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第1話

 突然、創一の視界に異常が起きた。

 見慣れた街並みの景色は、白黒写真のように色彩が失われた。所々に厚い雲が漂う空は、濃密な塩素ガスに覆われたように黄味掛かっている。

 創一は、その景色の変化を目の錯覚か何かだと思った。何度か目を擦り、もう一度、周囲の景色を見直す。しかし、景色の異常な色彩は直っていなかった。それどころか、時間が経つにつれて、色彩の異常は増していく。

 立ち並ぶビル群の壁には、所々で黒い大きな染みのようなものが滲み始めている。一部のビルは外観が荒廃して、ガラスには罅(ひび)が入り、壁には亀裂が浮かび始めた。よく見かける広告の看板の文字は、次第に形が崩れていき、文字にも図形にも見える奇怪な紋章と化していた。

「え……?」

 創一は思わず発した疑問の言葉は、自分だけが発したものではなかった。創一が混じっている雑踏の所々で、同じように周囲の風景の異常を感じた人々が戸惑いの声を上げている。

 不思議なことに、雑踏を構成している人達だけは、周囲の景色と独立して、元の色彩を保っている。どうやら、色彩が変わってしまったものは、人を除いた景観だけのようだ。

「――うっ、うわぁああああ!?」

突然、背後で男性の悲鳴が上がった。

 創一が驚いて後ろを振り向くと、そこには異常な光景があった。

 中年男性が何かよって地面に押し倒され、頭から体を飲み込まれてる。その何かは、まるでスライムのような姿をした化け物だった。どす黒くて流動的な体をしているが、頭や手足のように、人体を思わせる外見を成している。体は大きく、平均的な成人男性の体格に匹敵するだろう。

 スライムに押し倒された男性は、初めは懸命にもがいていたが、スライムに体を呑み込まれていく内に酸欠に陥り始めたのか、次第に動きが鈍くなっていく。

 創一が眼前で起こる信じがたい事態に驚愕して言葉を失う中、今度は別の場所で悲鳴が上がった。そちらを見遣(みや)ると、そこでは、西洋の給仕服を着た牛顔の化け物が棍棒を振り回し、周囲にいる人々を手当り次第に殴り飛ばしている光景が繰り広げられていた。

(え……なんだ、これ……?)

 創一は非現実的な光景の数々に思考が追いつかず、呆然と立ち尽くす。
 
 見れば、あちらこちらで、姿の異なる異形の化け物が次々と姿を見せ始める。驚くべきことに、それらの化け物は、地面やビルの壁から――はたまた何も無い空間から滲み出るように姿を現して、未だに事態の把握が出来ていない人達に襲い掛かっていた。

 ある者は殴られ、ある者は踏み潰され、倒され、噛まれ、引き千切られ――そして食い殺される。

 創一は、まるで出来の悪いホラー系ゲームの世界に投げ出されたような錯覚を覚えた。どうしても、現在起きている異常事態が現実であると認識することが出来ない。

 もしや……これは映画の撮影か何かだろうか。あの異形の化け物は最新鋭のCGか何かで、人体から飛び散る赤い液体は血糊で、飛び交う怒号と悲鳴は役者とエキストラの純粋な演技で、辺りに漂う血生臭い香りは……。


 ――――がしり。

 不意に、自分の足首を何者に掴まれる感覚が走り、現実逃避を始めていた創一の意識を揺り戻した。

 創一は……おそるおそる足元を見た。
 
 眼窩の虚ろな子鬼のようの化け物が五匹ばかり、自分の足に群がっていた。子鬼はズボンの裾(すそ)に爪を掛けると、のそのそとよじ登ってくる。

 その子鬼達の一匹と自分の視線が重なる――その錯覚を感じた瞬間、子鬼の口が大きく三日月に裂け開き、中から大量の唾液と十数枚の舌を飛び出した。その途端、子鬼がズボンをよじ登る速度が一気に跳ね上がる。

「う、うわ、うわあああああっ!」

 創一は咄嗟に拳でその子鬼を殴り払い、足元に群がる残りの子鬼を蹴り飛ばすと、その場から駆けだした。その頃には、周囲にいた人々も事の異常性に思考が追いついたらしく、大通りでは先ほど以上に悲鳴や怒号が湧き起こり、辺り一帯は恐慌の様相を呈し始めた。

 創一は大通りから逃れ、手近な路地へと逃げ込んだ。

 ビルとビルの間を縫うように走る路地は、日光が差し込みづらく、かなり見通しが悪い。また、通路に空き缶やゴミ袋が捨てられており、何度もそれらに躓きそうになった。

 創一は急激な運動のせいで脾臓(ひぞう)に鋭い痛みを覚えるも、それに構わず、この場から離れることだけを考えて、ひたすら狭い路地裏を駆け抜けた。  

 時には右へ、時には左へ曲がり角を曲がる。

 自分の現在地も走っている方角も分からないまま全力で駆け続けること数分、創一はビルの壁面に背中を預けると、むせ返りながら乱れた息を整える。

「がはっ、ぐっ、はぁ……はぁ……」

 創一は少しばかり息が整うと、辺りを警戒しながら、つい先ほど起きた異常な状況に思考を巡らせた。

 変容した街の景色、異形の化け物、血生臭い惨状。

 どう考えても、現実に起きている光景には思えない。あまりにも悲惨な出来事が次々と起こり、白昼夢を見ていると思い込みたくなる。しかし、あの時、自分のズボンをよじ登って来た子鬼の爪の感覚は、夢と断じるには、あまりにも生々しいものであった。

 これは現実の出来事なのか?

 それとも、夢が作り出した虚構なのか?

 創一は夢現(むげん)の判断に迷いつつ、これからどうするか思案する。

 大通りから離れる為に路地に駆け込んだ訳だけれど、よくよく考えてみれば、逃走経路を選ぶ上で、路地裏は好ましい選択ではない。視界の悪さから化け物の姿を発見しづらく、それに道幅が狭いので、もし挟み撃ちにされてしまったら、逃げ場を失ってしまう。

 幸い、今のところは、路地裏で化け物と鉢合わせをせずに逃げ続けられたが……その幸運がいつまで続くとも分からない。

(……って、考えている傍から!)

 突如、創一のすぐ近くの地面に黒い滲みが出現する。その滲み中から、化け物のものと思わしき、鋭い刃の生えた長い鉤爪が飛び出した。

(とにかく、まずは、この路地裏から出なくちゃ!)

 創一は再び駆けだした。

 路地裏から大通りに出るという目下の目的は定まった。しかし、肝心の大通りの方向が分からないままだ。

 遠くの方から絶命を思わせる悲鳴が上がり続けている。そちらでも、誰かが化け物の襲われる凄惨な光景が繰り広げられていることだろう。

(……悲鳴? そうだ、悲鳴がたくさん聞こえる方に向かえば、高確率で大通りに出られるんじゃないか?)

 創一はそれに思い至ると、耳を澄ませ、悲鳴と怒号が多く聞こえる方へ走った。それはすなわち、大量の化け物がいる大通りの場所へ出てしまうことを意味するが、背に腹は代えられない。

 路地を縫うようにして走り続けると、正面に強い光が差し込んでくる通りが見えた。目論見通り、大通りに向かって走っていたのだ。

(よし! これで大通りに出られるぞ)

 創一は少しばかりの安堵を覚え、その光差す通りに向けて驀進(まいしん)した。

 しかし――途中で創一の足が止まる。

 ごぼ、ごぼごぼ。

 まるで石油が湧くように、路地の出口付近の空間に黒い染みが湧き起こる。

 黒い染みは勢いよく広がると、その中から、体長二メートルを越す人型の生物が出てきた。

 禿げた男の頭には目隠しの汚い包帯が幾重にも巻かれている。筋骨隆々の体にボロを纏った姿は、返り血と思わしき赤黒い液体で全身濡れている。

 その男の手には、馬ですら真っ二つに出来そうな、巨大な血染めの鉈(なた)が握られていた。

 創一が固唾を呑んで鉈男(なたおとこ)の動向を見守る中――鉈男が手に握る大鉈を自分の肩に担ぎ、創一に向かってのそりと歩み寄り始める。

 創一は明確な死の予感を覚え、思わず後退した。眼前に迫る恐怖に現実感覚が狂いそうになってしまう。

(逃げなきゃ……早く、逃げなきゃ!)

 創一は即座に踵(きびす)を返し、今来た道を逆走しようとした。

 しかし、小暗い路地の奥から、鉈男とは別の化け物が創一に迫って来ていた。

 その化け物は、人の顔と手足を持った蜘蛛型の生物だ。頭部には目が存在せず、脳味噌らしき器官が剝き出しになっている。筋肉と血管が露出した赤々しい胴体に生えた4本の手足は、途中からスラリと鋭利な鎌型の鉤爪に変貌している。鉤爪がコンクリートの地面を穿つ度に、ガキンガキンと金属性の耳障りな音が路地に響き渡る。

 創一は、その鎌のような鉤爪に見覚えがあった。それは、先ほど地面の黒い滲みから飛び出して来た物体と同じものであった。

 猛然と距離を詰めた蜘蛛の化物は、にわかに創一に飛びかかると、創一の首を切断するべく、右手に相当する鉤爪を薙ぎ払う。

「う、うわああああっ!」

 創一は迫り来る鉤爪に対して反射的にのけぞった。

 空気を切り裂くように、眼前を鋭利な鉤爪がよぎる。

 創一は間一髪のところで鉤爪を回避したものの、のけぞった勢いに平衡を崩し、仰向けに地面に倒れ込んでしまった。

 創一の視界に、並立するビルの隙間から、黄味掛かった異様な空が覗いて見える。ふと、その視界の中に、鉈男の上半身と大鉈の形をした影が割り込んできた。

 鉈男は創一のすぐ側に立つと、肩に担いでいる大鉈を両手で握り直し、頭上高くに掲げる。そして、間断を置かず、大鉈による必殺の一撃を振り落とした。

「――――――ッ!」

 創一は本当に死を覚悟して、ぎゅっと双眸(そうぼう)を瞑った。

 ガゴンッ! と大鉈が地面に激突した重々しい音が路地に轟いた。その後、大鉈が転がったと思わしきガランガランという金属製の音が続けて鳴り渡る。

 創一は、それらの音を明確に聞いた。聞き終わることが出来た。

(……あれ?)

 創一は大鉈の転がるような音に疑問を感じ、緩やかに双眸を開いてみる。

 目はきちんと見えた。耳も聞こえるし、鼻も利(き)く。何より……意識が続いている。

 創一は鉈男の方へ視線を向けると、異様な光景を見た。

 鉈男は、途中まで腕を振り下ろした格好のまま、なぜか氷漬けになっていた。

「……ふむ、なんとか間に合ったか」

 大通りの方から、若い女性の声が聞こえた。

 創一が声の聞こえる方へ視線を向けると、確かに女性と思わしき姿が影になって見える。しかし、大通りの明かりが逆光となり、明瞭に姿が見えない。

 蜘蛛の化物が耳を突き刺すような高音の奇声を上げ、女性に向かって鉤爪を掲げて威嚇している。

「……立場を弁えろ、雑魚め。目障りじゃ。早急に往(い)ね」

 女性は辛辣に言葉を吐き棄てると、蜘蛛の化け物に向けて指を差した。その途端、女性の指先に眩い光が煌めき、そこから氷柱のような物体が数発ほど撃ち出された。

 それらの氷柱は、すべて蜘蛛の化け物を射貫いた。

 氷柱に射貫かれた蜘蛛の化け物は、悶え苦しみながら慟哭(どうこく)するが、女性がさらに放った氷柱を頭部に受けて絶命した。驚くべきことに、砂塵(さじん)が風に吹かれるように、その体は見る見る内に消滅していく。

「……さて、ひとまずは安着したと言ったところか」

 女性は溜息混じりに呟くと、つかつかと創一の近くに歩み寄る。そして、障害物をどけるように、氷漬けの鉈男を靴底で蹴り飛ばした。
 
 その蹴りの力は凄まじいものであり、鉈男の上半身は砕け散り、路地の奥に飛んでいった。残された下半身は、氷解に伴って消滅していく。

 創一がその光景に呆気に取られる中、女性は創一のそばに立った。

「ふむ……寸見(すんけん)するところでは五体満足でいられたようじゃな。運が良かったな、坊や。まあ、運が良いのは妾(わらわ)も同じなのじゃがな」

 創一は、その女性を仰向けに見上げていて、違和感を覚えた。言葉遣いはどこか年寄りめいているものの、その声質は十代のものに感じられる。容姿の方は、顔は逆光のせいで見えづらいけれど、体の輪郭や背丈は、やはり十代か二十代前半の女性を思わせる。

「……ん? おい、坊や。いつまで地べたに寝転がっておるのじゃ? ……それとも、なにか? 妾(わらわ)のスカートの中を覗こうと画策(かくさく)しておるのか? 別に見せてやっても構わんぞ。見せて減るものでもないからのう」

 女性はそう言うと、おもむろに自分のスカートの端を抓んで、自分の下半身を本当に露わにしようとする。

「えっ、ええっ、ちょ、お、起きます! 起きますから!」

 創一は思いがけない女性の行動に驚き、慌てて起き上がった。

「……くふっ、初心(うぶ)な奴じゃのう。ますますそそられるわい」
 
女性は心底楽しそうに、くつくつと笑う。

 創一は改めてその女性の容貌を目にした。

 やはり、十代半ばと思わしき少女であった。老獪(ろうかい)な言葉遣いに反して、西洋風の顔立ちは幼く、目が覚めるほど端正な造形をしている。背に長く伸びる金髪は煌びやかで、少女の纏う白いフリルの華やかな赤と黒を基調とするゴシックロリータの服装に映える。幼さを匂わせる風貌の割に、妙に色香に満ちた大人の余裕を漂わせている。

「……さて。のう、坊や。いつまでも呆けていないで、さっさとこの場から離れようぞ。再び雑魚に襲われたら面倒じゃ」

 少女は創一に向けて手を差し出した。

「雑魚……ですか?」

「そうじゃ。ほれ、先ほどの化け物じゃよ。まだ『カズム』が塞がらないからのう。またぞろ、襲い掛かってくるぞ」

「……!」

 創一は思わず路地の奥に広がる闇に目を向けた。ここに留まっていたら、あの奥から再び化け物が迫ってくるかもしれない。

「理解出来たか?」

「あ、はい……。そうですね、すぐに逃げなくちゃ。……あなたが僕を助けてくれたんですよね?」

「……形の上では、そうなるかのう。別に礼など要らんぞ。こちらの都合で勝手にやっただけじゃからな」

 少女は、きまりが悪そうに言った。

「まあ、なんでも良かろうよ。それより、妾(わらわ)の手の行方をどうにかしてくれんかのう。何の為に差し出しているのか分からんわい」

「あ……すみません」

 創一は差し出されている手を握ろうとする。

 自分の手と少女の手が触れようとした――その瞬間、少女は手を引いた。それどころか、上体をそらし、その場から跳びすさった。

 創一が少女の挙動に疑問を覚える間も無く、上方から飛び降りて来た人物が打ち下ろした棒状の武器が眼前を過ぎ去る。

 その人物は少女に攻撃が回避されたと分かると、即座に武器を中段に構え直し、創一の眼前に立ち塞がるように少女に対する。その動作に応じて、絹のように真白の長髪が背に舞った。

「……ちっ、攻魔師か。随分と間の悪い小娘じゃのう」

 恩人の少女が忌々しげに表情を歪める。それに対して、小娘と呼ばれた方の少女は、冷艶な印象を抱かせる凛とした声音で答える。

「下種の事情なんて、知ったことではないわ。私は私の目的の為に幻魔(げんま)を討滅する。……ただそれだけよ」

「ほう、この妾(わらわ)を汝(うぬ)が討つと? 抜かすじゃないか、小娘よ。いや……生娘(きむすめ)かのう?」

 金髪の少女はニヤリと嘲けりの笑みを浮かべる。

 絹髪(きぬがみ)の少女は、彼我の距離に構わず武器を振りかぶり、そして振り降ろした。案の定、振るわれた武器は空を切る。しかし、その直後、絹髪(きぬがみ)の少女の武器から深黒(しんこく)の火焔が鎌鼬(かまいたち)のように放たれた。

「ほう」

 金髪の少女は感心したように笑うと、片足を持ち上げて地面を踏み付けた。その刹那、突如として地面から氷の壁が隆起(りゅうき)する。

 深黒の火焔が堅牢(けんろう)な氷壁に衝突する。火焔は氷壁の一部を溶かして消えてしまうと思われた。しかし、意外なことに、火焔は氷壁をいくら溶かしても火勢が衰えることはない。見る見るうちに、火焔は溶けた水すら蒸発させて、氷壁を跡形も無く消滅させた。まるで固体のメタンハイドレートを燃焼させたような有り様だ。

 絹髪の少女は武器の先端を斜め後ろへ流し、再び深黒の火焔を放つべく、居合い打ちのような構えを取る。

 創一の顔の横で武器の先が動きを止める。その時、創一は絹髪の少女が持つ武器の全貌を見ることが出来た。

 それは、形状からして、刃渡り一メートルに及ぶ大太刀だ。刀身には僅かな反りが見られ、絹髪の少女の手元には、鍔と柄も見える。しかし、刀と呼ぶには、その刀身はあまりにも異様だ。刀身は深淵の闇のように黒い。その表面は光を全く反射していないらしく、金属光沢はおろか、周りの景色の映り込みすら一切存在しない。まるで、闇そのものが刀身の形を成しているように見える。

「なんぞ、奇怪な刀じゃな。……宝具(ほうぐ)か。こちらに来い、小娘。その坊やを誤って殺しとうないのでな。路地では、その刀も振りづらかろうよ」

 金髪の少女の姿がビルの陰に消える。それを追った絹髪の少女の姿も、ビルの陰へ消えていった。

 創一はひとり路地に残された。

(何が……いったいどうなって……)

 創一は目まぐるしく展開される事態に混乱をおぼえつつも、ひとまず立ち上がり、いつ背後から別の化け物が襲ってくるやも知れぬ路地から通りへ出た。

二人の少女は、大通りの車道で戦いを繰り広げていた。

 絹髪の少女は大太刀を振るって接近戦を仕掛けている。彼我の距離が近い場合には大太刀を縦横無尽に捌き、彼我の距離が開けば深黒の火焔を放って追撃を行う。

 金髪の少女は接近戦を避け、氷柱打ちの牽制を行いつつ、隙あらば、地面から氷の剣山を生み出して、絹髪の少女を串刺しにしようとする。

 創一は眼前で繰り広げられる戦いに見とれていた。炎が舞い、氷が煌めく中、2人の少女が舞うようにして必殺の一撃を狙う光景は、夢幻的な舞台の演劇を思わせた。

 金髪の少女もそうであるが、あの絹髪の少女は何者なのだろうか。金髪の少女は自分の危機を救ってくれたことから、恐らく味方と考えて良いだろう。それならば、その恩人を狙う絹髪の少女は、自分にとっては、敵と味方、そのどちらに当たりのだろうか。

 創一は思考に沈む中、あることに気付いた。不気味な様相に変わっていた街並みの景色が、馴染みのある元の姿に戻り始めていた。空を見上げれば、黄味掛かっていた曇り空は、確かに正常な色彩を取り戻しつつある。

 その景色の復元に気を取られていた創一の背中に、突如、息が止まる凄まじい衝撃が走った。

創一はつんのめりそうになる体勢をなんとか整え、バッと後ろへ振り返った。

 そこには、二本脚で直立する、ずんぐりとした体格の化け物がいた。皮膚は緑色であり、気味の悪い粟粒でびっしりと覆われている。くりくりの目玉はドロリと白濁しており、まったく生気が感じられない。筋肉の発達した四肢は、丸太のように太い。

 創一は、このトカゲの化け物に背中を殴られたのだと察した。

 トカゲの化け物は前屈みになると、両手を突き出して創一に跳びかかった。

 創一は思わず腕を交差して、反射的に自分の頭部を守ろうとする。

「――妾(わらわ)の獲物じゃ! 邪魔立てするでないわ!」

 金髪の少女が怒号を発すると、人間業とは思えない速力で跳びこんで来た。次の瞬間、金髪の少女は鎌のように伸長した氷の爪を振るい、トカゲの化け物が細切れに切断した。

 トカゲの肉片が四方へ飛び散り、すぐに塵となって消滅する。

 創一が呆気に取れられる中、金髪の少女の隙を突いて、絹髪の少女が猛然と肉迫する。その手には、金髪の少女を背から斬殺するべく、大太刀が振りかぶられている。

(まずい……!)

 創一は命の恩人である金髪の少女を助けるために、何の考えも無しに絹髪の少女の前に立ち塞がった。その行動は先方(せんぽう)も意外だったらしく、創一の目と鼻の先まで踏み込んでいた絹髪の少女は瞠目(どうもく)して、咄嗟に大太刀の振り下ろしに制動を掛けた。

 場に一時の静寂が訪れる。

「……あなた、死にたくなかったら、そこをどきなさい」

 絹髪の少女が威圧するように冷やかな声音で言った。

 創一は絹髪の少女を初めて正面から見ることが出来た。

 この少女もまた、幼さを匂わせる美しい顔立ちをしている。意志の強さを示すように引き締まる表情は、妙な貫録を帯びているけれど、金髪の少女に比べれば、年相応の幼さが滲み出ている。

 着用している外套(がいとう)は重厚であり、洗練された意匠であるものの、少女が身に纏うにしては不釣り合いな代物だ。その色は黒く、少女の絹髪の美しさを際立たせている。

 真白の長髪も特徴的ではあるが、それに引けを取らず、少女の瞳孔も特徴的だ。それは、爬虫類のように垂直に切れ込みが入っており、虹彩は紅玉(こうぎょく)を連想させる透徹(とうてつ)の鮮紅色だ。

「い、嫌だ。この人は……僕の命の恩人だ! ぜ、絶対に死なせない!」

「いいから、そこをどきなさい! そいつは命の恩人なんて大層な者じゃないわ。むしろ、そいつは――」

 絹髪の少女が何かを言おうとするが、その発言は、金髪の少女の愉快そうな笑い声に遮られた。

「ははっ、ははは! あっははははは! なんと、これは愉快じゃ。まさか、妾(わらわ)が誰かに助けられるとはのう。それも、ただの人間に庇われるとは思わなんだ」

 金髪の少女は、ひとしきり笑うと、絹髪の少女に言う。

「小娘よ。妾(わらわ)は特別に機嫌が良いからのう。汝(うぬ)の無礼、特別に免じてやるわ。どちらにしろ、幕引きの時間じゃしな」

「――逃がすか!」

 絹髪の少女は創一を腕で払い除けると、金髪の少女に向かって斬り掛かった。しかし、刀身が直撃する前に、金髪の少女の体が数十匹のコウモリと化して四散する。

「――――のう、坊や。時を改めて逢いに来るでな、楽しみに待っておれ。その時は、逢瀬の一時を楽しもうぞ――――」

 コウモリが蜘蛛の子を散らすように飛び去る中、どこからともなく金髪の少女の声が聞こえた。

「……逃げられたか」

 絹髪の少女は憎々しそうに呟くと、踵(きびす)を返して立ち去ろうとする。その際、大太刀の切っ先を左手の掌中(しょうちゅう)に当てると、まるで手品のように、掌中に刀身を消した。白絹の少女の髪色は、漆(うるし)のような艶の有る黒髪に漸次的(ぜんじてき)な移行をなした。その後ろ姿は、どこにでもいる普通の女子のようだ。

 少しの間、創一は少女の後ろ姿を見送っていた。しかし、もしかすると彼女が先ほど起きた景観の異常や化け物の出現、そして数十のコウモリと化して散った金髪の少女の正体を知っているのではないかということに思い至ると、すぐにその後を追った。

「……あ、あの、ちょっと待ってくれ」

 少女を呼び止めようと声を掛けても、彼女はまるで聞こえていないかのように、その歩(ほ)を止める気配は見せない。

 創一は少女がこちらの呼び止めに応じないと判断すると、前に回り込んで行く手を阻んだ。その時には、少女の瞳は普通の黒色になっていた。

「待ってくれって言っているだろう。無視しないでくれ」

「……何か用かしら?」

「あ、その……用と言うか……」

 創一は聞きたいことだらけな所為で、まずは最初に何から聞くべきか迷い、しどろもどろになった。

 少女はすぐに質問が出ないと見ると、脇を通り過ぎて、また歩き去ろうとしてしまう。

 創一は少女の肩を掴んで、無理やり引き留めた。

「あ、待ってくれよ。君に聞きたいことがたくさんあるんだ。その、街が変な風になったりとか、気味の悪い化け物が出ていたこととか、それにコウモリになって飛んで行った金髪の女の子のこととか……。と、とにかく何が起きているのかさっぱり分からないんだ」

 少女は面倒そうに創一に視線をくれると、肩に掛かった手をやんわりと外した。

「聞くだけ無駄よ。どうせ、すぐに忘れてしまうもの。さっき起きたことは、夢か何かだと思って、気にしない方がいいわ」

 少女は奇妙なことを言った。

「忘れてしまうって……そんな簡単に忘れられる訳がないだろう!? だって、あんな化け物に襲われて、たくさんの人が襲われて、食われて、殺されて……」

「ええ。でも、忘れてしまうわ。世界がそれを望んで、そうさせるのだもの。否応なく忘れてしまう」

 少女は意味深長な言葉を言い残すと、面倒な質問を避ける為か、その場で十メートル以上も跳び上がって、手近なテナントビルの屋上へ姿を消してしまった。その身体能力の高さは人間の域を超越している。

「……なんなんだよ、本当に」

 創一は消えた少女の行方を見上げながら、自分が本当に夢を見ていたのではないかと強く思った。

しおり