4話 気持ちが少し救われた気がした。
朝、起きると気分は優れない。
憂鬱そのもの……。
そんな事とは関係なく、治療は進んでいくらしい。
2階の透析室に連れて行かれて、体重を測った。
ベッドが20床ほど並んでいて、その脇に透析の機械が並んでいる。
自分を歓迎してくれているようだ。
そんなに歓迎してくれなくていいよ……嬉しくないから。
心の中で呟いた。
透析の機械には1本のダイアライザーと、生理食塩水で満たされた透析の回路が準備されている。
血液回路に満たされた生理食塩水の透明な色は、向こう側の景色を歪んで映している。
現実も歪ませて、なかったことにしてくれないかな。
他の患者さんはベッドにすでに寝ていて、自分も所定のベッドに案内される。
ベッドの上に横になる。
もう、それしかやることがなかった。
透析室の看護師さんが順番に回って、それぞれのベッドの透析を始めていっている。
隣のベッドのおじいさんの所に看護師さんが来た。
おじいさんは、腕を出して「お願いします」とか言っている。
腕には太い血管。
手術で、シャントという透析用の血管が既に造られていた。
麻酔用のテープを剥がし、駆血帯を腕に巻いて駆血する。
消毒して……楊枝ほどもある太い針を腕に向けている。
「はい、針を刺しますよ」
刺す。
刺す。
2本の針と血液回路の入口と出口がつながれる。
見覚えのある行為が全く違う景色で展開されていく……。
血液回路の赤い印のついた入口から、血液が登って回路を薄赤くしていく。
次第に赤黒く染め上げていく。
ダイアライザーの1本1本の繊維をすっかり染め上げて、青い印のついた出口まで染まった。
自分で業務としてやっていたことだけれど、いざ患者側になると他人事じゃない。
自分も近い将来、あんなのを刺すんだな……と思うと悲しくなってくる。
看護師さんが自分の所に来た。
「おはようございます。小林さん。これから透析を始めますね」
「お、おねがいします」
看護師は俺の首のナガネギ(透析用カテーテル)の周りに巻いてあるガーゼとテープを外す。
キャップをとって、消毒して、シリンジで中に詰められた抗凝固剤と生理食塩水を吸い出す。
そして、血液回路の入口を接続する。
もう片方の管も同じように接続された。
生きるのに必要だとは言え、1日の半分が透析でなくなるのはもったいない気がした。
透析中はやることもない。
寝てしまおうと思った。
1時間毎の血圧測定も煩わしい。
……初めだから、慣らしで3時間とかいう指示もなかった。
普通に4時間透析という指示だ。
年齢も考慮してかダイアライザーはなかなか太かった。
血液ポンプの回転数は良く見えないけれど、150ml/minとスタッフが言っていた。
「テレビでも見ますか?」
透析室のスタッフが、そんなことを聞いてきたけれど、そんな気になれなかった。
目をつぶってしまおうと思った時、回診の先生に声を掛けられた。
「小林さん、どうですか~」
「あ、ああ。だ、大丈夫です」
気持ちは大丈夫じゃないよ。
「腎臓なんですけれど……。腎臓がだめになった理由はまだ分からないんですが、利尿剤も反応していません」
「……はい」
「腎臓自体も普通では考えられないんですけど、どんどん小さくなっています」
「……」
良くはなってないんだ……。
「人工透析をずっと続けることを考えた方がいいと思います」
「……え……」
ずっと?
「突然言われて、ショックだと思いますが、シャントも早速造った方がいいと思います」
「……」
シャント造るのか……。
「腎臓血管外科の了承も得たので今週、左手に造りましょう」
そうなるか……やっぱり。
人によっては腎臓の機能が悪くなってきた時に、透析を見越して造っておくシャント。
静脈血管と動脈の血管をつなげて、静脈の血管に動脈に流れる血液を流れるようにする手術。
自分の場合は急だったけれど、シャントが使えるようになるのに最低2週間はかかる。
それは、静脈血管が太く発達するまでの時間だ。
早く造らないといけないというのもわかる。
なぜなら、首から入っている透析用のカテーテルはそんなに長く入れておけない。
普通に3週間くらいだろうか。
一時的なものだし、長く入れておけば、感染症のリスクも上がる。
詰まったら、入れ直さなくてはいけない。
医療従事者側としては、早く針を刺せるように持っていきたい。
わかる。
わかるんだけど、まだ、自分の中で処理しきれない。
受け入れきれていない。
シャント手術なんて受ければ、その手で重たいものも持てないし。
今後は、どんな仕事をするにしても差し支えになる。
シャントをケガなんかしたら、出血多量になってしまうかもしれない。
自分の中の心を、現実という悪魔が金属バットでガンガンと叩いているようだ。
そんな悪魔の攻撃に眩暈を起こしてしまいそう。
自己イメージが壊れていく気がする。
自分にとっては大きな事だけれど、医療従事者にしてみればちょっとしたことだ。
他のシャント作成方法でも手術自体は簡単だし、難易度は処置ぐらいのものだ。
受け入れなくちゃだけど、受け入れきれていない……。
矛盾していて、苦しい。
「……えっと、先生。透析やらないと死にますよね」
「え? はい。テレビでも話題になった通り、長くは生きられないと思います」
一時期話題にもなったが、腎不全患者は透析をやらないと1~2週間ほどで亡くなる。
まさに、鎖につながれた人生だ。
「そうですよね、わかりました」
「あとで、手術の同意書をお願いします」
そう言うと、次の患者のもとへ先生は去って行った。
当然、受け入れられているんでしょうね? という無言の空気を残して……。
透析も、針を刺すことも、シャントを作るのも全然受け入れられない。
この年齢で色々なことを捨てるのが、耐え切れない。
透析は1.5㎏の水分を抜いただけだったので、血圧は下がらなかった。
けれど、軽く足がつった。
まあ、人生とは反対に、順調と言えば順調だったのかな。
……透析は……。
病室に戻ると、昼食と同意書が置いてあった。
同意書へサインをしようと思ったけれど、気分がのらない。
とりあえず、昼食を食べてからにしよう。
そう、自分の中で言い訳を言って後回しにした。
食前の血糖測定を行い、インシュリンを打つ。
透析で血糖値が少し下がったのかな、と思いきや166㎎/dl。
血糖値は良くなっているんだろうか。
いろいろ悩みすぎて、何を食べたのか全く意味がわからなかった。
俺は何を食べているんだろう。
トレイに置いてあったリン吸着薬も飲む。
リンは尿から排泄されるが、腎不全では外に出せないので貯まっていくばかりになってしまう。
リン吸着薬でリンを吸着して、便によって排泄する。
これが、このリン吸着薬の働き。
血液中のリンが高くなると、血管が石灰化して石のようになってしまう。
病気を受け入れるのは嫌だけど、もっと苦しむのは嫌だ。
薬などはきちんと飲む。
昼食を食べ終わって、同意書にサインをしよう……と思ったけれど、やっぱ気分がのらない。
合併症の説明も何回も読んだけれど、まあ、そうだよね、ということが書いてある。
だいたい、どこの施設も一緒だ。
しばらく同意書とにらめっこしたが、もう少しだけ後回しにしようと思った。
そう思うと、何だか落ち着かない。
この病室にいるのが、とてつもなく窮屈でたまらなくなってきた。
気晴らしに病院内の売店に行ってみる。
患者衣に、首になにかついているという格好は、普段なら恥ずかしいと思ったかもしれない。
けれど、この時は病室から少しでも離れたくて仕方がなかった。
ブラブラしながら、雑誌の所を眺めてみる。
やっぱ……気分が落ち込んで仕方がない。
小銭は持ってきたけど、別に買いたいものないな。
それでも、何か買えば少しは気分が晴れるかなと思った。
食べもしないチョコレートバーを買った。
売店を出たら、もう行き場がなかった。
仕方なく……病室に戻ることにした。
ふと、後ろから声を掛けられた。
「そこの~、えとあんた。透析をやっているんだろ?」
「はい?」
「おれも、透析患者なんだけどさ。ちょっと、そこで話しようぜ」
とりあえず、断れない自分は病院の休憩所に座った。
歳は60歳くらいのつるっぱげのおじいさんだった。
ジャージでサンダルを履いていて、どこか偉そうだ。
「おれは透析をやって10年位経つんだけど、この病院に併設されてる透析クリニックでやってる」
隣のクリニックで透析やってる人か。
「何かあったら、相談しろよ。色々教えてやるからな。後、病院に騙されるなよ、殺されちまうぞ」
「どうしてですか?」
「あのな、病院は何でも食べちゃいけないっていうからな」
まあ、間違ってはいない。
リンが高くても、カリウムが高くても、水分が多くても同じことしか言えない人もいる。
スタッフの中のわかっていない人は、みんなそんなもんだ。
「だけど、そんなことしてたら、みんな筋肉がなくなって、みんな弱っていっちまうんだ」
「そういう人がいたんですか?」
まあ、いるだろうけど。
「リンが高い時あるだろ?」
「……」
まだ、経験が少なくて何とも言えない。
「あるんだよ。そういう時に看護師とか栄養士とか、みんなメシを喰うな喰うなって言うんだよ」
栄養士でもそういうこと言う人もいるかもなあ。
なんせ、日本の栄養学は諸外国から20年くらい遅れてるって、常識だし。
「患者は言うこと聞くやつがほとんどだから、みんな肉を食わなかったりして、周りはみんな小さくなっていった……というか、今でもみんな小さくなっていってる」
それは透析もそうだけど、血糖値不良で筋肉が減少している人もいるかもしれない。
それでも、普通に医療従事者の言うことなら正解だって思うだろう。
「ああ、そういうことですか。確かに、医療従事者は食べ過ぎだって言ってるかもしれないですね」
「透析やっている人のタンパク質摂取量は普通の人と同じか、少し多いくらいだろ?」
確かに、腎臓病食じゃなくなるから、タンパク摂取量の制限は透析が始まると解除される。
筋肉も透析患者は増えにくいから、タンパク質が少ないと透析はどんどん困難になる。
体力が落ちていくからだ。
「リンが高い患者っていうのはリン吸着薬を飲み忘れてたり、食べている量に対して薬が少なすぎるということもあるだろ?」
俺もそう思う。
リンが高いっていうならリン吸着薬を増やせって思う。
何も見ていないから、食事を抑えろって言うんだと思う。
「よく勉強してますね。話は合っていると思います。確かに、リンが高いと言われる人の中には薬をきちんと飲めていない人が多いっていうのはありますね」
「なんか、若い患者のくせに頭がいいな」
「すいません、実は病院で働いていたんです」
「あんた、看護師さんか。じゃあ、釈迦に説法だったな」
それでも、このおじいさんからは後悔の念を感じない。
「若いし、暗いし、自殺しちまいそうだったから相談に乗ってやろうと思ったんだよ」
「え?」
どうやら、知識云々で話しかけたわけではなかったらしい。
「透析をやることになると、何人かは死んでしまおうなんて考えるもんなんだよ……」
おじいさんは、どっか遠くの方を眺めながら呟くように言った。
「俺だって、ハゲでジジイで性格が悪くて、偉そうだけどさ。生きてられるんだから……あんたも、死ぬんじゃないぞ」
え……俺を励まそうと思ってるんだ。
俺が自殺してしまうんじゃないかと思って。
「あ……ありがとうございます。少し救われた気がします」
別に死のうとか考えてなかったけれど、シャント造んなきゃ生きられないか。
まだ、全然透析を受け入れきれてないし、問題は何も解決していない。
解決していないけど、病室に戻ることにした。
気持ちが少し救われた気がした。