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マスク・ド・バトルの巻

「なぁ、こんなことして意味あんのか」
「分かんねーけど、大事なことなんでしょ」
 メキシコ帰国から3週間、僕らはマリエさんの知り合いの別荘で、朝から晩まで地獄のトレーニングを受けていた。若松さんの厳しい激が飛ぶ。
「てめぇ、サボったな。よし、デルフィンだけ腕立て百回追加!」
 容赦無く竹刀が飛ぶ。
 そう、その地獄のトレーニングは音楽ではなく肉体の方だった。伊豆で合宿と聞いて浮かれていたのに、食べ物はプロテインとブロッコリーとササミのみ。寝る時間以外は、ほとんど筋トレとランニングで楽器には触らせてもらえなかった。来月にはデビューシングルの発表を控えているのに、曲作りの会議もなく、ただただ毎日炎天下の下で汗を流していた。早朝からの十キロラン。それから波打ち際で空手の型の練習。昼はミットの打ち合いとシャドーボクシング。そして何よりきつかったのは股割りだった。
「ハイキックを打ててこそ、ローキックが決まるんだ」
 若松さんの意味不明の檄が飛ぶ。バンドマン生活の不摂生で、僕らの体力と柔軟性を失っていた。
 だけど、このトレーニングに何の意味があるんだ…

「やべーよ、あと3週間もないじゃん。もう曲出来上がっておかなくちゃいけない頃だよな」
「そうっすよ、本当にリリースされるんすかね。あのマネージャーの若松さんて、なんか相当怪しそうっすよ。俺達、このままマグロ漁船に売られるんじゃないすか」
 就寝は9時、電気の消された部屋で話し合う。
「楽器の部屋には鍵がかけられてるし、音楽と無縁のトレーニングばっか。それも可笑しな話だよ」
「携帯も取り上げられとるんじゃけぇ、なんかマジで、どっかに売られるんじゃね」
「だよな、臓器売買とか企んでたりして」
 そんな会話を繰り返しながらも、朝から続くトレーニングに疲れ果てたのか、次第に一人ずつ寝息を立てていった。
 夜中にトイレへ行こうと部屋を出ると、庭先でウルティモが煙草を吸っていた。
「どうした?眠れないと?」
「いや、曲の構成考えてた」
横に座ると、びっしりとコードの書かれたノートがあった。
「シングルの発売は3週間後だもんな。なのにまだ何も出来てないんだよな」
ウルティモは煙草を消すと、こっちを振り向いた。
「なぁブレイブ・カンパニーの頃さ、心の中では売れたいとは思ってただろ?」
僕は雄大に広がる星空を見つめながら頷いた。ウルティモは言葉を続ける。
「俺達さ、売れて行ったバンドのこと、商業音楽とかって馬鹿にしてたけど、マリエさんの言った通り、逃げてただけなんだよな」
「あぁ、セールスが落ち込んでいくに従って、ひがんだ形で独自路線に走ったもんな。分かる人にだけ分かってもらえばいいってさ」
 向こうの林から鈴虫の泣き声が聞こえた。
「ほらうちさ、ラーメン屋やってんじゃん。オヤジも年取ったし、この誘いがなければ実は店継ごうかなって思ってたんだ」
 ウルティモのオヤジは、元は外交官をやってて、それがNY滞在中、急に思い立って、四十過ぎでラーメン屋に転職した変り種だった。しかし東大出身の研究熱心さで味を極め、店も繁盛していた。
「前にさ、オヤジから客の入らない店は、売れてないバンドと同じだって言われたことあってさ」
 煙草に火をつけると言葉を続けた。
「自分でいいもの作ったとしても、それを食べてもらわないと意味がないって。どんなに素材にこだわろうと、どんなに仕込みに力を入れようと、お客さんに食べてもらってこそ価値があるって」
 ウルティモは静かに煙を夜の闇に吐き出した。
「だなぁ、俺達のバンドってさ、味にこだわってたけど、客が足を運ばないラーメン屋だったんだよな。だから店も潰れてしまったしね。しかも、うちは客を選ぶとか、流行ってる店の文句とか言ったりしてさ」
 僕がそう答えると、ウルティモは立ち上がった。
「よし決めた。俺はマスク・ド・ファイヴでバンド界の人気店を目指す。大勢の客が、次の新作ラーメンはどんな味だろうってワクワクするような音楽作るぞ! ぐだぐだ言うのは、それからだ」
 差し出された手を握ると、僕も言った。
「あぁ、絶対に売れようぜ。売れて売れて売れまくってから、売れるってたいして凄いことじゃないってローリングストーン誌で語ってやろうぜ」
 僕らは満天に輝く星に向かって、大きく腕を突き上げた。


 朝5時になると、竹刀を持った若松さんが部屋の前に立っている。
2分で支度を整えると廊下に並ぶ。
「ウーノ」「ドス」「トレス」
 点呼に合わせて、みんなで叫ぶ。昨日までと違うのは、そこにマリエさんの姿があった。「社長!何なんすか、この合宿は!」と叫びたかったけれど、勝手な私語は禁止されている。タンクトップに短パン姿の僕らを、腕組みしながら眺めていたマリエさんが口を開いた。
「よし、かなり筋肉ついてきたわね。これでこそメキシコ帰りの逆輸入バンドよ。ガリガリのもやしっこのミュージシャンの面影は消し去れたわね」
 そう言われて互いの体を見渡してみると、みんな大胸筋が盛り上がり、マッチョに生まれ変わっている。
「そうだな、もう誰もブレイブ・カンパニーのメンバーだとは気づかれないだろうな」
 若松さんも嬉しそうに笑った。
「じゃぁ今日からスタジオに入ってもらうわ。ずっと楽器に触ってなかったから、うずうずしてるでしょ」
 鍵をクルクルと回しながら、マリエさんは歩き出した。最初の変化に気づいたのはボーカルのアステカだった。
「やべーよ、声が出まくる」
 六つに割れた腹筋を指差すと、マイクを口から離した。ドラムのロメロも、叩き割りそうな勢いでハイハットを響かせる。僕も毎日七百回の指たて伏せの効果か、ベースの弦を軽やかに弾きまくれた。ウルティモとチャボも驚きの声をあげていた。
「これからのバンドマンは健康第一だ。セックス・ドラッグ・ロックンロールなんて、もう古い。大事なのは筋トレ・ランニング・プロテインだ」
 若松さんは顎ヒゲを撫でながら頷いた。

 セッションを始めてみてもバンドのグルーブ感が違う。地獄のトレーニングを励ましあって乗り越えて来たからか今までと違った一体感もあった。
「健全な肉体にこそ、健全な音楽は宿るのよ。そういうわけで、マスク・ド・ファイヴのデビューシングルは、明るく陽気なダンスミュージックで行くわよ。メキシコでやった曲を、もっとアッパーにアレンジしてみんなが踊り出すようなラテンナンバー。ねぇチャボ、作れるでしょ」
 その一言に、部屋の空気が凍りついていくのが分かった。
「チャボ、いけるでしょ?」
 みんなの顔から笑顔が消えていく。ロメロはスティックを落とし、アステカは口を開けたまま固まっている。そしてギターのウルティモは唇を震わせていた。
「どうしたの、何か文句でもあるの?」
 マリエさんの言葉に、僕が噛み付いた。
「ちょっと待ってください。ダンスミュージックで行くのは分かりますよ、だけど曲は僕とウルティモが作るんじゃないんですか。これまでも、そうして来たんだし」
言い終わると同時に、サングラスが頬の横をかすめる。壁に当たって砕けたのか、乾いたプラスティックの音が響いた。
「それじゃ、あのダサいバンドのままじゃない。あんたら生まれ変わりたいんじゃないの? あの言葉は嘘だったの?マスク・ド・ファイヴのサウンド作りは、チャボにやってもらう。あの子は流行も分かってるし、打ち込みも出来るしね」
 すると流石に堪えきれなくなったウルティモがマスクを叩き付けた。
「冗談じゃねぇよ。バンドや曲の方向性は勝手に決めてくれていいっすよ。だけど打ち込みなんて、音楽じゃねーよ。俺達はバンドマンだ。楽器触りながら、曲を作り出していく。そこに個性が出てくるんすよ」
 マリエさんの表情が変わった。酔った時のように、その目は据わっている。手をパンパンと叩きながら声を上げた。
「はい出た、個性の押し売りね。あんたは前から、個性個性って言うけどさ、そもそも個性って何なのよ」
 ウルティモの萎れたモヒカンを掴んだ。挑発的な視線は鋭さを増す。
「どうせ、小さい時から個性的でありたいとか思って来たんでしょ。学生時代も同級生から個性的ねとか言われたりして舞い上がって。このモヒカンも、その個性作りの一環なんでしょ? だけど、個性って作るもんじゃないんだから。タマネギの芯みたいに、皮を剥かれても剥かれても、最後に残るもんが個性なのよ」
 マリエさんはシンバルを蹴り上げた。
「打ち込みは嫌? 流行に乗るのは嫌? そんなもんで消えちゃうくらいの個性なら最初から無いのと一緒よ。拾いなさいよ、そのマスク。それとも、またどっかに逃げるつもり? あの時も、あんたそうだったもんね」
 落ち目になったブレイブ・ファクトリー時代、チケットの手売りノルマが出るようになると、なんでプロがそんなことしなきゃいけねーんだよとウルティモはライブをボイコットしたことがあった。
「うっせーよ、素人が偉そうに。あんたに音楽作りの何が分かんだよ。モデルのネーちゃんが、親のスタジオ継いだだけだろ。楽器触ったこと、あんのかよ」
 するとマリエさんのビンタが飛んだ。殴り返そうとするウルティモを僕らは床に押さえ付けた。
「そうよ、あたしは楽器も出来ないコードも分かんない素人よ。だけどさ、そんな人達がCD買うんじゃないの? 音楽聴いてくれるんじゃないの? あんたら、そんな気持ちで曲作ってんの? このコード分かるのかとか、どうだ俺達の技術は凄いだろって自慢したいだけなの?」
 その目には涙が溢れていた。
「曲を作るって、そんなの偉いことなの? ミュージシャンって、そんなに凄い職業なの? 聴く人を下に見るような気持ちで音楽やってんなら、今すぐ音楽なんて辞めなさいよ」
 マリエさんは、そう叫ぶと部屋を飛び出していった。

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