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第8話 近所で迷子

 東京へ帰ろう。一刻も早く都会の喧騒に紛れたい。もともと、冬休みに実家に帰る予定だった。それが冬休みの初日から異常な事件の連続で、すっかり忘れていたのだ。
 出たい。この町を。この町が怖い。時夫はともかく一刻も早く離れたかった。時夫はアパートで荷物をまとめると、雪絵を連れてT字路を左に曲がり、まっすぐに恋文駅へと向かった。だが、普段静かな駅前商店街がざわついている。何が起こっているのか、不安がよぎる。見たくもない白彩を通り過ぎ、駅に近づいてみると、路線の全面ストで電車が動いていない。労使の激しい抗争が続いていて町は騒然。線路伝いに建設中の大きな建物まで歩いてみる。怒号が飛び交う。恋文交番も駅の方へ出払っていた。
「電車、動いてないみたいですね」
 バスはどうだろう。何と電車の系列会社なので一緒にストに参加しているようだった。タクシーは駅前に一台もいない。大通りを睨みつけてタクシーが通るのを待つ間、時夫は白彩から茸店長が出てくるのではないかと気になってイライラした。雪絵も不安げだ。五分後、タクシーが通りかかったが、必死なサラリーマン達の剣幕に負けた。どうやら人待ちしているらしい人々は、全員タクシーを待っている。数十人くらいの人間たちが、誰も並んでなどおらず、殺気立っている。彼らに勝つ自信はなかった。これじゃ、タクシーが駅前に戻って来てもいつまた店長に襲われるのではないかと思うたび、時夫はぞっとした。駅前で棒立ちしてタクシーを待つのは安全じゃない。
 二人は走って一度アパートへと戻り、自転車に二人乗りして、ひたすら走る作戦に変えた。無論のこと車など持っていないからこれしかない。前に近所で迷子になったときは夜だったから迷っただけだ。ともかく、異常なことが起こっているのはこの恋文町だ。少なくとも市外に出てしまえば、こっちのものだ。何も問題はないはずだ。
 だが、どこまでも続く住宅街の迷宮は、いっそう恐ろしい結果をもたらした。二十分は走っただろうか。元の中央通りの公園前に戻ってしまったのだ。前に夜中に近所で迷子になった時と状況はまるで同じだった。
「嘘だろ」
 走っている内に、同じ送水口のある場所を通っている事に気づく。いや、その他の送水口もやけに今日は目に入る。その二つの「口」がおおきな目玉のように時夫を見つめる視線を感じる。
 時夫はかれこれ三度はチャレンジした。恋文町という名の迷宮、いや、それだけではない。最初は気にならなかったが、狭い路地をぎりぎりで走行する巨大トラックのせいで引き返さざるをえず、その後も、同じパターンで巨大ローラーに追いかけられたとき、あまりに不自然すぎる工事の多さに気づいたのである。行く手を阻むカラーコーンや「通行止め」の表示が増えている。無理して突破すれば作業員に文句を言われるだろう。これは、町が自分を外に出さないように自分を妨害しているのだと悟らざるを得なかった。町が妨害している? 平凡な町に過ぎない、ただの恋文町が。
 もはや、この町にあるものは何もかも見たくなかった。地図も持たずに闇雲に走っている自分が愚かなだけかもしれない。それで思い出して時夫はスマフォを取り出した。……通信速度が遅すぎて地図機能が使えない。いつからこのスマフォはこんなに使えなくなったのか。不気味な符号だ。それにしても、一体、この不可解な構造の町はどうなっているんだ。
「こんな事って、あるんでしょうか」
 雪絵も異変を感じているようだった。
「思い出した。確か、もう一つ線路があったはずだ。そんなに離れていなかった」
 しかし今度は、焦っているせいだろうが、幾ら走ってもどこにあるのか分からない。住宅街に目だってマークになりそうなものは何もない。駐車場が目に入った。そこに……、

「月極」

 ……読めねぇ。
「本当に、脱出できないぞ……」
 結局恋文ビルヂングに戻ってきてしまった時夫は、自転車から降りて空を見上げた。ふと違和感を感じた。違和感というのは目の前の電線だ。いや、電線なんかありふれたものだ。だが数本が束になって横切るそれは、五線譜のようだと感じられた。特に今それを感じてしまうのは、そこにスズメが音符のように沢山乗っかっているからだった。まるで、音楽を奏でるみたいな……そう思って凝視した瞬間、時夫はぞっとした。いいや、違う。音符じゃない。
「オ・バ・カ・サ・ン」
 雀たちがカタカナでそう読める配置に、並んでいる。
 クッ……鳥まで自分をバカにしやがる。
「消えろ!」
 時夫が石を投げつけると、雀は一斉に飛び立っていった。つまり、脱出できない時夫と雪絵をあざ笑っているようだ。

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