住む世界が違う? ⑤
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――それからまた一ヶ月が経過しても、わたしと彼の関係は一向に進展しなかった。
この頃、わたしはすでに彼との結婚の意思を明確にしていた。「わたしの生涯における伴侶は、もうこの
でも、彼にはそこまでの覚悟はできていなかったらしい。〝恋人同士〟という関係ではあったものの、キスから先の関係には進もうとしなかった。
義理堅い人なので、父との約束を果たすためにもわたしと別れる意思はなかったらしく、また他に想いを寄せている女性がいる様子もなかった。でも義理だけでなく、彼がわたしのことを本気で愛してくれているのは確かだった。
だからこそ、まだ高校生だったわたしにおいそれと手を出せないという彼の気持ちはもっともだったし、真面目な彼の優しさにつけ込んで責任を取らせるつもりもなかったけれど。
わたしだってもう幼い子供じゃなかったから、好きな人の温もりを感じたいという欲求くらいは芽生えていた。彼だって健全な成人男性なのだから、そういう本能的な部分はあったはずなのに……。彼は生真面目さゆえに、ムリをしてそういう気持ちを抑え込んでいたのだろう。
そして、「住む世界が違う」という一種のコンプレックスというか、格差というか――。やっぱりそういうものが、彼の足
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――夏休みの最初の二日間、わたしと彼は母から、一泊二日の
何でも、この年の十月に開業予定の篠沢商事・神戸支社の現地視察をしてきてほしいとのことで、「視察は初日に終わるでしょうから、二日目にはデートも兼ねて、二人で観光してらっしゃい」とも言ってくれた。
言ってみればこの出張は、母がわたしたちに提案してくれた婚前旅行でもあったわけだけれど。もちろん主な目的は仕事だったので、ホテルの部屋はキッチリ別々、シングルルーム二部屋だった。
「夜淋しくなったら、貴方のお部屋に行ってもいい?」
冗談半分、でも半分は本気でそう言ってみても、「ダメですよ! 女の子の方からそんなこと言っちゃ!」と、彼は頑なにわたしと同じ部屋で寝ることを拒んだ。
理屈としては分からなくもなかった。結婚前のうら若き乙女が、夜遅くに男性の部屋を訪ねていくのは色々な意味で危険極まりない行為だと。彼が理性を保てなくなって、取り返しのつかないことになったら、困るのはわたしではなく彼の方だと。
でも、ここまで強硬に拒まれてはわたしもオンナとして立つ瀬がないし、「この人、本当はわたしのことをどう思ってるんだろう?」と思いたくもなるものだ。
唯ちゃんには「彼のことを信じてあげて」と言われていたけれど、わたしは彼の愛をどこまで信じていいのか分からなくなった。
この二日間の出張中、わたしたち二人の仲はずっとギクシャクしたままだった。
神戸支社の視察は初日のうちに何の問題もなく終わったし、
二日目の神戸観光でも、川元さんがわたしたちのガイドを買って出て下さった。神戸港・
彼は多分、良家の令嬢であるわたしと、銀行マンの次男である自分とは釣り合っていないんじゃないかと思っていたのではないだろうか……。
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――神戸出張を終え、わたしは夏休みの間も週五日、朝から夕方まで出社していた。宿題は、毎日帰宅後に少しずつ片付けていった。
毎日彼に送迎してもらうのは、あんな精神状態ではちょっと苦痛ではあった。顔を合わせれば彼に恨み言のひとつも言いたくなってしまうから。
八王子の学校からならともかく、自由ヶ丘の自宅からなら電車通勤も苦にならなかったけれど。彼も意地なのか、それとも義理からなのか、毎日律儀に送迎してくれた。
自分がしたくて送迎をしてくれていたならまだいいけれど、義理でまでしてくれなくてもよかった。彼には、わたしに対して義務感なんて持ってほしくなかったし、そんなの嬉しくも何ともないのだ。
――そんなある暑い日の午後。彼を社外までお遣いに出して間もなく、会長室のドアがノックされた。当然、彼がそんなに早く戻ってくるはずもなく。
「――どなた?」
「秘書室の広田です。入ってよろしいでしょうか?」
わたしが訊ねると、広田室長のキビキビした声が聞こえてきた。彼女は貢の直属の上司だけれど、会長室を訪ねてくることはめったにない。
「どうぞ、お入りになって」
「ありがとうございます。失礼致します」と礼儀正しく言って、髪をひっつめにしたひとりの女性が入ってきた。母より一つ年下だという彼女が、広田さんである。
「――あら? 桐島くん、今いないんですね」
入室して開口一番、広田さんは 彼の不在に首を傾げた。
「ええ、ちょっと外までスイーツを買いに出てもらってるんです。こう暑いと、甘いものでも食べなきゃエネルギーが
わたしが促すと、彼女は手近だった貢の席からキャスター付きの椅子を転がしてきて、わたしの席の前でその椅子に腰かけた。
「……それ、後で桐島さんに怒られるかも」
苦笑いするわたしに、彼女は「大丈夫ですよ。私、上司ですから」と、あっけらかんと笑い飛ばした。
「――それで、広田さん。今日はどうなさったんですか?」
改めて、彼女が来室した用件を訊ねてみた。
「特別何かあるというわけではないんですが……。桐島くん、ちゃんとやってくれてますか?」
「……ええ。毎日活き活きと働いてくれてます。わたしも彼にだいぶ助けられてますよ」
できるだけ当たり障りなく、彼女の質問に答えた。
わたしは決して、彼を嫌いになれない。真面目に日々の仕事に取り組む彼が好きだし、誇りにも思っている。そして、以前いた部署での苦労も知っているから、楽しそうに働いてくれるのは経営者として何よりの喜びだった。
「そうですか、よかった。――いえね、私も彼の総務部時代のことは耳にしておりますから。彼が会社を辞めたがっていたことも存じております。ですから、秘書室へ移ってきてからの彼はどうなのかと心配で」
「心中、お察しします。
そして、彼はわたしたち母娘の間で振り回されていた。それはもう、秘書室に所属する他の社員よりも大変だったろう。――今は母が相談役に専念してくれているので、それほど大変ではないようだけれど。
「ご理解頂いて感謝します。――ところで、会長に確認したいことがございまして。……よろしいですか?」
「ええ……。何でしょうか?」
彼女は険しかった表情をふっと和らげ、少女のようにいたずらっぽく訊ねてきた。
「あの、私の勘違いでしたら申し訳ないんですが……。会長と桐島くんって、お付き合いなさってたりします?」
「……ええっ!?」
一瞬、わたしの聞き間違いかと思い、耳を疑った。彼に輪をかけたように真面目な広田さんの口から、そんな言葉が飛び出すなんて!
「どどどど、どうしてそう思われたんですか!? わたしたちの関係は、社内では秘密にしていたはずなんですけど」
「あら、やっぱりそうだったんですね。
「そう……ですか?」
「ええ。……ですが、会長には何かお考えがあって秘密にされているんでしょうから、私も周囲には漏らさないように注意しておきます」
「どうも……。でもわたし、最近彼の気持ちをどこまで信じていいか分からなくなってるんです」
彼女に弱音を吐くのは初めてだった。母に年が近いので、母に打ち明けるのと同じくらい気が楽だったからかもしれない。
「……とおっしゃいますと?」
「広田さん。……住む世界が違う者同士の恋愛からの結婚って、あり得ると思いますか?」
「…………さぁ、私には何とも」
わたしの身につまされた質問に、彼女は困ったように首を傾げていた。