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(21)想いの沼底1

「おい、大丈夫か」

 遠くで声がした。
 誰に話しかけているのやら。

「おい」

 肩を揺すられた——ような気がした。

「真冬、水くれ」

 まふゆ?
 
「おい。神堂。しっかりしろ」

 しんどう?
 神堂は——、僕だ。

 硬い目蓋(まぶた)をこじ開けるようにして、薄目を開く。
 自分の腕越しに見えたのは、カウンタ。
 そこにむさくるしい顔が割り込んできた。
 知っている顔だ。
 
 自分のものにしてはずいぶんと重い頭を持ち上げた。
 斜めにかすんだ景色が、なんとか平衡と鮮明さを取り戻した。

「起きたか。ちょっとこれでも飲め」

 差し出されたグラスを手に取り、一気に飲み干す。
 水だ。
 止まっていた血流が再開したような気がする。
 見れば、隣にいるのは日坂幸人(ひさかゆきと)だった。

「ああ……日坂さん」

「ああ日坂さんじゃねえよ。ったく、どうしたんだよ。おまえらしくない」

「……このたびは、お世話になりました」

 なんとなく機械的に、そんな台詞が口をついた。

「今の方が世話をかけてるぞ、おまえ」

「……」

 周囲を見回す。
 見覚えのある店内。
 内側に掛けられた暖簾。
 そこに書かれた文字——夏雪。
 
 ああ、そうか……。

 流れ始めた血液が、脳に記憶を運んできたようだ。

「ごめんなさい」
 
 女性の声がした方に顔を向ける。

「女将さん……」

 いつも笑顔の女将さんが、申し訳なさそうな表情を見せている。
 何故謝られているのか分からないのも酔っているせいだろうか。

「わたしが、もう少し注意してればよかったんだけど」

「そうだぞ。こんなになるまで呑ませるなよな」

「だって、いつもこんなにならないし、今日だってずっと平気な顔してたし……。とことん呑みたい夜もあるわよねぇって思ってたら、突然突っ伏したまま動かなくなっちゃったのよ。そのうち起きるかしらと思ったけど、この時間になっても起きなくて」

 どうやら自分のことを話されているらしい。

 そうか——。
 夏雪で呑んでいる途中で寝てしまったんだ。

「すみません……重ね重ねご迷惑をおかけしたようで……。帰ります」

 立ち上がろうとして、よろめいた。
 地軸が歪んだかのように地面が定まらない。
 膝にも腰にも力が入らない。
 日坂に支えられ、カウンタに手をついて、何とか倒れずに済んだ。

「すぐには無理だ。ちょっと酔いを醒ましてからじゃないと。向こうの席に移ろう」

「すみません……」

 抱えられるようにして小上がりの座敷に移った。
 掘りごたつに足を延ばし、壁にもたれかかるようにして、かろうじて座っていると言える態勢をキープした。 

「すみません……お水を、もう一杯いただけますか」

 二杯目の水をまた一気に飲み干したとき、向かいの席には日坂と女将が並んで座っていた。 
 何かを話さなければいけないのだろう。
 しかし……言葉にできることは少なかった。

「すみません……」

「いいよ、そう何度も謝らなくて」

「……すみません」

「神堂さんがそんなになるなんて、彼女のことなんでしょう」

「立花さん、引き留められなかったのか」

 首の力が抜けたように頷いた。
 そのまま頭が持ち上がらない。

「日坂さんには本当によくしてもらったのに、申し訳ありません。……僕が不甲斐ないばっかりに」

「でも、どうしてなの? 二人の間にあった障害は、全部取り除けたんじゃなかったの?」

 どちらに向けたものか分からない女将の言葉を、日坂が(いさ)めた。

「おい。お前は厳密には探偵事務所の仕事とは関係のない第三者なんだ。口を挟むな」

「だって……。わたしは夏雪の女将として、夏雪の大事なお客様である神堂さんを——、ううん。違うわね。仕事なんて関係なく、ただ純粋に心配しているんです」

 女将と日坂は夫婦らしい。それを知ったのは二度目に日坂探偵事務所を訪ねたときだっただろうか。
 仕事帰りに二階の事務所を訪れたら、場所を変えようと言われてこの店に連れて来られた。あの夜も、ちょうどこの席で話をしたはずだ。

「いいんですよ。女将さんにも心配をおかけしたんだし」

 そのとき、店の扉が開く音がした。

「あれ⁈ 女将さーん、いらっしゃいますか、——あ、いた」

 顔を見せたのは日坂探偵事務所の助手、若月春香(わかつきはるか)だ。

「あれ。神堂さんも。こんばんは」

 この、一見KYな雰囲気を醸し出している彼女は、実は人一倍周囲に気を使っているのだと、さほど長くはないつき合いの中で知っていた。
 そんな彼女に日坂は表面上冷たい。

「なんだ、まだいたのか。もう帰っていいぞ」

「冷たいなあ。お腹すいちゃったから、何かないかなあと思って来たのに」

「ごめんね。今日はもうすっかり片付けちゃった」

「そうですか。残念」

「その辺でなんか食って帰れよ」

「でも、こっちの方が面白そうだし」

「馬鹿野郎」

「いいんですよ、日坂さん。……彼女にもお世話になりましたから」

「そうですよね。さすが、神堂さん。お邪魔しまあす」

 春香は元気よく高いヒールを脱いで、僕の隣に座った。

「で、お揃いで、今度はどんな悪だくみの相談ですか?」

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