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三、

コハク語り

 かなりあとになって、サクヤが出てきた。さっきと別の着物をきている。肌からほんのり湯気がたって、よい匂いがした。
「いやー、本気で生き返った。ぽっかぽかだ。城じゃ、ろくに薪もなかったから、長い間ずっと水で体をふくだけだった。なんだか久々に人間に戻ったって感じがする。んー、生き返った生き返った」
「うむ、よくはわからないが、サクヤがうれしいなら、おれもうれしいぞ」
「だけど、あれ? おまえはけっきょく入らなかったのか?」
「入ったのだが、すぐに出てきたのだ。あそこの水は、おれには熱すぎたのだぞ」
「そんなに熱かったか? まあ、猫舌って言うし、キツネのおまえも似たようなものってこと?」
「ネコとキツネはぜんぜん違うぞ」
「知ってるよそれは。ちょっと言ってみただけだよ」
 サクヤはめんどくさそうに片手で自分のおでこの前の髪をはらった。

「だけどま、すっかり体はあたたまったし。とりあえず死なずに、これから先の作戦をねれるってわけだ。よし、じゃあさっそく作戦をたてようか」
「作戦?」
「どうするこれから? おまえ、これからどこか行くあてはある?」
「行くあては、ないぞ」
「ん。その答えは半分予想してた」
「予想していたのか」
「とりあえずあれだ、あたしはお腹が減ったよ。城では毎日ろくなもの食べてなかったから、ちょっとは久々にまともなものを食べたい」
「ではどこか食堂へ?」
「そうだね。それがいいと思う。作戦その一だ」
「作戦?」
「あ、でもあれか。お金がないんだったっけ?」
「カネはないのだ。でもそのへんのニンゲンをおどせばすぐにカネくらい出すだろう?」
「おまえねー、それはよくないだろ、やり方が」
「良くないのか?」
「あたりまえだ。おまえ、いつもそんなふうにして食べてたの?」
「まあそうだな。ニンゲンの町では、いつもだいたいそうしている。とてもカンタンだぞ?」
「あきれた。とんでもないヤクザじゃないか、それじゃ」
「ヤクザではなくヨウコなのだぞ」
「どっちでもいっしょだ、そんなのは。おまえね、かりにもあたしはオーミの覇者・アケチ一族のサクヤ姫だ。どこのサクヤ姫が、地元の町衆をつかまえてお金を巻き上げるわけ?」
「ここのサクヤがやれば良い」
「できるわけないだろ。父上の名に泥をぬるようなこと、あたし死んでもできないから。でもま、いい。お金のことはひとまず横におこう。コハク、おまえ何か好きなものはある?」
「好きなもの? 食べ物でか?」
「そう。食べ物の話をしている」
「ならば、おれはソウメンが好きだ。その次がウドン。ソバは変な味がするからあまり好きではない」

「そうめんと、うどんね……」
 サクヤはちょっと不思議そうな顔でおれを見た。
「おまえ、あんがい欲がないな。猪肉だの鯛だの赤飯だの、なにかもっと豪勢なものを言うのかと思ったけど。ほんとにそんなので良いの? そうめん? うどん?」
「ソウメンはうまいぞ。ソウメンさえあれば、おれは何日でも走れるのだ。どれだけでも戦えるのだぞ」
「ほんとうに? じゃ、いいよ、それで。そうめんを食べれる店をさがそう。いやまって、だけどそうめん屋ってのはあまりきかないな。やっぱうどんでもよい? うどん屋だったら、そのへんにどこでもあると思うけど」
「良いぞ。ウドンもおれはソウメンの次に好きだからな」
「よし、ではきまり。じゃ、行こう」
 サクヤが先に立って、雪のふる町の通りを歩いた。サクヤは前に何度もカタタに来たことがあるらしい。どこの道を行けばどこに行くのか、ちゃんとわかっているようだ。なかなか頭の良いムスメだ。言葉づかいはあまりヒメという感じはしないのだが、いろいろ世間を知っているから、さすがはえらいトノサマのヒメだ。

 ウドン屋の前まできた。とおもったら、ウドン屋ではなかった。
「? なんだここは?」
「質」
「シチ?」
「まずはお金をなんとかしなきゃダメだろう? ここで待て。あたしが中でうまくやる」
 サクヤはそう言ってひとりで店に入っていった。紺色ののれんに白い漢字が書いてある。おそらくそれが店の名だと思うのだが、おれにはむずかしくて読めない。
 それほど待たないうちにサクヤがのれんをくぐって出てきた。
「はい、軍資金」
 サクヤがおれの目の前で赤のきんちゃく袋をふってみせた。
「何なのだそれは?」
「お金にきまってる。これでとうぶんお金の心配はしなくてよい」
「何をどうやったのだ?」
「髪飾りを質に入れた」
「? かみかざり?」
「だから、質だよ、質。平たく言えば、金貸しみたいなものだ」
「ふむ、金貸しか」
「あたしは着物も帯もぜんぜん興味ないのだけど、どうしてだか、櫛とか髪飾りとか、きらきらしたモノだけは好きなんだ。何年もかけて集めたやつの中から、いちばんのお気に入りを、万が一にそなえていつも肌身はなさず持っていた。で、その万が一が、とうとうきたってわけ。けっこう悪くないベッコウのやつだったから、そこそこのお金にはなった。だからそういうわけ。わかった?」
「? どういうことだか、いまいちわからないのだ。でもとにかくサクヤが金持ちのトノサマのムスメだということはわかったのだぞ」
「なにそれ? まったく、張り合いがないというか…… ん、でもまあいいよ、どうでも。とりあえず行こう、うどん屋。あたし、本気でお腹が減って死にそうだ」

 おれたちの入ったウドン屋はとてもせまくて、机が四つしかなかった。おれとサクヤがすわると、もう席はいっぱいだった。おれはカケというやつを十七杯たべた。サクヤはモリというやつをおれよりはやく二十二杯たべ、いままた二十三杯目を食べている。おれもわりとよく食べる方だと思っていたのだが、サクヤはそれより食べる。おれはとてもおどろいた。
「けっこういけるな、この店。わるくない麺だ、これ。ねえおじさん、もう一杯おかわり。あ、ダシもちょっと足りないから、追加で!」
 あいよ、と奥でおやじが返事をした。最初は元気よくあいよと言っていたのだが、十杯目をすぎたころから、声が小さくなってきている。サクヤが食べすぎるから、あきれているのだろう。女が食べ過ぎるのは行儀がよくないと、おれも話にはきいている。だからたぶん、サクヤは行儀がよくないのだろう。ヒメなのに行儀がよくないのは、とてもおかしな話だと思う。
「なに? なに見てる?」
「サクヤがよく食べるのを見ているのだ」
「なんで? 食べちゃ悪いか?」
「悪くはないが、あまり行儀はよくないと思うぞ」
「女がたくさん食っちゃだめって誰が決めた? そういう掟とかあるのか?」
 サクヤが少しこわい顔をしておれをにらんだ。おれは少し考えてから、たぶんそういう掟はないのではないか、と答えた。
「だったらいいだろ。おばさん、モリ、おかわり。まだまだ頼むから、もう早めにゆでといてね! おいコハク、おまえはもういいの? 遠慮せず食べたいだけ食べろよ。心配しなくても、ここはぜんぶあたしのおごりだから」
「いや、もうじゅうぶんに食べて満足なのだ」
「そう? 意外と小食だし欲がないねコハクは。意外に意外」
「そういうサクヤはとても大食だし欲がたくさんあるな」
「う、うるさいっ。わざわざ言わなくてももう知ってるっ」
 三十何杯かで、ようやくサクヤは満足したらしい。きんちゃくの中からいくらか金を出すと、ブスッとしていた店のおかみの機嫌がきゅうに良くなった。なるほど。おかみはサクヤが金をはらわずにたくさん食べるのを心配していたらしい。やはりニンゲンにとってカネというのは大事なものなのだ。

 店を出ると、雪は小降りになっていた。小さな橋をわたり、川の横を歩いた。サクヤがおれの先を歩いた。そうして歩いていると、また橋があった。サクヤはその橋をわたりかけて、橋の真ん中で止まった。ここに何があるのかとおれが不思議に思っていると、サクヤが手招きした。おれはサクヤのそばまで行った。橋のランカンにもたれて、サクヤは下の川を見ている。何人かの町人たちがおれたちの横を通り過ぎた。町人たちが行ってしまうと、川を見たままサクヤが言った。
「よし、お腹があったかくなったところで作戦会議だ」
「? 何の作戦だ?」
「このあとのことだ。コハク、ちょっと声を落として」
「落とす?」
 サクヤはおれのすぐとなりにきて、おれの耳のそばでささやいた。
「もっとちっさい声でしゃべれってこと。今からの話、ほかの者にきかれてはだめだ。どこにミノの間者がいるとも限らない」
「カンジャ?」
「忍びの者」
「ああ、なるほど。シノビなら、おれも知っているのだ。つまり、おれたちは秘密の話をするのだな?」
「そう。秘密の話だ。だからもっと近くによって。もっと。そう、それでいい」
サクヤはきょろきょろと橋の左右を見て、誰もいないのをたしかめ、それからおれの顔に顔をよせて言う。

「さっき湯につかってるとき考えたのだけど、あたしはこれからハマ街道をまっすぐ北に向かい、シオツってところまで行くことにする」
「シオツ」
「そう。そこは街道沿いの小さな村なのだけど、峠越えの村としてとても有名な場所。そこを通って、そこからさらに北にぬけ、さいごはワカサに入る」
「ワカサか。名前だけはきいたことがある。そこは海のある国だな?」
「そうだ。そこにあるオバマという港町に、タケダの大叔父がいる」
「タケダ」
「タケダというのは、ワカサをおさめる大殿様の一族だ。アケチの親戚筋にあたる。あたしはそのタケダの叔父上には子供の頃に何度か会ってるし、むこうもこっちのこと、今でもたぶん覚えてる。ほかならぬマンシューの娘とあれば、喜んで迎えてくれると思う」

「ふむ、だがしかしサクヤ、」
「? なんだ、コハク?」
「ワカサのオオトノサマといま言ったが、ワカサは小国だときくぞ。ミノのトヨオミが本気になれば、それこそ三日で負けるだろう? そんな国に逃げて大丈夫なのか?」
「ふうん、意外にものを知ってるな、コハクは」
「イナリさまからきいたのだ」
「イナリさま? 誰?」
「イナリさまは、ヨウコをまとめるえらい人なのだ。とてもおそろしいヒトなのだぞ。ワカサの国など、その気になれば一晩で滅ぼすくらいの強いヒトだ、イナリさまは」
「おまえそれ冗談?」
「冗談ではないぞ」
「ふうん。ま、でも今はとりあえず、その人は脇におこう。話がややこしくなるから」
「ふむ。では、イナリさまは脇におくぞ」
「よし。えっと、どこまで話したっけ?」
「ワカサは小さい国だというところまでだ」
「あ、そうそうそう。そう、それでね、あたしがワカサにいるのは、わずかの間。準備がととのい次第、そのあとさらに北に行くつもり。さいごの行き先は、コシノハラ」
「コシノハ?」
「そうだ。コシノハラは豊かな強国。タケダの盟友のササクラがおさめている。あそこまで行けば、さすがのミノも簡単には手出しができない。いかにその、イナリとかいう者が強いと言っても、そうかんたんにササクラは滅ぼせない。あたしはササクラをうまく説得して兵をあげさせ、ワカサのタケダとともに、オーミに攻め入る。ミノにとられた父上の国を、ぜんぶまるごと奪い返す。ねえ聞いてるかコハク? ついてきてる?」

「きいてはいるが、あまりついて行っていないのだ」
 おれは正直に言った。少し話がこみいってきて、全部はちゃんとわかっていない。
「ともかくサクヤ、おまえはワカサを出て、最後にそのコシノラという国に行くのだな?」
「コシノハラ」
「む、コシノハナだな」
「そうだ。あたしはそこを目指していく。でも、最初のとりあえずの目標はシオツだ。それからワカサのオバマ。そのあと、コシノハラ。ま、このような流れ。今からこの線で動くつもりだ、あたし。この話がおわりしだい、すぐにも動く。コハク、おまえはどうする?」
「どうするとは?」
 おれは意味がわからなくてきく。
 どうする? 何をおれはどうするのだ?
「あたしとくるのか、こないのか? それをきいている」
 サクヤは片手でおれの耳にふれて、まっすぐおれの顔をみた。おれもまっすぐにサクヤを見る。サクヤの顔がとても近い。声も近い。

「ここまであたしを逃がしてくれたこと、正直感謝してる。あたしは今朝、あそこの城の中で死んでても、ぜんぜんおかしくなかった。それがおまえのおかげで、どういうわけだか、ここまで生きてこれた。ひとつこれだけでも大感謝」
「ふむ、」
「だからねコハク、あたし考えたのだけど、あんまりこれ以上、おまえを巻き込みたくないんだ。おまえは仲間を裏切ったけど、これ以上あたしといっしょにミノと戦う義理もない。おまえは自由だ。行きたいとこに行けばよい」
「行きたいところ?」
「あたしについてきてもたぶんいいことないし、下手をすれば死ぬし、というか、かなりうまくやってもそれでも死ぬかもしれないし。だからねコハク、おいしいうどんを仲良く食べて、ここでお別れっていうのも、ぜんぜんありだと思うんだ。おまえのことを考えると、たぶんその方がよい。なあコハク? ちゃんときいてる? あたしは本気で話してるんだぞ?」

「おれも本気できいている」
 サクヤの言葉は本当だ。本当の言葉をサクヤは話している。だからおれも本当の耳で、本当の心できいている。サクヤはやはり良いヒメだ。とてもおれのことをよく考えてくれている。おれはそういうサクヤのことがやはりとても好きだと思った。

「おれはサクヤと行く」

 おれは言った。
「来るの?」
 サクヤが、とても小さな声で言った。それはとても小さくて、ほんとにびっくりするほど小さかったのだが、おれの耳は、その小さな声をちゃんとぜんぶつかまえた。おれは言った。
「行く」
「ほんとに?」
「本当だ」
「後悔しない?」
「コウカイ?」
「あとになって、やっぱやめとけばよかったって思わないか?」
「思わないと思う。思ったとしても、それは先のことだ。今のおれは、やめておけばよいとは少しも思わない。だからいっしょに行くぞ、その、コシノラの国へ」
「コシノハラ」
 サクヤが自分のひたいをおれのひたいにくっつけて、笑った。その小さな笑いは、サクヤのひたいを通しておれにも伝わってくる。おれもなんだかゆかいな気持ちになった。だからおれは笑った。サクヤも笑った。笑いながら、サクヤがおれをみた。おれもサクヤをみた。サクヤの目の真ん中に、きれいに光る虹色があった。こんなに近くで誰かの目を見たのははじめてだったし、そんなにきれいな虹色がだれかの目の真ん中にあるのを見るのもはじめてだ。サクヤもおれの目の真ん中を見ている。ひょっとしたらおれの目の真ん中にも、同じ虹があるのだろうか? そうなのだろうか?



 ふたりで橋をわたって十歩も歩かないうちに、三人のオサムライがむこうから走ってきておぬしら止まれと言った。横の辻からも二十人くらいの兵たちがよってきて、おれとサクヤを囲む。そのあともまた増えて、どうやら百人ほどの兵どもにおれたちは囲まれた。
「やれやれ、もう追いつかれたか」
 サクヤはいまいましそうに首を左と右にふった。
「で、どうだコハク? おまえはこの人数に勝てる? さすがにムリ?」
「大丈夫だ、こわがるなサクヤ」
「べつにこわくはない。ただ、めんどうだなと思っただけだ」
「こいつらは弱い。おれがちょっと暴れたらすぐに逃げていく。かんたんなことだ」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ。おれはヨウコだからな。オサムライが十人でも百人でもおなじだ。すぐにおれがやっつけるから――」

「ほぉ、言うじゃねえかコハク。だが、はたしてそうかな?」

 おれはおどろいてふりむく。
 クロガネ?
 どこだ? 上?
 むこうの家の屋根に立ってこっちを見おろすムラサキの影は、やはりクロガネ。
「む、」
 思わずおれは牙をむいた。サクヤが横ではっと息をのんだ。そうか、おれの牙をはじめて近くで見るのだなサクヤは。もしかしておれがこわいと思ったのだろうか。そうかもしれない。

「ばか。牙をしまえってんだよ。なにひとりで怒ってんだ?」
 クロガネがかるく笑った。
「おいおい、おふざけもたいがいにしてくれよコハク。ったくムダにとんでもない方へ走りやがって。追うのに苦労したぜ。で、なんなんだ? こりゃいったいどういう遊びだ? 説明しろよコハクよ」
 ひらり、とクロガネがとびおりた。むらがる兵たちが、何歩かあとずさる。クロガネは兵のむれのいちばん前に立った。雪風の中で、濃いムラサキの着物のすそが、ぱたぱたひるがえる。
「どうした? なんだ? これからどうしよっていうんだ、こら? 本気でおれとやるのか、おう?」
 クロガネは太刀の柄を右手でいじりながら、いつもの半笑いをうかべている。おれは一歩さがった。いつでも動けるように膝をやわらかくしてかまえる。
「おい、だまってちゃわからんだろ。その女をつれてどうする? なんだ? 駆け落ちか? まさかそいつに惚れたとか、そういうオチ? そうなのか? 本気かそれ?」
 クロガネがまた一歩、こちらへ。おれはまた一歩、うしろへ。
「んなわけないよな? 一目惚れにしても、そいつぁやばすぎだろ。危険な恋ってやつだ。その恋の行きつく先はまっすぐ墓場だぜ。おいこら、だまってっちゃわからんだろ。おれにもわかるように言えよ。あ? どうしたいんだてめえは? お?」

 まもる、のだ。

 おれは言った。それしか言葉が出てこなかった。あん? とクロガネが首をかしげる。
「このヒトを、おれは、まもるのだ。おれの心の中に光がおりてきて、その光が言ったのだ。このヒトを、まもれ。だからこのヒトは、生きないとダメだ。死なせない。このおれがまもるのだ」
「? なんだと?」
「その光はとてもやさしくて、イナリさまのようにおれをぶったり叩いたりしないのだ。おれはその光が好きだ。とてもきれいで気持ちがいいのだ。だからその声が言うことを、おれはきく。サクヤは死なせない。おれがこのヒトを、まもる」
「……おまえ、確実にどっかでアタマうったな?」
 クロガネが片手で、まとまりのわるい自分の髪をぐだぐだとかきわける。
「ったく、参ったねこれは。やさしい光ときやがった。こいつぁ本気でどっかに行っちまいやがったな。ま、それはそれとしてだ。で、どうんなんだ? かりにおれがここでこの女を殺すと言ったら、おまえさん、どう出る?」
「おまえをころす」
「おれを? やれるのか?」

「やる」

 言ってから、おれはちょっと迷う。ほんとのことを言えば、やれるかどうかは、わからない。しょうじき、やられるかもしれない。クロガネは、強い。その強さはおれもよく知ってる。

「おいコハクよ、」
 クロガネはちょっと悲しそうな顔をした。そういう顔をするのはめずらしい。クロガネはいつも半笑いをしている。悲しむとかは、もしかしたらはじめてかもしれない。だからおれはちょっとびっくりした。
「なあ、おれたちはたしかに両方ともバカでどうしようもない妖狐のクズだが、それでもまあ、バカ妖狐なりにうまくやってきたじゃねーか。だろ? いっしょにいっぱい戦ったし、いっしょに笑ってソウメン食ったし、な? そうだったろ? おい、どうしちまったんだよ? 本気でおかしくなっちまったのか? そうなのかよ? おいコハクよ?」

 クロガネがまた一歩こちらにきた。おれは下がりたかったが、これ以上さがるとうしろをとりまく兵たちの槍の間合いに入ってしっまうから、さがれない。だからおれはまた牙をむいて戦いにそなえる。サクヤが手をのばし、おれのそでをぎゅっと握った。それを見てクロガネは半笑いし、ちっ、と舌を打った。雪がさっきより強くなった。クロガネは雪空を見上げ、それからおれをみて、おれの横のサクヤを見て、それからうしろをふりかえり、むらがるミノの兵たちをみた。それからまたおれをみた。今度はもう、笑っていない。
 おれはゆっくり半歩下がり、左手を横に出して、サクヤにささやく。つかまれ、と。サクヤは一瞬まよって、それからおれの手をとった。はなすな、とおれはささやく。返事はなかったが、かわりにぎゅっと強くおれの手をにぎった。

 とぶ。

 おれはサクヤの腕をしっかり握ったまま、全力でとんだ。どこかの家の屋根をふみ、そこを踏み台にしてまた跳ぶ。そしてまた別の屋根へ。下で兵たちがさわいでいる。ぜんぶが追ってくるが、やつらはとても遅い。しかしうしろを追ってくるモノがある。
 クロガネ。
 風のようにからこっちにむけて、まっすぐせまってくる。長い距離の競走ならおれは簡単にクロガネに勝つ。しかし短い距離の勝負なら、どうだろうか。
「いたいコハク! うでがちぎれる!」
 サクヤが悲鳴をあげた。そうだ忘れていた。サクヤはニンゲンだ。おれみたいに丈夫ではなくて、気をつけないと骨もすぐ折れてしまう。だからおれはサクヤを体ごと肩にかかえあげた。しっかりと両腕でささえて、屋根の上を走る。そのあと屋根から屋根へ、跳んで跳んで跳んで。

「そこまでだコハク!」
 
 と、
 いきなり正面にクロガネ。
 太刀を鞘から抜きはらい、大きくかまえた。くっ、太刀でくるのか。クロガネの太刀はやっかいだ。おれの牙といい勝負でとてもよく切れる。そして動きがよみにくい。ある意味、牙と牙の戦いよりもむずかしい。
 太刀の間合いに入る間際で、おれは右へ。しかしクロガネもそちらにふみこんでくる。
 ブンッ
 太刀が空を切る。
 いまのは危なかった。
 ブンッ
 またひとつかわして、おれは体をおもいきりひねって左へ。意外な動きにクロガネが遅れた。その遅れをのがさずに、おれは足の下の瓦をひっぱがしてクロガネに投げた。それはカーンといい音とともにクロガネのアタマに当たった。

「つっ! ってーなこの野郎!」

 クロガネが負けずに瓦をはがして横から投げてきた。ビュン、と音をたてて瓦がおれとサクヤをかすめる。また投げてきた。ビュン、ビュン! む、これはまずい。サクヤにあたったら、たぶん骨がくだける。おれなら痛いですむかもしれないが、サクヤは死ぬかもしれない。危ない。
 とっさに走るむきを左、右、左とジグザグにふむ。その横をビュンビュン音をたてて瓦が飛び過ぎていく。左、右、左、また今度は右へ、
 と見せかけて、まうしろに跳んだ。
 とっさにクロガネは止まれない。
 おれは空中で一回転してクロガネのうしろの屋根に着地、そのまま思いきり蹴り上げた。

「ぐおっっち???」
 蹴られたクロガネは妙な声を発しながらものすごい勢いで三つほど家をつぶしてどこかに落ちた。もくもくもく、ほこりと煙が勢いよくたちのぼる。
「よし今のうちだサクヤ」
 おれはサクヤを抱いたまま屋根から道にとびおり、そのままジグザグに路地をかけぬけて町はずれまで出て、そこからさらに道を走った。
さらに走って走って走って、走った。カタタの町はもうだいぶうしろに遠くなった。このまま山に入ればこっちのものだ。たくさんの木が、おれがかくれる味方になってくれる。山走りならばクロガネにもぜったいに負けない。山に入れば、もうおれの勝ちだ。
 と思ったのだが、おれは失敗をした。
 おれが選んだ道の先には、さいしょから山なんてなかったのだ。
 おれは足を止めた。
 おれが止まるとおれのまわりをふいていた強い風も一瞬にして止み、音がなくなった。
 そこには山のかわりに、大きな湖があった。広くて平らで、向こう岸はまったく見えない。水は灰色で、水の上に広がる空もまた、灰色。雪がたくさんふって、あとからあとから水のにおちて消えていく。

「行き、止まり?」

 サクヤがおれの腕から地面におりた。
「まいったな。これがほんとの背水の陣ってやつ?」
 ははっ、とサクヤが声をたてて笑った。
「ハイスイ? どういうことだ?」
「つまりどこにも逃げ場がないってこと。さて、どうするコハク?」
「どうしようか?」
「あたしがそれをきいたんだけど。ま、しょうがない。戦う?」
「む、どうだろうか」
 おれはまだ迷っている。
「クロガネは強い。おれは正直、勝てるかどうかはわからないのだ」
「クロガネってあいつ? さっきのムラサキ男?」
「そうだ」
「たしかに強そうだった。むちゃくちゃ速かったしね。屋根の上をびゅんびゅん跳んでた。もしかしてあいつも人間じゃないって話?」
「クロガネはヨウコだ」
「あー、またそれ? まいるよなまったく…… でもま、他に逃げる場所がないなら、戦うしかないよね。おまえ、いまもってるその刀のほかに小刀くらいないの? そしたらちょっとはあたしも手伝う」
「コガタナはないのだ」
「じゃ、素手か。でもま、足もつかえるし、バカなサムライのひとりやふたりは蹴飛ばしてやれるかな――」
「む、」

 ふりかえると、町に向かう道の途中に大勢のニンゲンが見えた。ミノの軍。土ぼこりをたててこちらにおしよせてくる。うぉーという声もきこえる。おそらくあの先頭にクロガネがいるはずだ。クロガネにもたぶん、もうこちらが見えている。
 右に目をむけると、そちらにも土ぼこり。また別の軍勢が、こちらにむけて走ってきている。まさかと思って左を見ると、そちらにも。湖の岸辺づたいに、別の兵団がまっすぐこちらをめざしている。雪風の中に、黒の旗がひるがえって見える。あれはぜんぶミノの兵だ。百や二百ならおれの相手ではないが、しかし、百や二百が三つもいて、しかも、その中にはクロガネもいる。これはすこし、むずかしいのだ。勝ち目はあまり、ないかもしれない。
 そう思ったとき、おれの目のはしに何かが見えた。おれはハッとしてそっちを見る。
「どうした?」
 サクヤもそっちを見た。
「え、なに? まさかあれのこと?」
 近くまで行った。水際、小石のつもった浜の上に、舟がひとつおいてある。おいてあるというか、捨ててあるのか。あるいは誰かがおいたのではなくて、波がここまで運んだのかもしれない。それは木の舟で、小さく、とても古そうだった。二人はのれると思うが、それ以上は、わからない。
「おいコハク、まさかおまえこれで逃げようとか考えてる?」
「? なぜ笑う?」
「だってこれ、ボロ舟だ。こんなのこいでも、すぐに弓で射られておわり。ちょっと考えりゃわかるだろ?」
「しかしここで戦っても、たぶんおれたちは勝てないのだ」
「おいおい、いさぎよくないぞコハク。モノノフっていうのは、さいごまでいさぎよくなくちゃダメってならわなかったか? ぶざまに逃げるよりはふみとどまって戦えと――」
「それは習ったことはないのだ。戦ってもだめなときは、逃げるほうが良い。死んだらもう、終わりなのだ。だから死なないのが、いちばん良い。おれはそのようにイナリさまに習ったぞ、」

 おれは舟を手元にひぱって、へりをつかんで、水に投げた。それは水の上にばちゃっと落ちて、そのまま浮かんだ。
「のるぞサクヤ」
「は? おまえアタマおかしい―― いや、おまえ本気なのか?」
「本気だ。のれサクヤ。あまり時間がない」
 おれはサクヤの手をひき、水の中をばちゃばちゃ歩いて舟に近づく。
「だけど櫂は?」
「カイ?」
「こぐものだ。それがないと舟が動かない」
「おれが押す」
「は? 押す? 舟ってのはこぐものだ。こぐためには、櫂が――」
 サクヤの言葉の途中だったが、おれはサクヤの体をもちあげて舟の上におしこんだ。おいおまえなにすんだばかコハク、とサクヤがあばれたが、おれはかまわなかった。あまり話したりけんかてる時間はないのだ。クロガネとミノ軍は、もうすぐそこまできている。
「おいおい、おまえってやっぱり乱暴なやつだな。まったく、往生際が悪すぎる。だいたいおまえはねー、」
「いいから行くぞサクヤ。しっかりへりにつかまれ」
「え? なに? つかまる?」
「つかまれ。行くぞ」
 おれはひざまで水につかって、両手を舟にかけて力いっぱい押した。
ざっと波がたって水がわれていく。おれは水の中を走る。舟はおされて水の上をすすむ。すぐうしろに、兵たちの声をきいた。たくさんの矢が、ひゅうひゅううなりをたてて水の上にふってくる。三つほど、首と背中にあたった。少しばかり痛かった。ちょっとは血が出たかもしれないが、ヨウコのおれにはたいした傷ではない。
 おれはサクヤに、矢があぶないから舟の底に横になれと言った。おれはニンゲンの矢くらい平気だが、サクヤはたぶん、平気ではないだろう。そのうちにもう底に足がつかないところまできたから、おれは足を思いきり足をけり――


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