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旅を終えて新たな境地を歩む

北海道の旅はあっという間に過ぎて私たちは羽田空港に到着した。潤子は横須賀に向かう。私は練馬区のアパートへ。
「それじゃあね。潤子。なんだか私たちレベルアップした感じしない?」
「うん。いろんな経験をしたからね。とっても今回の旅は良かった。自分の糧になったわ。これからも毎日を無駄にしないで、大事に生きていこうと思う。貴重な時間。タイムイズマネーだったっけ?時は金なり!成長に欠かせないもんね」潤子はこの旅で表情が大人に近づいた感じがした。子供の成長って早いもんな。
「近いうちに潤子の家に伺うから。素敵なサクラさんの絵が飾られてきっと店に来る人たちも増えるだろうね」
「私たちと同じ思想をもった人たちが増えるといいね。きっと、素敵な人たちで満ち溢れていく。じゃあ、またね」
「さよなら。必ず遊びに行くから」私たちは別れて別々の道に向かった。振り返ると潤子が手を振っていた。私も振り返した。肺に新鮮な空気が満たされた気分になった。私は潤子に向かっていった。早足で彼女のもとまで行って、潤子を抱き締めた。まるで久しぶりに会う実の妹のようだった。
「ふふふ、気持ちが良いような、痛いような。みつきのことお姉さんのような感じがする」
「私もよ。なんだか久々に会った妹みたい。なんか懐かしい匂いがする。なんだろう」
「きっと私の家の木の香り。そこに住んでいると、全てがそんな香しいものに変化するの。それと夜はお酒をだすバーに様変わりする。そのウイスキーの香りがあらゆるものに沈着して、甘い香りを宿している。私は赤ちゃんの頃から、その匂いを嗅いできたから、自然、神様のようにいつも身近で見守ってくれているように感じるのよね」
「そう、それじゃあ、今から潤子のお家に行ってもいいかな?」
「えっ、ほんとう?喜んで!二次会みたいなもんね。このまま別れるには忍びがたいよね。きっとサクラさんの絵はもう届いているはずだわ。きっとお父さんが然るべきところに飾っているはず。久々にアップルパイが食べられるわ。私の主食みたいなものだからね。みつき、夜になったらお酒を飲めばいいわ。自分で言うのもなんだけど、とってもロマンチックよ。店内のライトが薄暗くなってジャズが流れるの。私もよくカウンターで小説を書いているんだ。鼓膜を揺るがすサックスの音がなんとも言えなくてね。私、生きてるって感じ。お酒は飲めないけど、たまに香りを嗅いだり、テイスティングって言うんだけど、口に含んで味わいを確かめたりするの。もちろん飲んだりはしないけどね。だから、お酒にはうるさいわよ」
「そうなんだ。私もスコッチウイスキーが大好きでね。毎日晩酌で飲んでいるのよ。バーとかには行かないけどね。一人で音楽を聴きながら、ゆっくり味わいながら飲むの。まるでどこかの孤島か、生物が住んでいない惑星にたたずんでいるみたいな錯覚になって、それでも寂しさは無くて、ほっと、ため息をついて、そうだ、今私、地球に住んでいるんだわ、って安堵感を覚えるの。東京に住んでいると、なぜか寂しさは感じないのよね。みんな私と同じく心の底で一人ぼっちだけど、将来に向かって歩んでいる。そんな連帯感みたいなものが、他人のくせにあるのよね。仲間意識っていうのかな。きっと、みんな地方から出てきて、それでお互いに共感するところがあるからだと思うの。潤子は寂しさや孤独感を感じたりする?」
「そうね、真夜中に突然目覚めて窓にかかっているカーテンを開けて、お月さまが輝いていると、私はどうして生きているんだろうって思うことがあるの。この瞬間にも生命は誕生して、死んでしまう人がいて、私はその人のことを悲しむこともできない。私の心に限界があるんじゃないのだろうかと、一抹の侘(わび)しさを感じることがある。他人ではあるけれど、少しでもいいから心に傷を負ってみたい。そんなふうに心に空洞がぽっかりと空くことがある」潤子は私の手を握って、歩き始めた。いささかの不安を抱いたのだろうか。それでもくすっ、と笑って、いつものご機嫌な潤子に戻った。まだ小学生なのにこの感性の鋭さ。将来が楽しみだわ。
私たちは電車に乗って横須賀に向かった。札幌から小樽に向かった時の情景が浮かんできて、私たちはまだ北海道にいる、みたいな錯覚に陥った。車内は静かだ。そのせいで眠気が襲ってくる。
「みつき、眠たいなら寝てていいよ。私が起こすから」
「ほんと、ありがとう。なんだか疲れがどっと出てきたみたい。心地よい痺れみたいな感じっていうのかな。でも今ここで寝てしまうと、いくら起こそうとしても起きないかも」
「大丈夫よ。私がみつきの夢の中に潜り込んで、起きなさい!もうすぐ横須賀に着くわよ!って叫ぶから」
「そう、それなら安心ね。じゃあ、おやすみ」私は全身の力を緩めて目をつぶった。思わずため息をついて、睡魔がじわりじわりと脳を侵食していくことに気持ちよさを感じた。

肩を揺する潤子に、私は目を覚ました。
「みつき、着いたわよ」
「ほんと、起こしてくれてありがとう。少しの時間だけど、すっきりしたわ」
私たちは電車を降りて、潤子の家に向かう。微かな海風が吹いて肌にうっすらとかいた汗が揮発していく。なんて心地よいのだろう。
「潤子、アップルパイ食べられるかな?」
「大丈夫、心配しないで。私もあの味に飢えているの。ほんと久々に主食を食べることができるんだから。焼きたてのパイ、冷蔵庫で冷やしたパイ。楽しみだな」潤子は足を弾ませながら、久しぶりの横須賀、故郷に帰ってきたことを喜んでいる。なぜだか横須賀は小樽に雰囲気が似ている。どうしてだろう?
小高い丘を歩いて、建て売りの新築の一軒家が並ぶ住宅街を抜けて、潤子の家が見えてきた。
「ほんと、ジブリの映画に出てきそうなシチュエーションよね」
「そうだね。お父さんはメルヘンチックだから。憧れている人は、トムソーヤなの」
「トムソーヤか。少年の心を忘れない人なんだね。見倣いたいわ」
私たちはゆっくりと周りの景色を堪能しながら潤子の家に向かって歩いた。涼しげな風が海から吹いてきた。なんて心地よいんだろう。静かな心をなだめるようだ。そして潮の香りが微かなにする。小樽と同じ匂いだ。私は今立っているところが横須賀ではなくて小樽ではないのか、そう錯覚を起こしていた。そう、霊的な意味で。それは間違いではない。ここに私の存在理由はある。そう実感した。あのとき、小樽での様々な出来事を思いだし、幸福な気持ちになった。また、いつの日か戻ることもあるだろう。新たなる再生を抱いて歩む。そんな感じだ。
店内に入ると、香ばしいコーヒーの匂いと、小麦粉とバターの香りがふくよかに漂っていた。
「良い香りね。早速、アップルパイ注文していいかな?」
「私も待ちきれないわ。小樽にいるときにも毎日家のパイが食べれたらなあって思っていた。ようやく夢が叶うわ」潤子は玄関正面に飾られている絵画に気づいた。まるで大好きな人と再開したような驚きを表した。
「ああっ、凄いっ!!!お父さん飾ってくれたんだね。ありがとう」潤子はカウンターの中にいるお父さんに向かいハグをした。潤子のお父さんは彼女を強く抱き締めて額にキスをする。まるでアメリカ人の親子を見ているようだ。私の姿に気がつくとマスターは右手を挙げた。とっても爽やかな笑顔で。私も手を挙げて、にっこりと笑った。まるで里帰りをしたみたいな雰囲気だ。きっと夜もマスターの作ったお酒を飲みに来るのを楽しみにしているお客さんがたくさんいるのだろう。そう思わせる香りが店内に流れている。
「みつき、ここに座って」潤子はカウンター席を指さした。
「ほんと、雰囲気が良い店だね。遠くからでも遊びに行きたいっていう気持ちにさせる」マスターは私に透明なガラスのコップに水を入れて渡した。それからできたての、まだ湯気をたてているアップルパイをテーブルに置いた。素晴らしく、リンゴとバターと小麦粉の香りが匂いたっている。私は故郷の札幌ではなく、何度も訪れている母実家である夕張のことを思い出した。なぜ、札幌ではなく、夕張を心に描いたのだろうか?きっと幼いときから、言ってみれば何も無い、ただ、古びた町の建物と、うっそうと繁った森林が心の記憶に刻み込まれいたのだろう。今でも夕張のことを考えると、とても懐かしい気分にさせる。またいつの日か訪れることもあるだろう。私はフォークでアップルパイを食べやすいように切って食べた。
「なんて素敵な美しい味なんだろう。三食、朝、昼、晩食べても飽きない味だわ。ほんと言葉にできないというか、言葉では表現することが難しいような、とてもドラマチックな感じ」
「ふふふ、お米みたいでしょう。毎食たべても飽きない味っていうのかな。久しぶりに食べるわ。いっただきまーす!!!」潤子はフォークでアップルパイを割き、手で持って口に入れた。目をつぶって、静かに咀嚼(そしゃく)する。なんともいえない表情がすべてを物語っている。せつないような、悲しいような、大好きな初恋の人に手を握られて、嬉しいんだけど、恥ずかしくて、避けてしまう。そんな感じか?
「潤子、ほんと幸せそうだわ。小さな赤ちゃんがママのおっぱいを求めているみたい」
「そうだね。だって私にとっての貴重な宝石のダイヤよりも価値のある、いわば、命を繋ぐ、生命を維持する大切な滋養物だから。これから毎日アップルパイを食べることができるなんて本当に幸せ」潤子のお父さんは、そんな彼女の様子を見て、幸せそうな表情で眺めている。

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