5話 ……声が聞こえてきた。
カーテンを閉め切って、ベッドの上でサイドテーブルの上に同意書とペンを用意した。
ベッドの周りの仕切りのカーテンも全部閉める。
よし、書くか。
といっても、名前を書くだけなんだけど。
意を決して、自分の名前を書いた。
相変わらず、あんまり上手くない。
後は、看護師さんに渡せばいいだけか。
同意書が書き終った。
ふ~、と息を吐き出す。
再び息を吸い込んでみると、草のにおいがする気がした。
今までと違うさわやかな空気が身体の中に染み渡る。
……なんだか、おかしいなと思った。
ここは、さっきの息苦しい病室だろうか。
周りの空気が変わったようだ。
室温よりやや下がった気温は、病院の中のものではない。
草と土と太陽のにおいがする。
床を見るとベッドの下は全て草になっている。
なんだ……これ。
裸足のままベッドから降りる。
仕切りのカーテンを開ける。
視界に広がるのは一面の草原だった。
仕切りのカーテンはスーッと透けるように消えていく。
残ったのは、ベッドと床頭台と自分専用に着替えなどが入っている棚だけ。
暑くもないし、寒くもない。
病院で借りた手術着みたいな服なので、ほぼ下着を除けば裸。
これで寒くないのだから、ほどほどには温かい。
空を見上げる。
うん、快晴。
日差しはさほど強くない。
眩しい太陽が苦手な自分でも耐えられる。
そして、きっと夏ではないと思う。
雲は層雲みたいな雲が優しそうに浮かんでいる。
その時、遠くから強い風が吹いてきて、目の前の手術の同意書を吹き飛ばした。
ひらひらと舞い上がる同意書。
遥か遠くの方へ、吹き飛ばされていった。
自分は遠くの方へ飛んでいく紙をただ眺めていた。
ああ……飛んでいく。
すると、紙飛行機が頭の後ろから飛んできて、コツンとあたった。
飛んできた方向には何もない。
ただ、まっすぐに緑の地平線が広がり緑の風を運んでくるばかりだ。
何かなと思って、紙飛行機を手に取ってみた。
手で持つと紙飛行機はハンカチみたいに柔らかに形を崩し、ヒラリと広がった。
中に文字が書いてあった。
えっと……『荷物を持って、いきたい方へ歩け』……?
「行きたい方? こういう事って夢かな。心霊現象かな?」
意識がはっきりしすぎていて、夢だとは思えない。
まあ、こういうのは従っておこう、と思いバッグに必要な水や適当なものを詰め込む。
水と着替えと……。
もう、夢じゃないとすると……戻ってこないかもしれないな。
詰め込める限りのものを詰め込もうと思った。
けれど、筋力の落ちた自分にはペットボトル1本と着替え……あと、軽そうなものを詰め込んだ。
これから、どこに行くかわからないのに寂しいものだ。
全財産はバッグ1個しかない。
それでも、進む以外に俺には行き場はないらしい。
なんせ、病室の入り口も見えなければ窓さえない。
何もない草原にベッドが置いてあるという現実的にはおかしな状況なのだから。
背中の方から気持ちのいい風が吹いてくる。
まるで、お前何をぐずぐずしてるんだ、早く歩けよと言っているようだ。
身体がだるくて歩きたくないという状況とは裏腹に、足は動いていた。
足の裏には、草のくすぐったい感覚。
もぞもぞして、なんだか気持ちいい。
数歩、歩いただけなのに、後ろを見たらベッドがなくなっていた。
周りには何も目印がない。
だだっ広い草原に俺が一人だけだ。
寂しくて心細いと思った。
けれども、周りに広がる草原と気持ちのいい風。
そして、どこまでも青い空を眺めていると進まなくちゃな、と思った。
トボトボと俺は歩きはじめた。
なんだか、すごいところだ。
地平線が見えて、空の青と緑が平行に走っている。
前へ、ただひたすら前へ進んだ。
どれくらい歩いただろうか。
疲れて歩けなくなると思っていたが、意外と歩ける。
吸い込んだ空気をエネルギーに変えている感覚で前へ進んだ。
実は、前と思っていたけれど右なのかもしれないし左なのかもしれない。
もう、どこまできたのかも見当がつかない。
ふと、気付くと空気が変わっていた。
少し寒いかなと思った。
辺りはだんだんと暗くなっていく。
それでも、前へ進まないといけないと思って歩き続けた。
暖かな光は夕日の赤みを帯びた光になり、徐々にそれも弱くなっていった。
すっかり、暗くなった。
月はないけれど、空一面が星空だ。
見たことはないが、星降る夜というのは、こういうものなんだろう。
星の光があまりに綺麗で、星の光を浴びている自分はまるで空の一部になったような気分だ。
それでも歩き続けていると足元の感覚が変わった。
平らで、すべすべしていて、それでいて滑りにくい。
不思議な感覚。
その感覚に驚いて、歩みを止めた。
足元をみると、足元一面も星空だ。
宇宙の中にいるような、そんな視界。
地面はあるのに、身体全体が星空に浮いているようだ。
星の輝きが美しすぎて、胸が苦しくなる。
そして、気持ちが寂しくて仕方がなくなる。
どうしようもない孤独感と浮遊感の中、ただ、その星の輝きを感じるのに身を委ねた。
身を委ねて、どのくらい経ったのだろう。
……声が聞こえてきた。