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走る幽霊


――――走る幽霊

 火曜の朝。下駄箱に入っていた物を見てぎょっとした。
『立野、キサマをゆるさん。中庭に来い。タイマンだ』
 怒りの筆致でそう書かれたノートの切れ端。手にしたまましばし固まってしまう。
 タイマン……? 嘘だろ? 一体誰がこんなことしたか知らないが、ケンカなんて冗談じゃない。痛いし、こわいし、ほら、争いは憎しみしか生まない。うん。暴力は反対。
「まじかぁ……」
「タッチーおはよう」
 不意にかけられた声に驚く。果たし状がひらりと床に落ちた。
「あれ?」
 それを見た江藤さんが首を傾げる。俺は慌てて果たし状を拾い上げた。
「おう……! おはよう」
「それ何? 中庭に来いって書いてあったけど、ずいぶん強気な呼び出しだね」
 強気……相手は血の気の多い無頼漢か? すました俺が気に食わなかったとか? あー……! どうしたら。
「目良いでしょわたし。さぁほら、はやく行きなよ! 女の子が待ってるよ、色男はツライねえ!」
 いやいやいや、告白じゃないからな。
「待てよ、まだ心の準備が……」
「だめだよ。向こうは緊張して待ってるんだから」
「強気じゃん」
「己を奮い立たせるための強気だよ」
 江藤さんは俺の背を押す。エントランスホールにある扉の方へぐいぐいと。
 中庭は口の字になった高校校舎に囲われた場所だ。下駄箱のすぐ隣の休憩所にある大きな格子窓からも見える。
「誰もいないみたいだな」
「陰に隠れてるのよ。じゃあがんばってね」
 江藤さんが去っていく。途中で振り向き、はやくいけと言うに中庭に目をやる。へらっと笑って。俺は中庭に出た。
 出てすぐはタイル張り、一段下りてコンクリ。割れた巻き貝みたいなやぐらがあって、西側に架かる渡り廊下の下に花壇。太陽の光はまだ射さない、浅い段々になった石の庭。
 どんなやつがいるのかと思ったが、中から見たようにそこには誰もいなかった。一応巻き貝やぐらの裏も見てみたが無人。どうしたらいいのだろう……。
 俺は色々考えてしまい逃げるに逃げられずに、寒い中庭に一人立っていた。そのうち生徒達の姿がエントランスに見えて、周りの校舎の廊下なんかにも散見された。時が過ぎていく。一向に誰も来ない。
 いたずらか……? そう思った矢先、頭上から声がした。
「おーーい! タッチーー!」
 声を仰ぎ見た。三階の廊下の窓から杉谷さんが顔を出していた。申し訳ないと手を合わせている。隣では江藤さんが苦笑いだ。
「あの果たし状は間違いなのー! 勘違いなんだー! 上がってきていいよ!」
 勘違い? まぁともかく、タイマンなんか張らずにすんだわけだ。俺はホッとして中庭を後にした。
 三階までいくと、自分の教室の前に二人はいた。杉谷さんが何やら楽しそうだ。江藤さんも昨日よりは顔色がいい。少女は……まだいるようだが、随分と透けていた。
「タッチーゴメンね? アタシそれ昨日入れたまま忘れちゃってたのよ。タッチーさ、テストの点数のことで怒ってると思ってたのよ。したら放課後タッチーがエッちゃんに詰め寄ってるって情報が入ったからさぁ大変。明日シメてやろう! ってなって」
「別に詰め寄ってなんかなかったんだけどね。わたしケータイあんまり見ないから。あとでスギちゃんから着信がいっぱいでびっくりしたよ。ほら」
「おお」
 江藤さんはケータイをひらいて、俺に着信履歴を見せた。スギちゃんからびっしりと電話が来ている。ケータイは、もうちょっと古い型のやつだ。頓着しないらしい。
「なんかユーレイのこと話してたんだって? ってかタッチー、メアド交換しようよ。もしエッちゃんを泣かせたりしたら次はメールで果たし状送るから」
「泣かせたりなんかしねえよ」
 連絡先の交換……もうしばらくそんなことはしてなかった。杉谷さんのメアドなんて必要ない気もするが、断ったら多分面倒な人だろう。俺は大人しくケータイを出した。赤外線通信で連絡先を交換する。
「おー、きたきた。あ、このクラスでタッチーのアドもしかしてアタシが最初にゲットしたんじゃね?」
「そうだな」
「イェーイ。はい、エッちゃんにも送るよ。赤外線はやく」
「赤外線ってどうやるんだっけ」
「だからトップメニューからぁ――――」
 二人が江藤さんのケータイ画面に食い入る姿を眺める。俺のメアドを交換するために話している二人は、廊下の喧騒の一部だ。
「ハイ! これでオッケー! 寒いから教室入ろう。タッチーもほら」
 教室に入るとクラスメイト達の視線が集まった。お喋り好きな杉谷さんが俺の素性を話していく。ところどころ笑いが起こる。
 俺はあっさりとクラスに溶け込んでしまった気がした。今まで俺がしてきた無視の努力はたやすく崩れた。少しさびしくて、戸惑いがあるのに、こうやって無邪気な騒がしさの中にあたたかく迎えられてしまうと無視も出来ない。困ったことに、する気にもなれない。
 ああだこうだと騒ぐ教室に先生が入ってきた。杉谷さんが俺のことを無邪気に話す。
「太田先生きいてよ、アタシが果たし状を間違えてタッチーにやっちゃって」
「なんだなんだ朝から。果たし状? タッチー? いいから早く席につけ」
 先生が顔をしかめる。杉谷さんは喋り続ける。俺は一人自分の席についた。
「でさ、中庭でぽつんとタイマン相手を待ってるわけよ、タッチーが」
「だからタッチーって誰だ」
「タッチーは立野だよ先生! 立野タッチー!」
「立野?」
 先生は片眉を上げて俺を見た。
「そうか。立野もこのクラスに仲間入りしたわけだ」
 その時、俺は凄まじい罪悪感に駆られた。
 田宮先生、俺はもう一度同じことをしようなんて思ってないんです。
「立野のことはわかったから、もう授業始めるぞ。このクラスは遅れ気味だったからな。今回はスピードを上げていく」
 授業が始まる。おさまらない私語が俺を苛む。たまに隣の席の男子に声をかけられる。もう無視も出来なくなってしまった。
 無邪気は無垢と必ずしも手を繋ぐわけじゃない。
 ふっと前を見ると、天井から下がったテレビ台で首を吊る田宮先生が見えた。うるさい教室に向かって虚しい教鞭を振るう太田先生の横で、舌をだらりと垂らし、濁った眼で俺を見ている。
 無言で。
 俺は田宮先生が幽霊なのか、俺自身が作り出したまぼろしなのか区別がつかなかった。


 その日の放課後、杉谷さんと江藤さん、それから軽音部の堤君と阿部君と一緒に駅前に行った。こうやって肩を並べてクラスメイトと寄り道する日が来るなど思ってもなかった。
 横須賀の駅前。ごちゃごちゃとした路地裏みたいに汚らしい表通り。普段俺は来ることはない。江藤さんも、京急線の駅前はあまり来ないだろう。治安も良くない。ただ今日は5人もいることで心強い。
 軽音部の二人がエレキギターの替え弦を買いたいと言うので、まずはじめは楽器屋に入った。壁一面にギターやベースが下がり、店内のでかいBGMに共鳴し出しそうな、騒々しい、それでもどこか胸踊る場所だった。普通の高校生活とエレキギター、どっちも触ることはないと思っていたが、それがすぐそこにある。
「なぁ、立野ってドラムやってるって本当?」
 阿部君がきいた。
「え? いや、やってねえけど」
「なーんだぁ! ただの噂だったか。誰だよ嘘流したの」
「やっぱドラムはそういねぇよなぁ……」
「まーしゃーないわ!」
 阿部君と堤君は、いま軽音部が深刻なドラマー不足に悩まされていることを語った。
「おかしな噂が流れてたんだな」
「そうそう。あっ! じゃあさ、ガラスの心臓のせいでサッカー辞めたとか、実はピアノ留学帰りの帰国子女とか、母さんが声優とか、あと親父がなんか駅伝界で有名人みたいな話もウソ?」
 俺は思わず笑ってしまった。
「ドラマーでサッカーでピアノなんて、多才だな、俺。でも親父が駅伝云々ってのは本当だよ。当時はかなり有望だったみたいだけど、大学出たら普通に働いて結婚したんだ」
 この話には4人とも驚いていた。大したことじゃないとは思うのだが。
「へー、じゃあもう走ってないの?」
 江藤さんがきく。
「趣味でちょっと」
 霊をまくために。そこそこの死に物狂いで。
「ふうん。じゃあうちの前をたまに走るおじさんはタッチーのパパかな」
「いやいやエッちゃん。ランニングしてる人なんてごまんといるでしょ」
「そっかあ。たしかに」
「アンタは……何をもってそう思ったんだか」
 杉谷さんが呆れる。江藤さんはマイペースに話す。
「顔も似てないね? そういえば」
「オレにきかれても困るし」
「ほんと、霊見ちゃう人って変わってるよねェ」
 これには江藤さんとそろって苦笑いで濁した。悪い霊ばかり見てしまうのが、江藤さんは辛いようだ。普通だ。
 俺と江藤さんが見える人というのは、今朝杉谷さんが皆に喋ってしまった。引かれると思ったが予想に反して「すげー」や「いいなぁ」と憧憬の眼で見られる始末だった。俺はすぐにでも見えなくなってほしいが、それでもあの時は戸惑ってしまった。
 楽器屋を出て、次にゲーセンに入った。これも初めてだ。制服でゲームセンターに入るなど不良のすることだと思っていた。江藤さんはさておき、不良っぽい三人はいるが。
「あっ! エッちゃんあれ! あれとって!」
 UFOキャッチャーの前で江藤さんが黄色い声を上げた。
「どれどれ」
 杉谷さんが偉そうな仕草でゲーム機の中に目をやる。指 先には小さいぬいぐるみの山。ひょろっとして間抜け顏のキャラクター……ボーレイちゃんとタグには書いてある。若いモンはこういうのが好きなのか、なるほどな。分からん。
「アタシがとってしんぜよう」
 杉谷さんが小銭を機械に入れた。真剣な目でぬいぐるみの山を観察する。
 もしかして彼女の鞄についているぬいぐるみの群は全てこうして獲った物かもしれない。江藤さんはそれを知っていて彼女にたのんだのか。
「ここを、こう……こう崩す」
 アームが山に爪を立てた。そんなとこ? と思ったが、山は一気に崩壊し、ボーレイちゃんの雪崩が起きた。江藤さんの歓声と阿部君達の感心の声。
「ちょろいもん!」
 胸張る杉谷さんの足元、江藤さんは景品取り出し口に頭を突っ込むようにしてボーレイちゃんをとった。四匹も獲れた。
「杉谷さん得意なんだな」
「暇があれば来てたからねェ。あ、アタシいらないよ。かわいくないもんそれ」
 江藤さんが皆にボーレイちゃんを配ろうとする。
「オレもいいわ、それ」
「おれも。きもいし。変わってんよな、江藤は……」
 三人は断った。
「えー? どうして、こんなにかわいいのに。タッチーにも一匹あげるね」
「いいのか?」
 江藤さんと杉谷さんを見る。杉谷さん達はもう他へ行っていた。
「いいのいいの。どれがいい? ふたりずつね」
 ひとりふたりのカウントなのか、ボーレイちゃんは。
「俺はいっぴ……ひとりでいいよ」
「いいの?! これ? 三人もっ!?」
 江藤さんは嬉しさを隠せない様子だ。ボーレイちゃんを胸に抱えて目を輝かせる。
「じゃあこの子ね」
 ボーレイちゃんをひとり受け取った。おっさん……? がモデルなのだろうか、それとも少女か、いずれにせよよく分からないデザインだ。
「すごくかわいいよね」
「そうだな」
 江藤さんがふっくりと笑う。さっそくボーレイちゃんを鞄につけて、子供をあやすように指で撫でている。
 他の三人と駅で別れ、俺達は二人で帰った。JRの駅の中へ消える江藤さんを見送る。俺はすぐそこの踏切を渡る。ちらりとホームを見ると、いまだごきげんの江藤さんが手を振った。かわいいと思った。
 帰宅して、俺は真っ先に二階の自室へいった。ベッドに横たわり、ボーレイちゃんを眺める。階下で母が呼んでいる。
「帰ったのー? 手洗いはー? うがいはー? ただいまのチューはぁ?」
 チューなんかしねえだろいつも。
「ねーえぇ」
 母さんの声に不安のようなものが混じった。俺は少々慌てて返事をした。
「すぐいくよ」
 どういう感情か分からないが、俺はボーレイちゃんをずっと眺めていたい気がした。ふわふわとした悶々。俺はボーレイちゃんを部屋の明かりから垂れたヒモに結わえた。あえて、首吊りにならないよう足から出たタグと結って逆さ吊りに。バンジージャンプってことで。
「もう、幽霊が帰ってきたかと思ったわよ。ちゃんとただいまって言って」
 一階のリビングにいくと母さんが俺の胸を軽く叩いた。
「鞄を置きにいっただけだよ」
 なぜか、母を見ると心が揺れた。俺はずっと江藤さんのことを考えていた。今は母さんと痛くない気がした。
「鞄、なんで? いつも下に置きっぱなしじゃないの。あっ、もしかして? エッチな本でも買ってきたとか?」
「ちげえよ。ほら、キッチンファイターやるぞ」
「わーい!」
「わーいって……、そんな喜び方する人初めて見たよ」
 その時、玄関で音がした。父さんが帰ってきたようだ。すぐ夕食だ。母さんと出迎えにいく。
「ただいま。いやー、冷えてきたねどんどん」
 いつもは前菜を作ったりと夕食の手伝いをするが、今日は母さんと遊ばないといけない。父さんには悪いが、こっちはこっちのキッチンで闘わせてもらう。
 夕食が出来るまで母さんとキッチンファイターをやった。母さんは憂さ晴らしでもするみたいに猛攻撃してきた。今日は帰るのが遅かった。
 やがて夕食になる。俺はその時ようやく気付いた。いそいそと動き回る父さんの後ろに、腰の曲がった老婆がついているのを。
「ちょっと父さん……後ろ憑いてるよ」
「えっ!?」
「ご老人が……」
「えー……ほんと? なんで今は? 入った時言ってくれよ」
「いや……俺も今気付いたんだよ。ごめん」
「お父さん行っちゃうの? えー、さびしいなぁ」
 早々と食卓についていた母さんが漏らした。
「じゃあお母さんも行こうよ。お母さんもたまには外出ないと」
 出来立ての料理すら冷えたようだった。父さんもしまったという顔をした。
「そうね。わたしが外に出れば問題ないのにね。ちゃんと家事して、ゴミ出しして、お洗濯にベランダに出て、パートもして、お買い物もいけばいいのにね。わたしがいけないのよね」
 窓が開けられたかのように冷気が這ってきた。部屋が冷たくなる。寒いんじゃない。冷たくなった。ヤバい、はっきり言って。
 俺は父さんの後ろを見た。老婆が俯いて立っている。フローリングに溶けていくように、脚が氷のような質感に変化していく。
「ちょっと外に出よう! 父さんは走る支度して。母さん、……母さんきいてる!?」
 母さんは老婆と同じようにこうべを垂れている。ぽた……っと水滴が箸を持った手に落ちた。
「母さん今コート持ってくるから。夜だから大丈夫だよ、俺もいるから!」
 俺は一つ提案をした。父さんには町内をぐるぐると走ってもらう。俺が細かくコースを指定する。俺と母さんは家から距離の近くの、人気のない公園や町角で待機。父さんがそこを通過する度に、次のポイントへ移動する。霊が吹っ切れ次第、三人で帰ろうと。
「分かった」
 父さんはもうストレッチを始めていた。俺は頭の中に町の地図を広げ、コースを組み上げていく。頭をフル回転させる。母さんはあまり歩かせられない。近場、静か、でも父さんを遠くからすぐ見つけられるところがいい。
「それじゃあコースは――――」
 父さんにコースを伝える。俺の頭は父譲りの頭だ。俺が作って父さんが覚えられないわけない。
「母さん、いくよ」
「寒い」
「そうだな。だからちゃんと着ろよ? 父さん、準備出来た?」
「ああ。いつでもいいよ」
「じゃあ行こう」
 俺は母さんに襟とフードのあるコートを着せた。中に俺がそろそろ使おうとしていたマフラーも巻いた。手を繋いで、先に家を出る。霊がついてきているのを確認し、父さんを後に。
「八時二十分にスタート。あと10秒だぞ。コース間違えんなよな」
「問題ない。母さん……さっきはごめんね」
「…………」
「五、四、三、二、一、スタート!」
 ウインドブレーカー姿の父さんがスタートを切った。老婆がバタバタとついていく。こう見ると笑える。ほら、色男がいったぞ、はやく追いなよ。
「行った?」
 目深にフードをかぶった母さんがきいた。スラッとした父さんの背を見つめている。
「行ったよ。御老体を引きずってな。俺達もいくよ」
 始めのチェックポイントは家のすぐ裏だ。到着すると父さんはすぐ通り過ぎた。
「とれた?」
「まだ。次!」
 老婆はまだついてきていた。霊誘引体質の父さんに食らいついている。走る幽霊なんて、たぶん見える人だってそう見たことないだろう。
 次は公園の桜木の下。母さんが俺の手を強く握ってくる。到着して五秒後に父さんが角から姿を現した。
「まだだよ!」
「はいよ!」
 父さんを見送る。よく見ると後ろの老婆はハイヒールを履いていた。顔にはべったりと化粧をしているようだ。
 次々と場所を移る。細かいポイント。一応二十は用意した。距離はコースがめちゃくちゃだから分からないが、かなりあるはずだった。
「母さん、平気? この道も誰も来ねえから。痴漢くらいだわ。お、父さん速いなぁ」
「まだかっ!?」
「まだまだ!」
「まじかあッ、しぶとい……なッ!」
 もう十五個目のポイントだ。背を折り曲げた老婆は両脚のコンパスのように手足で走っていた。マニュキアを塗った爪が冷たい地面を掻く。じゃらじゃらと真珠のネックレスが鳴る。
 そうだ、この老婆にも何か理由があるはずだ。死んでも尚、現世に留まる理由が。
「しつこいおばあちゃんね」
「そうだな。次、裏のアパートんとこ」
 ほんの二十メートルほどの距離を母さんと歩く。そして違和感を覚えた。
 おばあちゃん? いま母さん、おばあちゃんって言ったか? 俺はたしか、老人とは言ったがおばあちゃんなんて一言も言っていない。
「なぁ母さん。結婚じゃなくて、恋をすると見えなくなるよか?」
「…………さあ。あなたの方は知らない」
「さあどうだ……ッ! 今度こそ!」
 父さんが駆けてくる。まいたかと思われたが、一秒後に老婆は姿を現した。だいぶ引き離したが食らいついている。
「頑張って父さん! 今日クラスメイトに親父がすげー人って言っちゃったんだからさ!」
「あーーッ! 燃えてきたァ!」
 夜の空に父さんの雄叫びが上がった。俺は静かに言った。
「なぁ母さん、父さんはあの霊のせいで機嫌が悪くなっただけなんだよ」
 フードのせいで母さんの顔は見えない。ただ母さんがなんとなく目の下の傷跡を撫でているのは分かった。感触を確かめているようだ。
 次のポイントに移動する。母さんがぽつりと言った。
「あなた、恋をしたんじゃないの?」
 サッと父さんが前を駆け抜けた。
「え……」
 遅れて老婆がやってくる。野犬のようにやつれて、凶暴で、痛ましい。
「なに言ってんだよ」
 老婆がこちらを見た。母さんがフードをとった。
「ねえあなた! あなたは一人じゃない! あなたの姿ちゃんと見えてるわ。そんなに着飾らなくても、そばに誰もいなくても、あなたを瞳に映す人がいる! そんなに……、そんなに躍起にならないで!」
 手足をもつれさせながら老婆は走るのを止めた。止まった拍子にガクンと首を折れる。ぎょろりと二つのまなこが母さんを捕らえた。
「こっちだァッ!」
 異変に気付いた父さんが両手を広げ、遠くから目一杯叫んだ。老婆は気をとりなおしたようにまた走り出す。
「そっち行ったよ!」
「帰っててくれ! 五分で戻る!」
 再び父さんが地面を蹴った。俺は放心していた母さんの肩をそっと包む。
「ほら、父さん行ったよ。母さんかばって。あっち見ろよ。もう見えないだろ?」
 俺に促されて、母さんは父さんが駆けていった先を見る。
「見えない。お父さんしか」
 いつまでも仲良くいてくれ。
「な? 先帰ろう。父さんもすぐ戻るよ」
「うん」
 手を繋いでゆっくりと家に向かった。公園には落ち葉が積もっている。銀杏は寒さに着膨れしてきた。街灯に照らされた葉っぱは、わずかに緑が透けている。
 母さんをちらりと見る。俯き加減だ。進行方向の家々の間、東の浅い夜空に月が出ているのを知っているだろうか。うちからは月が見えないから、見てほしかった。
「あ。お父さんだ」
 俯いていたくせに、俺よりも早く母さんは父さんを見つけた。閑静な住宅街の宵闇を駆けてくる。ちょうど家の前で俺たちは合流した。
「もういないだろ?」
 自信満々に言い、父さんはクールダウンを始めた。
「うん。まいたみたい」
「おかえり」
「うん。ただいま」
 俺たちは家に入った。冷めてしまった料理をレンジに入れていく。
 母さんが見たあの老婆はどうやって死んだのだろうか。死因はともかく、母さんが見たということは恐らく孤独死。さびしかったんだ、あのばあさんは。誰にも見向きもされなかった。あんなにベタベタにめかしこんでも、声をかけられなかった。母さんの言葉で少しは楽になったろうか。
「いただきます」
 三人での遅い夕食。冷えた体が温まる。
 まぁ母さんが見えなくなったんなら、老婆のさびしさが消えたってことだろう。いや……、
「これおいしいー! お父さんてんさーい!」
「ほんとに? 実はこれ初の試みで――――」
 両親がイチャついている。無垢で無邪気だった。
 あ……ただ単に、母さんが父さんに惚れ直しただけかもな。

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