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VS宿屋の店主

 ネロが泊まった『安眠荘』は、王都城下町では稀な、二階建ての木造建築である。一階は受付けや台所、(かわや)と食事をするスペースがあり、二階の個室は全て寝室となっている。

 一見外から眺めただけでは、宿屋だとは思えない作りだろう。店の看板が無ければ、貧相な家として見られていても、おかしくはない。他の住宅がレンガや石造りであるのに対し、ある意味で『安眠荘』は目を引くほどに、古めかしかった。

「店員さん、少し水もらってもいいかな」
「いいですよ。そこの瓶に入ってます」
「いくら?」
「いりませんよ。でもタダじゃないんで、大事に使ってくださいね」
「助かる」

 言うが早いか、店員の娘は二階に上がっていった。
 ネロは近くにあった柄杓(ひしゃく)で丸い(かめ)の中から水をすくい、(のど)(うるお)した。朝一番ならぬ昼一番に飲んだ水は、体中に染み渡る。

 身支度は済ませた。土気色のローブを着て、腰には小ぶりな杖を横差しにしてある。旅の荷物も背負って準備万端。水色の髪は相変わらずの寝癖がついており、あちこちに跳ね返っているものの、眠そうな半眼と合わせて、それも平常通りである。

(しっかし……腹減ったな)

 昨日の昼から丸一日、何も口にしていない。空腹の限界だ。あの異世界の彼は太っていたが、ネロは並みの人間よりも()せている。これ以上の()えは体に毒だった。

(目的地までのことしか考えてなかったから、蓄えもないしな……)

 腹に手を当てると、元気良く返事をする音色。

(宿代払うついでに、何か分けてもらうか)

 そう思い立ち、ネロは荷物を置き二階へと歩き出す。ぎしぎしと階段が鳴る。けれどそれ以上に二階は慌ただしかった。

「おーい、店員さん。どこだ?」
「あ、はい。こっちです。上」
「上?」

 二階に上がってみれば、そこに娘の姿はなく、代わりに屋根裏へと続く階段があった。ネロは手すりに(つか)まりながら、つまずかないように(おもむ)く。

 屋根裏は(ほこり)っぽさを感じさせないほど、綺麗に片付けられていた。いささか手狭に思えたのは、部屋干しされた衣類の所為か。

「ごめんなさい。今、干しちゃいますから――と」

 そう言って女性店員は、小窓から布団を干した。おそらくはネロが寝ていた物だろう。一息つくと、後頭部辺りで留めている黒髪を揺らし、彼女は振り返った。

「ネロさん。どうしました?」
「あー……いや、あのさ、なんか食べ物ないかなと思って」
「パンと果物ならありますけど」と、何故か困った風に店員は言った。
「大丈夫だ、金は払うから。もらってもいいかな」
「それなら。ちょっと待ってくださいね」

 店員はテキパキと残りの洗濯を終え、ネロと屋根裏部屋を後にした。おっかなびっくり階段を下りるネロに、店員は小さく笑みをこぼす。

「笑うなって。怖いんだよ、これだけ木が痛んでると」
「もぉネロさん! まだまだ頑丈なんですからね、うちは」
「悪い。そういや……この店、あんただけで切り盛りしてるのか?」
「いえ、母とです。あっ、そうだ」

 そのまま一階へ降りるのかと思いきや、店員は二階隅の寝室へと向った。扉の前で小さくノック。

「お母さん、入るね。ネロさんもいい?」
「俺も?」
「お礼、言いたかったから」
「…………」

 扉の前で立っているのも何だと思い、ネロも一緒に室内へと入った。
 部屋は他の客室と同じく、窓と寝床しかないような質素なものだ。

「あなたがネロさん? こんな格好で、ごめんなさいね」

 室内にはネロに微笑みかける女性がいた。上半身だけ起こし、寝衣に身を包んでいる。僅かだか血色が悪い。

「気にしないでくれ」ネロは俯きがちに答えた。
「よく寝れました?」
「そりゃもう、ばっちしな。お陰様で目が冴えちまったよ。余計な世話かもしれないけど、俺以外の奴に、あんな手は使うもんじゃねぇぞ」
「もちろん。大事な一人娘ですもの」
「その割に、ああいう真似はさせるんだな」
「マリーからネロさんの人となりは聞いてましたから。ね、マリー?」
「え、えっと、なんの話?」
「成人したら教えてあげる」

 小首を傾げて疑問符を浮かべるマリー。それを横目に、ネロは溜息を吐いた。この店主に口では勝てそうにない。

「改めて、ありがとうございました」マリーの母は浅く頭を下げると、眉間にしわを寄せた。「近頃は治安が悪くなってきて、昨日みたいな人が増えてるんです」
「酔っ払いか。どこの町でも居そうなもんだが、王都の城下町にしちゃあ、物騒だな」
「ちょっと前は、そうじゃなかったんですけどね。不満や差別はありましたけど、みんな内に溜め込めるぐらいには、落ち着てたんですよ」
「なるほど……むしろ、城下町だからこそ、なのかもな」
「え? なんですか」
「いんや。それよかマリーだったっけ。他に用がないなら、食べ物くれないか?」
「あ、そうでした! お母さん、お昼ご飯、ネロさんも一緒でいい?」
「もちろん」
「な、おい、俺はそんなつもりじゃ」
「スープも用意しますから。ね!」
「ぐっ……」

 胃袋は正直に音を上げた。どうやらこの親子には、魔法使い程度では、なす術がないようだ。

「……いただきます」

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