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担々麺、小籠包、ビール!パスポート!

 空港に着くと、カズナリ君は国際線ロビーに向かった。ここにあるレストランに入るのだろうか。

「サエさん、何食べたい?」
「う~ん、中華にしようかな」
「じゃ、そうしよう」

 私達は中華料理店の入っているフードコートに入った。ここからが一番飛行機が見やすい。
そんなに人はいなくて、注文して窓際に座った。

 夜空に斜めに飛んでいく飛行機が見える。テンションも上がる光景だ。

「飲む?」と聞かれたから、私はお言葉に甘えてビールを一杯だけ注文した。飲みたい気分の日というのがあるのなら、今日はその日だろう。

 私は担々麺を頼み、カズナリ君はチンジャオロースを頼んだ。小籠包も頼み、二人でシェアした。

「おいしい」
「ね」

 担々麺の胡麻と辛味、そして小籠包の肉汁をビールで一気に喉を滑らせるのは、控えめに言っても幸福だった。

 すっかり食べ終わって、私達は外を眺めた。空港の滑走路をムカデみたいな車が走っている。

 コンテナにはいくつもの旅行カバンが重なり合って、ネットでひとまとめにされて運ばれていく。あのカバンたちはどれだけの距離を旅してきたのだろう。

 私のカバンは家と職場を行ったり来たりするだけだ。きっと吸っている空気も違うだろう。

 お酒が入っているからか、ちょっと感傷的な気分に浸ったりもした。

 カズナリ君が水を汲みに行ってくれた。

「ありがと」

 冷たい水を一口含んで、コップをおでこにつけた。

「はぁ、気持ちいい」

 カズナリ君が担々麺やチンジャオロースの器や小籠包のカゴを脇にどけた。

 そして、唐突に目の前に、二つのパスポートを取り出して、テーブルに置いた。

「えっ?なにこれ?」

 戸惑う私をよそに、カズナリ君は落ち着いた様子で言った。

「俺とサエさんのパスポート。これから、パリに行かない?」

「は?」

 カズナリ君はとても落ち着いた素振りだった。まるで近所のスーパーにでも行かないか?と誘われたのだと錯覚するほどだった。

 けれど、カズナリ君の目はまっすぐにこちらを見ていて、ただただ返事を待っているのだった。私がうなずけば、それだけでパリに行けるとでも言うかのようだった。

「えーっと・・・」

 どこからなにを言えばいいのか。とりあえず、私はテーブルに置かれたパスポートを開いた。自分のパスポートなのか確認しようとしたのだ。

 だが、あいにくそれはカズナリ君のパスポートだった。まだ十代と思しきカズナリ君が写っていた。大学に入りたてくらいだろうか。ちょっと生意気そうだった。

「あは、かわいい・・・」

 思わず笑ってしまう。眉毛も整えていて、髪も少し明るい色が入っていた。当時はさぞモテたんだろうなと思わせる。

「それはちょっと、恥ずかしい」

 今のカズナリ君の大きな指が、パスポートを上からつまんでいく。苦笑交じりで、それでもやさしく頬笑んでいる。

 そういえば、今まで気にしたことなかったけれど、カズナリ君って何歳なんだろうか?せっかくパスポートを見たのに、写真にばかり目がいってしまって、他の情報を見る間がなかった。

 もう一つのパスポートを見ると、私の写真が貼ってあった。大学の卒業旅行以来使っていなかったパスポート。

 今からたった三年前だけど、確実に今より若かった頃の写真。間違いない。私のパスポートだ。

「よく見つけたねぇ。机の引き出しの奥に入れてたと思ったけど」

 私は特段プライベートを漁られたという感情も湧かなかった。どうせ期限切れまで使う機会も無いだろうと思っていて、どうでもいい遺物のような扱いだった。

「太一君が見つけてくれました」
「ほほう」

 けれど、それはそれ。太一め。帰ったらお仕置きだな。酔っ払いの羽交い締めだ。

「パリかー、行きたいねー」
「じゃあ、行きましょう」
「いやいや、無理でしょ。海外旅行なんていきなり行こうって言っても行けないわけで」

 一度だけ行った卒業旅行での経験が、酔った頭に霞がかって蘇る。何ヶ月も前から用意したし、いろいろと公的手続きをした気がする。

 当日でも行けないことはないのかもしれないが、キャンセル待ちや料金の面で難しいだろう。

「だいじょうぶです。ちゃんと用意しておきました」

 カズナリ君はそう言うと、今度は書類を取り出した。見てみると、なんと私の名前が印字された搭乗券だった。事前チェックインまで済ませてあった。

「えっ?えっ?」

 私は一気に酔いから醒めて、書類とカズナリ君の顔を何度も往復した。なぜかすべての準備は整っているようだった。カズナリ君は相変わらず平静の表情を崩さなかった。

 私の反応がおかしいのかと思ってしまうほどだ。

「・・・マジで?」

 私が多くの意味を込めてようやく声を発すると、カズナリ君は楽しそうにうなずいた。

「マジで」

「いやいや、何やってんの?」

 ちょっと引いた。

 カズナリ君はそんな私の反応を見てうなずくと、ポケットからスマホを取り出した。

「これを見て」

 今度は何だ?と思ったが、差し出されたのは動画だった。子どもたちが映っていた。

「・・・せーのっ、〈姉ちゃん〉〈サエリン〉〈お姉さん〉、サプラーイズ!」

 一気に言った主語はバラバラだったが、どうやら私に向けたメッセージらしい。

 太一が「えー、コホン」と咳払いのマネをしてから、紙を取り出して読み上げ始めた。

「姉ちゃん、いつもありがとう。朝ごはん作ってくれたり、遊んでくれたり、ホントいつもごくろうさま!頭が上がりません。でも、最近、姉ちゃんつかれてますね。夜も遅いことが多いですし、家でも仕事してたり、メール見てます。ため息も多くなりました。この前数えたら、一日で16回もしていました」

 太一はわら半紙の裏に正の字を3つと、一を書いた紙を見せた。あいつ、こんなデータとってたのか・・・。

「えー、これはよくない兆しです。ストレスは体によくありません。けど、姉ちゃんはあんまりグチも言ってくれないし。そこでカズナリ君に相談しました。どうにかリフレッシュできたり、リラックスできたりする場所につれて行ってくれないかなって。ずっと海外にあこがれてるの知ってました。だって、海外の本すごいもんね。特に、ヨーロッパ好きでしょ?」

 たしかにそのとおりだった。太一に話したことはないけれど、ヨーロッパに漠然とした憧れを子どものころから持っていた。だから、国際関係学部に進んだのだった。

 けど、一度も行ったことはなかった。お金の関係で、卒業旅行は台湾に行った。友人たちと行ったから、楽しかったことは間違いない。

 ヨーロッパは、太一が大きくなって、余裕ができたら行けたらいいやと思うようになっていた。

「そういうこと話したら、カズナリ君はオッケーとのことでした。なので、楽しんできてください。あっ、オレのことは心配しないで下さい。もう小学五年です。ちゃんと自分で起きて、朝ごはんも食べます。お母さんもいってらっしゃいって言ってました。じゃ、せーのっ、〈またねー!〉」

 最後はちゃんとそろって動画は終わった。

 何がオッケーなのか。イマイチ要領は得ないが、外堀を埋められたことだけはわかった。まさか母の言質までとってくるとは。

 いや、いい加減な人だから簡単だろうけど。

 母は近くのスナックで雇われママをしている。元々夜ご飯は母が用意することになっていたから、太一のことは心配いらないと言えばいらないだろう。

 夏休み中の今となっては、お昼の用意も母がしていた。朝だって、自分で食べることくらいできるだろう。まぁ、鬼の居ぬ間に、多分遅くまで寝るつもりなんだろうけど。

 いや、待てよ。さては太一の奴、朝までゲームをやるつもりでは・・・?

 その可能性に気づいて顔を上げると、カズナリ君が、朝見た時のような挑戦的な笑みを浮かべていた。

「サエさんって、やりたいことできてますか?」
「は?」

それは瞬間的にカチンと来る言葉だった。

「いつも我慢して、誰かのためとか仕事のためとかで生きてませんか?そうやって、言い訳探して、結局自分のやりたいこと後回しにしてませんか?それって、自分の人生生きれてますか?だから、ストレス溜まるんじゃないですか?」

 それらは連続でカチン、カチンと来る言葉だった。

「ハァ?そこまで言われ」る筋合いないんだけど、と言おうとした。

 けど、その前に手を掴まれた。大きな手で、やさしく包み込むように。そして、目をまっすぐに見て、真顔で言われた。

「だから、あんな一人でベンチで泣くまで、追い詰められるんじゃないですか?」
「え、あの」
「言って欲しいですよ。せっかく、近くにいるんですから。助けてって、言って欲しい」

 手が、熱かった。頬も、熱い。でも、あまりにまっすぐ見つめてくるから、目を離せなかった。

 どのくらいの時間、そうしていたのだろう。

 結局、酔って茹だった頭だから、わからないのだ。なにもかも。

「わかった。行く」
「え?」
「行くから、離して」

 そう言うと、カズナリ君は本当にうれしそうに、純真な子どもみたいに笑った。望んだプレゼントを、サンタからもらった子どもみたいに。

「・・・ずっる」

 聞こえないくらいの小声でつぶやいた。ずるいのは、どちらだろう?幾重にも張られた罠のように提供される言い訳。それにまんまと乗っかる私。

 意図的なのか、そうでないのか。それはわからない。

 けれど、もう手のひらの上だということはわかっていた。

 あるいは、蜘蛛の糸に絡め取られたか。いずれにせよ、甘い糸に手を伸ばさざるを得なかった。

 外の滑走路の照明が、カズナリ君のきれいな顔を半分照らしていた。カズナリ君はコップを持ち、口につけて、唇を水で湿らせた。暗い方の口の端が、少し上がっているように見えた。

 その様子を目を離せずに見ていると、目が合い、カズナリ君は悪びれる様子もなく、天使のように微笑んだ。

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