バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

6 公演前雨

 ロウギ・セトとタルギン・シゼルの二人は、予定通りアスタリア第一の天蓋都市イオラスの港に到着した。
 イオラスはラダムナに勝るとも劣らないほどに華やいでおり、ストーレの闇が訪れても街は照明で溢れ、月の真昼と見紛うばかりに明るく、道行く人々は個性的で、特に若者達は、思い思いの自由な服装を楽しんでいるようだった。

 船を降りてすぐ、タルギン・シゼルはシェリンに関する最新情報を仕入れていた。
「シェリンは、一夜後にムルルア中央劇場で歌うようだ。シェリンを含めて4人組で、 星界の天使(エトラム・バード)っていう名前で、ムルルアの次には、首都アスターラでの公演も決まっているようだ。ムルルア公演でシェリンの歌を聞くなら、ストーレが止んだらすぐに出発したほうがいいな。港から、ムルルア行きの船が出るはずだ」
 イオラスとムルルアとは離れてはいるが、交通網が発達したアスタリアでは、一夜もあれば移動が可能であるらしかった。ムルルアは、近郊の水耕地帯で産する豊かな食料とソラリア高地の鉱物資源に恵まれた豊かな町で、イオラスとアスターラに続くアスタリア第三の都市なのだった。

 タルギンの腹の虫がグーと鳴き、話の腰を折った。
 様々な店が軒を連ねる繁華街で、大勢の人間達が行きかう通りには、料理の匂いも漂っていた。料理店の陳列窓には、作為をほどこした豪勢な料理が並んでいる。色鮮やかな浮豆の羹、潜り鳥の雛の酒蒸し、水流菜と海牛の白子あえ、深海鮫真子の塩漬け、水瓜の砕氷菓子……料理名と特徴などの宣伝文句、それに値段も記されていて、タルギン・シゼルは喉を鳴らした。
「腹が減ってはなんとやら。俺はこの店に入るかな。お前はどうする?」
「予定通りここで別れよう」
 ロウギ・セトは、無表情で答えた。

 タルギンは、ロウギの為に地味で目立ちにくい服装も用意していたが、二人ともに、追われているかもしれない身であり、追手に見つかった場合を考えると、別行動をしたほうが安全だった。それに、男二人連れは目立ちやすい。地味な服装なら、一人で行動したほうが目立たない。
 タルギンは、自分の渡したアスタリアの地図と旅券があれば、ロウギ一人でもアスタリア内を自由に移動できるはずだと言った。互いの用事を済ませた後に再びイオラスの港で落ち合おうというのがタルギンの考えだ。

「それじゃあ、ソルディナ行きについては、また後で話そう」
 ロウギ・セトは、タルギンの言葉に無言で頷き、雑踏へと消えていった。
 タルギン・シゼルは、ロウギ・セトの後ろ姿を目で追い、フッと息をつくと、天蓋を見上げた。街の喧噪に隠されて入るが、ストーレは容赦無く天蓋に打ちつけ、もしこの天蓋が無ければ、この華やいだ都市イオラスでさえも、溢れるカレルの濁流に呑まれて水没し、消滅すると思われた。
「さてと。まずは飯。用事はその後」
 タルギン・シゼルは、料理店に入っていった。


 マリグはシェリンの 宿舎(オテオ)の部屋を訪ねていた。階段を上がり掛けていたマリグの背後から、ギイレス・カダムの声がした。
「シェリンに用事か?」
 マリグはそうだと答える。
 ギイレスは外出から戻ったばかりらしく、外套を着たままだった。
「やめておきな。声を掛けたって無駄だ。さっき出掛ける前に覗いたら、明かりもつけずに窓の所に座り込んでいた。機嫌が悪そうだ」
「でも、イオラス音楽選手権大会は大成功で優勝もしたのに……」
 マリグは納得出来かねる表情で言った。
「何が気に入らないのか、上機嫌の後は、何時だってどん底だ。反動っていうやつかな。なに、そのうち気嫌も直るさ」
 ギイレス・カダムは、シェリンを心配する様子もなく答えた。

 今ではマリグも、シェリンのことが何となく分かり掛けていた。ストーレの街での陽気で大胆なシェリンとは一変して、一人でいる時のシェリンは消え入りそうに虚ろで儚げであった。心を通わせたいと思っても、頑ななまでにそれを拒み、時には火が付いたように激することもあった。
 一体どれがシェリンの本当の姿なのか。マリグには、シェリンが、孤独或いは何かの不安を拭い去ろうとして歌に熱中し、殊更に陽気に振る舞い、その狭間で、行き場のない感情が激情となって溢れ出るのではないかという気がしていた。何故ギイレス・カダムは、もっとシェリンを気遣ってやらないのだろうか。誰かが彼女の凍えた心を溶かさなければならないなら、何故それが自分であってはいけないだろうか。
 マリグは、街で買い求めた一輪の深紅の花を見やる。舞台の上で歌うシェリンに良く似合うと思った。

「温室咲きの月下蘭か。シェリンはその花が嫌いだ。残念だったな」
 ギイレス・カダムが、マリグの手にした花を見て言った。
「えっ、何故ですか?」
「俺からは答えられないね」
 ギイレスは面倒臭そうに答えると、自分の部屋に引っ込んだ。

 マリグは、花を持って階段を上がっていき、シェリンの部屋の扉を叩いた。だが返事はない。数回扉を叩いた後、マリグは取っ手を回してみた。扉は何の抵抗もなく開いた。
 窓辺にシェリンの姿はなく、寝椅子にも、少しの乱れもなく整ったままの寝台にも、シェリンの気配は無かった。呼び掛けても返事はない。
「ギイレスさん、開けて下さい!」
 マリグは、慌てて階段を駆け降りると、激しくギイレスの部屋の扉を叩いた。
「何だ、うるさいな。だから無駄だと言っただろうが」
 ギイレスは、マリグの左手にある月下蘭を見て、予想通りという顔で言った。
「シェリンがいないんです」
「そんなのは何時もの事じゃないか。気が向いたら帰ってくるさ。俺は寝るよ。お前ももう帰って寝るんだな。その花は自分の部屋にでも飾りな」
 ギイレスは欠伸をしながらそう言うと、面倒臭そうに扉を閉めようとした。
 マリグは、ギイレス・カダムに挑むような視線を投げる。
「僕は貴男を誤解していた。もう少しシェリンのことを心配していると思っていたのに。公演に支障がない限り、貴男はシェリンのことなんかどうでもいいんだ。僕は一人でも捜しに行きますから」
「前にも言ったが、時間の無駄さ。シェリンのことは、お前より俺の方が分かっている」
「いいえ。貴男なんかにシェリンの心は分かりません」
 マリグは、冷徹なギイレス・カダムを罵倒し、叩きつけるように扉を閉めると、宿舎を飛び出していった。


 シェリンは薄暗い町を彷徨い歩いていた。激しいストーレの音に堪りかね、シェリンは耳を覆った。その道を真っ直ぐに抜ければ、ストーレの降りしきる暗い昼でも賑やかな歓楽街がある。
 シェリンは、その明かりに向かって歩き出す。篠突くストーレの雨音と闇から逃れるために。
 一軒のストーレ・パラオに入ったシェリンは、仕切台の丸椅子に掛け、 蘇摩(そま)酒を注文した。客達の視線が集まる。彼女には、嫌でも人の目を引きつける何かが在るのかもしれないが、シェリン自身は気に留める様子もない。

 しばらくすると、数人の男女がシェリンを横目に見て頷き合い、彼女の周囲を取り囲んだ。
「エトラム・バードのシェリンだっけ? この間のイオラス音楽選手権大会、舐めた真似してくれたそうじゃないの」
 シェリンは、ちらと見やり、無言で蘇摩酒を飲む。
「無視してんじゃねえよ。あんたら、締め切り過ぎに強引に登録したっていうじゃねえか。審査員も買収したんだろう。そうでなきゃあ、ぽっと出のあんたらが優勝なんかするはずが無い」
「そうよ、優勝候補筆頭は、うちらだったんだから」
 シェリンを囲む男女は息巻いた。
「優勝したかったの?」とシェリンは訊いた。
「あんた、うちらを馬鹿にしてるの!?」。
「まさか」とシェリンは答えた。
「優勝なんて、あたしにはどうでもいい。どこでだって、歌いたい時にあたしは歌う。それだけよ」
 シェリンは、二杯目の蘇摩酒を受け取りながら言った。
「いい気になるなよ。どこから流れてきたか知らないけれど、その気になりゃ、あんたらの過去だって調べられる。仲間達に一声掛りゃあ、奈落の底にだって突き落としてやれるんだぜ」
 なおもしつこい男女に、シェリンは、うんざり顔を向けた。
「店の中でのいざこざは困りますよ」と仕切台の中から給仕が言う。
「いいわよ。続きは店の外で聞くわ」
 シェリンは椅子から立ち上がった。
 その時、シェリンと彼女を取り囲む男女の間に、強引に割って入る男がいた。
「悪い悪い。店混んでるし、お嬢さん方、お坊ちゃん方、座らないなら退いてくれな」
 それは無精ひげを生やした赤毛の男だった。
「なんだよ、あんた。関係ない奴は引っ込んでなよ」
「そうもいかないかなあ」
 からかうような口ぶりで言う赤毛の男に、男女のうちの大柄な強面の男が、 (こぶし)を突き出した。
「邪魔なんだよ」
 赤毛の男は、その拳をかいくぐり、強面の男の鼻先で、小さな匂い袋のような物を破裂させた。強面の男はたちまちその場に崩れ、イビキをかきはじめる。
「おーい、給仕さん。このお客さん、酔いつぶれちゃったらしいんだけど」
 赤毛の男が仕切台の中に向けて呼び掛けると、給仕が二人出てきて、強面の男を何処かに運んでいく。一緒にいた男女も、舌打ちしながら出て行った。
「失礼したね。俺は別に怪しい者じゃない。タルギン・シゼルっていう旅の商人さ。さっきウルクストリアから着いたばかりでね。飯の後で一杯やろうとこの店に入ったら、あいつらが目に入ったもんだから」
 赤毛の男は、そう言って人の良さそうな笑顔を向けた。
「さっきのは何? 眠り薬でも嗅がせたの?」
「さあね、余程眠かったんだろうさ。飲み過ぎか仕事のし過ぎかもね」
 タルギン・シゼルと名乗った男は、澄ました顔で言った。
 シェリンは呆気に取られながらも、次の瞬間には笑っていた。
「おもしろい人ね」
「お誉めに与り恐縮です」
 タルギン・シゼルが、おどけたように言う。
「でも、あたし、貴男の助けは要らなかったかもよ。どう見えるか知らないけれど、あたし、子供の頃から、ああいうの慣れてるの」
 シェリンは片手で額にかかる髪を掻き上げると、蘇摩酒の盃を取りながら言った。
「いけないねえ。あんたには似合わないし、それに何より危険な行為だよ。俺は正直な人間なんで、思ったままを言うけど、あんたは、月光に濡れて咲く可憐なアルジーカの花のようだ。だから、もっと自分を大事にしなよ」
 タルギン・シゼルが、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「会ったばかりであたしにお節介? それともあたしを知ってるの?」
 シェリンは不可解そうにタルギン・シゼルを見上げる。
「知っていても、知らなくても、見る目のある人間には分かるものさ。だけど、あんたは既に有名人だ。気を付けなよ」
 タルギン・シゼルは、穏やかな優しい笑顔で、じゃあな、とだけ言って店を出た。
 シェリンは、その後ろ姿を茫然と見送ったが、ふと思い立ち、仕切台に蘇摩酒の代金を置くと、急いで男を追いかけた。

「待って。さっき言ってた花、何といったかしら?」
 タルギン・シゼルが立ち止まって振り返る。
「アルジーカ。またの名をイーラファーン」
「それ、どんな花?」
「ソルディナの、 砂駝鳥(ソリカ)岩羊(クーヤ)さえ立ち入らないような荒野に咲く花だよ。月光の下で、まるで鈴が震えるように、仄かに薄青く発光するそうだ。灼熱の砂漠の強い風と厳しい乾燥に耐える強さを持ち、尚且つ人の心に沁みる清らかさを備えた、小さな美しい花。ソルディナの人々は、この花によって愛と勇気を教えられるのだと聞いたことがある」
「清らかなね……」
 シェリンは俯いてフッと笑うと、独り言のように呟いた。
「あたしの過去を少しでも知っていたら、あたしがそのアルジーカの花のようだ言えない台詞ね。もし此処にギイレスが居たら、大笑いしてるわ」
「俺はあんたが今みたいに有名になる前から、あんたの歌が好きだったよ。あんたの歌は清らかで純粋だ」
 タルギンのその言葉に、シェリンは、何か大事な事を思い出し掛けた気がして、心の中に微かに差し込んできたその光の方へ、手を差し延べようとした。けれど、その微かな光は、再び闇の中へと消えていく。
「どうかしたかね?」
 タルギン・シゼルが、心配そうにシェリンを見ていた。
「いいえ、何でもないわ。でも、不思議ね。何故だかあたし、貴男に初めて会ったような気がしない」
「こんな事言っちゃあ失礼かもしれんが、俺もそうさ。あんたが俺の母親に似ているせいかな」
「お母さん、お元気なの?」とシェリンは尋ねた。
「いや、子供の頃に生き別れになってね。その後、 水原(カレル)に身を投げて死んだんだとさ。ストーレの最中で死体も上がらなかったらしい。まあ珍しい話じゃないがね。だから、本当はもう顔も定かには思い出せないのさ。ぼんやりと思い出せるのは、子守唄のように何時も歌ってくれたアルジーカの花の歌だけ」
 シェリンは、呆然とした表情でタルギンを見上げた。その円らな瞳に、みるみる涙が溢れる。その涙に、彼女自身しばらくは気付かなかったらしく、やがて、はっとしたように、慌てて手の甲で涙をぬぐった。
「ごめんなさい。ちょっと思い出しちゃって」
「いや、謝ることなんかない。俺は母親の死を知っても、涙さえ出なかったよ。泣くにはあまりにも時間が経ち過ぎていたし、俺の神経は擦り切れていた。しかし、あんたは見知らぬやくざな男の母親の為に、そんな綺麗な涙を流してくれるんだな」
「そんなんじゃないわ」
 シェリンは涙を見られたことを恥じるように顔を背けた。
「あたし、どうしても思い出せない歌がある。夢の中では知っているのだけれど、もしかしたら、それは母が歌ってくれた子守唄なのかもしれない。私も幼い頃に母が死んだから。……そのアルジーカの花の歌、聞きたいわ」
 シェリンは伏せていた顔を上げ、タルギン・シゼルを見て少し笑った。
 タルギン・シゼルは、シェリンの潤んだ瞳をじっと見た。
「歌って聞かせてやれるといいんだがね。頭の中にはあるような気がするんだが、声に出すと歌にならない。それに、俺はどうにも歌が苦手でね」
「どんな歌詞なの?」
 タルギン・シゼルが何か言いかけた時、シェリンの名を呼ぶ声がした。一人の青年が、息を切らしながら駆け寄って来る。深紅の月下蘭を手にしたマリグだった。

「良かった。心配してたんだよ。ストーレが止んだらムルルアに出発するっていうのに、 宿泊所(オテオ)の部屋に居ないし、ずっと捜していたんだ」
 マリグは、タルギン・シゼルには目もくれずに言った。
 シェリンは、マリグの手にした深紅の月下蘭を一目見るなり、凍り付いたように表情をこわばらせる。
「シェリン、どうかしたのかい?」
 シェリンは、マリグから目を背ける。
「じゃあ、俺はこれで」
 タルギン・シゼルのその声に、マリグは初めてその存在に気付いたようだった。
「あんたは?」
「シェリンの歌の熱烈な崇拝者の一人さ。ムルルアでの公演、楽しみにしている。シェリン、これからもずっと応援しているよ。元気で」
「有り難う。貴男も」
 タルギン・シゼルは、笑顔で別れを告げ、雑踏の中に消えていった。シェリンは、その後ろ姿を見送る。
「シェリン、君、あんなやくざな奴と一緒にいるなんて」
「あたしが何処で誰と話をしようが、貴方には関係無いでしょ」
 シェリンは、マリグにくるりと背を向けて歩き出した。
「シェリン、待ってくれよ。この花、君に似合うと思って買ったんだけど、ギイレスさんが、君はこの花を嫌いだって」
 マリグは、ギイレス・カダムの言葉を信じてはいなかったのだ。
 シェリンは足を止めたが、振り返りはしなかった。
「そうよ。あたし、血の色の花は嫌い」
 シェリンはそれだけ言うと、途方に暮れるマリグを残して再び歩き出し、歩みを速め、やがて、すれ違う人波を縫うようにして走り出した。

 シェリンの目には、いつの間にかまた涙が滲んでいる。彼女は、その涙を拭おうともせず、前を向いたまま足を速めた。血だらけになって寝台に横たわり、息絶えていた母の姿が、生々しく脳裏に甦る。その傍らで声も出せずに震えていた幼いシェリン。その時も降りしきっていた暗く冷たいストーレの激しい雨音。自分の本当の名前さえも思い出せず、遠い夢の国に住んでいたはずの母は、なぜ幼い自分を残して命を絶ってしまったのか。
 シェリンは歓楽街を離れ、ふと明かりのついた小さな花屋に目を留めた。先ほどのストーレ・パラオで会った赤毛の男の言葉を思い出した。涙を拭い、シェリンは店先から店員に尋ねた。
「アルジーカという花はある?」
「聞いたこと無いね」と、店員は答えた。
「では、イーラファーンは?」
「中に入って探してみるかね?」
 黙って首を振ると、シェリンは店先から離れた。
 ストーレの雨音は尚も激しく、この世の全てを浸食し尽くすまで続くのではないかと思われた。

しおり