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雨降って…… ①

 ――それから季節は巡り、秋を迎えた。

 わたしが彼と出会ってちょうど一年が経過しようとしていた。けれど、わたしたちの関係は交際を始めた春から一向に進んでおらず、わたしは正直焦っていた。

 父の喪が明けるまで三ヶ月ほど、高校卒業まであと約半年……という時期になったので、わたしはそろそろ本格的に彼との結婚準備を始めようかと意気込んでいたのだけれど。彼はというと、わたしからその話題を持ち出されそうな気配を感じれば意図的にその話題を避けようとしているように見えた。

 もしかしたら、彼にはわたしと結婚する意思すらないのだろうか……? わたしがそう(いぶか)しんだとしても、それはごく当然のことだったと思う。
 多分、その理由は「住む世界が違うから」。――わたしに言わせれば、そんなことはただの屁理屈だった。たとえ生まれ育ってきた環境が違っていても、それで結婚生活がうまくいかないとは限らない。母と父がその例だった。
 もちろん、わたしの両親がそうだったからといって、わたしたちもうまくいくかどうかは分からなかったけれど。

 それとも、周囲から「逆玉だ」「財産目当ての打算だ」と陰口を叩かれるのが怖かったのだろうか? 彼は繊細な人だし、一度上司からのひどい扱いで深く傷付いていた。そのため、誰かからの心ない言葉でメンタルをやられてしまいやすいことはわたしも知っていたはずだった。

 でも、はっきり言ってしまえば自分のことで精一杯だったわたしは、彼の内にある苦悩に気づいていなかった。そのせいで、わたしたちの関係は一度、修復不可能になる一歩手前まで崩れてしまうことになったのだ。

****

 ――十月半ばのある日曜日の夜。わたしはとある大規模なパーティーに出席していた。
 その会は個人的なものではなく、関東の中堅以上の企業の経営者が集まる交流会で、赤坂(あかさか)にある一流ホテルのバンケットルームを貸し切って行われており、秘書である彼ももちろん同伴出席していた。

 その日の天気は、朝からあいにくの雨。それでも二人とも気合を入れてドレスアップして行った。

「桐島さん、そのスーツいいじゃない! こういう華やかな場にふさわしい色合いよね。やっぱりこの色の生地を選んで正解だったね」

 この日彼が着ていたスーツは、彼の誕生祝いにわたしがオーダーしたあのスーツ。ダークグレーのシックな色合いなので、インナーのカラーシャツは濃いブルーを合わせ、上品なチェック柄のネクタイをしていた。

「……そうですか? ありがとうございます。まさか、こんな機会に着ることになるとは思いませんでしたけど」

 彼は照れてはにかみながらそう言ったけれど、わたしの目には彼が、出席者の男性の中で誰よりもステキに映っていた。

 それがたとえ彼女としての贔屓(ひいき)()でしかなかったとしても、他の男性に視線を奪われてしまうよりはよっぽどいいと思った。

「会長も、すごくステキですよ。今日はすごく大人っぽく見えます」

「ホント? 嬉しい! ありがと!」

 わたしも、この日は他の女性出席者――もちろん女性の経営者がいないわけではないのだけれど、同伴者の女性たちも負けないくらい華やかだった――に引けを取らないくらい、目いっぱいのおめかしをしていた。

 大好きなピンク系の色だけれど、落ち着いたスモーキーピンクのマキシ丈のノースリーブドレスに、オフホワイトのボレロ。靴はピンクゴールドのハイヒール。ちょっと大きく開いてデコルテが見える胸元には、彼から誕生日にもらったお気に入りのネックレスが光っていて、いつもは下ろしている長い髪は、うなじが見えるアップスタイルにしていた。しっかりめにメイクもしていたので、わたしが有名人でなければ、「十八歳だ」と言っても誰も信じてくれなかったのではないだろうか。

「――そういえば、貴方と出会ったのもちょうど一年前のパーティーだったね。パパのお誕生日の。……あ、ゴメン」

 一年前、彼との出会いも父の誕生日パーティーだったなぁと、わたしはしみじみ思い出していた。
 でも、ちょうどその頃に彼が会社を辞めたがるほど苦しんでいたことを思い出し、言ってしまってから後悔して、彼に小さく謝った。
 彼にとってその頃の話は、思い出したくもない地雷だったかもしれないから。

「謝らなくていいですよ。もうあの件は片付きましたし、僕も忘れることにしましたから。あなたや、加奈子さんと知り合ったこと以外は」

「……そう? それならよかったけど」

 彼は強くなったかもしれない。あんなに思い詰めていたのに、そんなに簡単に記憶から消してしまえるものだろうか。
 それを口に出して訊ねると、彼は微笑んでこう答えた。

「それは、あなたという強い味方ができたからです。おっしゃってくれたじゃないですか、僕のことを守って下さるって。そして、それを見事に実行されたじゃないですか。だから、あのことも忘れることができたんです。会長にはいつも感謝してますから」

「……うん」

 熱っぽく語られて、わたしの顔が熱くなった。でも引っかかったのは、彼が「感謝している」と言ったこと。
 あれはニュアンス的に、わたしへの愛情を言い表していたはず。なのに、出てきた言葉は「感謝」? どうしてそれだけなの?
 この場には会社の人間は来ていなかったので、ボスと秘書という関係に徹しなければならないわけでもなかった。なのに、彼がそれしか言葉にしなかったのはどうしてだったのだろう?
 その場のわたしには分からなかった。

 もし彼が、わたしに感謝の気持ちすら抱いてくれていなかったとしたら、それはそれで悲しかったのだけれど……。

「それにしても、こんな日に雨なんて……。気分が滅入っちゃうよね」

「そうですね……」

 幸い、ホテルの駐車場は建物の地下にあるので雨に濡れることはなかったし、彼の車に乗り込むまではちゃんと雨傘も差していた。でも、天気が悪いと気分が落ち込んでしまうのは、致し方ないことだったと思う。
 人の心と天候はリンクしているのだと、わたしは心理学の本か何かで読んだことがあった。今にして思えば、この日と翌日の空模様はわたしの心そのものを表していたように思える。

「――さ、暗い顔はここまで。今日は思いっきり楽しんでいきましょう! まずはお料理からよ!」

 とはいえ、いつまでも二人してどんよりしているわけにもいかないので、わたしはサッと気持ちを切り換えて、彼の肩をポンと叩いた。

「はいっ!」

 彼も空腹だったのか、いつもとほぼ同じ笑顔に戻って、わたしと一緒にズラリとお料理の並ぶビュッフェコーナーへ向かった。
 
 確か彼は、こういう煌びやかな場所が苦手だったはず。でも、この時のわたしは、そんなことなんてすっかり失念しており、彼が()(おく)れしていないことを嬉しく思うだけだった。

****

 ――企業のトップたちが招かれた会だけあって、このパーティーの出席者は大人がほとんどだった。

 わたしのような大グループの代表から、ベンチャー企業の若き経営者まで幅広くいたけれど、その人たちに共通していた特徴は、ほぼ全員がアルコール愛好家だったということだ。
 パーティーの席にはバーカウンターが設けられていて、世界中のありとあらゆるお酒が並んでいた。
 わたしと彼のように、未成年だったり下戸だったりする人のためにソフトドリンクのドリンクバーも設置されていたので、わたしはともかく彼も周りからムリヤリ飲まされることはなかった。

 美味しいお料理に舌鼓を打ち、お腹いっぱいになったわたしたちは、テーブルでアップルジュースをお供にして話し込んでいた。

「結婚式を挙げるなら、披露宴のお料理はやっぱりビュッフェがいいかしら。だったらホテルウェディングじゃなくて、結婚式場でレストランウェディングの方がいいよね」

「……えっ? ……ええ、そうですね。でも僕は、まだあまり結婚に対して現実味が湧かないというか……」

「まぁだそんなこと言ってるの? わたしという恋人がいながら」

「…………」

 彼は明らかに困っているようだった。なぜ困惑したのかは考えないようにしていたけれど、ただ、この沈黙によって、わたしと彼の間に気まずい空気が流れ始めたことだけは確かだった。

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