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第五章 三日目・午後

「……ッキ! リッキ!」
 誰かが僕を呼んでいる。
「リッキ! アイリー! シェレラ!」
 女の人の声だ。聞き覚えがある。最近になって知った声のはずだ。
「しっかりするのです。早く目を覚ますのです」
「リノラナ……?」
「気がつきましたかリッキ」
 まだちょっとぼーっとするけど、無理矢理立ち上がる。僕よりちょっとだけ背が高い、銀色の髪を後頭部で束ねた女の子が、僕の前に立っていた。
「世界を移動する時には意識が朦朧とする、ということは兄さまから聞きました。しかし急いでほしいのです。無理を承知でお願いします。ピレックルは今、危機の真っ直中なのです」
 僕はリノラナの言葉で目を覚ました。
「やっぱりこっちでも黒い霧が暴れているのか?」
「『こっちでも』とは、どういうことですか?」
 僕は『リュンタル・ワールド』での出来事を簡単に話した。リノラナがどこまで理解してくれるかどうかはわからないけど、話さないわけにはいかないし。
「そんなに鎧が似合わないのですか!」
「そこなの!?」
「すみません。それくらいしかわかりませんでした」
 うん。しょうがないか。
「……で、黒い霧は? やっぱり魔獣を支配しているの?」
「詳しいことはわたしはわかりませんが、魔獣が大量に出現したとの知らせを受けています。父さまは騎士団を率いて討伐に向かいました。ですがわたしと兄さまはここに残るように言われました。留守番だとか街や城に何かあった時のためにとか言われましたが……要するに、力不足だから連れて行けない、という意味なのです」
 フォスミロスは本当にヴェンクーやリノラナを力不足だと思っているのだろうか? そんなことはない。理由はきっと「親として、危ない目に遭わせたくない」ということなんじゃないだろうか。
「家でじっとしていても落ち着いていられず、剣の稽古でもしようと思ってここを通ったら、ちょうどリッキたちが姿を現したのです」
「僕たちは戦うために来たんだ。リノラナも一緒に戦おう」
「本当はわたしも戦いたいのです。ほんの少しでもいいから力になりたいのです。ですが父さまに言われたからには、ここにいなければなりません」
 リノラナの話し方はいつものようにはっきりとしていて力強い。でも、ややうつむき加減で伏し目がちな表情が、僕に気持ちを伝えている。いくらフォスミロスに言われたからといっても、そう簡単に割り切って受け入れられるものではないのだろう。
 だとしたら、あいつは?
「ヴェンクーは? ヴェンクーもここにいるの?」
「兄さまはジザに乗って勝手に行ってしまいました」
 やっぱり。
 でもジザに乗って行ったってことは、街を出てすぐの所で戦った僕たちとは違って、だいぶ遠いのだろうか。
「だったらリノラナも僕たちと行こう」
「しかし、わたしは……」
「リノラナがいなきゃ、どこへ行ったらいいのかわからないじゃないか。連れて行ってくれよ。これは、重要な役目だよ」
 本当は場所なんて聞けばわかるんだ。でも、今それを持ち出すのは無粋だ。
「場所なら」
 いや、場所の説明はいいから!
「昨日も行きましたが、ノスロク湖を越えてさらに向こうの」
「あーそんなに遠いの? だったら誰かがドラゴンにでも乗っけてくれないと間に合わないかもなー」
 自分でもびっくりするくらいの棒読みだった。
 でも、それを聞いてリノラナは悩み始めた。
 自分の正直な気持ちと、それと相反する、フォスミロスからの言いつけ。この二つのせめぎ合いは、僕たちがここへ来る前から続いていたはずなんだ。
 ややあって、リノラナは首を縦に振った。
「わかりました。わたしに任せてください!」
 はっきりと目を見開き、迷いのない清々しい顔をしていた。
 リノラナと話している間に、アイリーとシェレラも目を覚ました。戦う準備は整った。


「は、速いな」
 僕たちはジザの母親のジルカの背中に乗っている。僕から見ればジザですら大きくて速いのに、ジルカはさらに大きくて速い。ヴェンクーが「ジザはまだ子供だから」って言っていたのを思い出した。
 梅雨が続いている日本と違って、ピレックルは今日も天気がいい。太陽が真上から僕たちに光を降り注いでいる。
 手綱を握っている鎧姿のリノラナが言った。
「ジルカはわたしでも乗れるほど扱いやすく優秀なドラゴンですが、父さまが乗っているジンヴィオと比べたら全く敵いません。ジンヴィオの速く、高く、雄大で優雅な飛翔の前にはどんなドラゴンも霞んでしまいます。父さまはそのジンヴィオを乗りこなせる唯一の人なのです」
 そんなドラゴンがいるのか。それを乗りこなせるフォスミロスって、やっぱりすごいんだな。
 ただ、この戦いにはフォスミロスは騎士団の人たちと共に馬で向かったのだそうだ。そうしなければ騎士団が置いてきぼりになってしまうし、それはしょうがないだろう。

 ジルカはあっという間にノスロク湖を越え、その先へと翼を広げていく。
 そして、地上に見えてきた光景は……。
 街道を中心に魔獣と騎士が入り乱れての、まさに戦場だった。『リュンタル・ワールド』のバグで発生したイモムシと違って、色が黒くない、普通の魔獣だ。
 ジルカはゆっくりと羽ばたき高度を下げ、地上へと近づいていく。戦場の様子が、よりはっきりと見えてきた。
 猪のような姿をした魔獣がいた。でも体は猪よりももっと大きい。僕とアイリーが戦った三メートルくらいの真っ黒いイモムシを思い出させる。でも猪だけあってイモムシとはスピードが違いすぎる。牙も大きく、突撃をまともに食らったらひとたまりもないだろう。その他にも人よりも大きな蟻や、背中に棘が生えた鰐、尖った大きな角を頭の両側と中央に三本生やしている山羊のような魔獣が、騎士たちと乱戦をくり広げていた。騎士たちは馬から降りて戦っていた。魔獣は馬も人も関係なく襲ってくるからだろう。馬は戦場からちょっと離れた場所にまとめて避難させられていた。魔獣は街道から外れて進むことはないのか、馬を襲う魔獣はいなかった。

 猪の魔獣が一匹、戦場を抜け出して突っ走ってきた。
 街道上に小さな人影が見える。
 あれは……ヴェンクーだ!
 ヴェンクーはナイフを右手に持ち、猛スピードで迫ってくる猪の魔獣の前に立ち塞がった。猪の魔獣はさらにスピードを上げて突っ走ってきた。
 このままでは突撃を食らってしまう!
 その瞬間、ヴェンクーは素早く体を左に半回転させると、右腕を振り上げた。
 ナイフが猪の魔獣の喉元を切り裂き、猪の魔獣は走りながら絶命した。

 ヴェンクーのすぐそばに、ジルカが舞い降りようとしている。
「リノラナ! 何しに来た!」
 ヴェンクーがこっちを見上げて叫んでいる。たぶんヴェンクーからの角度では、ジルカの背中にいる僕たちが見えていないのだろう。
「おい、リノラ……ナ……」
 着地するジルカを見ていたヴェンクーの怒りの表情が、みるみる変わっていく。
「リッキ……それにアイリー、シェレラも」
 ただ呆然と僕たちを見ている。
「言っただろ。また会えるって」
「何ボケっとしてるのよ。らしくないじゃん」
「相変わらず強いのねえ」
 ……シェレラだけなんかちょっとズレたこと言っているような気がするけど。
「本当に……、また来てくれたのか?」
 ヴェンクーはまだ信じられないといった様子だ。やっぱり、一度帰ったら二度と来られないと思い込んでいたのだろうか。
「どうしたんだよ。幽霊が出たとでも思ったか?」
 ヴェンクーは腕を組み、目を瞑った。口を斜めに結んでいる。何か考えているようだ。
「……ユーレイ? なんだそれ?」
 ……リュンタルって幽霊はいないのか?
 とにかく、今はそんなことはどうでもいい。再会を喜んでいる場合でもない。
 僕たちはジルカから降りた。
「戦いに来たんだ。状況を教えてくれ」
「ああ、わかった」
 ヴェンクーの顔つきが変わった。
「ピレックルは元々魔族が住む土地だったから、今でも魔獣や魔族が生まれてくることがあるんだ。深い地の底に魔族の悪しき気が沈んでいて、それが何かの拍子に地上に現れてしまった時に、魔獣や魔族の形になって暴れてしまう。でも現れてもせいぜい一匹、一人だ。カソウセカイで見たような、たくさんの魔獣がうろついているようなことにはならない。普通だったらな」
 ヴェンクーは戦場を見やった。僕も視線を移す。
「ところが、黒い霧が沈んでいる悪しき気を一気に吸い上げたみたいなんだ。それでこの有様だ。騎士団のみんながいくら倒しても、次から次へと湧いて出てきてしまってキリがない。本当は黒い霧はもっと先の方にいるんだ。でもここまで押し込まれてしまった。きっとこの街道を進んで街を、王城を目指しているに違いない」
『リュンタル・ワールド』とは出現場所が違ったってだけで、目指す所は同じか。
「ねえ、フォスミロスさんはどうしたの?」
 シェレラが唐突に言い出した。
 確かに言われてみれば、騎士団を率いているはずのフォスミロスの姿がない。
「父さまなら、もっと先にいる。他の騎士たちはここまで後退させられたけど、父さまだけは一人留まって戦っている」
 これだけの魔獣の大群の中を、一人だけで?
「いくらフォスミロスでも一人じゃ無理だ! 僕たちも行こう!」
「父さまを見くびるな」
 ヴェンクーにしては低く静かな声で、それでいて怒気が籠っていた。
「オレはたった一人の父さまより、ここにいる騎士たちのほうが危ないと思っている。だからオレはここで戦っていたんだ」
「そんなに……強いのか? フォスミロスは」
 僕はごくりと唾を飲んだ。
「当たり前だろ。オレの父さまだぞ」
「リッキ、兄さまの言う通りです。父さまが負けるはずがありません」
 リノラナまでそう言うなんて。どれだけ強いんだ、フォスミロスは。
「だったら私、フォスミロスの戦いを見てみたい! もっと前に行こうよ!」
「アイリー、父さまは見世物なんかじゃ」
「いや、僕も行きたい」
 ヴェンクーが言い終わる前に、僕は言葉を重ねた。
「フォスミロスの戦いを見ることで、お父さんがどれくらい強かったか知りたいんだ。お父さんはフォスミロスに負けないくらい強かったんだろ? ヴェンクーと違って、僕はそれでお父さんの強さを想像することくらいしかできない」
 アイリーも頷いて、ヴェンクーを見ている。
「……わかった。行こう。リッキに、アイリーに、父さまの強さを見せつけてやる」


 僕はジザに乗って、フォスミロスがいる場所を目指して飛んでいる。アイリーとシェレラは来た時と同じくジルカに乗って、後ろからついて来ている。一人と四人よりは二人と三人のほうがバランスがいいとか、そんな簡単な理由だ。
 街道は街の方向へ進む魔獣たちで埋め尽くされていた。初めのうちは騎士たちと入り乱れての戦闘が見られたけど、進むにつれて騎士の数も少なくなり、やがて魔獣だけが街道を埋め尽くすようになってしまっていた。
 昨日も見た、灰色の塔が見えてきた。昨日倒した鳥の魔獣の死骸はもうなかった。ヴェンクーの話によると、魔獣の死骸は朝日が登ると消えてしまうのだそうだ。そういえば大トカゲの魔獣の死骸も見かけなかったな。
 もう少し進むと、前方の空気が黒く濁ってきた。『リュンタル・ワールド』で見たモンスターから抜け出した黒い霧とは、ちょっと様子が違う。
「リッキ、これがたぶんオレが洞窟で見た黒い霧の本体だ」
 今飛んでいるこの場所も、ほんの少しだけ黒い霧の粒が飛んでいる。ちょっと粒子が荒いし、固い。石を粉砕したらこんな感じになるのかもしれない。ヴェンクーが洞窟で黒い霧の流れに巻き込まれて切り傷を負ったのも納得できる。
「そろそろだ」
 ヴェンクーはそう言うと、ジザの高度を下げた。黒い霧の本体が上空に見えるけど、この高さには漂っていない。
 下を見ると、魔獣の群れがいて、そして。
「父さま!」
 ヴェンクーが叫んだ。
 フォスミロスは大剣を振るい、次々と魔獣を倒していた。さっき見たような魔獣だけでなく、大きい体と長い角の牛の魔獣もいたり、ムカデのような魔獣が頭をもたげてフォスミロスを見下ろしていたりしている。でもどんな魔獣もフォスミロスには敵わない。あらゆる魔獣が大剣の一撃で倒れ、死骸となり積み重なっていた。
 これが、フォスミロスの戦いなのか。
 でもフォスミロスがいくら魔獣を倒しても新しい魔獣がどんどん生まれてきて、フォスミロスの横を抜け街への行進の列を作っている。これじゃキリがない。
 見ているだけなんて、我慢できなかった。
 街道からやや離れた草原にジザとジルカが着地した。でも僕は着地する寸前、すでに飛び降りて街道へと走り出していた。走りながらウィンドウを開いて鎧を装備すると、左手に剣を握りしめた。
「フォスミロス! 僕にも戦わせてくれ!」
 山羊のような魔獣が、三本の尖った角をこっちに向けた。僕を突き刺すつもりだ。でもそんなことは許さない。山羊の魔獣が走り出す前に僕のほうから突っ込んでいった。角に当たる寸前に右に進路を取り、すれ違いざまに左腕を伸ばし剣を突き刺した。走り抜けると同時に山羊の魔獣に赤い線が走り、血を吹き出しながら倒れた。
「リッキ!」
 僕に気づいたフォスミロスが、剣を休めることなく僕を呼んだ。
「なぜ君がここにいる!?」
「僕だけじゃない。みんなで来たんだ」
 僕も話しながら魔獣を斬り続ける。
 二頭のドラゴンから仲間たちが降りて走ってきた。ヴェンクーもリノラナも、手当たり次第に魔獣を斬りつけている。アイリーも炎の玉を投げ込み爆発させた。シェレラは……やっと来た。走るのが遅いのは現実世界と同じだ。
「ヴェンクー! リノラナ!」
 フォスミロスは大声で叫んだ。騒然とした戦場だ。声は自然と大きくなる。
 家にいろと言っておいた二人がここにいることを、フォスミロスは怒っているだろうか。でも僕は全員で戦いたい。いざとなったら僕がフォスミロスを説き伏せて――。
「存分に戦え!」
 二人の父親の声が、戦場に響いた。
「「はい!!」」
 返事をした二人は、攻撃の手をより一層速く、強くしていく。最初から迷いなどなかっただろうけど、これで本当の意味で心置きなく戦えるはずだ。
 僕だって戦うんだ。巨大な蟻の魔獣が僕を見下ろしている。『リュンタル・ワールド』にもいるぞ、こういうモンスターは。弱点は手足や胴の繋ぎ目だ。正確に狙って剣を振り、切断する。
 次は……何だこいつは。巨大な鼠のようだけど、長く突き出た鼻の先が錐のように尖っている。角も生えているし、長い尻尾の先がトゲ付きのコブになっている。こんなの見たことない。でも今の僕はそんなこと気にしない。それでも構わず戦うんだ。鼠の魔獣は僕を突き刺そうと突っかかってきた。それを躱し、左腕を振る。剣が鼠の魔獣の肩口を捉える。同時に右の脇腹が衝撃を受けた。鼠の魔獣が振り回した尻尾が当たったのだ。鎧を着ていてよかった。僕はバランスを崩しながらも踏み留まり、鼠の魔獣に二撃目、三撃目を与えて倒した。
「リッキ、伝えなければならないことがある」
 フォスミロスが僕に近づいてきた。背中合わせになって魔獣を斬りながら、フォスミロスは話す。
「七色のコインについて、昨晩調べさせた。あのコインこそが黒い霧を封じるための器だということがわかった」
「それじゃあ、七色のコインさえあれば全部解決するんじゃ……」
「ところが、建国当時のものと比べると、だいぶ力が弱いらしい。なにせ当時からは長い時間が過ぎているし、一度壊れたものでもあるだけに、完全には元通りにはならないのかもしれない。封印を試みてみたが、できなかった」
 本当にそれだけだろうか。本物のリュンタルの希石じゃなくて仮想世界のゲームアイテムなんかで復活させたから、力が弱くなったんじゃないだろうか。
「しかし、これがあるとないとでは大違いだ。これでも少し空が明るくなってきた。このまま魔獣を倒していけば、黒い霧も力を消耗しさらに減っていくだろう。そうなればおそらく封印は可能だ」
 とんでもなく気の長い話だ。他に何かいい方法はないのか。でも今は目の前の魔獣をひたすら倒し続けていくしかない。僕がフォスミロスと話している間も、ヴェンクーとリノラナは魔獣を倒し続けている。
 大きな体と力で押してくる魔獣相手では勝手が違うのだろう、ヴェンクーは昨日とは違ってダメージを負っている。リノラナも鎧のあちこちが凹んだりパーツが取れたりしている。でもシェレラがきちんと回復魔法をかけてくれるから、ずっと戦い続けられている。
 もちろんそれは僕も同じだ。フォスミロスと話している時も、話が終わった後も、ずっと剣を振り続けている。もちろん攻撃するだけじゃなくて、魔獣の攻撃を受けることもあった。鎧がかなりボコボコにへこんでいる。鎧を買っておいて本当によかった。シェレラの負担も減るし、なにより痛さのことを考えるとぞっとする。鎧を着るように言ってくれたリノラナとアイリーには感謝しなきゃ。
 フォスミロス一人で戦っていた時と違って、魔獣に街道を進ませることなくこの場で倒しきることができるようになっていた。さらにアイリーがすでに街道を進んで行った魔獣の背後から追い打ちを掛けるように炎の玉を放ち爆発させている。新しい魔法の杖のおかげで爆発の威力がアップしているけど、魔獣の数が昨日と比べると多すぎてなかなか倒しきれない。何度も何度も繰り返し炎の玉を放ち、徹底的に魔獣を倒していく。
 しばらく戦っているうちに、魔獣の行進の列が完全に途切れた。後ろの騎士たちの負担も軽くなるはずだ。
 そう思ったその時。
 新しい魔獣が生まれてこなくなった。
 黒い霧は、相変わらず上空に浮かんでいて動かない。黒い霧に動きがなければ、僕たちも動きようがない。ここでちょっと一休みだ。


 街道は夥しい数の魔獣の死骸で埋め尽くされている。それを横目で見ながら、草原に座り込んだ。みんな疲れている。ヴェンクーは大の字になって寝転がっている。わざわざ僕から離れた場所に行っているのは……たぶん強がって、疲れ果てたところを見せたくないんだ。でもリノラナがその横に行って座った。二人とも黙っている。話す余裕がないほど疲れているのだろう。こうして余計な口を開かなければ、本当に仲のいい兄妹なのに。
 フォスミロスが肩で息をしながら僕のそばに来た。
「フォスミロスでも、疲れることって、あるんですね」
 僕もまだ息が整っていない。言葉が途切れ途切れになる。
「ああ。久しぶりにいい汗をかいた」
 フォスミロスは背中の鞘に大剣を収め、座った。表情に苦しさはない。せいぜい心地よい疲労といった程度のようだ。
「リッキの戦いを初めて見たが、なかなか良い筋をしているではないか。右と左の違いはあるにせよ、コーヤに似ている」
「たまたまですよ。僕にはそのつもりはないんで。たまたま僕とお父さんが似ているっていうだけです」
 昨日もヴェンクーに言ったけど、その人に合った戦闘スタイルが一番いい。フォスミロスが大剣を使うのも、ヴェンクーがナイフを使うのも、僕が細身の剣を使うのも、それが合っているからだ。
 シェレラがこっちに来て、僕の隣に座った。
「フォスミロスさん、カッコよかったです。あたしも本当はあんな風に戦えると思うんですけど、なぜか上手くいかなくって」
 まだそう思っていたの!? シェレラはどうしてこんなに自分の戦闘スタイルを勘違いしているの?
「もしよかったらあたしの剣の先生になってくれませ――」
 僕はシェレラに飛びついて、背中から腕を回して両手で口を押さえた。
「フォスミロス、シェレラは何も言ってない。言ってないから。はは」
「むー、んんー」
 僕は首を横に振り、笑いでごまかしながら早口で言った。
 フォスミロスは僕の行動にちょっと戸惑っていたようだ。
「リッキ、シェレラ、ピレックルは剣を重んじる国だ。剣を学びたい者には誰にでも門戸を開いている。遠慮することはない」
 違うんだフォスミロス。違うんだ。でも商人の卵のユスフィエと違って、フォスミロスは武人だ。微妙な空気を機敏に察知することができなくても、仕方がないのかもしれない。
「それと……、やはりコーヤを思い出すな。その……」
「はい……?」
 なんだろう。言いにくいことなのだろうか。
「……リュンタルにもいることはいるが、そちらの世界の男は、女の体に触れたり抱きついたりというのは、普通にあるこ――」
「お兄ちゃん! 上! 上見て!」
 魔獣の行進を後ろから追いかけて攻撃していたアイリーが、慌てて走って戻ってきた。空を指差している。
 黒い霧が動き出した。灰色の塔の方向に流れている。
「私たちも行ったほうがいいんじゃないの?」
「でも、あの塔には何もないんだろ? ヴェンクー」
 僕は離れて休んでいた二人のほうを見て言った。
 返事がない。
 仕方がないので、二人の所まで歩いて行く。
「おい、ヴェン……」
 ……僕はその場で固まってしまった。

 ヴェンクーは眠っていた。リノラナの膝枕で。
 力が抜けて少しだけ開いた口からは寝息が漏れ、今にもよだれが垂れ落ちそうだ。
 リノラナはヴェンクーの寝顔を眺めながら、撥ねまくっている緑色の髪の毛を指先で梳いている。
「あ、リッキ、どうしたのです?」
 リノラナははにかんでいる。ちょっと頬が赤い。激しい戦闘で体が火照った後だから……ではないだろう。たぶん。
 他のみんなも集まってきた。
 足音がしたからだろうか。ヴェンクーがもぞもぞっと動いた。
「ん……、んあ……?」
 うっすら目を開ける。上からリノラナが顔を覗き込む。
「母さま……」
 一瞬リノラナの目が大きく開いた。一段と顔が赤くなる。
 ヴェンクーは二度、三度とまばたきをした。リノラナと目が合う。
 次の瞬間、ヴェンクーは跳ね起きた。周りにいる僕たちを見ている。
 ヴェンクーの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「う、うるさい!」
 ヴェンクーが叫んだ。別に、誰も何も言っていないんだけど。
 そのままヴェンクーは走り出し、ジザの大きな体の向こう側に自分の小さな体を隠した。
 僕たちは顔を見合わせた。
「プッ」
 思わず吹き出してしまった。
 そして、それを合図にしたかのように、みんな一斉に笑い出した。
「あはは、ヴェンクー、超かわいい」
「ダメよ、あはは、笑っちゃ、あは」
「わっはっはは、やはりまだ子供だなあいつは」
「兄さまがわたしを母さまと、母さまと(ポッ)」
「やっぱりあいつはどんなに強がっても、あはは」

 ――ドンッ

 体が揺れた。
 大きな地響きが、僕たちの笑いを力づくで止めさせた。
 黒い霧が、塔の真上に漂っている。霧は竜巻のように渦巻くと、塔の先端に触れた。霧は黒さを薄くしていく。まるで塔が霧を吸い込んでいるかのようだ。
「行かなきゃ!」
 僕は叫んだ。


 僕は今度はジルカの背中に乗っている。ヴェンクーが一人でジザに乗って行ってしまったからだ。灰色の塔からは近すぎず遠すぎず、一定の距離を保って飛んでいる。
「フォスミロスも、この塔が空っぽだって知ってるんでしょ?」
「もちろんだ。中には人はもちろん、物も何も置かれていないのは間違いない」
 じゃあ、黒い霧はこの塔に何をしようとしているんだ……?

 地響きは空気を振動させ、空を飛んでいる僕にも大地の異常を伝えていた。
 薄くなったとはいえ、相変わらず黒い霧は塔の上で漂っている。
 灰色の塔は、初めのうちは上のほうを黒く染めていた。それがだんだん下へと移動していき、やがて中央部分が黒くなった。そしてそのまま移動して地面に近づいていき、消えてしまった。今は元の灰色の塔だ。それでもドンッ、ドンッという地響きが止むことはない。
 塔は今にも崩れ落ちそうになっていた。壁のあちこちから石が剥がれ落ちている。元々ヒビが入っていたくらいだし、このままでは本当に崩れ落ちてしまうかもしれない。
 壁がどんどん剥がれていく。このままでは塔は瓦礫の山と化してしまうだろう。

 ウォオオオオオオオオオオオオオォッ

 突然、低い唸り声が大気を震わせた。
「魔獣か!?」
 みんなが一斉に辺りを見回す。
 しかし、魔獣の姿はどこにもない。

 ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオォォッ

 さっきよりもはっきりと、唸り声が聞こえてきた。
 そして。

 塔が爆発した。
 破片が吹き飛んで、僕たちを襲う。ジルカもジザも、急いで遠ざかった。
 僕は後ろを見た。
 視界から遠ざかる、塔があった場所。
 そこにいたのは、巨大な何か。

 犬、だろうか。
 瓦礫を掻き分け、地中から上半身を現す。

 グォオオオォォォォオオオオォォォッ

 吠えた。空気が振動して、瓦礫が舞う。犬と言うにはあまりにも巨大すぎるそいつが前脚を踏みしめる。そこにあった瓦礫が粉々に砕けた。そして地中から下半身が現れ、四肢で瓦礫を砕き、大地を踏みしめた。

 グルルルルルルルルルルルルルルル……

 唸っている。唸り声が大気を震わせ、僕の体を震わせた。

 異様な姿だ。
 背中にはまるで剣のような棘がびっしり生えている。胸や腹からは無数の触手が伸びていて、先端が蠢いている。見ているだけで吐き気がする。
 それになんといってもその大きさ。犬の大きさじゃない。犬どころかあんな大きい動物は見たことがない。『リュンタル・ワールド』のボス級モンスターか、それ以上の大きさだ。牙や爪も大きく、攻撃を食らえば体が串刺しにされそうだ。
 こんな凶悪な魔獣と、これから戦わなければならないのか?

「フォスミロス! あの塔には何もないんじゃなかったの?」
「そうなのだが、塔の地下までは知らなかった。そんな伝承も聞いたことがない」
 建国以前から建っていたくらい古い塔だ。情報が失われてしまったのかもしれないし、そもそも建国当時の人ですら知らなかった可能性もある。フォスミロスは責められるべきではないし、そんなことよりも今はあいつをどうやって倒すのかを考えるべきだ。
 僕たちは地上に降りた。
 巨大な犬の魔獣は、一歩一歩、大地を揺らしながらゆっくりこっちに近づいてくる。
「シェレラ、<分析>取ったんだろ? 頼む!」
 僕はまだまだだ。知らない敵にでも立ち向かえるようになったと思い込んでいた。こんなやつと遭遇するなんて想像できなかった。シェレラは天然でとんでもないことを考えているようで、実は僕なんかよりずっと先を読んでいるのかもしれない。
 シェレラは右手を広げ、顔の前で上から下にサッと振った。
「んー……魔力が溜まっている『(コア)』があるみたい。そこを破壊すれば大丈夫」
「それどこ!」
「背中の色が変わっている部分があるから、そこかな。『核』は体内を移動していて、背中の色もそれに合わせて動くみたい」
 無理だ。背中は棘に覆われている。攻撃のしようがない。

 シュンッ!
 何かが飛んできた?

 横から剣が伸びてきた。“何か”が僕の顔に当たる寸前、叩き落とした。
“何か”は、犬の魔獣の背中に生えた棘だった。
「厄介な攻撃をしてくるな」
 棘を叩き落としたフォスミロスが、犬の魔獣を睨みつけた。
 僕はとっさに反応できなかった。フォスミロスに助けられた。

 犬の魔獣は次々と棘を“送り込んで”きた。棘はまるで一本一本が意思を持っているかのように、僕たちの動きに合わせて方向を変えて飛んできた。最初の一回は反応できずにフォスミロスに助けてもらったけど、来るとわかれば大丈夫だ。タイミングよく剣で弾いた。弾かれても再び襲ってく棘を、斜めに斬る。
 ヴェンクーもリノラナも、同じように飛んでくる棘を斬り落としていた。でもアイリーやシェレラはそうはいかない。シェレラは防護壁(シールド)をドーム状に張り、棘を防いでいる。しかしこれではシェレラ自身も何もできない。アイリーは杖で払いのけようとしていたけど、上手くいかずに棘が腕に刺さってしまった。シェレラはアイリーに回復魔法をかけるために防護壁を解かなければならなかった。このままではいけないのでフォスミロスが二人の前に立ち、飛んでくる棘から守った。フォスミロスの背中からアイリーが飛び出して炎の玉を放ち、またサッと隠れた。触手は近づかなければ大丈夫みたいだけど、棘は離れていても構わず襲ってくる。
 いったいどうやって攻撃すればいいんだ?
 もうデータなんかなくったって、戦えるようになったつもりでいた。でもこいつはそれどころじゃない。弱点がわかっているのに手を出せない。
 僕は攻撃ができなかった。ただ剣を構え、距離を保ち、飛んでくる棘を斬っていた。リノラナも近づけない。ヴェンクーは果敢に突っ込んで行ったけど、すぐに触手が殺到してきて退かざるを得なかった。
 打つ手がない。

 突然、後方から動物が鳴いているような音が響いてきた。まさかもう一匹?
 いや違う。この音はジザの鳴き声を低くしたような感じだ。
 思わず振り返った僕の目に飛び込んできたのは、やっぱりドラゴンだった。
 大きい。ジザやジルカよりも遥かに大きい。スピードも圧倒的に速い。
 遠近感が狂う。本当はまだ空高くにいるはずだ。
「ジンヴィオ!」
 フォスミロスが叫んだ。
 そうか、リノラナが話していたジンヴィオか。どうりで速く、大きいはずだ。
「なぜお前がここにいる!」
 確かにそうだ。リノラナも話していた。ジンヴィオを乗りこなせるのはフォスミロスしかいないと。じゃあ今ジンヴィオに乗っているのはいったい……。
 ジンヴィオがゆっくりと舞い降りてくる。翼が羽ばたき、風が大地を打つ。
 犬の魔獣も動きを止め、自らよりも大きく翼を広げたジンヴィオを見て警戒している。
「誰だ!」
 フォスミロスは剣を構えた。ジンヴィオに誰が乗っているのか、まだ見えない。
 ジンヴィオが着地の体勢に入った。背中の人影が見えてきた。
 乗っていたのは、一人の男……。

 話でしか知らない、細身の長剣を帯びた、白銀の鎧姿。
 あまりにも身近な、よく知っている顔。

「お父さん!?」
「コーヤ!?」
 僕とフォスミロスが、同時に叫んだ。僕もフォスミロスも、頭の裏側から出たような変な声だった。
「よっ」
 よく知っている顔のその人は、よく知っている声で、右手を軽く上げて挨拶をした。間違いない。お父さんだ。
 振り返ると、アイリーもシェレラも呆気にとられていた。ヴェンクーとリノラナもこっちに集まってきて、やはり呆然としてお父さんを見ている。
 ジンヴィオが着地した。お父さんがジンヴィオから降りる。
 お父さんはこっちに歩いてきて、フォスミロスの前で止まった。
「久しぶり」
「コーヤ……」
「ジンヴィオが俺のこと覚えていてくれてよかったよ。素直に乗せてくれたし、『お前の主人の所へ連れて行ってくれ』って言ったら、あっという間にここに来た」
 フォスミロスは剣を下ろし、お父さんの姿を上から下まで何度も首を往復させて見ている。
「なんだよ。そんなにおかしいかよ。リッキたちがまた来たんだから、俺だってまた来ていいだろ」
「それは……そうかもしれんが」
「だろ? リッキもそう思うだろ?」
 戸惑うフォスミロスを横目に、お父さんは僕に同意を求めてきた。
「う……うん」
 僕だって混乱している。自分の意思というよりは、反射的に返事をしてしまった。お父さんは僕たちがまたリュンタルに行くのにあんなに反対していたのに。
「コーヤ、どうして……」
 僕もそうだけど、フォスミロスもうまく言葉が出ない。
「いや、お前がいれば大丈夫だとは思ってたけどさ、何つーか、その……」
 お父さんは視線を少し逸らし、首の後ろを指で掻いた。
「心配じゃん? やっぱ」

 ――少し、間があって。
 フォスミロスがお父さんの鳩尾に拳を叩き込んだ。なんの前触れもなく。
 お父さんはぐらついて数歩後退したけど、倒れずに踏み留まった。
「……ってーな! 何すんだよ! 鎧なかったら死んでんだろ!」
「体が(なま)っていないか試しただけだ」
「……言ってくれるじゃねーか」
 お父さんが剣を抜いた。まさか喧嘩するつもりじゃないよね……?
「お前、なんで俺がずっとジムに通い続けていたか、知らねーだろ」
 フォスミロスがジム通いのこと知ってるわけないでしょ!
「いつかこういう日が来ると、ずっと信じていたんだよ!」
 お父さんは剣を振った……はずだ。
 見えなかった。
 ただ、何かの音がした。あれはさっきまで僕も鳴らしていた音だ。
 だから僕はお父さんの足元を見た。真っ二つに切断された、棘が落ちていた。
 振り返ると、犬の魔獣がまた触手を伸ばし始めていた。それに、棘が何本も宙を漂っている。さっき犬の魔獣はお父さんに挨拶代わりの棘を飛ばしたけど、お父さんはちゃんと反応して、斬り捨てたんだ。
「行くぞ、フォスミロス」
「おう!」
 お父さんは、フォスミロスと二人で犬の魔獣に斬りかかっていった。あんな化け物と戦うのに、二人ともどこか楽しそうだ。
「お兄ちゃん、あれ、本当にお父さんだよね……? なんか雰囲気違うね……」
「うん……、あれは、お父さんだよ」
 昨日の夜、フォスミロスからの伝言を聞いた時のお父さんを思い出した。今のお父さんは、あの時の、二十年前の心を持ったお父さんなんだ。

 お父さんは……強い。
 迫り来る棘を折り、触手を斬り払い、自分の体よりも大きい魔獣の右前脚を斬りつけた。フォスミロスは左前脚だ。フォスミロスはずっと戦い続けているのに、今が一番生き生きしていて、いい動きをしているように見える。さっきまで魔獣に近づくこともできない状況だったのに、今は直接魔獣に攻撃できている。
 普段のお父さんからは想像もつかないけど、これがリュンタル中に語り継がれる伝説の『白銀のコーヤ』なんだ。僕なんか問題にならないくらい、全然強い。
「あたし、なんだかドキドキしてきちゃった。なんでだろう。コーヤさんすごいカッコいい」
「シェレラ、ちょっとよくわからないけど、なんで顔赤くなってんの!」
 隣ではヴェンクーとリノラナが話している。
「兄さま! コーヤ様の戦いを見られるだけでも幸せだというのに、共に戦えるなんて夢のようです!」
「ああ、オレも……」
「どうしたのですか兄さま! 何か言ってください!」
「…………」
 なんだか目がキラキラしている。どうやら感極まって言葉にならないようだ。黙ったまま、また犬の魔獣に突撃していった。

 犬の魔獣はお父さんとフォスミロスを触手で攻撃しつつ、二人の攻撃から逃げるために歩き出した。でも巨体のせいか、ゆっくりとしか歩けないようだ。
 お父さんたちに任せてなんていられない。僕も戦わなきゃ。でもアイリーとシェレラを誰かが守らないと……。
「リッキ、ひとまずわたしがここにいます。正直なことを言うと、ちょっと触手が苦手なのです」
「わかった。リノラナはここにいてくれ」
 リノラナも騎士とはいえ女の子だもんな。できることならあんな気持ち悪い触手に近づきなくはないだろう。
「それと、リッキ」
「ん? 何?」
「鎧姿、似合っていますよ。もうかなり傷んでしまっていますが、それこそが戦った証です」
「ありがとう。リノラナの鎧姿も、似合っているよ」

 僕は飛んでくる棘を斬りながら、お父さんのそばに行った。ちょっと気になることがあったからだ。
「お父さん、お父さんが『リュンタル・ワールド』でプレイしてるのなんて見たことないんだけど?」
 必死で触手を斬り払いながら、お父さんに訊いた。
「そりゃそうだろ。開発者なんだから」
 お父さんも触手を斬っては犬の魔獣自体を攻撃しようとしているんだけど、歩き出した魔獣を攻撃するのに手こずっている。それに、触手は斬っても斬っても次から次へと新しく生えてくるからキリがない。
「だったらお父さんレベルいくつなの? ステータスは?」
「そんなものはない」
「ないって何!」
「今日ここに来るためにアバターだけ作った。それだけだ。前に来た時のことを考えてみろ? ステータスどころかアバターすらなかったんだぞ。それにさっきも言っただろ。なんでずっとジムに通っていたのか」
「ええっとつまり、姿はアバターだけど、生身の肉体の運動機能ってこと?」
「そういうことだ!」
 犬の魔獣が脚を振り上げた。僕とお父さんは後ろに跳んで回避した。
 僕とお父さんの攻撃に危険を感じたのか、触手が集中的に襲ってきた。一旦後方に退くことにした。

「なあお嬢さん」
「は、はいっ」
「えっと……君が、リノラナかな?」
「は、はい、そうですっ」
 退いてすぐお父さんはリノラナに話しかけた。この中でお父さんが会ったことがないのはリノラナだけだ。戦闘中だけど、挨拶でもするのだろうか。
 リノラナはお父さんに話しかけられてだいぶ緊張しているみたいだ。完全に声が上ずっている。
 お父さんはリノラナの横に並んで、肩に腕を回した。
「騎士団に入ってるの? 騎士団には若い男もたくさんいるんだろ? リノラナくらい美しい()には、言い寄ってくるやつも多いんじゃないの?」
「い、いえ、わたしはそんな」
「そうなの? やっぱお父さんが怖いのかなー。俺だったら告白しちゃうけどなー。ああそうだ、今度一緒にお話ししようよ。どっかおいしいお店とか知ってる? 俺、最近のことあんまよくわかんないからさ、教えてよ」
 ナンパしてる!
「とりあえずさ、一緒に戦おうか。このままだとお父さんとお兄さんにあいつの攻撃が集中しちゃうしさ。じゃあリッキ、ここ任せるからよろしくっ!」
 お父さんはリノラナの手を引いて、飛んでくる棘を斬り捨てながら犬の魔獣に向かって行った。
「お兄ちゃん、あの人、本当にお父さん……だよね」
「うん……。だと思うよ……」
 お父さんが、『白銀のコーヤ』が、こんなチャラい人だったなんて……。まあでも『リュンタル・ワールド』でも現実の自分とは違う性格になっちゃってる人はいるだろうから、それと同じと考えれば……。
「コーヤさん素敵!」
「「ええっ!?」」
 シェレラがさっきよりもさらに顔を赤くしている! なんで!
「でもどうしよう、あたしピレックルのおいしいお店なんて知らないし」
「いやいや知らなくていいから!」
 シェレラって年上が好きとか、そういう趣味なのか?
 でもこれ、帰ったらお母さんにどう言えばいいのかな……。お母さんはこっちで何やっていたか聞きたがるだろうけど、やっぱり黙っていたほうがいいよな……。
 ん? 帰ったら?
「お父さんがここにいるってことは、帰る時の『(ゲート)』ってどうやって開くんだ……?」
 僕たち三人は顔を見合わせた。
「…………」
 少しの沈黙。
「お兄ちゃん、もっと前に行こう。お父さんのいる所まで。しっかりガードして」
「わかった。シェレラもついて来てくれ」
「うん。わかった」

 リノラナと一緒に攻撃に行ったお父さんは……さっきまでフォスミロスに首根っこを引っ掴まれていた。たぶんリノラナとの会話が聞こえていたんだ。お父さん、なんか必死に弁解していたみたいだけど……。
 今はすっかり立ち直って、また触手を斬り刻んでいる。リノラナはフォスミロスと共に攻撃をしていた。
「お父さん! お父さん!」
 僕はかなり真剣にお父さんを呼んだ。
「『門』って、どうなってるの?」
「ああ、それなら」
 お父さんは触手を斬りながら説明する。
「今も花壇に開きっぱなしになっている……はずだ。たぶん。もし仮に閉じてしまっても、タイマーで開くようにしておいた。もしタイマーが上手く作動しなかった場合は……」
 なぜか間が開いた。
「……せいちゃんが手動で操作する」
「「「ダメじゃん!」」」
 僕だけでなく、アイリーとシェレラも声を揃えて叫んだ。
 お母さんは極度の機械オンチだ。『リュンタル・ワールド』じゃなくって、別のどこかの世界に飛ばされそうな気が、いや気というより確信に近いものがある。
「しょうがねーじゃん! 他に誰もいねーんだから!」
 それはそうかもしれないけどさ!
「……お父さんを、信じていいんだよね?」
「……たりめーだろ! 俺を誰だと思ってるんだ。『白銀のコーヤ』だぞ」
 お父さんはさらに踏み込んで、犬の魔獣を直接斬りつけた。
 僕たちは魔獣の横に回りこんだ。アイリーが魔獣の右脇腹に炎の玉を爆発させた。これまで遠くにいて思うように攻撃できなかったこともあって、アイリーはここぞとばかりに立て続けに炎の玉を叩き込んでいる。
 魔獣が苦しがっている。大きく吠え、逃げるように歩き出したけど、ゆっくりとしか歩けないから僕たちの攻撃を全く躱せない。

 歓声が聞こえてきた。
 騎士団の人たちが、馬に乗って駆けつけてきた!
 黒い霧が魔獣を生み出すのを止めたことで、やっと街道での戦闘が終わったんだ。
 これで一気に優勢になった。さすがにこれだけの人数がいれば、犬の魔獣に勝てるだろう。

 塔があった場所の上に漂っている黒い霧が、ゆっくりと移動し始めた。
 まだ何かあるのか?
 黒い霧は街道の上を、街とは逆の方向へと流れていく。
 犬の魔獣との戦闘に集中していて、気がついていない人も多いようだ。
「リッキ!」
 ヴェンクーが僕を呼んだ。
「嫌な予感がする。一緒に来てくれ」
 ヴェンクーは黒い霧の動きに気がついていた。ジザに乗り、黒い霧を追った。

   ◇ ◇ ◇

 街道は途中で枝分かれしていた。他国へと繋がる大きな街道ではなく、細い道の、鬱蒼とした山の中へと伸びる道の方向へ、ジザは飛んでいる。道の先には小さな村があって、その周囲はびっしりと木が生い茂った森が広がっている。小川が流れていて、その上流には大きな湖、さらには滝まである。
「リッキ、ここは、母さまが生まれ育った村なんだ。ただ、訳あって村の人たちは母さまのことをよく思っていない。でも、一人だけ、水の神メネーメの巫女をしているマイレッタという人だけは、村を出て行った母さまのことを心配してくれている」
「そうなのか……。なんか複雑な事情があるんだな」

 ――ボッ

 森の一点が、突然燃え上がった。

 ――ボッ
 ――ボッ

 花が咲くように、次々と鬱蒼とした緑の中に炎が生まれた。
「山火事だ!」
「違うリッキ、あれは火の魔族だ」
「火の魔族!?」
「この辺りは昔は火の魔族が支配していたんだ。だから、草原でたまに魔獣が生まれるのと同じように、この森では火の魔族が生まれることがある。でも同時にいくつも生まれるなんて聞いたことがない」
 見上げると、森の上空には黒い霧が漂っている。
「くそっ、降りる場所がない」
 木々が生い茂りすぎていて、ジザが降りられるような広い場所がない。
 ヴェンクーも僕もどこかいい場所がないか探すけど、見つからない。
 ジザが空中をさまよう。
 すると、いくつかある炎の塊のうち、村に最も近い一つが消えた。
 炎があった場所は焦げた黒い地面へと変わり、人が一人立っている姿が見えた。
「リッキ、あそこに降りるぞ」
 ジザは高度を下げていった。

 ギリギリ、ジザが降りられるだけの広さがあった。
 そこにいたのは、長い金髪を後頭部で結わえた、色白の女の人だった。
「マイレッタ!」
 ヴェンクーがジザから飛び降りた。この人がマイレッタなのか。
「ヴェンクー、来てくれたのね。これはいったいどういうことなの?」
 僕もジザから降りた。
 僕を見たマイレッタの表情が固まった。
「あなたは……もしかして」
 あ、この反応は……。
「僕はリッキって言います。ひょっとしてお父さんに、コーヤに会ったことがあり――」
「キャー!」
 マイレッタはいきなり僕に抱きついてきた!
「やっぱり!? やっぱりコーヤの息子さん!?」
「あ……あの、マイレッタさん? マイレッタさん!?」
「はっ」
 マイレッタは僕から離れると、真っ赤になっている顔で恥ずかしそうに僕の顔をまじまじと見た。
「やっぱり……コーヤにそっくりな顔ね。思い出すわ、あの日のことを」
 こうして話している間にも、森のあちこちから火の手が上がっていた。
「マイレッタ、詳しい話は後だ。今は火の魔族を」
 ヴェンクーが促した。
「そうね。私だけでは手に負えないわ。ヴェンクー、リッキ、あなたたちにメネーメの加護を授けます。一緒に火の魔族と戦ってちょうだい。さあ、剣を抜いて」
 僕は剣を抜いた。ヴェンクーもナイフを手にしている。
 マイレッタが胸の前で手を組み、祈りの言葉を呟いた。剣が次第に白い光を帯びていく。
「火の魔族は普通の剣では斬れないの。でも、水の神メネーメの加護を受けたその剣なら斬ることができるわ」
 僕の剣だけではなく、ヴェンクーのナイフも白く光っている。僕たちは手分けして火の魔族を倒しに向かった。 

 火の魔族は、思っていたより小さかった。一メートルもないような人型の炎だ。炎を吐き出して攻撃してきたけど、全然大したことなかった。一回斬りつけるだけで消えていった。
 黒い霧には、もう力が残っていないのか?
 火の魔族を倒し終わり、僕たちは最初の場所に戻ってきた。
「どうやら、たいしたことなかったようね」
 マイレッタはホッとした表情を見せた。
「本来、火の魔族は生まれてきてもこれくらい弱いのよ。でもあの時はなぜか強い火の魔族が生まれてしまってね、私の力ではどうにもならなくて……」

 ――ゴオオオオオォッ

 森の濃密な緑の屋根を、新たに生まれた炎が突き破った。さっきまでの炎とは比べ物にならない大きさだ。
「まさか、そんな」
 マイレッタが震えた声で空を見上げた。
 火の魔族が、空に浮かんでいる。僕が倒していたのより二倍、いや三倍以上の大きさだ。火の魔族は周囲を見回すと、空に浮かんだまま移動し始めた。滑るように僕たちの頭を越え、さらに進んで行く。
 マイレッタは火の魔族を追って走り出した。
「リッキ、あっちは村がある方向だ。村人が襲われるかもしれない。オレたちも急ごう!」
 ヴェンクーも走り出した。僕も後を追った。

 やっぱり火の魔族は村の中に入ろうとしていた。寸前の所でマイレッタが水で編んだ網を投げて火の魔族の動きを止めている。さらに周囲に霧を発生させて炎を弱めようとしている。
「あの頃の、ミオザを救えなかった私とは違うわ!」
 さらにマイレッタは水の球をいくつも発生させ、火の魔族を取り囲んだ。十個、二十個、三十個……どんどん増えていく。
「弾けろ!」
 マイレッタの声が響き、水の球が一斉に爆発した。
 水飛沫が飛び散り、僕の体にもかかる。
 倒したか……?
 水飛沫が視界を遮って、よく見えない。
 靄の中に、ぼうっとしたオレンジ色が浮かび上がった。
 火の魔族はまだ死んでいなかった。炎の勢いを弱めながらも靄の中から抜け出し、村の中に素早く飛び込んだ。マイレッタがまた水の網を投げたが間に合わない。
 僕たちも火の魔族を追って村の中へと走った。

 火の魔族が頭上の高さをさまよっていた。
 村人たちが逃げ惑っている。『リュンタル・ワールド』で黒いイモムシが街になだれ込んできた時とは違う。これは現実なんだ。絶対に倒さなきゃ。
 火の魔族が村の中の道を移動していく。僕とヴェンクーはその後を追いかけていく。マイレッタは力を使って疲れてしまったのか、やや足取りが遅い。
「ヴェンクー、リッキ、村に旅の商人が来てるの! 彼らを守って!」
 背中からマイレッタの声を聞いた。
 旅の商人? まさか!?
 道の先には広場があった。赤や黄色の幾何学模様で彩られた白い服の人たちが、恐怖を顔に浮かべてこっちを見ている。間違いない。昨日の隊商の人たちだ。顎ひげを生やした隊長や、ユスフィエもいる。北の村に行くって言っていたけど、ここだったのか!
「ユスフィエ!」
 ヴェンクーが叫んだ。
 ユスフィエも僕たちに気がついた。
「ヴェンクー!」
「ユスフィエ! 逃げろ!」
 火の魔族はスピードを増して空中を飛んで行く。走っても走っても追いつけない。隊商の人たちがちりぢりになって逃げていく。でもユスフィエは足がすくんでしまっている。膝をガクガクさせ、その場から動けない。
 火の魔族がユスフィエに迫った。

 フッと、火の魔族の姿が消えた。

 次の瞬間、ユスフィエの全身が炎に包まれた。
「ああああああああああああああああっ!」
 ユスフィエの口から出たとは到底思えないような、重苦しく低い呻き声が上がった。
「ユスフィエーーーーーーーーーーーーッ!」
 ヴェンクーの絶叫が響き渡った。

「そんな……。私はまた巫女の務めを果たせなかったの……?」
 僕の後ろで、マイレッタが力なく膝を地面についた。
 ヴェンクーが振り向き、マイレッタに強い声をぶつける。
「マイレッタ! 弱気になるな! まだできることがあるじゃないか!」
 そしてヴェンクーは鋭い眼光で僕の目を見た。
「リッキ、力を貸してくれ! リッキならできるだろう? 火の魔族に取り憑かれた母さまを、コーヤが救ってくれたように。頼む、ユスフィエを救ってくれ!」
 詳しい話は知らない。でも、ヴェンクーがお父さんのことを『白銀のコーヤ』だと気がついた時にお父さんが言っていたのが、たぶんこれのことだ。
 もちろん、僕の答えは決まっている。
「頼まれなくったってやってやるさ。僕を誰だと思ってるんだ。『白銀のコーヤ』の息子だぞ」
 そう言った瞬間、後ろから何かが飛んできて、炎に包まれたユスフィエにぶつかった。一回だけではなく、次々と何かがユスフィエにぶつかっていく。
 振り返ると、立ち上がったマイレッタが懐から札を取り出し、次々とユスフィエに投げつけていた。ユスフィエの体中に貼られた札が、青白く光っている。苦悶の表情を浮かべていたユスフィエの顔が、若干安らいだ。
「ヴェンクー、リッキ、ありがとう。私が間違っていた。絶望するにはまだ早いわ」

「ヴェンクー、苦しい、助けて……」
「もう少しだ。頑張るんだ」
 僕たちはマイレッタの家を目指している。歩いて一分くらいの近さだけど、ユスフィエにとってはそれでも大きな負担だ。できれば抱きかかえてあげたいけど、炎に包まれた体には触ることができない。
 到着した。なんとかユスフィエは耐えることができた。
 正確には、目指していたのはマイレッタの家ではなかった。その隣に建っている祠だ。
「今のままでは力が足りない。さらなるメネーメの加護が必要なの」
 マイレッタは僕たちにそう言うと、祠の扉を開けた。白い小さな像が姿を現した。
「水の神メネーメよ。どうか力をお与えください」
 マイレッタは胸の前で手を組み、祈りの言葉を呟き始めた。
「ヴェンクー、僕は何をすればいい?」
「祠に魔法陣が描かれているだろう。この村の祖先は白く光る剣で(くう)に魔法陣を描いて火の魔族と戦ったそうだ。同じように、火の魔族に取り憑かれていた母さまを、父さまとコーヤが魔法陣を描いて救ったんだ」
「わかった。今度は僕とヴェンクーが魔法陣を描けばいいんだな」
 僕は祠に描かれた魔法陣の形を確かめた。長さと角度が違う直線と曲線を組み合わせた、かなり複雑な図形だ。
「熱い……ヴェンクー、苦しい、助けて……」
 ユスフィエの体に貼られた札が力を使い果たし、一枚、また一枚と剥がれていく。ユスフィエの呼吸は荒く、足もふらつき、立っているのが、いや、おそらく意識を保っているのがやっとの状態だ。
「くそっ!」
 ヴェンクーはユスフィエの正面に立ち、白く光るナイフを振った。
 速い。なんて速いんだ。まるで動きが見えない。
 空間に白い線が現れ、どんどん描き足されていくことが、ナイフの動きを証明している。
 描き始めの部分が薄く消えかけた時、魔法陣は完成した。魔法陣はグルグルと回転し、白い光をユスフィエに放った。
 ユスフィエの呼吸がやや整い、足のふらつきも少し治まった。
「やっぱり一つだけじゃ足りないか。リッキ、オレと同時に、魔方陣を完成させるんだ」
 ユスフィエの様子を見ながら、ヴェンクーが僕に視線を送った。
 すごい。
 ヴェンクーだからこそ、こんなに速く正確にナイフを操って魔法陣を描けるんだ。
 同じことが、僕にできるのか……。

 ……できるさ。
 僕は左手に剣を握りしめたまま、右手の人差し指でメニューアイコンを二回つついた。
 スキルウィンドウを開く。僕が持っているスキルが表示された。さらに操作を進める。

 <器用> ON

 不器用な人が<器用>のスキルを使ったからって突然ものすごい器用にはなれない。でも僕はモンスターの弱点を正確に突く剣捌きには自信があるし、このスキルを取ったきっかけがそもそもシェレラに手先の器用さを褒められたからだ。僕は元々器用なんだ。だから、これでかなり精密な剣捌きができるようになるはずだ。
 そしてもう一つ、今日リュンタルに来る直前に取ったスキル――。

 <両利き> ON

 これも同じだ。普段右手ばかり使っている右利きの人が<両利き>のスキルを使ったって、いきなり左手を右手と同じように使いこなすことなんてできない。身体的には能力が備わっても脳が感覚を知らないからすぐには対応できず、ちゃんと使えるまでには時間がかかるだろう。でも僕は元々右手もそこそこ使える左利きだ。<両利き>のスキルを使えば、その瞬間から右手も左手のように使えるはずだ。
 リノラナとの朝稽古での経験が生きた。あの時とっさに右手で剣を持って戦ったから、右手でも剣を自由自在に使えたらという発想が生まれた。二つ同時にスキルを使えばそのぶんポイントの消費も早いけど、今こそこのスキルを使う時だ。
 装備ウィンドウを開く。鎧の装備を外した。これで少し動きやすくなった。
 そして、買ったばかりの新しい剣を選択し、右手に持った。左手に持っているこれまでの剣より軽いけどよく斬れる、より上質の剣だ。
 両手の指先で、バトントワリングのように二本の剣を同時にクルクル回した。
 思った通りだ。器用さはもちろん上がっているし、右手も左手のように使える。ヴェンクーのナイフを操るスピードには敵わないけど、二本の剣を同時に使えばきっと大丈夫だ。
 二本の剣を操る僕を見て、ヴェンクーが驚いている。が、すぐに真剣な顔つきになった。
 祈りを続けるマイレッタの背中に目をやる。

 マイレッタが祈りの言葉を終えた。
 剣が帯びていた白い光が、より一層強く輝きだした。新しい右手の剣にも、白い光が宿った。
「準備はいいな、リッキ」
「ああ、始めようか、ヴェンクー」
 ユスフィエはもう限界だ。目は虚ろで、低く潰れた声で、言葉にならない何かを呻いている。
 マイレッタがユスフィエに水の網を掛け、水の膜を張った。
「ユスフィエ、あと少しだけ耐えてくれ」
 ヴェンクーがユスフィエの前に立った。僕は背中側に立ち、二本の剣を構えた。
 僕とヴェンクーは、同時に魔法陣を描き始めた。
 難しい。二つのスキルを使っているのに、間に合わない。描き終わる前に、描き始めの部分が消えてしまっていた。
 また最初から描き始める。さっきよりは進んだ。でもやっぱり間に合わない。
「リッキ、早く!」
「わかっている! わかっているって!」
 魔法陣のことを知っていたヴェンクーとは違って、僕は上手く描けないのかもしれない。でもそんなのは言い訳だ。お父さんだってフォスミロスだって、それでも成功させたんだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
 今度こそ! 今度こそ!
 水の網も水の膜も、とっくに蒸発してしまっていた。マイレッタがまた水の網を放ったけど、瞬時に蒸発してしまった。
 僕が! 僕がやらなきゃ!

 グウォオオオオオオオオオォッ

 ユスフィエが吼えた。
 ユスフィエの体中から、炎が発散される。
 でも、炎が広がることはなかった。

 間に合った。
 ギリギリで僕は魔法陣を完成させた。同時にヴェンクーも完成させた。魔法陣が対になってグルグルと回転し、白く激しく輝いた。光がユスフィエを覆い、炎が広がるのを防いだ。
「ああああああああああああああああぁっ」
 ユスフィエが体を仰け反らせ、絶叫した。
 全身を覆う炎が足元から消えていく。同時に頭上に炎の玉が浮かんだ。ユスフィエの足、腹、胸と徐々に炎が消えていき、頭上の炎の玉が大きくなっていく。最後に頭からも炎が消え、ユスフィエの全身が再び姿を見せた。頭上の炎の玉はだんだん人の形を成していく。
 ユスフィエは気を失い、背中から倒れかけた。僕はしっかりとユスフィエの体を受け止めた。
 ヴェンクーが頭上に浮かぶ火の魔族を睨みつけている。
 火の魔族は、森で見た最初の姿よりはだいぶ小さくなっていた。
 マイレッタが水の球を投げつけ破裂させた。
 僕はユスフィエを地面に寝かせると、ジャンプして白く光る二本の剣で斬りつけた。
 火の魔族は形を歪め、僕とマイレッタから逃げた。しかしもう飛ぶ力が残っていないのか、徐々に高度を下げてきた。
 そこには、白く光るナイフを掲げたヴェンクーが待ち構えていた。
 ヴェンクーが火の魔族を切り刻む。
 火の魔族は、完全に消滅した。

「ユスフィエ! 大丈夫か!」
 ヴェンクーがユスフィエを抱き起こし、くっつきそうなほど顔を近づけて叫んだ。
「ユスフィエ! ユスフィエ!」
「お、おい、そんな乱暴に……」
 僕が思わず声をかけてしまうほど、ヴェンクーはユスフィエの体を揺さぶった。
 ユスフィエはかすかに目を開けた。
「ヴェンクー……」
「ユスフィエ!」
 ヴェンクーはユスフィエの体をぎゅっと抱きしめた。
「よかった……」
 ヴェンクーの頬を涙が伝う。
「ヴェンクー、ありがとう……。でもちょっと苦しいよ」
「ご、ごめん」
 ヴェンクーは抱きしめている腕を緩めた。ユスフィエと見つめ合う。
「オレ、ユスフィエに何かあったらと思うと、オレ、もう、オレ……」
「心配かけてごめんね。でも私はもう大丈夫」
「うん。本当によかった」
 ヴェンクーはもう一度、しっかりとユスフィエを抱きしめた。

 空がうっすらと暗くなった。
 見上げると、黒い霧が空を流れていた。
「追わなきゃ!」
 僕がそう言うと、ヴェンクーも立ち上がって言った。
「あの方向は……、戻って行くつもりか?」
「戻って行く? どういうことだ?」
「わからない。あの犬の魔獣にさらに力を与えるつもりなのかもしれない。とにかくオレたちも戻って、父さまたちと合流しよう」
「そうだな。いくらお父さんやフォスミロスがいるといっても、黒い霧が何をしでかすかわからないからな」
 僕たちは犬の魔獣の戦場へ戻ることにした。


 なぜか、ジザには四人が乗っている。
 先頭にはもちろん、ヴェンクーが手綱を握って座っている。
 その後ろでは、ユスフィエがヴェンクーの背中に掴まっている。
 そして僕。
 最後に、マイレッタ。
「だって、コーヤが来ているんだったら、会わなきゃいけないじゃない」
 なんで! お父さんと何があったの!?
 振り返ると、マイレッタの頬がうっすら赤くなっている。なんとなく想像がつく……。
 ユスフィエは、ずっとヴェンクーの背中に掴まったままだ。別に掴まってなんかいなくったってジザから落ちることはないんだけど、それは今言うことじゃない。

 ジザは犬の魔獣の戦場に戻ってきた。
 犬の魔獣は、背中の棘をすっかり失っていた。きっと周りを騎士たちに取り囲まれて、棘を放ちまくったのだろう。そして薄い褐色の背中の上を、黒い点が上下左右に動いている。
 これだ。シェレラが言っていた『核』だ。
 上空には黒い霧が漂っている。犬の魔獣を呼び起こし、火の魔族を生み出し、黒い霧はかなり消耗しているはずだ。だいぶ小さく、密度も薄くなってきている。
 その黒い霧が、なんだか震えている。
 そして、だんだん高度を下げてきた。犬の魔獣に力を与えるつもりなのだろうか。
 そんなことはさせない!
「ヴェンクー、ジザを魔獣に近づけてくれ! 背中に飛び移る!」
「わかった!」
 ジザは翼を畳み、高度を下げながら犬の魔獣の真上へと近づいていく。
 黒い霧もジザのすぐ上まで降りてきた。
「追い越されてたまるか!」
 移動している背中の黒い点の軌道が、ジザの軌道と一致した。
「今だ!」
 僕はジザから飛び降りた。
 黒い霧も同時に降りてきて、僕を飲み込もうとしている。
 僕は新しい剣を両手でしっかり握り、真下へと向けた。
 その先には、薄い褐色の背中をさまよう黒い点。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
 細身の長剣が、黒い点の中心に深々と突き刺さった。

   ◇ ◇ ◇

「悪しき気よ! 鎮まれ!」
 フォスミロスが七色のコインを掲げた。コインは七色に輝くと、どんどん黒い霧を吸い込んでいった。コインの力が、黒い霧の力を上回ったのだ。

 見上げると、何も遮るもののない、青い空が広がっている。
 黒い霧は、もう残っていない。
 終わったんだ。
 今度こそ、本当に終わったんだ。

 犬の魔獣は、その巨大な体を横に倒し、無数の触手が生えている胸と腹を晒したまま、息絶えている。背中に生えていた棘や、斬られた触手が一面に散らばっているけど、明日になれば巨大な死骸と共にきれいさっぱり消えてなくなるはずだ。

 ジザが着地し、乗っていた三人がこっちに向かってきた。
「キャー! コーヤ!」
 マイレッタが走ってきた勢いでそのままお父さんに抱きついた!
「うわっ、マ、マイレッタ!?」
 突然抱きつかれたお父さんは、意外と戸惑っている。
「何を驚いているの? 抱きついてほしいって言ったのはそっちじゃないの」
「あ、ああ、確かに、言った覚えはあるけど……」
 僕はもちろん、ここで戦っていた全ての人たちの目が、お父さんに注がれている。
「さすがにこんなに人目につく場所では……。おい、フォスミロス、た、助けてくれ」
「せっかくの再会を邪魔するほど、俺は無神経な男ではない」
 フォスミロスはニヤリと笑うだけで、何もしない。何か思うところでもあるのだろうか?
「お、おい、フォスミロス……。まあでも、悪い気はしないけどな。むしろいい気分だ」
 結局、お父さんは抱きつかれたままだ。
 いつの間にかアイリーとシェレラが僕の横に立っていた。
「お父さん……やっぱり、昔もあんなだったんだね」
「うん……。そうみたいだな……」
「コーヤさん、いつかあたしも……」
「シェレラ! 大丈夫か! 気を確かに!」
「そうだよシェレラ! 今のお父さん、ただのナンパ野郎だから!」
 ただのナンパ野郎って……。アイリー、いくらなんでも言いすぎじゃないか?

 ヴェンクーがユスフィエと一緒に来た。勢いよく走ってきたマイレッタと違って、ユスフィエの体調に合わせたのだろう、ヴェンクーはゆっくり歩いてきた。
 お父さんの目に、その二人が入った。
「やあ、こんにちは」
 お父さんはマイレッタから離れると、二人の前に立った。膝をついて目の高さを合わせ、ユスフィエに話しかけた。
「その服装からするとシュドゥインの子かな? こんな遠い所まで商売に来ているの? 頑張っているんだね。長い旅の間にはいろんなことがあっただろ? 俺も旅したことがあるんだ。もしよかったら俺と一緒にお話ししよ……」
 お父さんの首筋に、キラリと光るものが当てられた。
「ユスフィエに手を出すな」
 ナイフを手にしたヴェンクーが、冷めた言葉を投げつける。
「いくらコーヤといえども、タダじゃ済まないぞ」
 冷たい赤い瞳が、お父さんを突き刺す。
 お父さんはナイフに驚いたのか、それとも気圧(けお)されたのか、その場で尻餅をついた。
「た、ただの、挨拶だよ、ヴェンクー」
 声を震わせてそう言うと、お父さんは立ち上がった。その動きに合わせて、ヴェンクーは上を向いた。
 お父さんはヴェンクーを見つめて、にこっと笑った。
「大事にするんだぞ」
 ヴェンクーはナイフを鞘に収めた。
「言われなくても、わかってるさ」


 戦いを終え、騎士たちが次々と帰り始めている。
 マイレッタはさっきの火の魔族との戦いを、お父さんやフォスミロスに話していた。
「すげーじゃんリッキ! そんな剣の使い方、いつの間に覚えたんだよ!?」
 僕の隣でお父さんが驚いている。お父さんのこのノリ、やっぱりちょっと慣れないな……。
「今スキル使えないからさ。<器用>も、<両利き>も。時間を置かなきゃ。だから、あんまり言わないで」
 僕は囁くように答えた。話が盛り上がって「ちょっとやってみせて」とか言われると困ったことになってしまう。
「ははっ、そうか、まだまだ俺には敵わないってことだな」
 お父さんは僕の背中をポンと叩いた。
 アバターのステータスに、スキル二つを使ってやっとこれだ。生身の身体能力で火の魔族を倒したお父さんには、僕は敵わない。
 そばで聞いていたシェレラが、アイリーから杖を借りて左手で回そうとして落とした。拾ってまた回そうとしている。真剣な目つきで何やってんの。

「ヴェンクー」
 フォスミロスに名前を呼ばれて、ヴェンクーは顔を見上げた。隣にいるユスフィエやリノラナもフォスミロスを見ている。
「俺は、お前のことをまだまだ子供だと思っていた。だが、考えを改めなければならないようだ」
 一呼吸置いて、フォスミロスは続けた。
「どうだ、旅に出てみるか」
 ヴェンクーは何も言わず、何も動かなかった。そして、
「えっ」
 やっと反応した。
「旅に出てみるか、と言っているのだ」
「た、旅に」
 ヴェンクーは左右を見た。リノラナもユスフィエも、ヴェンクーを見ている。
「兄さま! わたしは兄さまにそばにいてほしいです。兄さまは今のままでいいのです。ですが、もっと大人になった兄さまを見てみたいというのも、わたしの正直な気持ちです」
「ヴェンクー! 良かったね! ねえ、旅に出るのなら私たちと一緒に行こうよ。ヴェンクーならお父さんもきっと護衛として歓迎してくれるわ。それに私、もうヴェンクーから離れたくないの。ねえ、お願い」
 ヴェンクーは目を閉じて何かを考えている。これまでのように、腕組みをして首をひねったりはしていない。
 目を開いた。
「父さま」
 ヴェンクーは父親の目をしっかりと見つめている。
「ありがとうございます。オレは旅に出ます。必ず成長して、もっと大人になって帰ってきます。そして……オレはもう、父さまのような騎士にあこがれたりはしません」
 フォスミロスの眉がピクリと動いた。リノラナも驚いて目を見開いた。
「もちろん、人間として、息子として、父さまを尊敬しています。ですが、父さまのような大きな体でなくても、大剣を振るう騎士になれなくてもいいんだと、オレはこのまま小さな体でもいいんだと、思えるようになりました。オレは、父さまを追いかけるのではなく、オレはオレとして成長して、人々のために役に立ちたいと思っています」
 ヴェンクーは、隣に立っている、自分よりもちょっとだけ背が低い商人の娘を、背中から抱きしめた。
「ユスフィエのおかげです。ユスフィエがオレに教えてくれました。……ありがとうユスフィエ。本当にありがとう」
「ヴェンクー、じゃあ、旅も私たちと一緒に」
「いや、オレは一人で旅に出る」
 ヴェンクーは抱きしめていた腕を解いた。
 ユスフィエは後ろを振り向いた。
「ヴェンクー、どうして」
「知らない場所で、自分がどれだけのことができるのか、試してみたいんだ。もちろん、旅先で出会った人たちの助けを借りることになるだろうけど、そういう人たちに感謝をしつつ、自分の力で成長したいんだ」
「そっか……。また、別れなきゃならないんだね」
 ユスフィエはまた前を向き直した。少しだけ俯く。
「旅が終わったら、ピレックルに帰って来るんでしょ?」
「ああ、もちろん帰って来るさ」
「私もまたいつか、何年先になるかわからないけど、ピレックルに戻って来るよ。もしその時、ヴェンクーが旅を終えて帰ってきていたら」
 ユスフィエはくるりと後ろを向き、ヴェンクーと正面から向き合うと、両手を取って握った。
「私もそこで旅をやめる。だってもう別れたくないもの。ずっと、一生、一緒にいたいの。ねえいいでしょ、ヴェンクー」
「オレは……そんな、先のことなんて、わからないさ。わかってたらつまんないだろ。旅がいつ終わるのかもわかんないんだし。でも」
 ヴェンクーはユスフィエの両手を握り返した。
「一つくらい、わかっててもいいのかな。……オレも、いつかはユスフィエと一緒に暮らしたい」
 小さな二人が、お互いを抱きしめた。


 騎士たちはもうみんなこの場を後にし、帰路についている。
 僕たちも、街に戻ることにした。
 ジルカにはリノラナとアイリー、シェレラが乗っている。ジンヴィオにはフォスミロスとお父さんだ。フォスミロスが乗ってきた馬は……騎士の誰かが連れて帰ってくれたはずだ。たぶん。
 僕はジザに乗って、ヴェンクーと一緒にユスフィエとマイレッタを村に送り届けてきた。隊長であるユスフィエのお父さんだけでなく、隊商の人たちみんながヴェンクーとユスフィエの将来の誓いを聞いて驚いていたけど、同時に歓迎もしてくれた。特に隊長は「あの伝説の英雄フォスミロスと親戚になれるなんて」って大喜びしすぎて気絶しそうだったし。

 そして。
 街に戻る前に、寄って行かなければならない場所があった。


「これか……」
 フォスミロスの大きな指が、石版の裏の七角形のくぼみに、七色のコインを嵌め込んだ。
 石版が七色の輝きを放った。
 光が収まると、七色のコインは石版と一体化し、継ぎ目がわからなくなっていた。

 僕たちは、黒い霧が封印されていた洞窟の奥に来ていた。
 ここで全てが始まり、そして今、全てが終わった。

「俺が迂闊だったために、このような大騒動になってしまった。ピレックルの騎士団長として、反省せねばならん」
「それを言うなら俺だって同じだ。俺だって二十年前にここに来た時、何も思わなかった」
「コーヤ、お前はリュンタルの人間ではない。古い歴史のことなど気にすることは……」
「だーかーら! 俺は余所者だけど、リュンタルの人たちを思う気持ちはお前と同じだ。何度も言わせるな。忘れたのか?」
「……そうだったな。すまん」
「ま、お前だけが悪く思うことじゃないってことさ。それに、悪いことだけじゃなかったしな。いいこともあった」
「どういうことだ」
「おかげで、俺はまたお前に会えた」
 そうなんだ。この石版が壊れなかったら、僕はリュンタルに来ることも、リュンタルのみんなと会うこともなかったし、そもそも『リュンタル・ワールド』の元になった世界があって、お父さんがそこに行っていた過去があったなんて、知ることもなかったんだ。
「僕も、石版が壊れて良かったんじゃないかって、実は思ってる」
「私もだよ」
「あたしも思ってた」
 僕だけじゃなかった。アイリーもシェレラも、みんなそうだったんだ……。
「俺とお前らを一緒にするな!」
 お父さんが僕たちを睨み、そして叫んだ。
「俺なんか一年もリュンタルにいたんだぞ! また行きたいと思いながら、二十年も待ったんだぞ! 一番リュンタルに行きたかったのは、この俺だ!」
 お父さんの思いが爆発した。
「ご、ごめんなさいお父さん、僕はそんなつもりじゃ……」
 僕を見て、お父さんははっとした顔つきになった。
「……いや、俺が悪かった。つい怒鳴り散らしてしまった。……用事は済んだんだし、外に出ようか」

 洞窟の外には、ジザ、ジルカ、ジンヴィオの三頭のドラゴンが待っていた。
 初めてジザを見た時を思い出す。今と同じように、夕日に照らされて赤い体がさらに赤く染まっていた。
 たった二日前のことなんだ。


 僕とヴェンクーの二人を乗せたジザは、ゆっくり街へと向かっている。
 この空も……、これが最後なんだ。
 ジザ、お願いだ、もっとゆっくり飛んでくれ。

 その思いも虚しく、城下町が、王城が、次第に大きく僕の目に映っていく。

   ◇ ◇ ◇

 僕たちが初めて来た時と同じ、いやそれ以上の豪華な夕食が、僕たちを待っていた。
「昨日もちゃんと準備していたんですよ。それなのに急に帰ってしまうんだから」
 ミオザがちょっと拗ねたように言っている。
「いやーごめんごめん。なんせ事情がよくわかんなかったからさ。子供たちを責めないでくれよ。俺も向こうで頑張ってたんだぜ?」
 お父さんとミオザは、お互い再会を喜んでいる。お父さんはノスルアザラシのステーキを食べながら、ザサンノの実で作ったお酒を飲んでいる。『リュンタル・ワールド』にもザサンノ酒はあるんだけど、プレイヤーが未成年だと買うことができないシステムになっている。もちろん僕は飲んだことがない。
「だってコーヤが帰った時だっていきなりだったじゃない。なんの挨拶もなしで。でもまた会えたから、許してあげる」
 ミオザは青菜の漬物に赤い胡麻のようなものを振って食べている。初めて見た料理だ。どんな味なんだろうか。
 フォスミロスがちょっと恐そうな視線を二人に送っている。お父さん、ミオザ、早く気づいて!
「リッキたちは今日はどうするのですか? 泊まっていくのですか?」
 リノラナが根菜のスープを飲みながら尋ねた。リノラナは僕たちの世界のことをほとんど理解できていないから、こういうことを訊いてくるのも仕方ない。
 つらいけど、答えなきゃ。
「僕たちは、今日中に帰らなきゃならない。そして……もうリュンタルには戻って来れない」
 賑やかだった食事の席が、しんと静まり返った。
「僕だって嫌なんだ。本当は毎日だって来たいんだ。でも、無理なんだ。できないんだ」
 涙が溢れそうになる。
 これ以上、言葉が出ない。
「やっぱり……ダメなの? お父さん」
 アイリーの声も表情も、いつもの元気がない。
「こればっかりは仕方がない。事故が起きてからでは遅い。今日だって、事故が起きる可能性がなかったわけじゃない」
 お父さんは、『白銀のコーヤ』から、ゲーム開発者の沢野巧也に戻っていた。
「それに、この二つの世界はつながっていないのが、本来の形なんだ。それを人間の欲で無理矢理つなげてはいけないんだ。きっとどこかで歪みができてしまうだろう。それをわかってほしい」
「うん……。わかってるよ。大丈夫」
 アイリーは笑顔を作った。
 それでもやっぱり、空気が重い。
「ねえ、それ何? その、どら焼きの天ぷらみたいなの」
 突然シェレラがテーブルを指差して言った。
 確かにそう言われてみれば、小ぶりのどら焼きのようなものに衣がついていると見えなくもない料理があるけど……。
「シェレラ、スロンピ知らないのか? 食べてみろよ」
 ヴェンクーがそのスロンピとかいう料理を一つ皿に取って、シェレラに渡した。
 シェレラがかぶりつく。
 途端に、シェレラの顔が墨を塗ったように黒く染まった。
「中に黒いスープが詰まってるから、吹き出さないように注意して食べろよ……って、もう遅いか」
 ヴェンクーは腹を抱えて笑った。
 僕もつられて笑ってしまった。僕だけでなく、みんなが笑っていた。
「ひどーい」
 そう言いながら、シェレラも笑った。

   ◇ ◇ ◇

 外はすっかり暗くなっていた。

 花壇の土が、荒いドットのようになっていた。
 どうやらお母さんの出番はなさそうだ。

 本当に、別れの時だ。

「リッキ」
 ヴェンクーからは、初めて会った時の子供っぽさが、どこか消えているように見えた。
「オレは明日から旅に出る。旅先で出会った人は、その時限りの出会いかもしれないけど、もしかしたらまた会うこともあるだろうって、オレは思うんだ。だから」
「ああ、わかってる」
 昨日とは違う。
 本当に会えないんだって、もうここには来られないんだって、わかってる。
 それでも。
「いつかきっと、また会えるさ」

 僕と、アイリーと、シェレラと、そしてお父さんは、花壇の土に手を伸ばした。
 ドットが花壇に広がっていく――。

しおり