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夢の中を漂う

私たちは一日目の小樽の夜を楽しむことにした。街をゆっくりと歩き、まるで月の上を歩いているように感じた。実際に重力が弱まっているようだ。なんだかふわふわとしている。きっと、私たちの脳はこの遠く離れた夢幻の世界で激しく躍動しているようだった。サクラさんに会えるというだけで、ときめき、まるで一国の大統領を表敬訪問するみたいな心躍る気分でもある。まるで過去に生きていた、マハトマガンジーやケネディや天皇陛下に会えるというような期待感だ。小樽運河が近づいてきて、街灯が煌めき、多くの観光客がじっとその美しい景色を見ている。私たちもまるで写真から切り取られたような風景にうっとりと時間を忘れて静かに心揺すられ合う。
「ほんと綺麗。なんだか遠くまで来ちゃったね。この景色は一生忘れない。きっと、辛いとき、悲しいとき、それだけじゃなくて、横須賀に帰って電車に乗っているときにも、突然この目の前にある運河が思い出されるんじゃないかなと思う」潤子はうっとりと見とれたように、飽きもせずに眺めている。
「さっき行ったガラス館やオルゴール堂の近辺を回ってみよう。きっとライトアップされてほんと綺麗よ」私たちはすぐ近くの観光客がぞろぞろと歩くきらびやかなメインストリートを目指した。
道の両脇に土産物屋がならんでいて、漆黒のなかにあって、煌々と明かりが灯っていた。私たちは一瞬金縛りにあったように立ち止まり、この近辺に住んでいる人はなんて幸福なんだろうと思った。硝子館に入ると、店内に併設されている喫茶店が目に入った。
「潤子、お茶しない?」
「うん、いいわよ」
喫茶店の中は薄暗く、奥にグランドピアノがあって、男性がピアノを弾いていた。私たちは店員に案内されて席に着いた。私はホットコーヒーを、潤子はホットココアを注文した。
「みつき、あのピアノを弾いている男の人、とても男前よ。あなたのタイプなんじゃない?」
「えっ、本当?どれどれ」私は優雅な演奏をしている男性を見ると、何処かで見たことがあると感じた。でも、咄嗟には思い浮かばず、ずっと、その若い男性を見つめていた。いったい何処で会ったんだろう?それとも私の見まちがいかな?私は率直に潤子に告白した。
「あの人と出会ったことがある。私の記憶の中にはいないはずの誰かなんだけど。きっと一瞬だけ、私の視野に入って、たった一度だけ網膜に残像のように写ったような感じっていうのかな。それでもその体験は、私にとってかけがえのないものなのかもしれない。ひょっとしたら、将来また出会うかもしれない。なぜだろう、だんだんと恐怖にも似た、感覚が私のうちに溢れてくる」
「大丈夫?みつき」潤子は私の右手を握って、その柔らかく、しっとりと湿った温かな手が、なんとも言えぬ、慰めと救済をもたらしてくれていることを実感した。
「ええ、大丈夫よ。ちょっと混乱しているだけ。でも、きっと彼とはいつの日か、また出会えると言う感覚は残っている。だから、ここで彼のことを忘れても、心配はない。必ずまた会えるはずよ」私は彼に恋心を抱いているのだろうか?その答えはイエスでもノウでもある。潤子が言ったように、私のタイプの男性だ。しかし、誰かはわからないが、いや、運命の糸を引く神様のお告げかもしれないが、そのような強力な作用を呼び起こす、なんらかの力が、今の私に、ここでピアノを弾く男性との出会いを望んでいないことが、はっきりとわかる。私はそのことを理解すると、自然と男性のことが微塵も興味がない対象となった。
「潤子、ココア美味しい?」
「うん、オーガニック百パーセントって感じ」
「それは良かった」私は何よりも今は潤子の幸せな微笑みが、一番の特効薬になっていることに、自信と勇気をもらっているのだった。
「今夜は眠れるかな?」潤子は明日への期待から言っていることは明らかだ。
「どうだろうね。私にもわからない。でも、それでも私たちはきっと最高の、人生で一番と言ってもいいほどの体験をすることになる、そのことに変わりはない。そう思うでしょ?」
「そうだね。それに、たった一日眠れなくても大したことじゃないもんね。ほんと、楽しみ」
私たちは三十分ほど店内で静かに明日への空想を膨らませた後、アパートへ向けて歩いた。海風が少し涼しげに体の火照りを静めてくれる。
「あの、すいません」
私は後ろから声をかけられて振り向いた。一瞬誰かと思ったけど、そこにいたのは先ほどピアノを演奏していた男性だった。
「すいません。突然話しかけたりして。でも、この機会を逃したらきっともう出会うことはできない気がして。私は喫茶店でピアノを弾いていました。北海道には旅行でいらしたんですか?」男性はハアハアと背中で呼吸をしていた。きっと走ってきたのだろう。
「さっき、演奏していた方ですね。あなたとは何処かでお会いしたような気がしていました。いったい何処でなんでしょう。それがわからなくて。でもいつの日かまた出会えるような、そんな予感がしていたのですが、こんなに早くまた会えるなんて」
「私は石田恵太といいます。ピアニストを目指して日々鍛練しています。よかったら、お友だちになっていただけないでしょうか?」
「はい、私は高瀬みつきといいます。東京で出版社に勤めています。出身は札幌です。この子は潤子(うるこ)、私の大切なお友だちです」
「こんばんわ、石田さん」潤子は優しい声音で話した。
「どうも、初めまして。潤子さん。とても仲が良いんですね」
「彼女は小説家の卵なんです」
「そうなんですか。感性が豊かなんですね」
「あなたの演奏とても素晴らしかった。とても大切に演奏している、そう感じた」潤子は率直に言った。私もそう思った。
「よかったらメールアドレスと携帯の番号を教えてくれませんか?」石田さんは丁寧な透き通るような、ピアノを弾いている感じのする声音で言った。
「ええ、いいですよ」私は石田さんが携帯を取り出して、私が言う番号とアドレスを慎重に書き込んでいる姿をそっと見守った。とても清楚で動作がエレガントだった。
「ありがとうございます。ほんと出会えてよかった。私は普段、積極的な行動を起こすことはないんですが、高瀬さんに対しては、なぜだか勇気を出すことができたんです。これも不思議だ。きっと初対面じゃないような気がするんです。何処かで会ったことがあるような感じがするんです。いったい何処でだろう?」
「私も石田さんがピアノを弾いていたとき、何処かでお会いしたような気がするんです。それが思い出せなくて」私は夕闇に覆われた海岸沿いの海の向こう、地平線を眺めながら言った。
「それじゃあ、また、お会いしましょう。すいません。突然話しかけて。でもよかった。あなたたちみたいな素敵な人と知り合えて。また私の演奏聞きに来てください。メールもします。では、さようなら」石田さんは手をあげて、去っていった。
「みつき。素敵な人だね。なんか今回の旅は人との出会いがキーポイントになると思う。そうだ、帰りにコンビニ寄らない。セーコーマートのお弁当が美味しいって調べたのよ。とくにカツ丼が美味しいって」
「いいわよ。私もカツ丼大好き。それにしても海の地平線って幻想的だね。もっと海の近くに行ってみようか」私たちは海岸沿いを歩くことにした。海の香りが強くなってくる。波が引き、そして押し寄せてきた。その音は太古から変わらないのだろう。昔の、平安時代に生きていた人たちも、このさざ波の音を聞いて心を満たしていたのだろうか。
「なんか、癒されるわね。横須賀の海と同じ音だわ。人種や言語が違っていても、きっとどこの海岸でも、これと同じ音がするんだろうね。
私たちはコンビニに寄り、カツ丼とおやつ、飲み物を買って、アパートに帰ってきた。ソファーに座って、私たちは今日起こった出来事を回想した。目を閉じて様々な情景が浮かぶままにした。その中でとくに感慨深かったのは、今私たちがこうして当たり前のように生きていて、それが実は奇跡的なほどに神秘的なことだということだ。太陽が、月が、地球がなければ私たちは生きていけない。太陽の大きさとか、地球との距離とか、酸素の存在とか、様々な種類の生き物や食べ物があること。ほんとうに私たちがここに生きていること。それでさえとても重要なことだと思った。そんなことを考えていると、自分の生涯を大切に生きたい、そう、とてつもなく自分が、人がいとおしいと感じた。潤子はタブレットを鞄から取り出した。
「みつき、なんだか大切なことが多すぎて、何から書いたらいいのかわからない。いろんな情景が浮かんでくるわ」
「それはよかったわね。やっぱり旅っていいよね。たいした違いは無いと思っていても、色々な出会いがあって、たくさんの経験をすることができる。けっこう心に痺れることってある。なんでだろう、不思議だよね。旅をすることによって、いろんな人と出会えるからかな。きっと日常でも勇気を出して人に話しかければ、新たな出会いがあるのかもしれないわね。教訓ってことかな」私は月の光が潤子の瞳に写って輝いているのを美しいと思った。
「旅って最高よね。これからいろんなところに旅をしてみたいわ。東北や、九州、大阪、沖縄。ほんと一生かけても回りきらないほどの地域がある。いろんな人たちと知見を広めて友情を強めていく。なんか陳腐な言葉かもしれないけど、ほんと人って凄いよね」
私たちはアパートに着いて、早速テーブルでコンビニ製のカツ丼を食べた。なんとも言えぬジャンキーさ。それでいて繊細なお味。その後に飲む、缶コーヒーの美味しさ。歯を磨いてベッドに横たわると、心地よい微かな疲れが眠気を誘った。隣のベッドを見ると、潤子は静かな寝息をたてていた。私はベッドから起き上がって、彼女の側に近づき頭をなぜた。潤子はフフフと笑って、微笑みを浮かべながらまた、静かに息をしていた。

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