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アップルパイ

――――アップルパイ


 水曜日の朝。あまりに寒かったのでマフラーをして家を出た。
 歩行者の少ない道。海沿いにあるヴェルニー公園の秋バラはもう見頃は過ぎた。褪せた色の合間にイバラが見える。チクチクと、俺の中にどうしてかひっかかるものがある。
 昨日はクラスメイトと寄り道なぞしたが、彼らとどう接すればいいのか自分の中で結論が出ていない。
 話しかければ答えてしまう。ああまでして受け入れてもらったのにそれを突っぱねるのは人としてよくない。今となっても無視を続けるなんて失礼極まりない。いや、一人でいた時は声もかけられなかったから心配なかったのだ。それが……困ったものだ。昨日の、特にクラスで話していた時には決まって田宮先生がちらつく。俺を引き止める。
 黙々と歩いているうち、例の場所にやってきた。俺はポケットに手を突っ込む。歪んだガードレールの支柱にこつんと置く。慣れたものだ。
「タッチー」
 江藤さんの声がした。全然気付かなかった。
「……おはよう。今朝は早いんだな。というか全然気配を感じなかったぞ」
 俺は江藤さんの背中を見た。かなり薄くなってしまった少女が、ダルそうに彼女の背中に溶け込んでいる。影が薄くなっている? それに同調して江藤さん自身の気配も消えたとか? 幽霊は数えられないほど見てきたが、なにぶん無視してきたためにその性質というのに明るくない。
「気配? あーなんかね、お母さんにもなんで黙って後ろに立ってるのとか言われたよ。そういえばさ、まだわたしに女の子ってついてるの?」
「ああ、一応な。かなり薄くなってるのが気になるが」
 二人で肌寒い道をいく。
「あ、タッチーが話題を先に出したから忘れちゃってたけど、この飴なに?」
 江藤さんは俺に手を差し出す。俺が置いてきたはずの飴玉が、ふっくらした彼女の手に乗っていた。ひやっとした。
「げっ」
「げっ? キタロー? はじめはポイ捨てかと思ったけどタッチーはそんなことしないよなぁって」
 朝だからなのか、江藤さんはいくぶんぽけーっとした眼差しで俺を見つめてくる。人に話したことはないけど……まぁ、江藤さんならいいか。
「それはお供え物なんだ」
「キタロー!」
「げっとしたろ? まぁ、江藤さんが見えないのが証明。悪いやつじゃないよ」
 そう言うと彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「いつもいるの?」
「まぁ……たまにな」
「あ……もしかしてこれってきいちゃまずかった? ごめん、わたしニブイから」
「ん? ああ! いや、平気だよ。赤の他人の霊なんだ。ただ……」
「ただ?」
 俺は言葉を切った。
 言わなくていいのではないか? 彼女に話してなんになる。しかし江藤さんは俺の言葉を待っている。ここまで話したなら……。
「無視出来なかったんだ」
 俺達は車の通る表通りから、学校へ続く裏道に入った。
「俺は数えられない霊とすれ違うけど、そのほとんどを無視してる。そういう術を覚えた。たとえ目の前から来られたって、何事もないように通過出来る」
「うん。わたしも、目を合わせないようにしたり出来るよ。今ではね」
 そっか。俺は微笑んだ。すらすらと言葉が出てくる。
「でも、あそこにいた男の子は違った。自転車漕いでる時、飛び出してきたんだよ。とても辛そうで、悔しそうな子だった。交通事故で死んだ子だよ。ガードレールが歪んでるだろ? 俺もさ、轢いちまえばよかった。でも出来なかった。無視出来なかったんだ。俺は無理にハンドル切って、派手にこけたよ」
 先の三笠公園へと続く水路の途中に、風雨にさらされたブロンズ像がある。たまにぽつねんと立っている。
「理由があって、あの子はまだあそこにいたんだ。毎日、供養してるんだよ。もう見えないから知らないけど、やりきれなかったんだと思う」
「理由があって……」
「ああ」
 それから沈黙が流れた。コツコツ、コツコツ、二人分の足音が響く。
「ありがとうね」
 江藤さんが言った。
「別に。無言で登校すんのもあれだろ。だから喋っただけだ」
「そうじゃないよ。それもそうだけどさ、タッチー……、わたしのことも無視しないでくれたんだね」
「え?」
「だってそうでしょう? タッチー、わたしに憑いた霊だって無視してよかったわけだよね? でも、わたしがあまりにも辛そうだったから、無視しないでくれたんだよね?」
 俺が塩で追っ払ったがために少女が江藤さんにいってしまったのに責任を感じたわけだが、江藤さんを心配したのは確かだ。だがこうしてお礼を言われるとどうも否定したくなる。
「……まぁな、間違ってはないけどよ」
「ね。だからありがとうって」
 江藤さんは鞄についたボーレイちゃんをいじる。ボーレイちゃんが俺を見る。
「アリガトでーす! あたちうれピーでーす!」
「そいつそんな口調なのか……」
「そうだよ、生前から。あれ? タッチー、ボーレイちゃんは?」
「俺は自分の部屋の明かりから垂らした紐につけたよ」
「ええっ? それじゃあ首吊りみたいじゃないのー!」
「平気だ。足に結わえつけたから」
 親指を立ててみせる。江藤さんは口を手でおおって笑った。無邪気で、こっちにまでうつりそうな笑顔。
「ひどいよー。あっ、でもそれならタッチーは寝る時電気消すごとにそのボーレイちゃんを見て、わたしのことを思い出すんだ。うれピーでーす!」
 ボーレイちゃんで喜びを表現して、江藤さんは一人で楽しげだ。俺はどきっと跳ねた鼓動をおさえなければならなかった。
「あ、そうだ」
 思いついたように江藤さんが顔を上げる。
「ねえ、わたしに憑いてる子にも理由があるのかな?」
「ん……あると俺は思うな」
「そっか。なんでわたしに憑いたんだろう。ねえ、その子どんな服?」
 江藤さんが俺の顔を覗き込む。俺はさりげなく一歩ひいて、江藤さんの背を見た。少女はかなり薄い。
 あなた、恋してるんじゃないの――――?
 母さんの声がきこえた。何言ってんだよ。俺は目を凝らした。
「んー……、見覚えのある制服だな。私立の幼稚園か?」
「タッチー……すごく目つき悪いよ……」
「す……すまん。あれだ、この子化学の田中先生が連れてきたんだよ」
「田中先生? 先生ならわたしと同じ駅なの。たまにホームで見かける。あっ、もしかしてあそこの園かな。肩に紋章ある?」
 俺は恐くならないよう目を凝らした。
「ある。これは百合だな」
「やっぱり。ミッション系の幼稚園があるの。そこの子だ。あのさ、今日学校帰りに行ってみない?」
「家のことがあるんだよ。だから放課後あまり寄り道はできない」
 思ってもみない誘いだった。しかしいけない。母さんがいる。
 江藤さんは残念そうに眉を下げた。
「そうか。じゃあお休みの日は? メールしてよ。時間つくるから」
 メール……? 俺からすんの?
 学校に着いた。いつも朗らかに挨拶してくれる守衛さんは「おっ?」という顔で俺と江藤さんを眺めた。意識し過ぎかもしれないが、ちょっと恥ずかしかった。
「分かった。ありがとう。俺も休みの日は暇だからさ」
 教室でも江藤さんとは少し話した。クラスメイトが来て、男子は男子、女子は女子と俺達は別れた。
「立野さぁ、軽音部はいんね?」
「ドラムやれとは言わないからさー」
 阿部君と堤君が俺を軽音部に誘うようになった。
「うち親が忙しくて、溜まった家事やんないんといけないんだ。悪いな」
 そう断る。
 日に日に俺に声をかける人は増えていった。悪いイメージ像が崩れていき、目つきは悪いが話すと割と良いヤツというイメージが浸透していく。ぬるま湯の快さに甘えつつも、どうしても後ろめたさは拭えなかった。だが、江藤さんにメールしないといけない……そして出掛けなければいけないという使命のような口約束に悩むうち、それもまた薄らいでしまった。



 結局メールという手段は使わず、学校で直に日程と都合について江藤さんと話した。
「何? アンタらどっかいくの?」
 杉谷さんが割り込んできた時は遠くへ逃げ出したい気分だった。思い出しただけでも逃げ出したい。
「うん。わたしに取り憑いた女の子を成仏させてくるの。成仏デートだよ」
 江藤さんはほがらかに答えたっけ。
 冗談を言ったのかちがうのか、冗談と受け取ったのかちがうのか、女子の二人は恐らく意味の食い違った笑顔で話していた。
 無視してきた報いか、俺が女子という生き物に慣れないのは。
 ともかく、かくして、心拍バックバクの、えー……本日はお日柄も良く、成仏デートである。
「なぁ、十一月だけどダウン着たら変か?」
 父さんが焼いているアップルパイに匂いがたちこめるリビング。俺は窓辺に落ちた陽だまりで寝っ転がっていた母さんにきいた。
「へ? どっか行くの?」
「ダウンとジーパンの組み合わせは……? いたって普通だよな? いいんだよな?」
「ねーえ、どっかいくの? デート?」
 母さんが寝返りをうつ。
「別に。ちょっと外歩こうかなって」
「お父さーん! デートだってぇ!」
「おい!」
「なんだって?! お前本気か? 髭剃ったか? 鼻毛抜いたか? 口説き文句の用意は?」
 エプロン姿の父さんが台所から出てくる。
「ちげえよ! なんでもねえって!」
「わー、赤くなってる。リンゴみたい」
「おいおいいいのか? そんの野暮ったい格好でねえ」
 今季初めてのダウンを俺は羽織った。こんなにもこもこしてたろうか。
「なんか俺……、もっこりし過ぎてないか?」
「ん? もう?」
 父さんが俺の下の方を見る。
「やましい意味じゃないわ」
「なら緊張しないの」
「そうそう。ラフでまぁ普通の男子だなって感じ。アップルパイ包むからちょっと待ってろ」
 父さんが台所に消える。そんなもんお土産に持ってくのか? クラスメイトだぞ?
「お母さんもおまじないかけてあげる。ふうっ……と」
「耳に息かけんな!」
 どたばたと支度をする。ケータイ、財布、ハンカチ、塩……よし。俺は家を出た。
 ビニル袋の中からアップルパイが香っている。アルミホイルに包み、いい具合のクッキーの紙箱があったのでそれに入れた物だ。父さんの押しに負けて持ってきてしまったが、江藤さんが「人の手作りムリ」って人だったらどうすれば。俺が食うのか? 一人で? えー……。
 悶々としながら歩いているうちに駅に着いた。JRの横須賀駅、海に面して、静かでなかなか気持ちのいい場所だが、俺は駅が苦手だ。電車が大嫌いだ。
 空いたホームで電車を待つ。スッ……と、俺は無視モードのスイッチをオンにした。
 誰かが俺の後ろに並んだのが分かった。霊というのは見える人に目星をつけて近づいてくるのだろうか。俺の後ろに、だんだんと気配が増えていく。
 電車がやってきた。流れていく車窓に、俺の後ろへ伸びる行列が映る。
 勘弁してくれよ……。電車に乗り込む。もしこのシーンが漫画なら、今のコマは俺の心の叫びで埋め尽くされたことだろう。一ページまるまる、ゴースト列車の様子を描写して。
 さながらラッシュアワー。半透明や真っ黒や、靄の人影なんかで息苦しい車内で、俺は平静を装う。先ほどから中年の女が俺の横顔を眺めているが気にしない。ケータイがポケットで震えた。取り出して、ぱかっとディスプレイを開くが、おばさんの肩とかぶった。読めないが気にしない。ふうっと母さんみたいに息を吹きかけられても…………気にしない!
 途中下車したい衝動に何度も襲われながらも、俺はなんとか目的の駅まで耐え抜いた。何故か、俺が降りると大勢が下車した。不思議と、駅だと俺は人気者だ。困ったことに。
「タッチー!」
 改札口の向こうに江藤さんはいた。シルエットのやわらかい、江藤さんらしい服装だった。
「お待たせ」
「タッチー電車嫌いだから乗り換え失敗した? 遅れるってメールしたけど」
「すまん。たしかにちょっと迷った。メールもごめん。幽霊のおばさんとかぶって画面見えなかったんだ」
「なーんだ。それじゃあ仕方ないねえ。わたしも十秒前に来たとこだから気にしないで」
 ああ……幽霊トークが家庭の外で通じるこの感動を、他の誰が分かろうか。
「いこっか。こっち」
 くるっと江藤さんが身を翻す。ふわりとふくらむロングスカート、とても――――。
「いい匂い?」
「うん。するな」
「ね、するよね? なに? タッチーからする……それだ! その袋なに!?」
 手を掴まれる。あたりにいた幽霊たちが霞んだ。江藤さんが目の前にいた。
 かわいい人だ。
「これ……親父が作ったアップルパイなんだけど、江藤さん人の作ったの食べられる人?」
「食べられる人! え? くれるの? いいの? うれピーでーす!」
 喜んでくれた。父さんのおかげなのだけど、江藤さんの笑顔を見られた。満霊電車に乗ってここまで来た甲斐があった。
「幼稚園はすぐそこなんだ」
 江藤さんは意気揚々と歩き出した。そこで俺は当初の目的を思い出す。成仏だったな。江藤さんの背を見る。うっすい少女が不服そうに俺を見ている。あ、いたんだお前。
 幼稚園にはすぐ着いた。二人で門の前に立つ。
 絵本に書いたお城のような建物。入り口の門扉のそばにはモミの木があって、砂地の園庭、脇にミニサイズの遊具。ミッション系のそれっぽい装飾。
「おしゃれだね」
「おう」
 土曜日なので中に人影は……生きている人影はない。
「うんうん。……で?」
「へ?」
「成仏ってどうやるの?」
 俺は力なく笑ってしまった。人任せだったか……。行こうと言ったのは江藤さんだけど、霊には理由があるとかぬかしたのは俺だ。頼られても仕方ないか。いや、それはいいことなのだが、正直なところどうしようなどとは考えていなかった。
「そうだな……」
「考えてなかったの?」
 直球で来られると傷つく、結構。江藤さんの期待を裏切ってしまったことが辛い。
 その時少女に変化が現れた。ガラスの像に湯気がついて白くなるように、少女の輪郭が浮かび上がってきた。私立幼稚園のませた制服、三つ編みのおさげ、まあるい顔が……あっかんべー。
「なっ、ばかにしやがって!」
「え……? ごめん」
「いやいやいや、この子があっかんべーって……」
「あっかんべー?」
「ばーか」
「はかって言われたし!」
 くそ、どこで覚えたそんな言葉。最初は「まぁまぁ」くらいしか言えなかったくせに。
 ふっと幼稚園の門扉を見ると、格子の隙間からいくつもの青白い顔が浮いていた。にまにまと笑ってる。見せもんじゃねえんだ。
「江藤さん、動かないでくれ……。俺がこいつのカラダを調べる」
「ちょっとタッチー……? なんか顔がきもいよ……。あれみたい。ロリコンだっけ」
 眉をひそめる江藤さんの言葉がぐさりと胸に刺さる。少女がよりくっきりとしてくる。俺から顔を背ける。嫌なら江藤さんから離れろ。さぁさぁ。
 俺は眼光レベルマックスで少女に視線を巡らせた。不穏な空気を察したのか、門扉にいた霊達が去っていったのが気配で分かった。なんか、かなしい。
「どう?」
「うーん。幼稚園バッチとかに名前とか書いてあるかなとか期待したけどバッチすらしてないな。目立った外傷も無いように見える」
「そっかぁ。あっ、さっきこの子「ばか」って言ったんだよね? 口が聞けるならきいてみたら? お名前はーとか。お母さんはーとか」
 なるほど、それは気付かなんだ。今までは無視に徹してきたから、声をかけるなんて考えもつかなかった。どことなく恐いが、やってみよう。
「あー、君。名はなんと申す」
「なにそれ。もっと優しくして」
 ぷっと江藤さんが笑った。その背で少女はまだそっぽを向いている。
「答えないな。ねえ君、お名前はなんて言うのかな」
 無視。幽霊に無視されるこの悲しみ、誰が分かろうか。
「だめだなぁ、タッチーは。わたしがやってみるよ」
 だめ? 俺がんばったぞ……だめか? だめなのか。
 江藤さんは首を後ろに回し、微笑みをたたえた唇で言った。
「きみのなまえは?」
 少女はわざわざ俺に不愉快な一瞥をくれてから江藤さんの耳に顔を寄せた。
「ふーん。くみちゃんって言うんだ。かわいい名前だね」
「え? 教えてくれたの?」
「うん。ねえ、どうしておねえちゃんにくっついてるの? わたしたちね、くみちゃんを助けたいんだ。だから、どうしてほしいか教えてくれない?」
 くみと名乗ったらしい少女は素直になれない恥ずかしさで江藤さんの背に顔をうずめた。
「なんか言ったか? 江藤さんの背中に顔うずめてるけど」
「なにも。きっと恥ずかしいのかもね。いまさらだけど、わたしはエトーフミコね。このかっこいい彼はタッチー」
 かっこいい? 俺が? まじ?
 くみが透けていく。イタチの最後っ屁みたいにあっかんべーをして。ふ、好きにしろよ。
「よろしくな。くみちゃん」
「よろしく。くみちゃん。さぁ、タッチーついてきて!」
 待ちきれんとばかりに江藤さんが歩き出した。俺は遅れてついていく。
「わたしアップルパイ食べたくてもーうさっきからうずうずしてたの!」
 うずうずうずと呟きながら突き進んでいく江藤さん。駅に向かっていく。途中で通りを脇にそれて、四つ角で止まる。
「ここ。お父さんによく連れていってもらってたんだ」
 そこは喫茶店だった。ザ・喫茶店という佇まいの、高校生はちょっと入りにくいような、シックな店。看板には落ち着いたフォントで『peony lantern』とある。
 店内に入る。静かだ。客は奥の1人とそのツレ(霊)だけ。カウンターによりかかって新聞を広げる壮年の男がマスターらしい。江藤さんを見ると「ひさしぶり」と言った。たしかに江藤さんはよくここへ来ていたらしい。
「マスター、いつもの。彼にもいつものを」
 江藤さんは得意げに注文した。マスターは静かに笑って、くわえ煙草を消した。
「俺初めてだけど」
「知ってるよ? でもかっこいいじゃん。喫茶店で「いつもの」って」
 笑って答えて、江藤さんは俺を窓際の席につれていった。駅の表通りから一本ずれた、うるさすぎない人通りが見えた。
「さっ、さっ、さぁっそく、アップルパイをいただきます」
「いいのか? 持ち込んじゃって」
「いいのいいの。そのかわり」
 江藤さんがテーブルにアップルパイを広げると、マスターがさっとやってきた。ナイフでさくさくとパイを切り分ける。一切れつまんで、そのままぱくり。意外と行儀が悪い。うちじゃあ叱られる食べ方だ。
「おいしいね。フミちゃんが作ったの?」
「ちがいますよ。タッチーの父上が」
「ふーん。林檎は何を?」
「紅玉です」
「はーん……どおりでねえ。へー」
 一人で納得して、マスターはカウンターへと戻っていった。そして少ししてコーヒーを持ってきた。またパイを一切れ持っていく。奥にいる客に出していた。自由な人だ。
「面白い人でしょ?」
 なぜか自慢げに言って、江藤さんはアップルパイを口にした。親父にきかせてやりたい声を上げて、幸せそうに頬を膨らませる。俺はコーヒーを一口すすった。実は苦手だ。
「親父に言っておくよ。喜んで食べてたって」
「うん。よろしくお伝えくださいな。くみちゃんも食べる?」
 江藤さんはパイを一切れお皿に乗っけた。フォークをぶすっと突き刺して、テーブルの端に置く。……あれ?
 お皿が三枚ある。マスターが自分で使おうとして結局使わなかったのか?
「帰ったらね、デズニーのビデオ観ようと思う」
「ん? ああ、デズニーか。白雪姫とか?」
「うん。金魚姫とかぶたのぶーさんとかわたし大好きなんだ。くみちゃんと一緒に観るの。観てた? タッチーも」
「うちはヂブリで育てられたから。トロロとか、おののけ姫とか」
 見ず知らずの女の子(霊)のために、いろいろしてやろうとする江藤さんは素敵だと思った。俺はなぜいつも無視してたのだろう。そりゃ霊がこわいから。そう、いやでも、クラスメイトたちについては、もっと早く関わっていればよかった。過ぎてしまった、江藤さんと話せたかもしれない時間が惜しい。
「んー、どうしたらくみちゃんは満足してくれるのかなぁ」
「それは……」
 江藤さんが俺に一言「好き」と言えば、くみちゃんはこの世から消え去るだろうに。少なくとも俺の視界からは消え、俺は江藤さんしか見えなくなる。
 それでいい。いっそそれがいい。しかしやはり、田宮先生の呪縛と言っても過言ではない後ろめたさは拭えない。俺はクラスメイトと心から笑えない。江藤さんにぐんぐん惹かれていく気持ちを信じることが出来ない。
「タッチーも食べなよ。アップルパイ、おいしいよ。知ってるか」
 口の端にパイ生地をつけて江藤さんが笑う。じゃあ一切れだけと言って、俺はパイを口にした。甘酸っぱい、うちではおなじみの香りが鼻を通る。味は例年より酸味が強い気がした。コーヒーは苦い、やっぱり苦手だ。
 喫茶店を出た後、江藤さんと別れた。電車へいき? と彼女こくすりとした冗談に、俺ははっきりしない笑いを返した。帰りの電車で幽霊はあまりいなかったが、俺自身が透けてしまったようだった。どこか暗い気分を土産として持ち帰って、フラれたのかと散々両親にきかれた。
 夜、いつか江藤さんが言った通りになった。明かりのタレ紐に吊られたボーレイちゃんを見て、また江藤さんを思い出してしまった。

しおり