バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

7 マナの力 ― 邂逅 ―

 ストーレの雨は弱まりつつあった。もう間もなく止むだろう。そして、明るい月の照らす夜となる。
 シェリンは、 水原(カレル)を見渡す港に立っていた。旅行客で賑わう新しいイオラス港ではなく、新しい貨物港が出来て殆ど使われなくなり、人の行き来も少ない古い貨物港である。桟橋を渡ると天蓋の端にまで行くことができ、空を直接仰ぎ見ることができるのだ。
「ストーレが上がるわ」
シェリンはゆっくりと歩を踏み出し、まだ少し霧雨の残る空に向かって両手を広げた。
 空を覆っていた黒雲が切れ、その雲間から紅に染まった空が覗き、雨が止んだ。空は明るみを帯び、それまでの湿った西風が止んで、強い東風が吹き始め、水平線が黄金色に染まったかと思うと、次の瞬間、鮮やかな蒼天が広がった。幾つもの銀鈎を輝かせて。
 電気車のエンジンが止まる音が聞こえた。振り返ってみると、ギイレス・カダムが黙ってシェリンを見ていた。
 遠くから、出航を知らせる汽笛が聞こえてきた。イオラス港からムルルアへと向かう船も、そろそろ出発の時間だった。
「大丈夫よ。ちゃんとやれるわ」
 シェリンは、誰にでもなく呟いた。


 ムルルアに到着し、公演を前にした劇場の試演室。
 遅れて入ってきたシェリンに、マリグが声を掛ける。
「おはよう。移動で疲れてない?」
 シェリンは黙って鏡の前の椅子に腰かける。
 溜め息をつくマリグ。
「マリグ、気持ちは分かるが、気を落とすな。シェリンは機嫌が悪いのさ」
 ドルクがマリグを慰めた。
「俺だって、緊張して余裕がない。足も手も震えて、心臓が喉から出そうだよ」
 ギリムの言葉に、マリグは自分もだと笑った。
 ギイレス・カダムが入ってきた。
「この間の選手権大会で優勝したとはいえ、エトラム・バードはまだ駆け出しに過ぎない。奇跡を起こし、伝説を作れ。ここムルルアの次は、幾つかの都市を巡ってアスタリアの首都アスターラ、そして宗主国ウルクストリアの首都ラダムナ。エラーラ中がお前達を求めるだろう」
 ギイレス・カダムの話が終わらないうち、シェリンは、椅子から立ち上がると、扉を開けて試演室の外に出た。あまりにも息苦しくて。

  階段を上り、建物の屋上に上がると、風が吹いていた。天蓋の中でも、空調と場所による温度差のために風は吹く。
 天蓋の外の空は暗くなり、そろそろストーレが降り始める頃だった。公演も始まる。
 シェリンは、なぜ自分は歌うのだろうかと思った。自分が何を求めているのか、シェリンには分からなかった。闇の中に紛れていたいのか、それとも、光の中で輝いていたいのか。

 誰かの足音がした。振り返ると、ギイレス・カダムだった。
「そろそろ時間だ」とだけギイレスは言った。


 ロウギ・セトは、ムルルア中央劇場の前にいた。
 エトラム・バードの公演が始まろうとしており、劇場の外回りは人であふれている。
 次の瞬間には、ロウギ・セトは劇場の中にいた。
 ロウギ・セトは、喧噪から離れた通路の隅に立ち、人々の様子を静かに眺める。その瞳には深い思考を秘めて。

 客席は満員で、通路にも立ち見の客が溢れていた。若者のみならず熟年層も居た。ギイレス・カダムの、あらゆる媒体を駆使しての宣伝が効果を上げたらしかったが、彼に何故それほどの資金力があるのかは謎である。
 開幕の鐘が鳴り、幕が上がる。
 目まぐるしく点滅する七色の光。マリグ、ドルク、ギリムの奏でる大音響の音律は、心臓の鼓動を従えてしまう程だ。観客の心は、舞台照明の発する熱以上に熱くなっていく。
 演奏の音量が次第に小さくなり、舞台中央の (せり)が上がって照らしだされたのは、祈るように両腕を差し伸べたシェリンの姿。少年のように細い腕に巻き付けられた銀鎖が、鈴のように鳴り、煌めく。目を見張る程に美しいその姿に、観客は一瞬で魅了された。
 シェリンの歌声が、電気的に増幅させた楽器の音にも勝って劇場内に響きわたる。


  ♪今夜、もし全ての月が消えたとしても
  ♪ストーレの闇の中、誰も信じられなくなったとしても
  ♪ 明夜(あした)は静かに訪れる

  ♪月の真昼に咲いた一輪の花
  ♪名も知らぬその花に
  ♪哀しみと名前を付けようか
  ♪歓びと名前を付けようか
  ♪花が枯れてこの世界から消えてしまっても
  ♪わたしはその名を忘れずにいよう
  ♪その命の輝きを胸に刻んでいたいから

♪静かに訪れる 明夜(あした)への希望
♪遠い旅路への道しるべ
♪わたしの中で咲き続けるその花を
♪あなたに捧げよう

 シェリンの放つ光は、さらにその輝きを増していき、白熱し、まるでソルディナの太陽のように強烈な印象を観客の心に焼き付けていた。正視すれば網膜に一生消えない残像を焼き付けるどころか、失明してしまいそうなほどの強烈な輝きである。
 観客に混じり、瞳を閉じて歌を聞いていたロウギ・セトは、やがて、ゆっくりと目を開けた。
 格段に歌唱力が優れているというわけでもなく、特別に歌詞や音楽が優れているというわけでもないのに、観客をこれほどまでに惹き付ける彼女の歌声の持つ力。それこそが、ロウギ・セトの目的点が彼女である (あかし)に違いない。
 ウルクストリアの千人街の居酒屋で、畜音箱から流れてきたシェリンの歌声を聞いて直感したことは、やはり間違いではなかったのだと、ロウギ・セトは思った。

  ♪月の空を飛ぶ一羽の小鳥
  ♪名も知らぬその鳥に
  ♪憧れという名前を付けようか
  ♪希望という名前を付けようか
  ♪小鳥は飛び去りやがては命も尽きるけれど
  ♪わたしはその名を忘れずにいよう
  ♪その澄んだ響きをわたしの中に刻みたいから

  ♪静かに訪れる 明夜(あした)への希望
♪遥かな旅路への道しるべ
♪わたしの心を照らす澄んだ歌声を
♪あなたに捧げよう

  ♪今夜、もし全ての月が消えたとしても
  ♪ストーレの闇の中、誰も信じられなくなったとしても
  ♪ 明夜(あした)は静かに訪れる

  ♪わたしは笑おう、あの花のように
♪わたしは歌おう、あの小鳥のように
♪未知の 明夜(あした)と長い旅路を行くあなたに
♪この歌を捧げよう


 シェリンの口は勝手に歌い、身体は勝手に律動を刻む。彼女の虚ろな意識は、まるで傍観者のように彼女の身体とは別の場所にあった。歌に集中するのとは裏腹に。彼女の心はどこか遠い場所へと飛翔し、自分ではない誰かが歌うのを傍観しているような錯覚を覚えるのだった。

 観客は、最早歌の内容など気にしてはいないかに見えた。目まぐるしく移り変わる舞台照明と迫力ある音律は、催眠暗示のように観客の心と体を釘付けにし、観客を思うがままに動かす。おとなしく自分の座席に座っている者はいない。身を乗り出して立ち上がり、通路まで埋め尽くされた超満員の会場の中で、足を踏み鳴らし、 (こぶし)を振り上げ、声を上げていた。

 最後の曲が終わり、幕が下りても、観客は誰一人帰ろうとせず、拍手と口笛と声援は止まなかった。
 シェリン、マリグ、ギリム、ドルクは、汗を光らせながら観客の声援に答え、舞台袖に下がったが、観客の興奮の嵐は永遠に冷めやらぬかのように高まり続け、エトラム・バードがもう一度舞台上に現れるまで止みそうもなかった。

 ロウギ・セトは、観客の熱狂を余所に客席を離れ、下手の通路に出た。そのままシェリンの控室へ向かう。
 ロウギに気付いた係員が駆け寄ってくる。
「おい、こら、ここは関係者以外……」
 言い掛けた係員の額に、ロウギは伸ばした二本の指先をすっと当てた。係員は、何事も無かったかのように、その場を立ち去る。
 ロウギは、シェリンの控室の扉を静かに開けた。
 シェリンは、最後に着ていた銀紗の衣装のまま、鏡台の前で化粧を直していた。
「分かっているわよ、今出るから……」
 シェリンは振り返りもせずに言った。扉の開く音に、自分を呼びにきた世話人ギイレス・カダムだと思ったのだ。
 しかし、ふと気付くと、鏡に映っているのは見知らぬ顔だった。
 彼女は振り返り、戸口に立つ無表情なロウギ・セトを見て、その顔を驚きと不審に曇らせた。冷たいと言えるほどの端正な顔立ちの、底知れぬ虚ろな瞳の色。シェリンは不思議な印象を覚えた。見知らぬ顔のはずなのに、初めて会ったのではないような気がする。

 シェリンは侵入者ロウギ・セトを見上げた。控室の照明に照らされた髪は金色に光って見え、暗い色の瞳は、良く見ると、ストーレの闇と月の夜との狭間のような、深い青色だった。その瞳に見入られた時、シェリンの胸の内に、何かが閃いた。
 ―わたしはきっと、この人にどこかで会ったことがある。夢の中か、生まれる前か、きっとこの人もわたしを知っている。
「あなたは誰? どこかで会った?」
 シェリンは身動きもせずに瞳を見開き、椅子に掛けたままでロウギ・セトを見上げる。
 幾億の星の光を秘めた、果てし無い宇宙そのもののような黒い瞳。シェリンのその瞳の光に撃たれ、ロウギ・セトの脳裏に、何かが一瞬閃いて消えた。それが何なのか、ロウギには分からなかった。ただ、わけの分からぬ切なさが、ロウギの心の奥で疼くように響いた。
 ―この娘が目的点なら、それを消去する。それが私の任務。
 ロウギは、自分の内に生じた不可解な感傷を振り払った。

 ロウギ・セトは右手を伸ばし、シェリンの白い額に指を伸ばした。たちまち気を失ったシェリンの細い身体を腕の中に抱き留めると、左手にはいつの間にかタルギンが手渡した短銃が握られ、無表情のまま、その銃口をシェリンの胸に当てた。
 引き金を引こうとしたその時、シェリンの名を呼ぶ声とともに扉が開かれた。ロウギは反射的にそちらに銃口を向ける。
 そこに立っていたのは、シェリンの世話人、驚愕に絶句するギイレス・カダム。
 ギイレス・カダムは、ロウギの腕の中で気を失っているらしいシェリンを見て駆け寄ろうとしたが、ロウギの手に握られた短銃を見て息を呑み、立ち止まった。
「止めろ。お前は誰だ。シェリンをどうするつもりなんだ」
 ロウギは無言のまま、ギイレス・カダムに向けていた銃口を再びシェリンに向ける。
 ギイレス・カダムが、 蹌踉(よろ)めくようにシェリンに駆け寄ろうとする。その一瞬、一発の弾丸がロウギの手にした短銃を弾き飛ばし、短銃は床に転がった。
 ―しまった、もう一人居たのか。
 扉の開いた入口に、まだ煙の立ち上る短銃を手にしたタルギン・シゼルが立っていた。
「なぜだ! 何故シェリンを殺そうとする!」
 タルギン・シゼルが、我が目を疑うようにロウギを見ていた。
 ロウギは無言のまま、片手で気を失ったままのシェリンを抱え、もう片方の手をシェリンの首に掛けた。
 ロウギ・セトの表情は、殺人とは無縁の静けさを呈していたが、その指先は、加減によっては確実に息の根を止めることの出来る首筋の急所に触れていた。
「止めろ!」
 タルギンは短銃をロウギに向けて引き金を引き絞り、ギイレスは床に落ちた短銃を拾ってロウギに銃口を向ける、それは殆ど同時であった。
 耳をつんざく爆音!
 ギイレス・カダムが手にした短銃の暴発だった。同時に、タルギン・シゼルの放った銃弾がロウギの左肩に突き刺さる。
ロウギの肩から赤い鮮血が飛び散った。
 シェリンが意識を取り戻し、悲鳴を上げてロウギの腕から逃れ、跳ねるように床に倒れる。見開かれたシェリンの目には、短銃の暴発により両腕を吹き飛ばされたギイレス・カダムが映った。
 ギイレスは生きていた。血まみれのまま、よろめくようにシェリンに歩み寄り、シェリンの体に覆い被さるように倒れた。シェリンの銀紗の衣装がみるみる紅に染まる。
「ギイレス!」と、シェリンは叫んだつもりだったが、声にはならなかった。
 ギイレス・カダムはうっすらと目を開け、微かに首をもたげた。
「……………」
 ギイレス・カダムは、殆ど聞き取れない声で何かを呟き、力無く首を折った。
 シェリンは、声にならない悲鳴を上げ、再び気を失った。

「何ということを……」
 タルギン・シゼルが、震える右手に左手を添え、その銃口をもう一度ロウギに向けた。
 にわかに通路が騒がしくなった。
「残念だが、騒ぎが大きくなり過ぎたようだ」
 ロウギ・セトは、肩の傷口を右手で押さえながら言った。
 シェリンと向かい合い、黒い瞳に魅入られたりしなければ、そして、あの不可解な感傷に惑わされたりしなければ、目的を果たせていたはずだったのだ。一瞬の戸惑い、それはロウギには有り得ない失態だった。
 ロウギの姿が、消える直前の 蝋燭(ろうそく)の炎のようにゆらめく。この場から安全に逃れるには、瞬間移動するしかない。それほど遠くに移動する必要はないだろう。人目に付かない場所であれば良い。ロウギはその場所に跳躍した。
 タルギンの視界から、ロウギ・セトの姿が忽然と消えた。


 ロウギ・セトが瞬間移動したのは、ムルルアの中心から離れた暗い波止場のようだった。

「怪我をしたね、ロウギ・セト。あれが避けられないお前ではあるまいに」
 頭上から降ってきたようなその声に見上げると、空中に銀色の光が現れ、その光の中に、月読祭の夜に出会った唄歌いが浮かんでいた。流れるような長い銀髪と、赤銅色の肌と、燃えるような朱金の瞳。ロウギ・セトは、驚きはしなかった。 
「ナーサティアか。また会うだろうと思っていた」
 ロウギは傷口に当てた右手を外し、薄笑いをうかべているナーサティアに向けて言った。左肩の出血は止まり、傷口は既に乾いている。
 ナーサティアは、ロウギを見て含み笑いした。
「ナーサティアか。たしかにそんな名で呼ばれることもある。それよりも、ラダスに帰れと忠告したのに、何故まだこんなところにいる?」
 ロウギ・セトは、ナーサティアを見返す。
「私には私の任務がある。邪魔をしないでもらいたい」
 ナーサティアは、ロウギを見下ろしたまま、相変わらず含み笑いを浮かべている。
「私はお前の任務の邪魔をするつもりなどない。ロウギ・セト、お前こそが私の計画の邪魔をしているのだ」
 ロウギ・セトは、上空に浮かぶナーサティアを見上げた。
「私がどうして知りもしない計画を妨害出来ようか。話があるなら、そんな高みから見下ろしていずに、地上に下りたらどうだ」
 ナーサティアは、高みの見物を楽しむかのように、ふふんと笑った。
 ロウギ・セトは、助走もせずに軽やかに跳躍し、空中に浮かんだナーサティアの長い銀の髪に手を伸ばした。しかし、ナーサティアの姿は霞のように消え、別の方向に出現した。追っても追っても、ナーサティアは捕まえられない。
「お前がこの星にやって来るだろうことは予想していたが、それがあの娘を殺すためだとは私にも分からなかった。まだあの娘を殺させるわけにはいかない。だから、タルギン・シゼルにお前を妨害させたが、タルギンがお前を撃つとは思っていなかった。お前に傷を負わせるつもりはなかったのだが」
 ナーサティアは、憐れむようにロウギ・セトを見下ろした。
「傷などはどうでもいい。痛みなど、接続を切ってしまえば感じない」
 実際のところ、傷の痛みを感じなくすることなど、ロウギには難しいことではなかった。そもそも、生身の身体に負った傷ではないのだった。
「たしかにお前の身体の殆どは作り物。流れ出た赤い血も見せかけの人工物。しかし、それでもお前は人間には違いない。手足を失い、記憶をなくし、感情をコントロールされていたとしても、人間とは、心や体に痛みを感じるものだ。存在しないはずの手足の痛みさえも脳は回路を遮断せず、幻肢痛という痛みを感じさせるという。痛みだけではない。喜び、悲しみ、怒り、憎しみ……人間ゆえのそれらの感情を、何故お前は否定する」
 ナーサティアは、憐れみを込めた目でロウギ・セトを見下ろす。
「フェアではないな」とロウギは言った。
「あなたには私が良く見えているようだが、私にはあなたがさっぱり見えていない」

 タルギンがナーサティアを″天空の神ヴィドゥヤー″の化身だろうと言っていたが、それはあながち間違いとは言えないのかも知れなかった。ラダスの事象分析局の一部の人間に限られているはずのロウギ・セトに関する情報を、ナーサティアは何故知っているのだろうか。ナーサティアには全てが見通せるとでも言うのだろうか。そうかも知れないとロウギは思った。そう感じさせる未知の力を、ナーサティアは辺りの空間に放出し、その力がロウギの精神に圧迫感を与える。しかし、ロウギは引き下がるわけにはいかなかった。

「フェアではないか。ならば教えてやろう」とナーサティアは言った。
「孤立した一つの系に於いては、エントロピーは常に増大していく。最も完全に孤立した系である宇宙に於いては、膨張という巨大なエントロピーの増大がある。宇宙は熱の浸食作用を受け、近い将来、エントロピーを極限まで増大させて、やがて消滅するだろう。私はそれを阻止したいのだ」
 ナーサティアはロウギを見下ろし、得体の知れない笑いを浮かべていた。
「つまりあなたは宇宙の番人か守り神というわけか。しかし、どうやって阻止するつもりだ」
 ロウギは、相手が答えるとは思っていなかったが、意外にも、ナーサティアは自信ありげに口を開いた。
「私には切り札がある。あのシェリンという娘。だから、今お前にあの娘を殺させるわけにはいかないのだ。お前がなぜあの娘を殺そうとするのかは知らないが」
 ナーサティアはそう言って笑った。
 本当に知らないのだろうか。ロウギ・セトにとって、シェリンという娘は消去すべき目的点に違いない。しかし、彼女が尋常でない力を持つ理由も、その力がどのように作用するのかも、ロウギには分からない。シェリンという娘の存在がナーサティアにとっての切り札とは、一体どういう意味なのか。
 ロウギ・セトは、試みにナーサティアに問うた。
「エントロピーの増大はまだ極限まで達してはいない。それは、まだ何億年も先のはずだ。あのシェリンという娘がそれほど長生きとは思えないが」
「そうかもしれないな」と、ナーサティアは目笑して言った。
「お前が本当にそう思っているならば、お前は任務を忘れ、ラダスへと帰るがいい。だが、エラーラは危険な惑星だ。放っておけば第二のテラとなるだろう」
「第二のテラとはどういうことだ」とロウギ・セトは訊いた。
 テラは、今はもう無い惑星だった。名前だけはロウギも知っていたが、どこにあったのかさえ知られていない。ある程度の文明が栄えていて、幾つかの記録は残されているが、それだけである。
「テラは、私が壊した」
 ナーサティアは、砂場に作った砂山を壊したとでも言うように、こともなげに言った。
「テラの文明とそこに住む人間の精神は、危険な方向に進んでいた。そのまま放っておけば、宇宙存在のバランスを歪ませる危険な存在だった。だから壊した」
「星を丸ごと破壊したと?」
 ロウギは驚愕して聞き返した。
「惑星一つだけだ。周囲の惑星と恒星は今も存在している」とナーサティアは答えた。
「そして、かつてテラと呼ばれたその青い惑星で、私は一人の娘を見つけた。ユエファという名のその娘は、自分では気付かず、また、まだ大したエネルギーではなかったものの、“マナ”という特殊な力を持っていた。私は彼女の前世と来世を追い、彼女には強い運命の力で結ばれた相手がいることを知った。もしこの二人を無理やり引き離し、しかも、永遠に巡り会うことのないようにしたなら、引き離された二人の魂はストレスを蓄積させ、殊に潜在的にマナの力を持つ娘の魂は、いずれ爆発的なエネルギーのポテンシャルを持つに至るだろう。
 私はこの二人の最初の出会いの後、二人の住む惑星セナンの太陽にスーパー・ノヴァを起こして消滅させ、二人を別々の惑星に転生させた。生まれ育った惑星が存在する限り、魂は故郷の星に輪廻転生するからだ。このスーパー・ノヴァは銀河標準暦では約三万四千年前に起きた。エラーラより千四百光年の宇宙に今も残るその残骸は、かつてテラでは帆座ガム星雲と呼ばれていたこともあるらしい。
 別々の惑星に転生させたにも関わらず、二人の魂はその後も幾度となく引き合って私を悩ませた。それほど強い運命に結び付けられた魂だった。だが、だからこそストレスが産み出す力も大きい。マナの力も強大なものとなる。今までのところ、私は上手くやっているはずだ」
 ナーサティアは、超然とした朱金の目をロウギに向け、そして付け加えて言った。
「かつてのユエファは、今、シェリンとしてこのエラーラに存在している。シェリンというあの娘の歌があれほどまでに人間達を引きつけるのは、エントロピー減少をもたらすあの娘のマナの力のため。そして、その力こそが宇宙を消滅から救う力となる。お前はあの娘を消すことで宇宙が消滅から免れると思っているようだが、それは全くの逆なのだ。負のエントロピー、即ちネゲントロピーは、何らかの意志の介在無しには起こり得ない。あの娘こそは、“マナ”という特殊な力によりネゲントロピーを最大限に引き起こせる希有な存在なのだ」
「そうまでして、あなたはあの娘を手に入れたわけか」
 ロウギは、敵意を込めた鋭い視線を返しながら言った。
 ロウギ・セトの中に、わけの分からぬ怒りのような感情が沸き上がっていた。何に対する怒りなのか、ロウギにも分からなかった。そのような感情が己の内に湧き出るとは、頭部に埋め込まれた制御装置が狂ったのかも知れないとロウギは思った。いや、その前に、と、ロウギは思った。ナーサティアは、本当に宇宙を守っているのだろうか。ロウギ自身が面の目的と裏の目的があってエラーラを訪れたように、ナーサティアにも表向きとは別の何かがあるのではないだろうか。
「あの娘を使って何を企んでいる。本当の目的は何だ」
 ロウギは、ナーサティアに挑むように詰問した。
 ナーサティアはロウギを見て笑った。それは、人知を超越し、この世の全てを支配する者の、手中の駒を憐れむ笑いのようにも見えた。その笑い声を聞きながら、ロウギは、自分が言葉も分からぬ赤ん坊にされてしまったような気がした。いや、それ以下だろう。もしナーサティアの言うことが真実であるなら、相手が巨大すぎるのだ。
「あなたは一体何者なんだ。人の前世と来世を見渡し、輪廻転生までも操る、あなたは神なのか」
「さあ、私にも分からない」とナーサティアは答えた。
「自分が何者であるかなど、はっきり知っている者がいるだろうか。自分がどこの誰かなど、誰かが教えてくれたものを自分の記憶として持っているだけ。どうして私に自分が誰かなど分かるだろう。もし私が全能の神ならば、人間の娘のマナの力などに頼る必要も無いだろうに……。ああ、だが、こう思ったことはある。この世界は、もしかしたら、私の見ている夢ではないかと。とかく夢とは思い通りにならぬもの。もしそうなら、私がこんなに苦労するのも頷ける。しかし、この世界が真実私の夢なのかどうか、それは目覚めてみなければ分からない。目覚めた時、私はどこに居るのか」
 ナーサティアは、ロウギに朱金の瞳を向け、静かに笑っていた。
 ロウギ・セトの視線の先で、ナーサティアの姿は幾つもの影に分かれ、幾重にもこだまする笑い声とともに。ロウギを翻弄するように空中を廻った。ナーサティアの幻影を追いながら、ロウギは、どこかでこの光景を見た覚えがあるような気がした。そうだ、確か、あれは曼陀羅という図だ。どこで見たのだろう。そんな思考がロウギの脳裏を過ぎった。
「どうした、ロウギ・セト。私を捕まえてみるがいい」
 ナーサティアが挑発するように言った。
 ロウギ・セトは目を閉じ、ナーサティアの気配を探った。
「そこか!」
 ロウギは空中の一点に向かって跳ぶと、右手を伸ばし、ナーサティアの衣を確かに掴んだと思った。
 ふふと笑い声がした。
 ナーサティアの身体は、その銀の髪も赤銅色の肌も次第に闇に溶け、その向こうに幾千万の星の煌めく銀河が見えた。
「お前を殺すのは止めておこう。未知数の多いお前を消すのは計画実行に危険を伴う」
 ナーサティアの声だけが星の海にこだまし、ロウギ・セトは、エラーラの太陽セルムも見えない未知の宇宙空間に、ただ一人浮かんでいた。
「ナーサティア、どこへ行った!」
 ロウギの叫びは、暗い宇宙に虚しく吸い込まれていった。

しおり