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プロローグ

        一    プロローグ
(滋賀県 長浜市 余呉町 川並)ここは滋賀県の最北端の町で、福井県との県境にある。この川並という村には余呉湖(よごこ)という湖があり、大きさは一、八平方キロ、周囲六、四五キロの小さな湖だ。またの名を(鏡湖)とも呼ばれている。その理由は波もなく穏やかな湖面に、まるで鏡を見ているように周囲の山や景色が映し出されているからだ。
 
 この余呉湖には古来より伝説が伝えられている。それは【はごろも伝説】と名付けられ、言い伝えによると【天から羽衣を纏(まと)った一羽の白鳥が舞い降りてきて、湖で水を浴びながら白鳥の姿から人間の美しい女性の姿に変わっていく。そしてその女性の行動を見ていた一人の男は女性を天に帰すまいと、木に掛けてあった羽衣を盗んでしまう。天に帰れなくなった女性はその男と結婚をするが、やがて隠してあった羽衣を見つけ出して、天に帰ってしまう】という伝説だそうである。ほかの地方にもある羽衣伝説とは内容が少しばかり違うそうだが、余呉湖ではそう伝えられている。また冬季間は【わかさぎ】という名の小魚釣りも有名で、天ぷらにして食べるとおいしくて、多くの愛好家が釣りに訪れる。

 時は平成三十一年三月十日の土曜日、早朝の六時を少し回った頃、一人の村人が日課にしている散歩中のことだった。その村人は年配の男性で、歳は六十をゆうに超えているだろう。
 彼が湖のほとりを歩いていると、前方の道路脇に白い色の軽自動車が停まっていた。毎日散歩をしているが、この時間に車が停まっているのは見たことがなかったので(何だろう?)と思い、近づいてみると中には誰も乗っておらず、周囲を見渡しても人影は見えなかった。そして湖の方向に目をやると、三十メートルほど先の湖面に何か分からないが、細長い白っぽい物が見えた。しかし近くに行けないので、それが何なのか、はっきりとは分からなかった。   
 どうしたものかとしばらく考えたあと、ポケットから携帯電話を取り出し、知り合いの男に電話を掛けた。そして状況を話すと「すぐに行く」と言って電話を切った。間もなくやってきた男は浮かんでいる物を見て「大きさからいって、もしかしたら人じゃないか?」と言うので相談をした結果、警察に連絡をしようと決まった。それから十分と経たない内に隣町にある湖北警察署のパトカーが、サイレンを鳴らしながらやってきた。
 パトカーから降りてきた警察官が双眼鏡で見ると、それはやはり人だった。それから村人にボートの手配を頼み、自分はパトカーの無線を手に持ち、本署に連絡を入れた。

 連絡を受けた警察官は、まだ出勤していない二人の刑事を呼び出すため、それぞれの自宅に電話を掛けた。
「もしもし、こちらは湖北警察署ですが、一平さんは御在宅でしょうか?」
「はい、まだ寝ておりますが」
 そう答えたのは一平の母だった。
「申し訳ありませんが、至急起こしていただいて署にきていただくように、お伝えしてください」
「分かりました」

 一平さんと呼ばれたのは、刑事歴三年の奥村一平(おくむら いっぺい)で、年齢は三十歳で独身。階級は巡査部長。身長は百七十八センチで、体重八十キロの堂々とした体格の持ち主であった。大学を卒業後、警察に入り刑事になった。性格はおっとりとしていて、何事に対しても焦ることなく、ゆっくりと進むタイプだ。こう聞くといかにも落ち着いていて、思考能力をじっくりと発揮して、あらゆる難事件でも解決しそうな刑事に思われるのだが、悪く言えばのんびりした性格とも言えた。彼が刑事の職種に向いているかと言えば、決してそうとは思えなかった。顔立ちも決して男前とは言えず、刑事にありがちな鋭い眼光をしているわけでもない。やや丸みのあるその顔はいかにもやさしそうで、彼の職業が警察官で刑事をしているとは誰もが思わないだろう。そんな彼が刑事を続けているのは、もう一人の相棒のお陰とも言える。

 その相棒とは、女性刑事の池内可奈(いけうち かな)だ。年齢は二十五歳で独身。階級は巡査長だ。彼女は高校を卒業して警察に入った。最初は交通課勤務だったが、前任者の女性刑事が寿退職したため、刑事に抜擢されたのだった。身長は百六十五センチ、体重は秘密だそうだ。顔はやや面長で、二重瞼の大きな瞳が特徴の美人刑事だ。それに加えて頭脳明晰で、刑事歴はまだ二年と短いが、これまでもいくつかの事件を解決した実績を持っている。天は二物を与えずという言葉があるが、彼女は天から二物を与えられていた。その池内だが、ちょっぴりだけど奥村刑事を好きなのだ。彼は二枚目ではないが、いつも池内に優しくしてくれる。たまにだけど食事をおごってくれるし、疲れた様子を見せるとパトカーの運転も代わってくれる。刑事になった時は刑事のいろはを、親切に教えてくれた。そんな奥村に対してすぐに好意を持ったのだった。しかし肝心の奥村は、そのことに全く気付いていないので、のんびり刑事と言うよりも鈍感刑事と言ったほうが、正しいかもしれない。
 ただ奥村はこの池内刑事とコンビを組んでいるお陰で、主に池内が事件を解決しているにも関わらず、そうとは知らない上司や他の警察官から、奥村も刑事としての能力を評価されているのだ。

 その奥村刑事が眠い目をこすりながら、署に入ってきた。すると先に来ていた池内刑事が言った。
「奥村さん、早く行きましょう」
「うん分かっているけど、ちょっと待ってよ。朝飯をまだ食べていないから、お腹が空いて仕事にならないよ。え~と確かパンがあったはずだ」
 奥村は机の引き出しを開けてパンを探している。
「ああ有った、有った、車の中で食べよう」
 パンを手に取ると外へ出て、すでに覆面パトカーの運転席に乗って待っている池内に「お待たせ」と言って、助手席に乗り込んだ。そしてすぐにパンの封を開けて食べ始めたのだった。
「どこか途中に自販機があったら停めてくれない、飲み物を買うから」
「奥村さん、少しは急ごうという気になりませんか?」
「あわてなくてもいいよ、他殺だとは聞いていないから」
「それは行ってみないと分からないでしょう」
「分かったよ、飲み物は諦めるよ」
 相変わらず、のんびり構えている奥村だった。

 一方、最初に余呉湖へ着いた警察官が村人に頼んだボートを待っていると、サイレンの音とともにワンボックスの警察車両が到着した。それより少し遅れて覆面パトカーと思われる黒い車が一台やってきた。
 ワンボックスの車からは四角い箱を持ち、マスクをした鑑識と思われる警察官が数名降りてきた。もう一台の車両からは、私服を着た奥村刑事と池内刑事が降りてきた。
ボートが用意されると警察官一名と漕ぎ手一名の二人が乗り込み、浮かんでいる人の元へと進んだ。そばに近づくと、すでに死んでいるのは明白だった。警察官は、あらかじめ用意していた器具を遺体の服に引っ掛けると、漕ぎ手の男性に岸へ戻るように促した。岸では待っていた他の警官が遺体を引っ張り上げた。 
 その遺体は見るからに若い女性だった。鑑識課員が女性の目や脈をみて、改めて死亡が確認された。鑑識はそれと同時に遺体に不審な点がないかを確認していたが、この場ではそれらしき点は見つからなかった。ただ遺体の服のポケットの中に白い鳥の羽が入っていた。

 その後、鑑識が現場付近を調べていると、湖岸に一足の靴が並べて置いてあるのが発見された。鍵の掛かっていない車の中からは、財布や免許証の入ったバッグが見つかったが、携帯電話はどこにも無かった。今の時代だ、若い女性が携帯電話を持っていないとは考えられないので、湖の中に落ちたのかもしれない。

 刑事の二人が現場付近を見て回っていると、鑑識から声が掛かり話を聞いた。
「今から遺体を持ち帰り詳しく調べますが、死因は水死だと思われます。まだはっきりとは言えませんので、病院へ搬送して詳しく調べてから報告をします」
 
 遺体は救急車に乗せられて、長浜市立湖北病院へと向かった。鑑識も救急車の後に付いて行き、現場に残ったのは刑事の二名と警察官の二名になった。制服の警察官はパトカーや救急車の音で集まって来た村人が、現場に入らないように見張っている。刑事の二人は一緒にうろうろと歩き回り、周りや下を見ては何やら話をしている。
「今のところは自殺か他殺か分からないそうだけど、ちょっと気になるのはポケットの中に鳥の羽が何枚かあったことだよ。一枚だけなら偶然入ったとも考えられるけど。それに関して池ちゃんはどう思う?」
 奥村が池内に話し掛けた。かれは池内刑事を池ちゃんと呼んでいる。
「私もそのことは考えましたが、この余呉湖は古来より羽衣伝説という伝説があるそうです」
 池内は自分の知っている伝説の内容を奥村刑事に話した。
「その伝説とは無関係でしょうけど羽を見た瞬間、その伝説を思い出しました」
「羽衣伝説ね、そんな伝説があったのか、知らなかったな・・・じゃあそろそろ署のほうに戻ろうか?」
「そうしましょう」

          二   対面   
 奥村と池内が署に戻ると、中年の男女が丸岡警部と話をしていた。警部とは奥村刑事と池内刑事の上司で、名前を丸岡哲男(まるおか てつお)という。年齢は四十五歳。短髪で、やや強面(こわもて)の顔をしている。
 署員に聞くと警部と話している二人は、亡くなった女性の両親だと言った。免許証から住所と名前が分かり、すぐに両親に知らせたとのことだった。名字は横山といい、余呉湖で亡くなっていた女性は娘の玲子に間違いないようだ。後ほど病院へ連れて行き、顔を確認する予定になっている。
 両親から話を聞くと「娘は昨日から家に帰ってきていない」とのことだった。

 しばらくの後、丸岡警部から声が掛かった。
「奥村と池内、今から御両親と病院へ行って遺体の確認をしてくれ。もし娘さんだったら事情を説明してやってくれないか」
「分かりました」
 刑事の二人と横山夫妻が乗ったパトカーが病院に着いた。
「では案内しますので、付いてきてください」
 四人は病院の廊下を右や左に曲がりながら進み、ひとつの部屋の前で止まると中へ入った。
「それでは確認をお願いします」
 池内が両親に促した。
 夫妻に遺体の顔近くまできてもらうと、掛けてあった白い布を捲った。そしてその顔を見た夫妻は「あっ」と声を出すと同時に、目を見開き「玲子」と言って、絶句してしまった。
 その遺体は間違いなく横山夫妻の娘、玲子だったのだ。夫妻は目に涙を溜めながら「玲子どうして・・・・・」と呟くのだった。

 奥村と池内は夫妻の気持ちが落ち着くのを待っていた。しばらくすると父親が聞いてきた。
「娘はどうしてこんなことに?」
 奥村が丸岡警部に言われたとおり、詳しい状況を夫妻に話した。彼女の死因は水死となっているが、解剖してはっきりさせなければならないので、解剖の許可をもらうべく夫妻に話をすると、仕方なくではあったが許可をもらえた。 
 夫妻は娘の亡骸のそばにもっと居たい様子だったが、まだ聞かなければならないことがあるので、一旦廊下へ出てもらった。
「横山さん、今のところ警察の見解では自殺されたと考えておりますが、自殺されたことに対して何か心当たりはありませんか?」
 奥村が聞くと、父が答えた。
「いえ、ありません。おまえはどうだ?」
 父は妻に聞いた。
「私も同じです。何かで悩んでいるようには見えませんでした。自殺なんかするわけがありません。」
「分かりました。それでは娘さんですが、お勤めでしたか?それとも学生さんですか?」
「玲子は会社員です。高月町にある日本硝子株式会社に勤めていました」
「では娘さんの友達を知っていたら教えてください」
「はい、同じ会社に勤めている・・・確か中村さんだったと思いますが、下の名前は憶えていません。その方とは仲良くしていると聞きました。会社で聞けば分かると思います」
「同僚の中村さんですね。分かりました。あとはこちらで調べます」
 その後、夫妻には一旦帰ってもらい、奥村と池内も署に戻った。

 それから一時間後、署内で遺体に関する発表があった。
「余呉湖で亡くなっていた女性ですが、名前は横山玲子、年齢は二十二歳です。死因は水死で午前七時の検視では、死後八時間から十時間でした。つまり亡くなったのは夜の十時前後で、九時から十一時の間になります。現場近くに本人の物と思われる靴が、一足揃えて置いてあるのが見つかりました。付近の足跡も調べましたが、多数の跡があったため特定はできませんでした。他殺を疑わせるような物は今のところ何ひとつ無く、自殺と思われますが、解剖してみないと断言はできません。以上ですが何か質問はありますか?」
 池内が手を挙げた。
「彼女の遺体のポケットに入っていた羽ですが、何か分かりましたか?」
「その羽は鳩の羽だと分かりました。羽の枚数は二枚でした」
「ありがとうございます」

       三   司法解剖
 翌日三月十一日の日曜日、遺体の解剖が行われた。その報告書が昼頃に湖北警察署に届いた。それを読んだ丸岡警部の目が、ある項目で止まった。それは胃の内容物の所だった。そこには亡くなる前に食べたと思われる食材の種類が書いてあるが、その中に睡眠薬が検出されたと書いてあった。彼女は死を覚悟して、最後に美味しい物を食べたのは分からないでもない。その後、睡眠薬を飲んで意識がなくなる寸前に湖に飛び込めば、確実に死ねると思ったのだろうか?
(これはちょっと気になるな)
「奥村、池内、ちょっと来てくれ」
 警部が二人を呼んだ。
「何でしょうか?」
「この解剖報告書に睡眠薬が検出されたと書いてあるのだが、両親から何か聞いているか?」
「いえ、何も聞いていません」
「そうか、それじゃすまんが横山さんの家に行って、娘さんが睡眠薬を飲んでいたのか聞いてきてくれるか?」
「分かりました」

 二人はパトカーに乗ると横山家へと向かった。玄関のチャイムを鳴らすと母が出てきた。
「こんな時に申し訳ありませんが、ひとつだけ聞かせてください」
「どうぞ、中へお入りください」
 家の中では家族が葬儀の準備を進めているようだった。しかし遺体がまだ帰って来ないので、日程が決まっていないとのことだった。
「お父さん、お母さん、玲子さんは日頃から睡眠薬を飲んでおられましたか?」
「いいえ、飲んでいないと思いますが。ここ何年かは医者にかかったこともなく健康そのものでした」
「そうですか、では念のために一度玲子さんの部屋を見せていただけますか?」
「分かりました。こちらです」
 母は二人の刑事を、二階にある娘の部屋へ案内した。
「お母さん、ちょっとタンスとか引き出しを見させていただいても構いませんか?」
「どうぞ」
 奥村と池内は手袋をして、あちこちと調べ始めた。当然のことだが、下着類が入っているタンスは池内が調べた。しかし睡眠薬は勿論のこと、他にも不審な物は何ひとつとして見つからなかった。
 二人の刑事は両親に挨拶をすると横山家を後にして署に戻り、丸岡警部に報告をした。
「そうか、何も無かったか・・・・しかし睡眠薬はちょっと引っ掛かるな。今回の件は自殺ということで署長に報告書を書くつもりをしていたのだが、お前たち二人でもう少し調べてくれるか」
「了解しました。明日は月曜日なので、彼女が勤めていた会社へ行ってみます」
「そうしてくれ。捜査のやりかたは二人に任せておくから」

         四   捜査開始
 翌十二日の月曜日、朝九時に奥村と池内は玲子が勤めていた会社へと向かった。守衛所で事情を説明して、まずは横山玲子の上司に面会をすることになった。事務所内の小部屋に案内され、待っていると五十歳前後と思われる男性が入ってきた。
「私が横山玲子の上司で、課長の秋山といいます」
 彼はそう言うと、名刺を取り出し二人の刑事に渡した。名刺には名前の他に会社名と部署名が掛かれており、部署は経理部と書いてある。
 簡単に挨拶を済ませると、さっそく本題に入った。
「秋山さん、すでにお聞きかと思いますが、横山玲子さんが亡くなられました」
 秋山はすでに知っていて、顔を縦に振っている。
「今のところ、横山さんの死は自殺だとの見方をしておりますが、何か思い当たるようなことはありませんか?」
「いえ、私には分かりません」
「そうですか、それじゃあ横山さんはどのような仕事をされていましたか?」
「彼女は経理部で会計を担当していました」
「具体的にはどのような仕事ですか?」
「簡単に申しますと、売った商品の入金の確認や、うちが買った物に対してお金を払う、つまり出金ですね。そういう入出金の管理をしていました」
「それは玲子さんが一人でやっておられたのですか?」
「いえ、うちもそれなりに大きな会社なので、三名でしております。他の二人は女性と男性の一名ずつですが、もうひとりの女性も横山と同じ仕事で、男性は二人の仕上げた帳簿が間違っていないか、確認をする仕事です」
「分かりました、ありがとうございます。それともうひとつ、横山さんは中村さんと言う友人がいたそうですが、誰だか分かりますか?」
「中村ですか、部署は違いますが、中村という子は一人だけですので、多分その子でしょう」
「じゃあ仕事中とは思いますが、聞きたいことがありますので紹介してもらえますか?出来るだけ短時間で済ませますので」
「分かりました、呼びますのでしばらくお待ちください」
 
 秋山課長はそう言うと部屋を出た。そして数分の後、部屋をノックする音が聞こえた。
「はい、どうぞ」
「中村ですけど、何でしょうか?」
「仕事中にすみません。もうお聞きとは思いますが、亡くなった横山さんのことで、あなたに聞きたいことがあります」
「はい」
「最初にフルネームを教えてください」
「中村由美と申します」
「ありがとうございます。ではあなたと彼女は友達だと聞いていますが、間違いありませんか?」
「ええそうでした。とても仲良くしていました」
 中村はそう言うと、ポケットからハンカチを取り出し、目を拭った。
「刑事さん、玲子はどうしてこんなことに?」
「それを今調べているところです。ではお聞きしますが、彼女が自殺されるほどの悩みを抱えていたとか、何か御存じありませんか?」
「いいえ、そんな心当たりはありません。もし悩み事があれば、私に相談をしていたと思います。それと昨日の日曜に二人で長浜へ買い物に行こうと、約束もしていました。それで待ち合わせをしていましたが、時間になっても来ないので電話を掛けたのですが、それも繋がらなくて(どうしたのだろう?)と思っていたのです。玲子が突然自殺するなんて私には考えられません」
「そうですか、それと彼女から睡眠薬を飲んでいるとか、聞いたことはありませんか?」
「いえ、一度もありません」
「分かりました。また聞きたいことがあるかと思いますので、家の電話番号を教えていただけますか?」
 
 中村由美は自宅の番号を刑事に教えると部屋を出た。由美と入れ替わりに先ほどの秋山課長が入ってきたので、奥村は会計を担当している他の二人を呼んでもらった。
「お二人は亡くなった横山玲子さんと一緒に、仕事をされていたのですね」
「そうです」
「名前を教えていただけますか?」
「僕は岡本といいます」
「私は山内です」
「ありがとうございます。ではお聞きしますが、仕事や私生活で横山さんが悩んでいたというようなことはありませんでしたか?」
「なかったと思います。話していても、そういうふうには見えませんでした」
二人とも「玲子さんが自殺するとは思えない」と言うだけで、特に収穫はなかった。

         五   足取り
 昼食後、二人の刑事は余呉湖に停められてあった玲子の車を調べたが、中から睡眠薬は見つからなかった。それと念のために鑑識を呼び、指紋の採取をしてもらった。
「池ちゃん、今日の捜査で何か気付いたこととか、不審に思ったことはなかったかい?」
 奥村が聞くと池内が答えた。
「そうですね、特にはないけど、強いて言えば両親それに友人や同僚の全員、横山さんが自殺をする理由が思い当たらないって、言っていたことかな」
「うん、自殺をするには何か理由があってのことだからな、それもかなり大きな理由が」
「周りの誰もが知らないような大きな理由とは、一体何だったのでしょうね?」
「じゃあ、今から金曜日に会社を終えた後の、彼女の足取りを追ってみようか」
「ええ、そうしましょう」
「胃の内容物から言っても、どこかで食事をしているだろうから、そこを見つけないと」
「もう一度、友人だった中村さんに会いに行きませんか?横山さんの退社後の行動について、何か知っているかもしれないから」
「そうだな、家に帰っているか電話で聞いてみよう」
 中村家に電話をすると、由美はすでに帰っていたので、今から伺う旨を伝えて二人はパトカーに乗った。

 奥村と池内が客間に通されると、由美の母が不安そうな顔をしながら、お茶を持ってきた。
「中村さん、お疲れのところをすみません。横山さんのことで、もう少し聞きたいことがありますので、知っている限り教えていただけますか?」
「はい」
「月曜から金曜までは出勤だと思いますが、彼女が会社を退社後、どのような行動をされていたか、ご存知ありませんか?」
「そうですね、ほとんどはまっすぐ家に帰っていると思いますが、たまに私と喫茶店に行くことはあります」
「横山さんの異性関係はどうでしたか?」
「彼女、今は誰とも付き合っていないと思います。そんな人がいれば私に言いますから。えっと・・玲子が自殺したのは金曜の夜でしたね」
「そうですが、何か?」
「あの子、金曜日は退社後に木之本のフィットネスクラブに行っているはずです。会社は五時までですので、毎週金曜の五時半に行き、クラブで汗を流してから帰ると聞いています」
「そうですか、それはよく思い出していただき、ありがとうございます」
 それを聞いた二人は、木之本町内に一軒だけしかないフィットネスクラブへと向かった。

 クラブに着くと、受付の若い女性に警察手帳を見せてから尋ねた。彼女の名札には、松山と書いてある。
「三月九日の金曜日ですが、横山玲子さんという方がお見えになっているはずですが、どうでしょうか?」
「少々お待ちください」
 松山はそう言うと、後ろのガラスケースから一冊のファイルを取り出して捲った。
「はい、その日横山さんは来ておられます。記録によりますと五時半に来られて、七時五分に帰られています」
「そうですか、ありがとうございます。それで帰られる時は一人でしたか?」
「え~と、どうでしょう?・・・そこまでは分かりません」
「では横山さんがこのクラブで仲良くしていた人はいますか?」
「お客さん同士では特に仲良くしている人はいなかったと思いますが、担当のスタッフとはよく話しているように見受けました」
「その人は、今おられますか?」
「はい、おります」
「では少し話を聞きたいので呼んでいただけますか?」
「分かりました」
 
 受付の女性はそう言って、トレーニングルームへと向かった。するとすぐに一人の若い男性が、受付嬢に連れられてやってきた。
「スタッフの吉田といいますが、何でしょうか?」
 彼の胸には吉田と書いた名札が付いていた。
「吉田さん、仕事中にすみませんが、少しばかり話を聞かせてください」
「はい」
「横山玲子さんを御存じですね?」
「はい、僕の担当のお客様です」
「実はその方ですが、先日の金曜日の夜にお亡くなりになりました」
「えっ、それは本当ですか?」
「まだ御存じないようでしたね」
「今初めて聞きました。どうして亡くなられたのですか?」
「詳しいことは言えませんが、自殺のようです。それで彼女のことを何か御存じないかと思い、来ていただきました。何か思い当たるようなことはありませんか」
「いえ、何もありません。金曜日も普通にトレーニングをして帰られました」
「何か話はされましたか?」
「ええ、トレーニング関係の話と、後は世間話を少ししましたが、彼女は笑顔で話していましたので、まさか自殺をするようには見えませんでしたけど」
「そうですか、分かりました。じゃあトレーニングを終えてから七時過ぎに帰られたのですね」
「ここの閉店が七時ですので、それは間違いありません。あっ、そうだ。彼女、ここが終ってから、どこか食事に行くような口ぶりでしたよ」
「それは本当ですか?」
「ええ、帰り際に『今から食事に行くの』って言っていましたから」
「場所は言いませんでしたか?」
「それは聞いていません」
「誰かと一緒に行くようなことは?」
「それも聞いていません」
「そうですか、ありがとうございました」

 その言葉を最後に、奥村と池内はクラブを出て署に戻ると、二人で今日の捜査状況を話し合った。
「これで七時までの足取りは分かりましたね」
 池内がそう言った。
「そうだな、後は亡くなるまでの数時間の足取りだな」
 奥村がそう返したあと、続けて言った。
「フィットネスクラブの吉田さんが『横山さんは食事に行く』と言っていたが、その場所がどこなのか、そして一人で行ったのか、その辺りをしっかりと調べる必要があるな」
「ええ、じゃあ明日はそれを調べましょうか?」
「普通に食事をするだけなら、そんなに遠い所には行っていないだろう」
「そうですね、では木之本から長浜までに在る、レストランと喫茶店を順番に当たりましょうか?料亭に行ったということは、まずないでしょうから」
「そうしよう、じゃあこれで今日は終わろうか」
   
 翌日の十三日、火曜日に奥村と池内の二人はレストランや喫茶店が開く時間を待って、覆面パトカーに乗った。まずは木之本近辺の店を回り、そのあと国道八号線を長浜方面へ走りながら、順番に店に入った。しかし玲子の写真が和服とあって、洋服を着ていて髪型も違う玲子を見たとしても、分からない可能性がある。実際に店に入り店員に尋ねても、誰もが首を横に振るばかりだった。
 長浜市内へ入ると、さすがに多くの店があり、かなりの時間を要したが収穫は皆無だった。もう諦めて署に戻ろうかと思ったが、来た道の八号線を戻らずに国道三百六十五号線を戻ることにした。そしてその道を走っている途中だった。看板に(レストラン白い羽)と書いてある店があった。それを見て奥村が言った。
「そう言えば、玲子さんの遺体のポケットに白い羽が入っていたな。この看板を見て思い出したよ」
「ええ、確か二枚入っていたと言っていましたね」
「よし、入って聞いてみよう」
 
 店の中に入ると「いらっしゃいませ」と言った若い男性店員に声をかけた。
「すみません、湖北警察の者ですが、ちょっとお聞きしたいことがあります」
 池内は店員に警察手帳を見せながらそう言った。
「何でしょうか?」
「この写真に写っている女性ですが、三月九日の夜、時間は七時半から八時頃だと思いますが、来られなかったでしょうか?」
 店員は写真を見ながら言った。
「いや、このような方は来られていないと思います。絶対とは言えませんが」
「そうですか、ありがとうございます」
 奥村は礼を言いながら、ふと辺りを見渡すとレジの所に白い羽が入った入れ物を見つけた。そこで店員に聞いた。
「すみません、あそこに置いてある羽ですが、あれは何でしょうか?」
「ああ、あの羽は店の名前にちなみまして置いています。それでこの店に来られたお客様にサービスの一環として、お渡ししている羽です。この店を忘れずにまた来ていただけるようにとの願いを込めてです」
「そうだったのですか、ところで何の羽ですか?」
「白い鳩の羽です」
「これを一枚頂いてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
 
 奥村と池内は礼を言うと店を出た。
「池ちゃん、今の羽の話を聞いてどう思う?」
「遺体の服のポケットに入っていた物と同じようですね」
「偶然かもしれないが何か引っ掛かるな」
「もしかしたら玲子さんはこの店に来たのかもしれませんね」
「店員が覚えていないのか、それともこの写真では分からないのかもしれないな」
「明日もう一度この店に来て詳しく調べよう」

          六   動機
 翌日の十四日の水曜日、奥村と池内は午前中に鑑識へ行き、昨日採取した指紋の件を聞いた。
「由紀ちゃん、余呉湖で上がった遺体の件だけど車の指紋はどうだった?」
 奥村が由紀ちゃんと呼んだのは鑑識の女性だ。
「できています」
「本人以外の指紋も採取できましたので、鑑定が必要なら言ってください」
「ありがとう。それとこの羽だけど、遺体のポケットに入っていた物と同じものかどうか、調べてくれませんか?」
 奥村は昨夜レストランで貰った羽を由紀に差し出した。
「分かりました」
「他に何か不審な点はありませんでしたか?」
「ええ、ふたつありました」
「そうですか、それを教えてください」
「はい、ひとつ目は車のハンドルですが、普通はハッキリとした指紋が取れるのですが、きれいな指紋が検出できませんでした」
「それはどうしてでしょうか?」
「考えられることは最後に運転した人が、手袋をはめていた可能性があります。それで元の指紋がこすられたような指紋しか残っていませんでした。ふたつ目ですが、車の運転席の位置です」
「それがどう不審だったのですか?」
「亡くなった横山さんの身長は百五十五センチでしたが、その身長だと座席が、かなり前になっていてもおかしくないのですが、中央より後ろに下がっていました。もし最後に彼女が運転していたとすれば、そんなに下げて運転するのは不自然です」
「確かに由紀ちゃんの言うとおりですね」
「そこで私の考察ですが、車を最後に運転したのは手袋をはめた人で、身長が百七十センチから百七十五センチくらいの人ではないかと思われます」
「手袋はなかったのですね?」
「ええ、見つかっていません」
「座席のスライドは何らかの理由で、本人がしたと考えられませんか?」
「そうですね、例えば座席の下に何かを落として、それを拾うために下げた可能性もあります」
「分かりました。それともうひとつ頼みがあるんだけど」
「何でしょう?」
「横山さんの写真だけど、この顔のままで遺体で見つかったときと同じ洋服を着た写真を、パソコンを使って合成できないかな?この和服姿の写真では分かりづらいから」
 奥村はそう言って、両親から預かった横山玲子の写真を由紀に渡した。
「それはできますが、髪は濡れていて型がはっきりと分かりませんので、私の想像でやってみます」
「忙しいのに無理を言って申し訳ないね」
 由紀のパソコンの腕は署内でもトップで、合成写真などお茶の子さいさいのようだ。ものの十数分で写真が出来上がった。
「ありがとう、相変わらず仕事が早いね。うん、これなら玲子さんだとよく分かるよ」
 出来上がった写真を数枚コピーすると、由紀にお礼を言って奥村と池内は鑑識課を出た。

「池ちゃん、そろそろ昼飯の時間だから食べに行かないかい?」
 奥村が誘った。
「いえ、今日はお弁当を持ってきているので、ここで食べます」
「そう、じゃあ由紀ちゃんに行かないか聞いてみよう」
 そう聞いた池内は、すぐに言葉を返した。
「やっぱり食べに行きます。お弁当は夕食にします」
「そう、でも由紀ちゃんには日頃からお世話になっているので、誘ってみるよ」
「いえ、彼女もお弁当だから行かないと思いますよ」
「そうなの、だったら次の機会にでもおごってあげることにしよう」
 池内は、奥村と二人で行こうと思い、由紀ちゃんを誘わせないようにそう言った。ただ彼女がお弁当なのは本当の話だ。

 二人は昼食が済むと、昨夜行ったレストラン白い羽に向かった。店に入ると昨日と同じ店員に話し掛けた。
「すみません、昨日来ました湖北署の者ですが、もう一度話を聞かせてください」
「何でしょう?」
「この店内に防犯カメラを設置していますか?」
「いえ、ありません。お客様がカメラに気付かれると(写されているのか)と、不愉快に思われる可能性があります。それに何も盗まれる物はありませんので、取り付けていません」
「そうですか、分かりました。では次にこの写真を見てください」
 奥村はそう言いながら、先ほど鑑識に作ってもらった玲子の合成写真を見せた。
「見覚えはありませんか?」
 そう聞くと店員は写真をみながら、何かを思い出しているようだった。そして言った。
「ああ、このお客様でしたら見覚えがあります」
「えっ、それは本当ですか?」
「はい、詳しい日は覚えていませんが、何日か前の夜にお見えになりました」
「よく覚えておられましたね」
「ええ、僕も一応若い男ですから、若くてきれいな女性だけは見ています」
 店員は照れたように少し笑いながら言った。
「その女性は一人でしたか?」
「いえ、確か男性の方とお二人だったと記憶しています」
「どんな男性でしたか?」
「そうですね、五十歳前後と見受けられる中年男性だったと思いますが、女性にばかり気を取られて男性の顔は全く覚えていません。勝手に親子だろうと思っていたものですから。お役に立てなくて申し訳ありません」
「そうですか、いやそれだけでも充分です。ありがとうございました。最後にもうひとつだけ、その二人に白い羽を渡されたか覚えはありませんか?」
「羽は会計で渡しますので、僕には分かりません」
 奥村は会計をしている女性にも写真を見せて聞いたが、その女性は覚えていないとのことだった。

 二人の刑事は店を出て署に戻るべくパトカーに乗った。帰路の途中で池内が奥村に言った。
「食事に来た店が見つかりましたね」
「ああ、それだけでも一歩前進したな」
「それで一緒に来ていた中年男性は一体誰でしょうね?」
「うん、それさえ分かれば苦労はしないんだが」
「親子じゃないのは決まっていますから他人の中年男性、それも食事を一緒にするような間柄ですね。まさか不倫の関係ではないでしょうね?」
「そうだな、もしそうだとしたら親はもちろんだが、友達にも言わないだろうな」
「そう思います」
「もし他殺だとしたら、その男が不倫のもつれから殺したか、もしくは横山さんの想いが叶わず自殺したか?どちらとも考えられるな」
「ええ、いずれにしてもその男を見つけないと」
「そういうことだな」
「それで今までの情報を全て総合して判断すると、状況的には他殺の線も出てきたな」
「しかし他殺だと断言できるような物的証拠が何ひとつないので、自殺の線も捨てきれないですね」
「うん、何か証拠があればいいのだが」
「今からその証拠を探しましょう」
「そうするか、ポイントは中年男性だが、半日では見つけようがないな」
「一旦署に戻って今までの捜査を振り返ってみませんか?」
「分かった、そうしよう」

 湖北署に戻った奥村と池内は今まで得た情報と、捜査の流れを白板に書き綴った。
「池ちゃん、今日までの捜査と情報の中から、何か思い当たることはないかな?」
 奥村は白板に書き終えると聞いた。
「そうですね、余呉湖は車が置いてあった付近から、飛び込んだと思われる所まで、かなり捜索しましたが、何もそれらしき物は発見できませんでした。気になるのは鑑識の由紀ちゃんが言っていた指紋と座席位置ですね。もし他殺だとしたら、当たり前のことですが犯人がいます。その人物が横山さんに睡眠薬を飲ませたのなら、彼女の知らない人ではないと思われます。その後、眠った横山さんを車に乗せて、余呉湖で水死させたと思います。そこで考えられることは、犯人は通りすがりの人物でないと言えます。つまり私たちが今まで捜査してきた中に居るか、もしくはその関係者の可能性が高いと思います。あくまで他殺と仮定しての話ですが」
「じゃあ今までの捜査の中で、我々が出会った人物をピックアップしようか」
 奥村はそう言うと、関係者を白板に書いた。
(玲子の両親、会社の上司、同僚、友人、フィットネスクラブの関係者)
「これくらいかな。他殺と考えた場合、この中にいる可能性があるわけだ」
「この中から消去法で行きますと、両親は消してもいいと思います。普通、人を殺すには何か理由があるはずです。例えば殺したいほどの憎悪です、男女関係のもつれや金銭関係のもつれがあった。あとは何か都合の悪い事を知られたなどです。強盗殺人や通りすがりの殺人でもない限りは、そんなところでしょう」
「そうだな、憎悪に関しては玲子さんが人に憎まれるような人物でなかったことは分かっているし、金銭関係も貸し借りはしていなかった。残るのは男女関係のもつれか、相手にとって知られては困ることを知ってしまった、そのふたつだろうな」
「私もそう思います」
「殺す動機がそのふたつだとした場合、この中の人物で可能性があるのは誰だ?」
「それは両親を除いた全員でしょう」
「どうしてだ?」
「人は年齢に関係なく、男女関係になりうる可能性があります。何か秘密を握られたとすれば、それも全員が対象になると思います」
「関係者にもう一度会って話を聞きたいが、今日は時間がないな。それに話を聞いても証拠でも突き付けない限り、素直に言う人間はいないだろう」

           七   防犯カメラ
 奥村と池内は捜査に行き詰まりを感じて、次の言葉が出なかった。そしてしばらくの沈黙が流れたあと、机の上の電話が鳴った。
「もしもし、私はレストラン白い羽の者ですが、奥村さんか池内さんはおいででしょうか?」
「はい、奥村です」
「あっ、奥村刑事さんですか、先ほどお会いしました店の者ですが、防犯カメラのことで刑事さんに謝っておかなければなりません。私、刑事さんに『カメラは付けていないのか』と聞かれた時に『付いていません』と答えましたが、実は付いていました」
「えっ、それは本当ですか」
「ええ、ただ店の中ではなくて店の外なんです。車の防犯に駐車所を映しています」
「そうですか、それはわざわざ知らせていただき、ありがとうございます。では先週の金曜の夜の部分ですが、まだ残っているでしょうか?」
「はい、過去一週間分は残しています」
「では今から行きますので、見せていただけますか?」
「分かりました、用意して待っています」
 
 急いでパトカーに乗るとレストランに向かった。
「早速ですが、見せてください」
「こちらです」
 二人は店員の操作するモニターの画面を食い入るように見ていた。そしてある時点で奥村が言った。
「あっ、そこで止めてください」
 そう、そこには紛れもなく横山玲子が写っていたのだ。車を降りて店のドアの方向に歩いているのが写っている。そして彼女の隣には背広姿の男性がいた。
「池ちゃん、この男は」
「ええ間違いありません。会社の上司、秋山課長ですね」
「ああそうだ。あの男、俺たちと喋ったときは知らん顔しやがって。今四時か、まだ会社に居るはずだから、行って話を聞くぞ」
「はい」
 奥村が店員に聞いた。
「すみません、このビデオをお借りしても構いませんか?」
「はい、どうぞ」
「操作が終ったら、必ず返しますので」
 
 二人は再びパトカーに乗り、会社へと向かった。着くと、すぐに秋山課長を呼んでもらった。
 通された部屋で待っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
 秋山は目をぱちぱちとしながら、入ってきて言った。
「お待たせしました、今日は何か?」
「秋山さんに聞きたいことがあって来ました」
「何でしょうか?」
「率直に聞きます。あなたは先週の金曜日の夜、横山玲子さんとレストラン白い羽に行きましたね、証拠もあります。正直にお答えください」
 秋山は奥村刑事の口調からして、もはや隠しとおすことはできないと思い、答えた。
「刑事さん、黙っていてすみませんでした。今おっしゃったとおり確かにその日、彼女と一緒に食事に行きました」
「どうして早く言ってくれなかったのですか?」
「それは・・・・」
「彼女との不倫が知られると困るからですか?」
「えっ、不倫・・・いえ私は横山君と不倫なんかしていません」
「それは本当ですか?」
「本当です」
「じゃあ、どうして二人で食事に行ったのですか?」
「それにはちょっと訳がありまして、刑事さんも御存じだと思いますが、うちの会社は土曜と日曜は休みです。それで私は毎週金曜の夜だけ誰かと飲んだり食べたりして、交流を深めています。そしてあの日も友人と酒を飲みに行く約束をしていまして、会社の駐車場で待ち合わせの約束をしていました。ところがその友人から電話がありまして『急用ができたから行けなくなった』とのことでした。
 それで仕方なく帰ろうと車に乗った時に、一台の車が駐車場に入ってきました。(こんな時間に誰だろう)と思い、見ると横山君だったのです。彼女に『どうしたの?』と聞いたら、忘れ物をしたので取りに来たとのことでした。それだけで帰れば良かったのですが、つい彼女に『何か食べに行こうか?』と言ってしまいました。そうしたら彼女が言いました。『私も今日は両親の帰りが遅くなるので、外食をする予定でした』と。それで一緒に行ったという訳です」
「そうでしたか、それなら先日会った時に話してほしかったですね。それで食事を終えたあと、どうされましたか?」
「彼女をここまで送ってきまして、そこで別れて家に帰りました」
「そのあと、彼女はどうしたのか御存じありませんか?」
「いえ、私の車から降りた後は知りません」
「秋山さん、今までの話に嘘はありませんね?」
「全て本当です」
「ここだけの話ですが、横山さんの死は自殺とマスコミに発表しています。しかしここにきて他殺の疑いが浮上してきました。それでもう一度関係者全員に話を聞いています。あなたは彼女と別れたあと家に帰ったと言われましたが、それを証明してくれる人はおられますか?」
「・・・いや、いません。私は子供もいませんし、家に帰った時、妻は留守でしたので、証明してくれる人は誰もいません。」
「帰る途中にどこかへ寄りませんでしたか?」
「どこにも寄らずにまっすぐ帰り、疲れていたので風呂だけ入って十時頃には寝てしまいました。刑事さん私は疑われているのでしょうか?」
「いえ、決してそういうわけではありませんが、関係者は全員疑うのが私たちの仕事ですから」

 奥村と池内は秋山の話を聞き終わると署に戻った。
「池ちゃん、秋山課長の話を聞いてどう思う?」
「ええ、横山さんと不倫はしていないと言っていましたが、それが本当かどうか分かりません。もし不倫をしていて、彼女から『奥さんと別れてほしい』とか言われて、話がもつれたことにより殺すという動機もあります。それに横山さんが亡くなったと思われる時間にアリバイもありませんし、たまたま駐車場で会ったから食事に行ったという話も、偶然にしては出来過ぎているような気がします」
「そうだな、そう考えると他殺だったとなれば、容疑者の一人として捜査する必要があるね」
「奥村さん、レストランで借りてきた防犯カメラの映像を、もう一度しっかり見ませんか?」
「よし、そうしよう」
 
 二人はモニターの前に行き、テープをセットして見直した。秋山と彼女が車から降りてきたのは七時三十五分だった。時間を確認してそのまま映像を見ていたところ、三分後の三十八分に別の車から降りてきた二人の男女が写った。その二人を見た池内が言った。
「あらっ、この二人どこかで見たような気がします」
「ああ俺も見たような気がするな。誰だったかな?」
「この人たち、確か・・・横山さんと一緒に会計の仕事をしている人です」
「そうだ思い出したよ。あの二人だ、岡本と山内だ」
 奥村は手帳を見ながら名前を言った。
「でもどうして、あの二人がここに?」
「どうしてだろうな?もう少しビデオの続きを見てみよう」
 するとその二人は車から降りた後、少し立ち話をしてすぐに車に乗った。そのまま続きを見ていると、二人の車は動く気配がなかった。時間が八時二十八分の時に、秋山課長と横山さんが店を出て車に乗り込むのが写った。そして二人の車が出ると、すぐに岡本と山内の車も後を追うように出て行った。
「奥村さん、もう一度会社へ行って会計の二人から話を聞きませんか?」
「そうしようか。今五時過ぎか・・・まだ会社にいるかな?」

 急いで会社へ行き、岡本と山内を呼んでもらった。幸い二人はまだ会社にいた。
「お疲れのところを申し訳ありません。もう一度お二人から話を聞きたくて来ました」
「何でしょうか?」
 岡本が不安そうな顔をしながら聞いた。
「横山玲子さんが亡くなった日のことですが、私たちの調べで、あなた方お二人はレストラン白い羽に行ったことが分かりました。その証拠もあります。正直にお答えください」
 二人は顔を見合わせたあと、岡本が言った。
「行きました」
「ではそこへ行った理由を教えてください」
 岡本と山内は、もう一度顔を見合わせ、観念したかのように岡本が話し始めた。
「刑事さん、実は僕と山内ですが、以前から交際をしています。それを前提にして聞いてください。それであの日のことですが、金曜日の仕事が終わり、僕たちはデートをしました。この子の車を会社の駐車場に置いて、僕の車で出掛けました。ドライブとかして七時を過ぎたので帰ろうと思い、この子を駐車場まで送って来ました。すると秋山課長の車に横山さんが乗るのを見かけたので(こんな時間にどうして二人が?)と思い、興味本位でつい課長の車を尾行しました。そこで課長の車がレストランへ入ったので、僕たちも行ったという訳です。ただ見つかるとまずいので、店の中には入りませんでした。一時間近く車の中で待っていると、課長と横山さんが店から出てきたので、再度尾行しました。すると課長は会社の駐車場へ入りました。そして車から横山さんが降りたので(なーんだ、何でもなかったのか)と思い、僕たちは別れて帰りました。これで終わりです」
「そうでしたか、では課長の車から降りた横山さんが、その後どうされたのかは見ていないのですね?」
「見ていません」
「それでは、もうひとつ聞きます。二人とも九時から十一時まで、どこにおられましたか?」
 岡本が答えた。
「家にいました」
 山内も同じく「家にいた」と言った。
「ご家族以外で、それを証明してくれる人はいますか?」
「いえ、いません」
 そう答えたので、二人のアリバイは不完全なものだった。
「分かりました。話していただき、ありがとうございます」
 
        八   ライターの指紋
 奥村と池内は署に戻ると、岡本と山内のことを話し合った。
「池ちゃん、二人の話したことは信じてもいいのかな?」
「その前に聞いた秋山課長の話と、つじつまは合いますね。ただ課長が横山さんを降ろして帰ったあと、岡本と山内が横山さんに近づいたかどうかは不明です。本人たちは別れて帰ったと言っていますが、それが本当かどうか分かりません」
「そうだね、二人が横山さんの所へ行き、話し掛けたかもしれないな。ただ二人が横山さんを殺したとすれば、動機は何だろう?」
「男女関係のもつれは考えられませんから、残るは何か知られては困ることを知られたとか。例えば二人が経理の仕事で不正をしていたのを横山さんに知られた、あるいは横山さんも含めて三人が不正をしていたが、彼女だけ『もう止める』と言ったので邪魔になったとか、ばらされたらまずいと思ったか、でしょうね。何の根拠もない飛躍した推理ですけど」
「いや、それも大事なことだと思うよ。ただ名推理をして怪しい人物が特定できたとしても、証拠がひとつもないから任意で引っ張ることもできないし、詳しい話を聞けないな」
「ええ、何かひとつでも証拠がほしいですね。取り敢えず関係者の指紋をもらいませんか?それと鑑識の由紀ちゃんが言っていた座席の位置はどうでしょう?」
「それも不自然だけど、他人が動かしたという証拠がないからな」
「でも由紀ちゃんの推理では何かを落として拾うか、探すために下げたことも考えられると言っていましたよね」
「確かにそう言っていたな」
「奥村さん、どうでしょう、もう一度車の中を徹底的に見ませんか?」
「そうするか、じゃあ今日はもう暗いから、明日の朝から見よう」
「分かりました」
 
 三月十五日、木曜日の朝、出勤してきた奥村と池内は横山さんの車を調べ始めた。しばらくして池内が奥村を呼んだ。
「ここを見てください。運転席の左側にシートベルトが取り付けられてある穴ですが、この中に何か落ちています」
「どれどれ・・・ああ、あるな。何かな?狭い所だが取れるか?」
「やってみます」
 池内の手袋をはめた細い指が何かを持った。
「これは百円ライターですね。縦にすっぽりと、はまっていました」
「横山さんは煙草を吸っていたのかな?」
「それは知りませんが、車内にもバッグの中にも入っていませんでした」
「友人の中村さんに聞けば分かるかもしれないな、電話を掛けて聞いてみるよ」
「私はライターの指紋を鑑識で見てもらいます」

 それから十分後、指紋が出たと鑑識から連絡があった。しかし警視庁のデータベースの中に、その指紋はなかった。
「池ちゃん、横山さんは煙草を吸っていなかったそうだよ」
「やはりそうですか、本人の指紋とも一致しなかったので、第三者で煙草を吸っている人が落としたと考えられますね」
「落としたのに気付いて探したが、見つからなかったのだろう。その時に座席のシートを下げたに違いないな」
「そう考えると他殺の線が濃くなってきます」
「ああそうだな。じゃあさっき君が言っていたように、関係者の指紋をもらおう」
「じゃあ今から行きましょう」
「そうしよう。鑑識の由紀ちゃんを呼ぶよ」

 奥村たち三人は「横山さんの車の中に、ある物が落ちていたので指紋をいただきたいから、協力をお願いします」と話して協力を求めた。家族が落としたのかもしれないので、最初は横山さんの家に行って両親にもらった。次に横山さんが勤めていた会社へ行き、経理部の岡本にもらった。しかし秋山課長は休暇で休んでいるとのことで、もらえなかった。それと念の為にフィットネスクラブの吉田の指紋も、もらった。
「奥村さん、秋山課長はどうしましょう?」
「そうだな、住所を聞いて家にお邪魔しようか?」
「在宅かどうか電話で聞いてみるよ」
 奥村が電話をすると、家に居るとのことだったので、訳を話すと了解を得られたので、すぐ秋山家に向かった。
 
 家に着き表札を見ると、秋山耕司、愛子と書いてある。チャイムを鳴らすと、秋山耕司が玄関を開けてくれた。
「こんにちは、お休みのところを申し訳ありません」
「いえ、それは構いません。さあ入ってください」
 秋山に居間へ通された三人が、部屋の中をきょろきょろ見ていると、お茶を盆に乗せた女性が入ってきて「皆さん、どうぞお座りください」と言ったあと「申し遅れました秋山の家内です」と言った。
 秋山の妻は四十歳を少し過ぎたくらいだろうか?かなり若く見え、子供を産んでいないこともあってか、細身でスタイルも良い女性だ。髪にはパーマを掛けていて、茶系の色に薄く染めていた。
 妻の愛子はテーブルの上に盆を置くと「今日はご苦労様です」と言って、頭を下げた。そして挨拶を済ませると、一人一人の前にお茶を置いた。

 その時だった、池内が(あらっ・・・)というような顔に一瞬変わった。だがすぐに何でもなかったかのように、いつもの顔に戻った。
 そこへ秋山課長が入ってきた。
「秋山さん、外に車が二台ありましたが、奥さんも乗られるのですか?」
 奥村が聞いた。
「ええ乗りますが、家内は運転があまり上手くないので、事故を起こさないかと、いつも心配しております」
 秋山はそう言いながら、笑っていた。
「では早速ですが、指紋の採取に協力願います」
「はい」
 
 採取が終わり課長と奥さんに御礼を言って、もらった指紋を署に持ち帰ると、さっそく由紀が鑑定を始めた。しかしライターの指紋と、関係者の指紋は一致しなかったのだった。
「うーん、誰の指紋も一致しなかったとは・・・」
 奥村が残念だと言わんばかりの顔をして言ったので、池内も返事をした。
「ええ、これじゃライターは誰の物か分かりませんね」
「やっと見つけた物証も役に立たないか?」
「いえ、そんなことはありません。必ず誰かいるはずです。もう一度よく考えましょう」
「事件とは無関係の人が、事件以前に乗ったときに落としたとも考えられるな」
「横山さんが車を買ってから不特定多数の人を乗せていれば、その可能性もありますね」
「じゃあもう一度関係者の中で、横山さんを殺さなければならなくなったという、動機の面から怪しい人物を一人ずつ考えてみようか」
「そうですね、この前も何人かは考えたけど、おさらいしましょうか?」
「まず会社関係で秋山課長から」
「彼は横山さんと浮気をしていたが『結婚してくれないなら、奥さんにばらす』とか言われ(これはまずい)と思って、殺してしまったということはないかな?」
「本人は浮気を否定していますけど、嘘をついている可能性はありますね」
「次は経理の岡本君だが、彼は会計の仕事をしているので、帳簿をごまかして会社の金を横領していた。それを横山さんに知られたので殺した」
「それも可能性はありますが、会計監査があれば、すぐにばれるでしょうから可能性は低いと思います。同僚で恋人の山内さんも同じですね」
「友人の中村さんはどうだろう?例えば同じ男性を好きになって、その男性は横山さんを選んだ。それで中村さんは横山さんを憎んで殺害した」
「いえ、横山さんは亡くなる直前、男性とは交際していなかったと誰もが言っているので、それはないでしょう」
「じゃあ後はフィットネスクラブの吉田さんだ。彼はクラブに来ていた横山さんを好きになり、交際を申し込んだが断られた。それで恋しさ余って憎さ百倍になり、殺してしまった」
「それもないと思います。もしそうだとしたら、横山さんはクラブに行かなくなったと思いますから」
「それもそうだね、じゃあ受付の松山さんという女性はどう?彼女は同僚の吉田さんを好きだったが、彼が客の横山さんと仲良くしているのを見て、嫉妬をして横山さんを憎んで殺した」
「いや、それくらいでは人を殺さないでしょう。絶対とは言えませんけど」
「そうか・・・じゃあ怪しいのは秋山課長くらいか。彼は横山さんが亡くなった時間のアリバイもないからね」
「でも殺したという証拠もありません」
「うーん、これじゃあ誰だか分からんね」

         九   署長のアドバイス
 奥村と池内が捜査の話をしていると、そこに署長が顔を見せた。
 署長の名前は安田満(やすだ みつる)という。一年前に湖北署に移動してきた。階級は警視だが、少しも偉(えら)ぶることなく、署長室を出ては署員と気軽に談笑するので、皆に好かれている。そんな署長が話し掛けてきた。
「丸岡警部から聞いているが、余呉湖の水死体の件を二人で調べているそうだね。それで何か分かったかい?」
「はい、当初は自殺だろうと思っていたのですが、ここにきて他殺の疑いが濃くなってきました」
「それは本当かい」
「まだそうと決まったわけではありませんが、捜査の中で不審な点がいくつか見つかりましたので、引き続き調べようと思っています」
「そうか、今のところ他に事件もないので、急がなくても良いからしっかりと調べてくれよ」
「分かりました」
「ところで丸岡警部は居ないのかな?」
「警部は五時頃に戻ると言って、出掛けられました」
「そうか、何かあったのかな?」
 警部の噂(うわさ)をしていると、ちょうどそこへ丸岡が戻ってきたので署長が聞いた。
「丸岡警部、忙しそうだが何かあったのか?」
「ええ、この奥村と池内から他殺の線が濃くなったと聞いたものですから、私ものんびりと構えているわけにはいかなくて、動いています」
「そうだったのか、今もこの二人には言ったのだが、報告書は急がなくてもよいから、的確な捜査をして自殺か他殺か判断してくれ。もし他殺と決まれば、犯人を見つけて逮捕してくれよ」
「はい、私が出てきたからには、署長も大船に乗ったつもりでいてください」
 
 丸岡警部はいつもの調子で大きな口を叩いているが、結局最後は池内刑事の推理によって犯人の逮捕へと繋がるのだ。しかし警部の部下に対する指導が良いからと思われているので、警部の株も上がっているのは間違いない。
「それじゃあ私からも捜査に関して、ひとつだけ君たちにアドバイスをしよう。事件というのは殺人事件だけでなく色々な事件があるが、どんな事件でも必ず加害者と被害者がいる。加害者とは、もちろんだが犯人を指していて、我々はその犯人を逮捕するのが仕事だ。しかし時として難解な事件もあり、犯人を見つけられない、あるいは犯人に間違いないが、確たる証拠がなくて逮捕できないこともある。そんな局面になったとき、私たちはどうするべきか。そこで私のアドバイスだが、君たちは女性が使っている三面鏡を知っているね。三面鏡というのは正面から見ても見えない部分を、別の角度から映して見えるようになっているだろう。事件も同じで、正面から見えない部分が必ずある。それを見るには三面鏡のように別の角度から見れば、見えない所も見えてくると思うよ。もし君たちが捜査に行き詰ったら、いま私が言ったことを思い出して、捜査に生かしてほしい」
「ありがとうございます」
 警部が礼を言うと、奥村と池内も頭を下げた。
「大したアドバイスではないかもしれないが、今回の事件に生かせなかったとしても、今後の長い刑事生活において、きっと役に立つ日がくると思うから、頭の片隅にでも入れておいてくれたら嬉しいよ。じゃあ私はこれで。もし人手が足りないときは、いつでも言ってくれ」
 
 安田署長はそう言うと、軽い足取りで署長室へと戻っていった。  
しばらく警部を交えて事件のことを話していたが、時計の針が六時を指したので、警部の「今日はもう終わろうか」の言葉で、奥村と池内は帰宅することにした。

         十   池内刑事の推理
 家に戻った池内は、今日の朝からの捜査を順番に思いだして考えていた。
(自分たちは何かを見落としていないか?関係者の指紋が一致しなかったが、関係者はこれで全員なのか?)
 そんなことを考えていると、池内の母が彼女を呼んだ。
「可奈、ご飯を食べなさい」
「は~い」
 リビングに行くと父と母、そして兄が可奈を待っていた。兄の横に座った可奈は、そのとき兄の服から最近どこかで嗅いだ匂いがするのを感じた。
(あっ、この匂い・・・・まさか・・・いやきっとそうだわ。でもどうしてあの人が?・・・・もしあの人が横山さんを殺した犯人だとしたら、動機は何だったのだろう?)

 池内はあれこれと考えて、自分なりに推理したことを、順を追って頭の中で整理した。
(会社の駐車場で横山玲子さんと会い、何か理由を付けて彼女の車に乗り込んだ。そして話をしながら、持参した睡眠薬入りの飲み物を飲ませた。彼女が眠ったのを確かめると、小柄で体重も軽い彼女の体を運転席から助手席へ移して、自分が運転席に座り余呉湖へ向かった。余呉湖へ着くと、横山さんを降ろして湖に沈めた後、車を放置して帰ろうとしたが、ライターが無くなっているのに気付き、もしかしたら車の中に落としたのかもしれないと思い、座席を動かして下を探したが、暗い車内で見つけることはできず、のんびりしているわけにもいかないので、諦めて帰った。座席が下がっていた理由は、それで納得できた。
《うん、待てよ・・・・犯人は車を放置して帰ったということだが、どういう方法で帰ったのだろうか?》
 
 考えられることは、公共の乗り物か・・・電車、バス、それとタクシーのいずれかだ。徒歩でJR余呉駅に行くのは、そう遠くはない。ただ今までの状況からみても、殺害に対して綿密な計画をしていたとは思えない。電車で移動しようと考えて、時間表を調べていたとしても、田舎の電車は一時間に一本あればいいほうだ。時間によっては二時間に一本しかない。それだとへたをすれば、長時間駅で待つことになり、他人に見られるだろう。それと駅に防犯カメラが付いているのは誰でも知っていることだ。カメラを確認されると、ばれるのは時間の問題だから電車ではないだろう。国道まで歩けばバスがある。しかし距離的には余呉駅の二倍はあるので、歩いているところを目撃される可能性が高くなる。それに電車と同じように、バスが来る時間に犯行を合わせることもできないだろう。タクシーは乗車記録が残るので、調べられたら乗ったことが分かってしまうだろうから絶対に使わないだろう。それじゃあ自分の車が置いてある高月の会社まで、一体どうやって戻ったのか?・・・・。
 他に戻る方法なんかあるのだろうか?その方法を解決しない限り、あの人が犯人だと断定することはできない)
 池内は頭の中の脳をフル回転させて考えたが、何も思いつかなかった。

 半ば諦めて寝ようとしたとき、先ほど署内で話してくれた署長のアドバイスを思い出した。池内は自分の部屋に置いてある、さほど大きくもない三面鏡に自分の姿を映した。
(事件を正面からだけではなく、別の角度からも見ると見えない所も見えてくる)
 駐車場で会った横山さんを眠らせて、余呉湖へ連れて行き水死させた。余呉湖で・・・・余呉湖で・・・・。
 そうか、余呉湖か・・・それがポイントなのか。
 横山さんを水死させるのに何故、余呉湖を選んだのかだ。水死を装うのであれば、余呉湖まで行くよりも、距離的に近い琵琶湖でも良かったはずなのに琵琶湖ではなく、なぜ余呉湖なのか?・・・・。
 余呉湖で殺害することにより、何かメリットがあったのだろうか?琵琶湖ではなく、余呉湖にしなければならない訳が。
 池内はその点を、あれこれと考えてみた。そうして出た結論とは・・・・
(もしかしたら余呉湖に土地勘があって、それを犯行後の移動手段に利用したのではないだろうか?)
 そう考えると、余呉湖で殺害した理由も分かる。余呉湖には他の人以上に土地勘があったのだ。

         十一   裏付け捜査
 三月十六日の金曜日、池内は署に出勤すると昨夜推理した犯人の可能性が高い、その人物のことを詳しく調べようと動いた。ただ自分の推理が的外れで、違っていたら恥ずかしいので奥村には話さず、一人で動くことにした。
 そこへ奥村が出勤してきた。
「奥村刑事、おはようございます」
「池ちゃん、おはよう。今日はどこから始めようか?」
「それですけど、私ちょっと調べたいことがあるので、午前中だけ一人で動いても構いませんか?」
「それは構わないけど、危険なことだけはするなよ」
「それは大丈夫です」
「じゃあそうしなさい、僕は署内で事件のことを考えながら待機しているから」
 奥村は池内の言葉に、これ幸い(さいわい)と午前中はのんびりするつもりだろう。
「じゃあ行ってきます」
 池内はそう言うと、ミニパトに乗り署を出た。最初に向かった先は町役場だった。
 中へ入ると警察手帳を見せてから「事件がらみで、ある人物の本籍を知りたいので、戸籍謄本を見せてほしいのですが」と言った。役場の職員も一般の人なら断るのだが、警察官の言葉には逆らえずコピーして見せた。
 そしてその人物の本籍を見ると(やはりそうだったのか)と、心の中で呟いた。
「すみませんけど、この謄本を頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい、但し外部には見せないようにお願いします」
 
 次に向かった先は、今の戸籍謄本に書いてあった人物の本籍だ。そこには十分ばかり走ると到着した。
 玄関のチャイムを鳴らすと、ドアが開いて七十歳前後かと思える家人の女性が顔を見せた。その女性に玄関先で警察手帳を見せると、いぶかしげな顔をしながら「何でしょうか?」と聞いてきた。
「ちょっと聞きたいことがありますので、答えていただけますか?」
「はい」
 自分の知りたいことを女性に聞いた。そしてその女性の返答とはこうだった。
「一週間ほど前の夜でした。時間は十時を回っていたと思います。久しぶりに両親の顔が見たくなったと言って、訪ねてきました。それから一時間ばかり話したあと『車を駅に置いて電車で来た』と言うものですから、私の主人が高月駅まで送りました。主人の話では駅で降ろして、別れたそうです」
 
 その女性の返答により、自分の推理が正しかったことを裏付けできたのだった。これで犯人と思われる人物が余呉湖を選んだ理由と、移動手段の両方が解決できた。            さて次は病院をどうしようか?その人物がどこかの病院、もしくは医院で睡眠薬を処方してもらっているか調べたいのだが、一人で調べるには病院の数が多すぎる。近辺だけならいいが、長浜市内かもしれないので一人では無理がある。さりとて現時点では、多くの人材を使ってまで調べるわけにもいかないので、睡眠薬の件は指紋が一致してからでも遅くはないと思い、今日のところは止めることにした。
 その肝心の指紋だが、何とか採取する方法はないだろうか?指紋の採取は任意なので強制できない。正面から頼んだところで、拒否されたらおしまいだ。もっとも拒否すれば、よけいに怪しくなるが。それよりも恐いのは、疑われていると知ったら逃走するか、最悪自殺でもされたら大変なことになってしまう。

 池内が署に戻ると待機していた・・・いや居眠りをしていた奥村刑事に言った。
「奥村さん、ちょっと相談ですが、本人の許可なく指紋を取る方法はないでしょうか?」
「ああ、池ちゃんお帰り。何か収穫はありましたか?」
 奥村はやはり居眠っていたのか、質問とは違う返事をしたのだった。
「ええ収穫はありました。しかし決定的なものではないので、その人の指紋がほしいのですが、拒否されるかもしれないので別の方法で指紋を調べたいのです」
「そうか、それじゃあこんな方法はどうだ。その人物に君が何かを触らせて、それを持ち帰るというやり方だよ。決して褒められたことではないけど、仕方がないだろう」
「そうですね、じゃあその案で考えてみます」
「その人物は一体誰なんだい?」
「それも今は聞かないでください。もし違っていたら、その人に申し訳ないので」
「そうか、分かった」
 
 池内は奥村の言った指紋採取の方法を考えた。
(まずその人物の所へ行き、世間話でも何でも良いから話をする。そして何かを渡して触らせた後、返してもらう。その何かだが、何が良いだろうか?・・・)
 色んな物を頭の中で思い浮かべながら考えた。
(そうだ、これにしよう)
 心の中でそう呟き昼食を摂ったあと、署を出てその人物の所へと向かった。
「こんにちは、今日は見ていただきたい物があって来ました」
 そう言うと自分の前にいる人物に、先日もらった指紋の鑑定結果が書いてある用紙を渡した。
「これを読んでいただくと分かりますが、先日いただいた指紋と車内に落ちていた物を照合した結果、一致しませんでした。これで横山さんを殺した犯人は別にいる可能性が高くなりました。今日まで不安な日々を過ごされたと思いますが、一日でも早く安心していただきたいと思いまして、ご報告に伺いました。何かと心配をお掛けしまして、申し訳ありませんでした」
 鑑定書を渡された人物は、それを手に取り読み終えると「これで、ひと安心です」と言いながら池内に返却した。

 署に戻るとすぐに鑑識へと向かい、由紀ちゃんに鑑定書を渡し、その人物が指で持った部分を教えて、指紋の採取を頼んだ。
 自分の机に戻ってから約十分後のこと、鑑識から連絡があった。
「池内刑事、先ほどの指紋がライターの指紋と一致しました」
(やはり自分の推理に間違いはなかった。間違いなくあの人が横山さんを殺した犯人だ)
 そう確信した池内は、奥村刑事に全てを話した。
「そうか、池ちゃんよくやったな。ありがとう」
「でも睡眠薬の出所(でどこ)が、まだ分かっていません」
「そうだな、しかしそこまで証拠が揃えば問題ないだろう。念には念を入れるのなら、他の署員にも応援を頼んで見つけてもらうよ」
「そうしてもらえますか」
「じゃあ署長に頼んで、さっそく手配するよ」
 
 するとその結果はすぐに出た。その人物はある病院で、睡眠薬を処方していることが判明したのだった。
「池ちゃん、これで完璧だね」
「ありがとうございました」
「いや、礼を言うのは僕のほうだよ。今回の事件は君が解決してくれたのだから」
「じゃあ今から逮捕に向かおうか?」
「奥村刑事それですが、ちょっと相談したいことがあります」
「何だ?」
「明日は土曜日ですので会社も休みだと思います。そこで関係者全員を同じ場所に集めていただけませんか?」
「どうしてだ?」
「私はその人物が、自白してくれることを一番に望んでいます。そして被害者とその家族に、その場で謝ってほしいと願っているからです」
「うん、君の気持ちはよく分かるが、果たして自白してくれるだろうか?」
「必ずしてくれると、信じています」
「分かった、今回の事件は池ちゃんの功績だから、君の言うとおりにしよう。もし自白してくれなかったとしても、証拠は十分にあるからな。警部にはその旨を僕から伝えて了解をもらうよ」
「よろしくお願いします」
「それで明日集まる場所はどこにする?」
「この事件の原点は全て会社の駐車場にありますから、そこへ来てもらってください。時間は任せます」
「よし分かった」

       十二   事件の真相
 翌日三月十七日の土曜日、午前十時に事件関係者が揃って駐車場に集まった。その関係者とは、秋山課長夫妻、経理の岡本と山内、親友の中村由美、フィットネスクラブの吉田の六人だ。横山玲子の両親も真相を知ってもらうべく、来てもらった。

 集まった八人を前にして、池内刑事が話し始めた。
「皆さん、本日はお休みのところをお呼び立てしまして、申し訳ありません。出来るだけ短時間で済ませますので、最後までお付き合いいただけますように、よろしくお願いします。
それでは本題に入ります。すでに皆様方も御承知のとおり、横山玲子さんが余呉湖で水死体となって発見されました。当初は自殺だろうということでしたが、彼女の金曜日の仕事が終ったあとの足取りや、皆さんの足取り、及び聞き込みをした結果、これは他殺じゃないだろうかとの疑いが強くなりました。
 それをはっきりさせるために、私と奥村の二人で捜査をしたところ、やはり他殺だとの結論に達しました。そして本格的に捜査を開始しました。
 まずは横山さんの車の中を調べることから始めました。すると中から百円ライターが見つかりました。そのライターからは指紋が検出され、煙草を吸わない彼女が持っていたとは考えられなかったので、煙草を吸っている方に協力をお願いして指紋を採取しました。ところがライターの指紋と皆さんの指紋を照合しても、一致する者は誰一人としておりませんでした。
 これはもちろんですが、もし指紋が一致したとしても、それだけで犯人だとは決められません。反対に一致しなくても犯人が他人のライターを使って、自分の指紋を付けずに捜査をかく乱するために、わざと落としていった可能性もあるので、指紋が一致しないことが、イコール犯人ではないと決めつけることもできません。
 そこで私たちは新たな証拠探しを始めました。そしてとうとう新たな物的証拠と状況証拠を見つけました。ただその証拠を話す前に、事件の始まりだったと思える場所、いま皆さんが立っておられるこの駐車場での出来事から、順を追って話をしたいと思います。
 横山玲子さんは五時に仕事を終えると、この駐車場から車に乗り、五時半にそこにおられる吉田さんの勤めている、フィットネスクラブに行かれました。そしてクラブを出たのが七時過ぎです。吉田さんそれで間違いありませんか?」
「はい、そのとおりです」
「ありがとうございます。横山さんはクラブを出たあと、一人で食事に行く予定でしたが、会社に忘れ物をしたのを思い出して取りに行きました。すると駐車場で、ばったりと秋山課長に会いました。課長も友人と食事に行く約束をしておられたのですが、友人に急用ができてしまい家に帰ろうと思って車に乗った時に、偶然横山さんの姿を発見して声を掛けたところ、今から一人で食事に行くとのことだったので、課長は『それなら自分がおごるから、一緒に行かないか』と言って、彼女と行くことに決まりました。

 その時の時間は七時十五分前後でした。そこで彼女は課長の車に乗りましたが、ちょうどそこへ仕事が終わってからデートをしていた経理部の岡本さんと、山内さんが戻って来られたのです。そして横山さんが課長の車に乗り込むのを目撃してしまいました。そこで岡本さんと山内さんは(課長と横山さんが不倫をしているのではないだろうか?)と疑い、興味本位で課長の車を尾行したわけです。
 ところが二人は食事に行っただけで、またこの駐車場まで戻ってきたので、岡本さんも(自分の思い過ごしだったか)と、山内さんを降ろして二人は家に帰りました。

 その時間は八時四十分前後です。少し時間を戻して七時十五分の時、つまり秋山課長の車に横山さんが乗った時間ですが、その時もう一台の車が少し離れた場所に停まっていたのです。そして事の成り行きを、車の持ち主の人は全て目撃していました。
 その人物も秋山課長の車を尾行しようと考えましたが、尾行できるほど運転に自信がなかったので、尾行は断念しました。ただ時間は分からないが、必ずここに戻ってくると思い、この場で待つことに決めました。それから約一時間半後、先ほど話した八時四十分頃に、課長と横山さんが戻ってきました。
 その人物は課長の車から降りた横山さんを確認すると、課長の車が駐車場を出るのを見届けてから、車に乗った横山さんに近づいたのです。そして彼女に声を掛けました。
 何と声を掛けたのかは分かりませんが、その人は横山さんに車に乗るのを許可され、乗り込みました。ここで分かることは、車に乗るのを許されるほどの人物だったということです。つまり横山さんにとっては、見ず知らずの人ではなかったのです。そして乗ったあと話をしながら、持参してきた睡眠薬入りの飲み物を飲ませたのでしょう。その後、彼女が眠ったのを確認すると、彼女を運転席から助手席に移して自分が運転席に乗って、余呉湖へと向かいました。その時の時間は九時半頃だと思います。

 余呉湖へ着くと、眠っている横山さんを車から降ろして湖に沈めました。それは十時頃でしょう。ただ犯人にとって、ひとつ誤算がありました。それは持っていたはずのライターを無くしたことです。もしかしたら車の中に落としたのではないか?そう思い、中を探しましたが暗闇の中では見つからず諦めました。
 私にもそこまでは分かりましたが、そこで推理の壁にぶち当たりました。それは何かと言いますと、犯人の足取りです。横山さんの車を運転してきて、その車を放置したまま移動するには、歩く以外に方法がありません。もしそうであれば、余呉湖からは比較的近い、余呉駅から電車に乗ったのではないかと考えたのですが、今はどの駅にも防犯カメラが設置されています。
 電車に乗ればカメラに映るので、犯人だとばれてしまうから電車での移動はしないだろうという結論に達しました。次にバスですが、余呉湖からだと、バス停までかなり距離があるので、歩いているところを多くの人に目撃される恐れがあります。それでバスにも乗らなかったでしょう。もうひとつはタクシーですが、これもタクシー会社で乗車履歴を調べられたら、すぐに分かってしまいます。 

 では、その人はどうして高月の会社の駐車場まで戻ったのでしょう。その点だけが、どうしても分かりませんでした。そこで私は見方を変えました。それは犯人が、なぜ横山さんを余呉湖まで連れて行って、水死させたのかということです。水死させるのであれば、駐車場から近い琵琶湖でも良かったはずなのに、なぜ余呉湖なのか・・・。
 この駐車場だったら、どちらかと言えば琵琶湖のほうが近かったにも関わらず、余呉湖にした。その理由はもしかしたら余呉湖周辺に土地勘があったのではないだろうかと考えました。そう考えると犯行後の移動手段も、おぼろげながら見えてきました。

 その翌日、私は犯人と思われる人物の戸籍を町役場へ行って、調べました。すると、やはりその人の生まれ育ちが余呉湖に近い村だったと分かりました。ここまでの話の中で、犯人に直接繋がるような証拠は話しておりませんが、いま私の前におられる横山さんの両親を除いた六人の方々の中で、一人だけはこれまでの話を聞いて自分のことを指しているのだと、気付かれたと思います。
 私がどうしてこんな遠回しに話をしているのかと言いますと、それは横山玲子さんを水死させた犯人に、自首してほしいと願っているからです。証拠が揃った今はすぐにでも逮捕できますが、ぜひ自分から名乗り出て、犯した罪の反省をするとともに、横山さんや両親に対して、贖罪の言葉を促したいと思っているからです。分かってもらえたでしょうか?・・・」

 池内刑事は皆にそう聞いたが、しばらく待っても返事が返ってこないので、もう一度言おうとした時、一人の女性が声を上げて泣き始めた。その女性は「私です、私が横山さんを・・・・」と言って、さらに大きな声を出して泣いた。

 泣きながら「私が横山さんを・・・・」と言ったその人物とは、秋山課長の妻、愛子だった。池内刑事は愛子のそばに行くと、彼女の肩に手をやり「よく名乗り出てくれましたね」と言った。愛子は泣きながら池内の顔を見たあと、横山夫妻に向かって言った。
「横山さん、申し訳ありません。私が娘さんを・・・・本当に申し訳ありませんでした」
 秋山課長も驚いて妻に聞いた。
「本当にお前が横山さんを・・・・」
 愛子が泣きながら首を縦に振ったのを見て、妻が殺したと確信した夫は横山夫妻に顔を向けて言った。
「横山さん、私からも謝ります。本当にすみませんでした。謝ったからといって、許してもらえるようなことではありませんが、今の私には謝るしか他に何もできません。申し訳ありませんでした」
 そう言って謝る秋山の姿をじっと見ていた横山夫妻の口からは、ひと言の言葉も発することはなかった。

 池内刑事は愛子から離れ、元の場所へ戻ると、再び話し始めた。
「今、秋山愛子さんが自分が横山さんを殺した犯人だと、自ら名乗り出てくれました。
 そこで先ほどの話の続きをします。私の推理した愛子さんの足取りですが、愛子さんの実家は余呉湖の近くでしたので、横山さんを水死させたあと、実家まで徒歩で行くと何食わぬ顔をして、両親に『急に顔が見たくなったから来た』とでも言われたのでしょう。そして実家で一時間ほど過ごしたあと『電車で来たから帰りは送ってほしい』と言って、実父に頼み高月駅まで送ってもらうと、徒歩で会社の駐車場まで行き、自家用車に乗って帰宅したと私は推測しました。そして実際に愛子さんの実家を訪ねて、お母様に確認したところ『その日、娘が十時頃に訪ねてきて、帰りは夫が高月駅まで送って行った』とおっしゃっていました。」
「愛子さん、私の推理で間違っていませんか?」
「そのとおりです」

「これで愛子さんの足取りは全て分かりました。次は殺害の動機について話したいと思います。愛子さんは初めて会った見ず知らずの横山さんを、どうして殺さなければならなかったのでしょうか?人が人を殺すのは、いくつかの理由があります。通りすがりの突発的な殺人や強盗殺人でないとすれば、男女関係のもつれや金銭関係のもつれによる怨恨、それと何か都合の悪い事を知られたなどです。これらを愛子さんに当てはめた場合、睡眠薬入りの飲み物を用意していたことによって、突発的な殺人ではありません。
 また今まで会ったこともなく、愛子さんの顔も知らない横山さんが、愛子さんの知られては困るような秘密を握っていたとも思えません。金銭関係のもつれも省いて良いと思います。すると残るのは男女関係のもつれになります。

 ではどうしてお互いに顔も知らない二人にも関わらず、男女関係でもつれるのかということです。それにはまず愛子さんの夫である耕司さんが、大きく関わっています。耕司さんは妻を愛し、家庭を大事にする良き夫でした。
 しかし彼は会社員で職場では課長という肩書を持っておられ、同僚や上司、それに部下もいます、また個人的にも友人、知人がおられるでしょう。そんな耕司さんは金曜日だけは自分の時間を持ち、色々な方々との付き合いを大切にされてきました。時には酒を酌み交わすこともあったと思います。
 ただ酒を酌み交わす相手が男性だけなら良かったのですが、場合によっては女性の方々とも一緒に飲まれました。そんな女性の方々が全員、節度を守った酒の飲み方をされていれば良かったのですが、中には歩行困難になるほど飲まれる人もいたと思われます。根のやさしい耕司さんは、そんな女性を放っておいて帰ることなどできませんでした。そこで酔った女性をタクシーに乗せて、家まで送り届けられたのでしょう。さらには肩を抱くようにして、家の中まで連れて入られたこともあったでしょう。しかし耕司さんのその行為は、女性に密着することになります。そうなると耕司さんの服には、女性が付けている香水の匂いが付きます。そうとは気づかない彼が家に帰ると、奥さんの愛子さんが出迎えます。 

 そうして奥さんは夫の香水の匂いに気付くわけです。それが一度や二度なら深くは考えなかったと思いますが、三度四度と重なっていくと、夫に対してある疑惑が生じてきます。その疑惑とは夫の浮気、あるいは不倫です。夫をこよなく愛している妻の愛子さんは、夫の浮気を疑い始めました。しかし本人に聞く訳にもいかず、あれこれと思い悩みながら、ひとつの結論に達しました。それは一度、夫を尾行してみようと思ったことです。

 そしてあの事件が起きた三月九日の金曜日がきました。その日、耕司さんは仕事を終えると一度家に戻り、お風呂へ入って洋服も着替えて、友人と約束した場所へと向かいました。そのとき愛子さんは夫の浮気を確かめようと、車の後をつけたのです。会社の駐車場に着いた夫の車を、少し離れた場所から見張っていると、そこに横山玲子さんが現れました。
 そこで横山さんが夫の車に乗るのを見て、夫の浮気を確信したのです。愛子さんは夫の車を尾行しようと思いましたが、運転に自信がないので途中で見失うだろうと思い、尾行を断念しました。でも横山さんの車が駐車場に残されている以上、ここで待っていれば時間は分からないが、必ず戻って来ると思い、待つことにしました。

 そうすると予想通り、一時間余りして再び夫の車が戻ってきたのです。横山さんが車から降りたあと、夫の車が駐車場を出るのを確かめると、愛子さんはすぐに横山さんに近づき話しかけました。
 それから後の愛子さんの行動は先ほど話したとおりです。愛子さんはこれまでから夫の浮気を疑っていましたが、横山さんを見てそれが疑いから確信に変わりました。もちろん耕司さんは浮気などしていません。全て愛子さんの誤解だったのです。
 しかしそうとは知らない愛子さんは、横山さんに殺意を持ち、実際に殺してしまったというのが、今回の事件の真相です。愛子さんの大きな誤解が今回の事件に繋がってしまいました。何も悪いことをしていない横山さんを殺した愛子さんの罪は、許せるものではありません。しかしそうしなければならなくなった裏には、夫の耕司さんにも責任があります。ひとつば服に着いた香水の匂いです。

 ちょっと考えれば分かることですが、例えば消臭スプレーを持ち歩き、匂いを消してから帰宅するという気配りができたはずです。さらには、たまたま駐車場で会った部下の横山さんのことです。耕司さんが、たとえ友人からキャンセルの連絡をもらったにせよ、その代わりに横山さんを誘うべきではなかったと思います。それも男女一対一での誘いですから。

 三人、四人のグループだったなら問題はなかったでしょうけど、二人だけで車に乗れば、奥さんが疑うのも無理はありません」
「秋山さんは今の私の話を聞いて、どう思われますか?」
「おっしゃるとおりです。私の安易な行動によって、横山さんの大切な命を奪うきっかけを作ってしまいました。そして御両親には大変辛い思いをさせてしまいました。妻が今回の事件を引き起こしたのも、こんな浅はかな行動をした私に責任があります。すみませんでした。それと妻にも苦しい思いをさせました・・・・愛子、すまなかった」
 耕司は妻の肩に手をやり謝った。愛子はハンカチを目に当てて、首を横に振っていた。
 
 そこで池内刑事が秋山耕司に話し掛けた。
「奥さんはこれから取り調べを経て、裁判に掛けられます。そして刑務所に服役されるでしょう。耕司さん、奥さんが刑務所に入られても面会は許されています。これは私からのお願いですが、何度でも面会をしてあげてください」
「はい、必ずそうします。私の今後の人生を掛けて、妻のために時間を捧げたいと思っています」
「横山さんが殺害された動機は以上です。これで私からの話を終わります。皆さん、本日は御足労いただき、また長時間に渡って話を聞いていただきまして、ありがとうございました」
 池内刑事は話し終わると、秋山愛子のそばに行って話しかけた。
「秋山さん、では行きましょうか」

 その時だった、突然、横山玲子の父が池内を呼び止めた。
「刑事さん、ちょっと待ってもらえませんか?」
「何でしょう?」
「秋山さんにひと言、言わせてください」
「分かりました」
 
「秋山さんの奥さん、私たちは娘を殺した犯人があなただと分かったとき非常に腹が立って、怒りの言葉が口をついて出そうになりました。しかしいくら怒ったところで、もう娘は帰ってこないと思うと怒る気力もなくなりました。その後すぐにあなたが謝り、続いて御主人が謝ってくれました。それだけでも少しではありますが、心が癒えました。そこであなたにお願いがあります。先ほど刑事さんが言われていたとおりなら、あなたは刑務所に入りますが、死刑にでもならない限り、いつの日か必ず出所されます。もし出所されたら、一番先に娘の墓前に来ていただいて、手を合わせてやっていただけませんか?そして娘に謝ってください」
「横山さん・・・・・はい、必ずそうさせていただきます。本当に申し訳ありませんでした」
 秋山愛子は横山夫妻に体を向けて、深々と頭を下げた。それと同時に夫の耕司も言った。
「横山さん、私にも玲子さんのお墓参りを許していただけませんか?妻のやったことは、私の軽はずみな行動が引き起こしたことなので、大半は私の責任です」
「分かりました。いつでも参ってやってください」
「ありがとうございます」
 夫も妻と同様、横山夫妻に深く頭を下げた。
 秋山さん、じゃあ行きましょう。
 池内刑事はパトカーの後部座席に愛子を乗せると、自分もその横に乗った。そして奥村刑事が運転をして、湖北警察署へと向かった。

        十三    エピローグ
 署に着いて秋山愛子の身柄を担当者に引き渡したあと、奥村が池内に言った。
「池ちゃん、今日はご苦労様でした。そろそろ昼なので何か食べに行こうか?もちろん僕がおごりますよ」
「わぁー嬉しい、私お腹ペコペコなんです。早く行きましょう」
 
 二人は連れ立って駅前の喫茶店に向かった。店に入って注文を済ませると、奥村が話し掛けた。
「秋山愛子さんに指紋をもらうとき、どうして指紋鑑定書にしたの?」
「それはふたつ理由があるの。ひとつ目は、鑑定書だと文字が書いてあるので、間違いなく手に持って読むと思ったからよ。そして警察の文書だから絶対に返却してくれるわ。ふたつ目は『ライターの指紋と、御主人の指紋が一致しませんでした。奥様も心配されていると思って、ご報告に伺いました』と言えば、家に行った理由として不自然じゃないと思ったからよ。まさか自分が疑われていて、指紋を取られているとは思わなかったでしょうね」
「そうだったのか、うまく考えたね」
「ええ、ただ部外者に見せるのはいけない物なので、警部に許可をもらいました。それより昨日のことだけど、秋山さんの実家に行ったとき、もし愛子さんが両親に『警察が来ても、私はここに来なかったと言って』と頼んでいたら、どうしようかと思ったわ。それと、頼んでいなくても両親が気を利かせて『来ていません』と答えたら、どうすればよいのか分からなくなるところでした。でも愛子さんはどうして親に頼まなかったのかしら?」
「それはおそらく、愛子さんも両親に心配を掛けたくなかったのだろうね。そんなことを頼めば、両親は愛子さんが何か悪い事をしたのではないかと心配するからな」
「そうかもしれませんね。愛子さんは年老いた両親に、心配を掛けたくなかったのでしょう。でもそれが、結果的に大きな心配を掛けることになってしまいましたね」
「そうだね、彼女も夫を愛するがゆえに、夫を恨まず横山さんを恨んでしまったんだ。こんな悲しい事件は二度とないことを願うよ」
「そうですね。それと今日、横山夫妻をあの場所へ呼ぼうかどうか迷っていました。娘さんを殺した犯人を目に前にした両親の気持ちを考えると(呼ばないほうが良いのではないだろうか)と思いましたが、それ以上に愛子さんから横山夫妻に謝ってほしいという気持ちが強くて、呼ぶことに決めたのですが、これで良かったんでしょうか?」
「うん、確かにそこは迷うところだね。でも結果的に秋山さんは横山さんに謝り、さらには娘さんの墓前に手を合わせるという話にまで進展したのだから、呼んで良かったんじゃないかな」
「あの時の横山さん、秋山さんに何を言われるのかと、ひやひやしました」
「愛子さんのことは許せないだろうけど、横山夫妻は人間として素晴らしい人だと思ったよ」
「私も同感です。目には目を、歯には歯をなんて、復讐を考える人だっていないとは限りませんからね。ところで殺された横山さんのポケットに入っていた白い羽は何だったんでしょう?」
「まあ事件に直接関係なかったけど、レストランで二人が一枚ずつ貰ったのを、秋山さんが『いらないから、あげるよ』と言って、横山さんに渡したから彼女は二枚をポケットの中に入れたんだろうね」
「よく落ちずに残っていましたね」
「そうだね、それは多分、横山さんが我々に『私は殺された、犯人を捕まえてください』というメッセージを残そうとして、しっかり身に着けていたんだと思うよ」
「メッセージですか・・・」
「そう、その羽のお陰で僕たちの捜査が大きく進展したのだから、きっとそうに違いないよ」
「奥村さんの考えは間違っていないと思うけど、私の考えは少し違うの」
「どう違うんだい?」
「横山さんは亡くなったけど、彼女の魂は生き残っていた。そしてあの白い羽根を使って、はごろも伝説に出てくる天女のように天に帰ろうと思い、無くさないよう身に着けていたのだと思いました」
「そうか、池ちゃんはロマンチストだね。そういうふうに考えられる君が、僕は好きだよ」
「まあ奥村さんたら。ふふ、私も奥村さんのことは好きですよ」
「それは昼食をおごってくれるからだろう」
 奥村は相変わらず鈍感だ。事件の推理はできても、女心は一生推理できないだろう。
                                
                                     完

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