見だ。そして今後も、銃犯罪はなくならないと思っている」
 一種の希望を打ち砕かれた流雫は、銃をレザーのホルダーごと取り出す。ホルダーに包まれたままとは云え、今までより重く感じる。
「じゃあ、未だこいつとは……」
と銃を見ながら言った流雫に、常願は
「持つか否かはこれからも自由だ。……君は残念ながら、この1年で恐らく誰よりも人を撃っている。当然、全てが護身として正当なものだとは知っているが、その上で問いたい。……人を撃って、どう思った?」
と問うた。
 数秒の沈黙の後で
「……こんなもので簡単に、人を殺すことさえできると思うと、やはり怖くて、それでも……僕は生き延びたかったし……」
と答える流雫に、常願は言った。
 「それでいい。簡単に人を殺せるだけの武器を持っている、それに恐怖を抱くことが重要なのだ。人は他人を支配するための武器を手にした時、本性が現れる。理性で抑えていたとしても、ほんの些細なきっかけで現すことさえ有る」
 「……銃は社会悪だが必要悪でもある、そして、君は持つと云う選択をし、引き金を引かざるを得なくなった。それも何度もな」
 「……有り触れた言葉で言えば、命は重いが軽い。俺が今その銃を奪って君を撃てば、君は此処で死ぬ。反対に、君がその銃を俺に向けて撃てば、俺は死ぬ。ほんの数十秒でな。生殺与奪の権……ではないが、それだけのものを持ち歩いている自覚を常に忘れなければ、俺が君に案ずるものはない」
 澪の父は流雫に、刑事と云う立場から、銃を持つ資格を試していた。流雫は黙って聞いているだけだった。

 1年前までは有り得なかった銃の所持と使用は、テロや凶悪犯罪への抑止力効果に一定の期待がされる一方、銃犯罪を助長すると云う危険性も孕んでいる。
 特に世界でもトップクラスの銃規制を敷いていた日本での所持解禁は、その議論が始まった頃から海外でも大きく報じられた。逆に言えば、そう云う凶悪犯罪に対するだけの組織が十分に整備されていない、日本の治安上の問題点を浮き彫りにした。
 「前にも言ったかは忘れたが、俺は刑事だ。だから立場上、例外無く厳しく当たらねばならん。君だろうと澪だろうと、それは同じだ。君のことだから、銃の悪用と云う過ちは犯さないと思っているが」
と言った常願は
「……まあ、小難しいことを話すには疲れたし、客人と家で長々と話す話題でもない。折角だ、今日はゆっくりしていくといい」
と言い、2人きりの話を打ち切った。流雫は頭を小さく下げながら、話に夢中で手付かずだったコーラに口を付ける。
 ベテラン刑事は自分への語りに、今後も絶えることは無かろう銃犯罪への苛立ちを含ませているように思えた。ただ、その苛立ちは流雫も抱えていた。

 トーキョーアタックが解決すれば、銃を持たなくても平和な日々が戻る、と思っていた。しかし、それは澪の父と話しているうちに潰えた。
 元々、銃の所持が認められるようになったのは、対テロのための武力が整備されるまでの特例措置だったハズだ。それが経済発展の道具として、何時しか好ましくない方向に転がっているように思えた。
 同時に銃を持つ、持たないは今し方言われたように自由だ。それでも流雫には、手放さないと云う選択肢は無かった。
 何らかの事件に遭遇して死ぬことは、澪を絶望に突き落とすこと。それだけは避けたかったし、しかし澪を殺されるのも避けたい。
 ヒーローになりたいとは思わない。ただ自分が殺されないために、そして澪を殺されないために。それだけで、殺される恐怖と戦ってきた……6発の銃弾だけで。そして、それからは逃れられない運命なのか。
 流雫は唇を噛んだ。その様子に、澪の父は軽く溜め息をつき、
「……澪を頼むぞ」
とだけ言った。

 今日の料理は、母の美雪は手伝うだけで、澪が中心になった。スープカレーだが、白身魚のソテーを中心に、その周囲を根菜のソテーが占めている。
 外では雨風が激しくなる中、ディナータイムを始めた。苦戦したと澪は言うが、
 美雪は、初めて会う流雫に、彼の日常やフランスのことを聞き出そうとする。美雪自身、大学時代に年下のフランス人と交遊が有ったらしい。卒業後に彼女は帰国しているが、今の連絡先を知らない。
 ただ、時々その頃が懐かしくなるようで、特に娘の恋人の左目、ライトブルーの瞳は彼女を思い出させる。やはり欧州系の目の色は、その意味でも印象的らしい。
 流雫は微笑みながら答えるが、澪は彼が何処か必死になって取り繕っているように感じた。
 ……先刻、父と流雫が男同士で何を話していたのかは判らないが、キッチンから見える2人の表情は険しかった。恐らく、明日であの惨劇から1年が経つことについてだろう。
 彼にとっては何よりも特別な、そして何よりも悲しい日。まさか、こう云う形で自分も関わることになるとは思っていなかった。

 先にシャワーを浴びた流雫は、部屋の主がバスタブでのんびりしている間に、ショルダーバッグからノートとペンを取り出す。しかし取り出しただけで、手を付けない。
 ……1年前のことを思い出す。……今でも覚えている、それどころか忘れられない。
 到着フロアを全速力で走り、手荷物返却場の入口を逆走し、警備員に助けを求め、だからどうにか助かった。
 空港警察署で何が起きたか、何を見たか説明を求められ、それに答えた後で、流雫のスマートフォンに着信が相次いだ。速報を見たフランスの両親、ペンションを営む親戚、そして同級生。
 その最後の着信で、同級生が放った一言が、処刑宣告のように流雫に突き刺さる。そして、残酷なほどに綺麗な青空を仰ぐように、泣き叫んだ。
 ……忘れられない、否、忘れられるワケがない。あの日、何もかもが変わったことを、最悪の形で思い知らされた。そして脳の奥深くに、一生塞がらない爪痕を残していた。

 ルームウェアに着替えて戻ってきた澪がドアを開けると、制服のままフローリングの床に座り、膝を抱える流雫がいた。その隣では、閉じられたノートの上で細いサインペンが1本、無造作に転がっていた。
 「流雫?」
「……ん?」
自分の名を呼ぶ澪の声に、数秒遅れて顔を上げる流雫。
 感情を失ったような表情は、澪が最も苦手なものだ。一瞬、投げ掛ける言葉を失う。
「……あの日のこと?」
澪は少年の隣に座ると恐る恐る問うて、流雫はそれに頷いた。それだけで何の話か判るのは、それだけの間柄だからだろうか。1年前は、互いの存在自体知らなかったのに。
 「……でも、澪がいるなら、正気で向き合える……と思ってる」
そう呟くように、ゆっくりと言った流雫の言葉に、リップサービスなど微塵も見えない。
 「……あたしがついててあげる」
と澪は言った。
「……サンキュ、澪」
と流雫は少し微笑みながら答える。その少しが、澪に安堵をもたらした。

 避けられなかった美桜の死に向き合う……それは澪がいるからこそ、どうにかできる気がする。澪と知り合っていなければ、多分今でも……いや、それは思わないことにしたい。澪がいないことは、想像するのも怖ろしい。
 くたびれたノートには、流雫がフランスと日本で調べていたテロのことについて書かれていた。……この1年、テロに傾倒していたのは無理も無い。
 ……あの日から何もかもが変わった、その本質を知りたいだけだった。尤も、知ったところで美桜が生き返るワケでもなければ、テロが世界から消えるワケでもないことは判っているが。
 ただ、もう今日は開くのを止めた。澪は流雫に身体を預けた。エアコンで部屋が涼しくなっている分、制服越しに伝わる澪の腕が少しだけ熱く感じたのは、その華奢な体が直前までバスタブで温められていたからか。
「流雫」
そう名を呼んだ澪に流雫は
「……何?」
と囁く。澪は言った。
「あたしがついてるよ」

 「あたしがついてるよ」
その一言を、何度でも言いたかった。流雫が聞き飽きていたとしても、何度でも。
 ……美桜と云う少女の死の上に、澪の今が成り立っている。だから、流雫の隣にいることを喜ぶべきなのか……。
 今でも、澪はその悩みを抱えていた。人の不幸を喜んでいるような気がして、それが何処か引っ掛かっていた。ただ、今の澪を彼女が見ても、多分彼女が微笑むことは無いだろう。
「笑いなよ、喜びなよ。流雫の彼女は、澪だけなんだから」
とでも言われるのだろうか。……そう言われたかった。
 「あたしがついてるよ」
と何度も言ってきたそれは、流雫を落ち着かせるためだった。しかし、何より
「あたしは流雫の隣にいるべきで、あたしが流雫の力にならなきゃ」
と自分に言い聞かせるためだった。それが自分を縛っていることには、目を背けて。

 2人は年頃の高校生らしい話をして、夜食のケーキと紅茶で夜を過ごす。
 流雫にとっては、東京で明かす初めての夜。それが澪の家、澪の部屋だとは、昨日の自分に言ったとしても驚かれるだろう。
 紅茶の茶葉を寝かせるのに、ウィスキーを熟成させた樽を使うと、香りが一層際立つ。それは初耳だったが、確かにその通りだった。2人に掛かっていた靄が、その香りに溶けて霧散していく気がした。
 夜の背徳は、体によくないと言われるものを、体によくないと言われる時間に口にすること。
 しかし2人で共犯なら、この背徳が寧ろ楽しい。この日最後の溜め息は、ささやかな幸福に包まれて出たものだった。
 そうしているうちに、時計の針は1時を指した。そろそろ寝ないと、明日……もとい今日と云う1日がきつくなる。
 澪は、フローリングに寝ると言い出した流雫に、ブランケットを渡して自分はタオルケットを手にする。最初は流雫にベッドを譲る気だったが、流雫が押し切った。何処かのラブコメなら2人で1つのベッドをシェアすることになるのだろうが、そこまでの度胸は流雫には無かった。

 おやすみと言ったものの眠れなかった。目を閉じていたが、意識が落ちる気配は無い。相変わらずの風雨の音が子守歌の代わりなど、務めるハズもない。
 スマートフォンの時計に目をやると、2時を回っている。澪が部屋のライトを消して、もう1時間が経つ。
「……起きてる?」
澪の小さな声が、真っ暗な部屋に響く風雨の音に混ざる。
「……眠れなくて」
と言った流雫に、澪は
「……だよね。……あたしのベッド、入ってきていいよ?」
と誘う。流雫は
「いいよ。どっちにしろ、眠れないと思うし」
と断った。しかし
「……来て。いっしょにいて」
と澪は言った。少し切なげな声だった。
 流雫は手探りでベッドの縁を掴むと、澪の隣に寝そべる。2人で寝るには少し狭いが、澪はそれでもよかった。
 互いに背を向けたが、背中はくっついていて温かい。
「……流雫には、あたしがついてる」
澪が言った。
「……澪には、僕がついてる」
と流雫は返す。それと同時に、澪の指が流雫の指に絡む。
 目の前に絶望しか無くても、こうして澪が背中にいるなら、彼女の存在を感じられるなら、何も怖くない。
 流雫にとって、澪は希望そのものだった。だから、その希望を護るためなら、形振り構わない。
 ようやく、意識が少しだけ遠退く気がした。少しだけ、オッドアイの瞳が濡れ、目蓋を滲ませる。朝までの間とは云え、この指が離れるのが、温もりが消えるのが怖かった。

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