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二、

 
 やがて目の前に暗い林が見えてきた。おれはまっすぐそこに入って、木と木のあいだをぬって走って、だいぶいったところで、地面が低くなって沢みたいになったところまできて足を止めた。ひとまずここまでくれば、もう誰もいないだろう。おれは肩からそのヒトを地面におろした。
 そのとき初めて気づいたのだが、そのヒトは、気を失っていた。黒い髪が目のところをかくして、表情はわからなかった。おれはちょっとこまって、どうしようかと迷った。
 これからどこに行く? とりあえずここまで来てしまったが、どこだろうかここは? ここからどこへ行けばよい? 
 おれはとりあえず、沢のそばにすわった。すこし腹もへった。地面においたそのヒトを、おれはあらためて見た。そのヒトは動かない。まだ気を失っている。
 おれは沢まで行って両手を水でぬらし、そのままの手でそのヒトのところにもどった。そのヒトの顔を、ぬれた冷たい手でペタペタ叩いた。

「おい、おきろ、気がつけ。」
 声に出して言った。三回それをくりかえしても起きない。しかたがないから、バシッ、とたたいた。それでも起きないから、もうちょっと強めにもう一回、たたいた。

「てててて! いったー、 ん? なんだ? いま何した? って、おまえはそもそも誰? 何者だおまえ? ここどこだ? いったい何がどうなっている?」

 そのヒトがわめきながらとび起きた。
「いちどにいっぱい言ってもわからないのだ。ききたいことはひとつずつ言え」
「あ、そう。じゃまず、ここはどこ?」
「ハヤシの中だ」
「どこの林?」
「サカモトの近くのハヤシだ」
「そんなのわかってる。サカモトの近くのどこだときいている」
「それは知らないのだ。サカモトの近くのどこかだ。それしか知らないのだ」
「もしかしてバカなのおまえ?」
「む、たしかにおれは、アタマはあまりよくないのだが――」
 さっきまで気をうしなっていたのに、もうとても元気だ。そしてとてもえらそうだ。
 バカと言われて、おれは少し、いやな気持ちになった。おれはよく、ひとからバカと言われる。クロガネにも言われる。メノウもいつも言う。イナリさまも言う。だからたぶん、おれはバカなのだろう。しかし言われるたびに、やはり少し、いやな気分がするのだ。おれはその言葉にとても弱いのだ。

「あれ、だけど、いてててて、腰とか尻とか、あっちっこっちが痛くてしょうがない。どうなってるんだ? なんかいまいち、記憶がはっきりしないんだけど――」
 女は片手でアタマをおさえて、ぼんやりどこかよそを見ている。
「えっとつまり、おまえ、あたしをたすけてくれた?」
「そうだ。たすけたぞ」
「で、おまえは誰?」
「おれか? おれはコハク」
「コハク…… へんな名前だ」
「そうか?」
 おれの心はまた少し痛んだ。コハクは自分ではとても良い名だと思っていたのだが、面とむかって変だと言われると、それはやはり変な名前な気がしてきた。おれは少しかなしくなった。
「おまえはミノの者?」
「ミノではない。もともとはイズの生まれなのだが、近頃はあちこちで戦っている」
「では傭兵なの? 流浪人?」
「ヨーヘー? ルロー二? なんだそれは?」
「もしかしておまえ、学がない?」
「ガクとは何だ? もっとちゃんとわかる言葉で言え」
「む…… じゃあ、サカモト城はどうなった? 父は? 父上はご無事か? 家臣たちは? 侍女らはちゃんと逃げたのか? 子供らは?」
「おまえはいつも一度に多くをききすぎる。きくときはひとつずつ言え」
「一回でちゃんと全部きけよおまえこそ」
「一回ではわからないのだ。おれはあまり、アタマがよくないのだから。ひとつずつ順番に言え。そうすれば答える」

「ふん、」
 女は不満そうに腕を組む。
「じゃ、一個ずつきく。その一。父上は無事か?」
「父上は、アケチマンシューか?」
「ああ、そうだ」
「マンシューはさっき死んだぞ」
「……死んだ?」
「ああ。首がもげたからな。あれではニンゲンは生きていられないだろう」
「……その二。それ、おまえが殺したの?」
 女が、低くて小さな声できいた。
「おれではない」
「では誰?」 
「クロガネだ」
「クロガネは誰?」 
「おれの仲間だ」
「……つまりおまえはやっぱり敵か?」 
「そうかもしれない」
「敵なのに、なぜあたしを助けた?」 
「わからない」
 と、おれは正直に言った。
「わからない? なんだそれは?」
「ほんとにわからないのだ。ほんとうについさっきまで、おれはお前を殺すつもりでいたのだ。そのつもりで、わざわざイセからここまでクロガネと走ってきたのだ。だけどおまえを見たとき、おれは、なにか急にわからなくなったのだ」
「あたしを見て? なにそれは? 意味は?」 
「おれにとっても『なにそれ』なのだ。よくわからない。殺すのはよくないと思ったのだ。おれの心の中で、ぴかぴか良い光がひかって言ったのだ。『このヒトをまもれ』と」
「ぴかぴか良い光? は? なにそれ? 妄想? 幻想?」
「? 言葉がよくわからないぞ」
「おまえ、ほんとに学がないんだ。とにかくあれだ、おまえはずいぶん、変なヤツだな。良い光とか、普通はちょっと言わない」
「変か?」 
「変だ。むちゃくちゃ変。ぜんぜん意味がわからないっていうか――」
そのヒトはそれから下をむいて、ふうう、と息を吐いた。いま起きたその場所に座ったまま、じっと沢の水を見ている。雪がまた降りはじめた。雪はそのヒトの髪にも積もった。とても黒くて、美しい髪だ。だまってそうしていると、そのヒトはとても美しい。おれはその横顔がとても好きだ。だからおれは思った。やはりこのヒトを殺さなかったのはよかったのではないか、と。

「……でもとにかく、城は落ちたんだね?」
 女がしみじみと言った。
「どうだろう? おれにもわからない」
 おれもしみじみと言ってみる。
「なんだ? それもわからないのか?」
 こんどはあまりしみじみではなく女が言った。しみじみとしゃべるとかわいいのだが、このヒトはあまりたくさんしみじみとしゃべらないから、おれは少し残念だ。
「おれは最後まで見なかったのだ。だが、アケチマンシューは死んだ。ミノの兵は多かった。たぶんいまごろは、城も落ちたのではないだろうか」
「……そうか、」
「家がなくなって悲しいのか?」
 おれが言うと、そのヒトは下を向いたまま、首を右左にふった。
「それで?」 
 そのヒトが顔を上げた。
「それでとは何だ?」 
「このあとは?」 
「このあととは?」 
「だから。おまえはあたしを助けた。それで? どうするつもり?」  
「わからない」 
と、おれは言う。おれ自身にもそれは、まだまったくわかっていないのだ。
「わからない? おまえ本気でアタマ悪い?」
 そのヒトが、あわれむようにおれの方を見た。するとまた心が、きゅうっと痛くなった。アタマは、たかに悪いのだ。おれはヨウコの中でも、あまりアタマは良くない方なのだから。だがそれをまっすぐ言われると、アタマのあまりよくないおれも、少しは心が痛む。心は誰にでもあるものだ。誰でももっているものだ。アタマのよいものも、そうでないものも。

「あ、すまない。ちょっと言い過ぎたか」
 おれの顔を見て、そのヒトが言った。
「………」
「ごめん。あやまる。さっきの言葉は取り消す。あたしもちょっとカッカしててさ、それでつい、悪い言葉を言ってしまった。たすけてくれたのに、悪かったよ。ひどいこと言ったねあたし。ごめん。まじめにあやまる」
 そのヒトがおれの目を見て、それからその手で、そっとおれのアタマにふれた。そのヒトの瞳は黒くて大きくて、月のない夜の空よりも深かった。おれは思わず見とれた。とても好きな顔だ。このヒトが死んだらもう、このきれいな黒の目を、おれは見ることはできない。おれは見ていたい。だからおれは、このヒトをころさなくてほんとうによかった。

 そのとき急に、ぶるる、とそのヒトがふるえた。
「なんだ、さむいのか?」
「さむいよ、当然。おまえはそんなかっこで寒くないの?」 
「ヨウコは寒さは平気なのだ」
「ヨウコ? それは何?」 
「ヨウコはキツネだ。ふつうのキツネより、もっとえらくて強くてすごいのだぞ」
「は? おまえアタマだいじょう…… あ、ごめん。これってあたし、口ぐせなんだよな、直さないとだめだね。おほん、おまえそれ、本気で言ってるの? キツネって言った?」
「そうだ」
「じゃ、おまえはニンゲンではないの?」
「そうだ。ニンゲンではない」
「ねえ、それってほんとの話?」
「ほんとの話だ。おれはあまりウソはつかないのだ。ヨウコはニンゲンよりももっと強くて速くて長生きなのだぞ。とても強いイキモノなのだぞ」
「ん、まあ、おまえがとても強そうなのはさっきのでちょっとはわかったけど。だけどニンゲンじゃないとか……それは本当に本当?」
「本当だ」
「ふうん、っくしゅん! あー、さむっ」 
「? 寒いのだな?」 
「だね、寒い。こごえそう、というか、もう半分こごえてるよ、あたし。こんな薄着でぶらぶらする場所じゃないな、ここは。雪だぞ雪。まったく、これならもっと城でも厚着しとくんだった」
「ではとにかく、どこかこごえない場所へ行こう。温かい場所へ」
「それってどこだ?」 
「それは知らない」
「は??」 
「どこへ行けば温かい場所だ? おしえてくれたら、おれはおまえをそこまでつれてゆく」

「……ははは、あははははは」

「? なぜ笑う?」
「……おまえは本当に変な男だね。はははは、あははは……」
「? なにがだ? なにが面白いのか?」
「なにがって……それ、そのむちゃくちゃずれた感じが最高じゃないか。あ、いや、すまない。でもあたしそれ、わりと嫌いじゃないから。あ、ごめん悪かったよ笑ったりして。まじめにきいてくれたんだね、行き先。それはちゃんと伝わったからさ。ぷはっ、ははははは、だからごめんってば、はははは」
「……いいかげん笑わずに場所をおしえるのだ」
「だね。ごめんごめん。ふふっ、そうだな、サカモトの近くなら、あたしの方が良く知ってるってことか。んー、ではまず、ここのすぐ南にオーツの町、それからイシヤマ、」
「ならばすぐ南に行こう」
「あ、ダメダメそれは。あっちはミノの兵がうようよしている。南はぜったいダメってのを最初に言おうとしたんだあたしは」
「ミノの兵など気するな。ぜんぶ弱い虫みたいなものだ」 
「そうか?」
「そうだ」
「ん、いやいや、やっぱ南は危険だ。いかにおまえが強いといっても、正面からわざわざ敵の真ん中につっこむのは自殺といっしょだ。行くなら北がいい。しばらく北に行けば、カタタの町がある。そこなら少しは安全かも」
「カタタ?」
「そうだ。たいした町ではないけど、まともな宿の三つか四つはある。そこなら、まあとりあえずは――」
「では決まりだ。おれたちはこれからカタタへ行くぞ」
「でも、馬がない」
「馬がないと何だ?」
「けっこう遠い。歩くとかなりある」
「馬などいらない」
「歩くのか?」
「走る。のれ」
「どこに?」
「背中だ、」
 おれはそのヒトの体を持ち上げる。

「お、おいこら、気やすくあたしにさわるな!」
「さわっていない。おぶったのだ」
「いっしょだそれ!」
「いっしょではないぞ」
「あ、あたしはこれでも姫だぞ? おまえ、それわかってるの?」
「それはもう知ってるのだ。舌をかむからあまりしゃべらぬ方がよい。では行くぞ」
「ねえちょっとおまえ、本当にこれでカタタまで走るつもり? 本気の本気?」
「そうだ。何がだめなのか?」
「ちょ、ちょっと待って。えっとえっとえっと、」
 そのヒトは背中の上で体をもぞもぞ動かして、ちょうどおれの背中のまん中におちつくような形になった。両手を俺の首にまわして固くしがみついている。
「ん、じゃあ、とりあずこれで。はい。これならまあ、なんとか」
「では行くぞ」
 おれは林の中を歩き始めた。
「ねえおまえ、体は小さいけれど、ずいぶん力があるね」
「それはまあ、ヨウコだからな」 
「ヨウコか。ふうん、」
「もうあまりしゃべらず、しっかりつかまっておけ」
「ん、わかったよ、だけどおまえ――」

 最後まできかずに、おれは思いきり走り出す。風がびゅんびゅん通り抜け、そのヒトの髪が大きく左右に流れ、
「な、なにこれ? なんなのこれ、ちょっとちょっとおまえ、」
「何だ?」
「はやいっ。おそろしくはやいなっ。まるで風だ、これは」
「これがヨウコのふつうの速さだ」
「ふつう? これが??」
「そうだ。ニンゲンの足が遅すぎるのだぞ」
「……そうか?? あたしも足はそんなに遅くないほうだけ、どぃ、い、いま舌かんだっ、ってー、」
「だから言ったぞ? だまってつかまっておけ」
まもなく林をぬけて、見通しのいい原っぱに出た。
「えっと、どっちだ?」
「だから北だ」
「北はどちら?」
「山を左手に見ながら走れ。それが北」
「む、わかったぞ」
 おれは見えてきた雪山を、体の左に見えるように向きをかえた。小さな川をとびこえ、畑の中をふみこえ、むこうにオサムライが何人かいて道をふさいでいたからそれをけとばし、走って走って走って走った。北へ、北へ。



 町の手前までくると、ちょっとここでとまれ、とサクヤが言った。
「? どうしたのだ?」
「ひとまずこのへんでおろして。ここから先は歩く」
「なぜだ? まだ町は先だぞ?」
「それは知ってる。だけどほら、こうやって背中にのったままだと、さすがに町では目だつだろう? ただでさえあたし、ここじゃ面がわれてるわけで――」
「メンガワレテル? どういう意味だ?」
「アケチの姫だってばれてるかもしれないってこと」
「ばれるとまずいのか?」
「まずいよ、それは。ミノの連中がここにもいるかもしれないし、戦に負けた殿様の娘ときけば、賞金目当てにあたしをつかまえようってやつもいるかもしれない。とにかく目立たないことが大事だ」
「なるほど。そう言われればそのような気もするな」
 おれはだから、ひとまずサクヤをそこにおろした。
「つめたっ」
「何だ? どうした?」
「足だよ足。考えてみたらあたし、はきものもないんだ……」
「まあ、城からそのまま出てきたからな。はだしではだめなのか?」
「夏ならいいけど、今はちょっと。すぐにしもやけができてしまう」
「じゃあ、もう一回背中にのるか?」
「いや、それもダメだ。うーん、でも、じゃ、とりあえずこのまま歩くか。どこかで早めにくつかぞうりを探す。この季節にはだしは、それはそれで目立つし。あーつめたっ。足の先から凍ってしまうよ、まったく」

 ふたりでしばらく歩くと、道の両側に家が増えてきた。人通りも増えた。どうやらカタタの町に入ったらしい。小さい町だとサクヤは言っていたが、おれの想像よりはだいぶ大きかった。立派な市もあったし、カネを交換する銀座や金座の通りもあるし、人の行き来も多い。道も多くて何本にも分かれている。はだしで歩いているサクヤをみて、何人かの町人が変な目でこっちをみた。おれがムッとにらみかえすと、すぐに目をそらして足早に逃げていく。
「で、どこが温かい場所だ?」
「え?」
「おれたちは温かい場所をさがしに来たのだろう? それはどこだ?」
「あ、そうだったな。とりあえず湯屋をさがそうか。まずはそこであったまろう」
「ユヤ?」
「なんだ、知らない?」
「知らないぞ」
「田舎者だなあ。湯屋というのは、お湯につかる場所だ。体をあたためる場所。よごれをおとして、体を清める」
「ふむ、」
「たしか紺屋町っていう通りのどこかに、ひとつ、大きな湯屋があったはず。あ、たぶんあっち」

 おれたちはそのユヤの前まで行った。ユヤは大きな建物で、めずらしく三階まである家だった。間口も広い。入り口から湯気が出ていて、たしかに中はあたたかそうだ。
「そういえばコハク、おまえ、お金はもってる?」
「カネか? いや、おれはもっていないぞ」
「なんだ、ないのか? まったくつかえないな、それは。んー、じゃ、そうだな、少しここで待て。あたしが何とか交渉する」
 そういってサクヤはすたすたとひとりで中に入っていった。ユヤのおかみと、なにか話している。しばらくして出てきた。
「いれてもらえることになった」
「どうやったのだ?」
「あたしのこの着物を、代金がわりにここに置いていく。まあそこまで上等のじゃないけど、いちおうこれ、絹だからな。少しは値が張る。あたしとおまえが湯につかる金くらいは何でもない」
「よくわからないが、その服を売るのだな?」
「ひらたく言えばそういうこと」
「しかしそのあとはどうするのだ? はだかで町を歩くのか?」
「ばか。そんなわけないだろ。湯上りに、質素な町の着物を用意してくれるそうだ。それなら町でも目立たないし一石二鳥」
「イッセキ?」
「ま、そういう話。でもこれ、わりとお気に入りの服だったんだけどな、色もいいし動きやすいし。だけどまあ、背に腹はかえられない」
「セニハラワ? サクヤはときどきよくわからないことを言う」
「いいから入ろう。寒すぎて、もう半分コオリになってしまった」

 おれがサクヤに続いて入ろうとすると、サクヤがコラッとさけんでひじでおれの腹を打った。
「何をする? いまのはけっこう痛かったぞ?」
「なんでおまえまで女湯なんだ?」
「? こっちじゃないのか?」
「男はあっち。ったく、本気の田舎者だな、コハクは」
「まあ、イズはたしかに田舎だからな」
「とりあえずはやく戻れってば。男はあっちあっち」
「ここで別れるのか?」
「あたりまえだろ! どうせまたあとで会う」
「ふむ、よくはわからないが、まあ、そうか。おれはあちらへ入るのだな?」
 言われるままに、そっちにある低い戸口をくぐる。中は湯気でいっぱいで、たくさんの男たちがはだかで立っている。おれがその次のくぐり戸をあけようとすると、うしろか袖をひっぱられた。ふりかえると、ぜんぜん知らない男だった。
「こらこらおまえさん、服はここでぬぎなさいよ」
「む? 服をぬぐのだな? ここでか?」
「そうだよ。オサムライさん、あんた湯屋を知らんのかい?」
「ユヤは知らないのだ。初めてだからな」
「へえ、そうかい。どこか田舎からきなすったのかい?」
「そうだ。生まれはイズだが、昨日まではイセのあたりにいたのだ」
「へえ、冗談だろ? イセからここまで一日ってこたないでしょうに」
「いや、本当なのだ。おれが走れば、イセからここまで一日もかからないのだぞ?」
「ははは、そうですかい。なかなか気のきいた冗談だねそいつは。ま、かわったお人だねえ、ほんとに」
 男は笑いながらすっかりはだかになって、そいじゃおさきに! と言ってその次の戸をくぐっていなくなった。
 おれはとりあえず、言われたとおりに服をぬいで、それからハダカで次の戸をくぐった。奥の部屋はさっきの部屋よりもっともっと湯気があって、むわっとしてとても熱かった。熱い水を張ったおおきな池がふたつある。そこにハダカのニンゲンたちがたくさんつかっている。手をつけてみたら、水はすごくあつくて火傷しそうだった。こんなのにつかるニンゲンは、ほんとに変なイキモノだ。こんな場所に入るのにわざわざカネまで払うのか。ほんとにどういうわけだろうか。
 おれはさっぱりユヤのしくみがわからないまま、とりあえずもとの戸から外に出て服をきた。そこからもうひとつ外に出ると、サクヤはまだいなかった。おれは入り口の前の長椅子にすわって、サクヤが出てくるのをまっていた。



サクヤ語り

 内湯の板場で体を洗ってから、木戸をくぐって外の露天風呂に出た。昼間の半端な時間だからか、湯客の数は少なかった。あたしは湯船に入ると、奥のほうのいい場所を独占した。ちょうどいい感じにもたれられる岩があったから、それに背中をあずけて、雪のおりてくる灰色の空を見ながら、何も考えずに、ただただ湯につかっていた。
 そうして何もせずにぼうっとしていると、昨日までの城での日々が、しぜんと頭に浮かんでくる。寒い廊下、貧しい食事、はりつめた武将たちの顔、厳しい顔で窓の外を見る父。城内の曇りの朝の淡い光のゆらぎまでが、ありありと思いだせた。今朝あたしはひとりでそこから出てきたということ、そして、父がもう死んでいないということ。実感が、まだぜんぜんなかった。
 ふしぎに悲しくはなかった。それはたぶん父の死をちょくせつ見なかったからかもしれないし、うち続く戦で、多くの兵がたおれて死んでいくのをたくさん見聞きしたからかもしれない。それとも自分は、あまり人が死んでも何とも思わない冷たい女なのだろうか。
 よくわからない。ただ、ひどく疲れた気持ちだ。なにか、いろんなことがもうどうでもよくて、いろんなものが一度に終わってしまった感じ。作法にうるさい侍女がそばにいないのも、病弱な母の咳をする声がきこえないのも、足軽たちのときの声が遠くからきこえてこないのも、ぜんぶがうそみたいだ。
 でも、うそではないのだ。あたしはおそらく本当に、たったひとりだけあの城から生きて出て、こうしていま、ひとりだけで湯につかっている。

 コハク、といった。あの風変わりな子。
 まだ少年といっていいくらいの年だ。おどろくほど世間を知らない。あの子があたしをまもってくれたというのは、たぶんほんとうだろう。あのときあの子があたしの前に立たなければ、あたしは襲撃者の手にかかって死んでいたかもしれない。
 でもそうはならなかった。不思議といえば不思議だ。光る何かが見えたとか、あの子はたしか、そんなことを言っていたっけ。
よくわからない子。言ってることはとんちんかんだし、いつもちょっとずれている。けど、でも、きらいではない。あたしを姫だと思ってよぶんな気をつかわずに、かざらずそのまま話してくる。おせじや追従ぬきのほんとの言葉を投げて投げ返される心地よさ。
 コハク。
 おもしろい子。とてもおもしろい。
 ああだけど気持ちよいなこれ。こうしてもう死ぬまでここで湯につかっていられたら、どれほど楽でよいだろう。戦のことも、これからのことも、もうなにもかも忘れて、ずっとここでぼんやりしていたい。もうなにもか忘れて――

しおり