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3話 それでも、涙は止まらなくて、ずっと流れてきた。

 後日、あまりに目に付く俺の姿は周りのスタッフから心配され始めた。

 それが上司に伝わり、外来を受診しろ、と言われた。

 確かに受診した方が良さそうだ。

 自分でもそう思う。

 逃げても仕方がないな、と渋々従うことにした。

 明らかに、健康な痩せ方でないのは医療従事者なら誰もが気付くと思う。

◇◇

 その次の週。

 勤務先附属のクリニックの外来を受診した。

「小林直樹さん……3番診察室にお入りください」

 俺はここに来た時、ちょっと気持ちが楽になった気がした。

 変だと思いながらも、様子を見てきたこの期間。

 苦しくって仕方が無かった。

「はい」

 俺はゆっくりと診察室に向かう。

 看護師さんに付き添われ、診察室に入る。

 診察室にいたのは、白髪の年老い医師だった。

 診察室に入って、こう言われた。

「採血をまずはしようか」

 そうだ、採血をしないことにはわからない病気だ。
 
 すぐに看護師に案内されて、隣の処置室で採血した。

「はい、針を刺しますよ~」

 チクッ。

 静脈に針が刺され、静脈血ならではの暗褐色の液体が抜かれていく。

 検査結果を見てドクターは、即断した。

「糖尿病だね」

 ガーン。

 この歳で糖尿病……。

 分かっていたけど、きちんと言われるとショックだ。

 30歳前からの糖尿病は精神的に辛い。

 血糖値は666mg/dlだった。

 早速、入院することになった。

 入院するのには着替えなどの荷物が必要だ。

 母親に連絡して、病院へ来てもらうことにした。

 入院の荷物は、実はもう準備してある。

 昨日、カバンにいろいろ詰め込んでおいた。

 こうなることを俺自身……わかっていた。

 早速俺は、親に連絡して荷物を持ってきてもらうことにした。

 母親が来て、一緒に話を聞いてもらい書類にも署名してもらった。

 俺の準備してあった荷物も持ってきてもらった。

 色々、手を焼かせてしまい申し訳ないと思う。

 けれど、もう……どうすることもできない。

 まな板の上の鯉だ。

 入院して、早速治療が始まった。

 点滴のルートをとってベッドの上だ。

「じゃあ、また来るからね。頑張ってね」

 母親が俺に励ましの言葉をかけて家に帰ろうとする。

「ああ、ゴメン。今日はありがとう……」

「大丈夫よ。何のための母親だい? こういう時に頼られないんじゃあ、そっちの方が悲しいよ」

「……ありがとう」

 母親は心にしみる言葉を残して帰っていった。

 何だか、心が寂しい。

 一人で心細い。

 いつの間にか夕方だ。

 外はまだ明るい。

「インシュリン治療かあ……」

 病室のベッドの上でぼやいてみる。

 このまま、治らなかったらどうしよう……病気への不安が大きくなる。
 
 毎日、インシュリン注射をして暮らすなんて考えると憂鬱だ。

 今日は血糖値が高いからインシュリンを持続投与していくようだ。

 主治医は女医さんのようだ。

 色々、細かいことを説明していく。

 こういうのは一気に下げるのは、良くないらしい。

 ちょっとずつ下げていかないと、脳に後遺症が残ったりするらしい。

 そうなのか……。

 専門外だったので全然知らなかった。

 インシュリンていうのは、細胞の中に栄養を入れるためのホルモン。

 インシュリンがきちんと働かなければ、栄養分が血液中にとどまってしまう。

 栄養分がとどまっていると、濃縮した状態になって血管が詰まりやすくなってしまう。

 砂糖醤油を鍋でグツグツと煮詰めている様子を思い浮かべて欲しい。
 
 水分が飛んで、ベタベタになっていく感じだ。

 この辺は腎不全の勉強をした時に、やったところだったので知っている。

 高血糖状態の俺。

 これ以上の上昇って、さらにやばいでしょ?

 だから、しばらく何も食べられない。

 いわゆる禁食状態だ。

 禁食状態だから、栄養を入れるために点滴もしている。

 血管は出ている方だと思ったのに、3回も失敗された。

 血糖値が高いせいなんだろうか。

「インシュリン始めますね」

 シリンジポンプに看護師さんがインシュリンの入ったシリンジをセットした。

 インシュリン投与をはじめると、血糖値をずっと1時間毎に測っていく。

 ゆっくりと、下げすぎず上げすぎず……後遺症の残らない速度で下げていく。

 その時に注意しなくてはいけないのは血液中のカリウムが下がっていくことだ。

 血液中の糖分は、身体の中に入っていくから下がる。

 カリウムはその時一緒に細胞の中に入っていく。

 血液中のカリウムが減ってしまうのだ。

 カリウムは筋肉の収縮に関与している。

 すると、筋肉が関連している症状を引き起こす。
 
 不整脈に、痙攣に……酷いものになると呼吸不全も起こすらしい。

 というわけで……不足しないようにインシュリンを入れながらカリウムも身体に補充する。

 カリウム自体は腎臓が大丈夫なら、尿ですぐに出てしまう。

 でも、血液中から入った場合、もしも高くなったら心臓が止まってしまうこともある。

 心臓手術の時、心臓を止めるのにカリウムを使うのは有名な話だ。

 だから、注意喚起のために溶液に黄色い色がついている。

「小林さ~ん、点滴を変えますね~」

 しばらくして、俺の点滴も黄色いものに変更された。

 カリウムが入っている証拠だ。

 糖尿病患者であるという状況がまざまざと繰り広げられている。

 ベッドの上で、ため息を吐いた。

 ……今日は疲れた。

 さっさと寝よう……。

 もう、俺には今日はやることはない。

 やることが欲しいくらいだ。

 テレビを見てもつまらないし……現実をクローズしてしまいたい。

 しかし、血糖値を1時間毎に計測するので、何回も起こされるだろう。

 でも、眠いから寝る。

 その後も、血糖測定に来たんだろうけど、朝まで来たのか来なかったのか記憶がない……。

 入院して7日。

 全身CTも、エコーも問題ないと言われた。

 それなのに……。

 なぜか昨日からおしっこが出ない……。

 腎不全か?

 この前まで糖尿病の合併症はないみたいだね、って言われたのにな。

 そんな思いとは正反対に、血液検査の数値を見ると貧血が進んでいる。

 腎性貧血かな……。

 腎臓は赤血球になれよっていう命令を出すエリスロポエチンというホルモン出している。

 だから、腎臓が動かなくなると貧血が進む。

 足が浮腫(むく)んでいるような気もする。

 そうでもないか……?

 これから、浮腫むかもしれない。

 なんとなく、だるいかな。

 尿毒症かどうか、よくわからないけど。

 腎臓が悪くなった理由はなんだろう?

 ついこの前まで、正常だったのになあ。

 こんな急に悪くなるのか。

 主治医も首をかしげている。

 一時的なものだったらいいんだけど。

 とりあえず、人工透析をしましょうと言われ、首から管を入れた。

 検査値を見れば、透析が必要かは一目瞭然だよな。

 まあ、そういう数値だった。

 右の内頸静脈という血管から透析用の管をいれた。

 バスキュラーアクセスカテーテルと呼ばれてるものだ。

 局所麻酔で入れたから、痛くないのだけど精神的に痛い。

 管はY字型のもので、管が刺さってるとこだけ見ると、首からネギが刺さっているかのようだ。

 外に出ている側が二股に分かれている。

 一方は血液を取り出す用。

 もう片方は綺麗になった血液を身体に返す用のものだ。

 なので、身体の中に入っている側の管は1本だけど2層に分かれている。

 穴は身体の中で血液が混じりにくいように血管の中でそれぞれが逆側に空いている。

 なんで、こんなことに……。

 平気な表情を装っていたけれど、心が泣いていた。

 今日の午後から透析しましょう、って言われた。

 けれど、明日にしてくださいと言ったら明日になった。

 透析やってたら……仕事続けられないだろうな。

 医療費は全部、国が払ってくれるから心配いらないだろうけど、生きるのが一気に辛くなった。

 1回くらい結婚してみたかったな。

 ふと、病室の窓から空を眺めてみた。

 空は快晴。

 何ていい天気なんだ。

 入道雲は、やっぱりやる気があるのか、上へ向かって発達している。

 夏の空は、いつもより一層嫌いな感じがする。

 カーテンなんて誰が開けておいたのだろう。

 いい天気なんて……、いや、この世の中なんて嫌いだ。

 勢いよくカーテンを閉める。 

 しばらく、悩むのに疲れてぼーっとしていたけれど、夕飯が運ばれてきた。

 いくら、悩んでいても腹が減る。

 インシュリンを打って、ご飯を食べることにした。

 血糖値は166mg/dl。

 まあ、血糖値はだいぶ落ち着いてきたみたいだ。

 腎臓が悪くなると、インシュリンが身体に長くとどまるから糖尿病は良くなるらしい。

 そのせいもあるのかな、とか考える。

 少しでも、忘れたかったけれど腎不全の事を考えると、とても辛い。

 顔でも洗って、歯を磨いて……少しでもすっきりしたい。

 準備をしてベッドから離れた。

 病室の洗面所に立ってみる。

 鏡に映った自分の姿が仮装のようで、なんだか泣けてくる。

 なんで、ネギを首に刺さなくちゃいけないのか。

 今はガーゼで包まれて、テープで固定してあるから、他の人はそうは言わないかも知れない。

 でも、俺にしてみれば立派なネギカテーテルだ。

 歯を磨きながら、涙がこぼれてきた。

 口の中をすすいでから、ペッと出す。

 涙と一緒に気持ちも洗い流したかった。

 顔を一生懸命に洗う。

 自分から色々なものを洗い流そうとした。

 ……気持ちはともかく涙は洗い流せる。

 それでも、涙は止まらなくて、ずっと流れてきた。

 俺はベッドの上で布団を被る。

 まだ、夕方なのに布団の中に潜ったら、もう悲しくて動くことができなかった。
 
 その日は夕立がすごくて、夜は大雨。

 雨音を聞いていたら、珍しく夏の空が自分に同情してくれているのかな、と思えた。

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