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幼い頃の夕焼け

 日暮れが近づき、人の影も疎らになり始めた公園に、まだあどけない声が高らかに響き渡る。
「もーいーかい」
「まーだだよ」
 応える声も幼く、まだ性の別もつかないような、二次性徴前のそれだ。
「もーいーかい」
「もーいーよ」
 再度問う声に、了承を返す複数の声。お預けを解除された鬼は、嬉々として振り向き、辺りを舐めるように視線を巡らせ、走り出す。
「ケイくんみーっけ」
 公園を囲うように展開された生垣の外側に縮こまる少年を発見し、指差し高らかに宣言する鬼。見つかった少年は少しバツが悪そうに立ち上がる。
「はやいよみーちゃん」
 その言葉に、鬼は誇らしげに胸を張り、鼻息荒く次の獲物を探しに行く。
 そんな光景が数回繰り返され、鬼が元いた木の下には、四人の子供が顔を突き合わせていた。
「やっぱりこーくん凄いなぁ」
「みーちゃんも凄いけど、やっぱりこーくんの方が凄いよね」
「うん、いっつも見つけられないもん」
 口々に、自分ではない人物を褒め称える三人を見て、二番手の烙印を押されたような気分になる鬼は、面白くなさそうな顔を隠すこともしない。
「絶対見つけるんだから」
 負けたくない。私が一番凄いんだ、と対抗心を燃やし、いまだ姿の見えないこーくんを見つけるべく、鬼は捜索を再開する。

 窓の外には、青空が広がっていた。雲一つない、そんな形容をもってしても足りないほどに突き抜ける見事な秋晴れは、喜び踊り狂う鳥たちを幻視しそうな程である。
「うるさい……」
 そんな美しい景色を望むことが出来る部屋には、まるで親の仇とでも言うかのように、けたたましく鳴り響く目覚まし時計。それを止めるべくベッドから必死に手を伸ばす私。
「うるっさい……」
 やっとの思いで手に取った小さな四角いそれは、使命は果たしたと言わんばかりに沈黙を守る。確実に起きる為とはいえ、枕元から遠く離れた場所に置いた昨夜の自分が憎い。
「七時……ねむ……」
 のそりと上体を起こす様は、傍から見たら不死者のそれだろうか。肩口で切り揃えた、色素の薄い髪たちは、内へ外へとご機嫌だ。
「初日から遅刻はさすがに……ふぁ……」
 手に持ったままだった時計を寝具に放り投げ、欠伸を盛大にかましながら、朝の目覚めの儀式を行うべく洗面所へと足を向ける。
「おはおう、ひょうひほりでへいひ? ほはあはんふいへひこうは」
「何言ってるかわかんないよ、おはよう」
 既に先客が朝の儀式その二を敢行しているが、口に物を入れて喋らないように。小学生で学ぶマナーだと思う。そんな母を軽く押しのけ、蛇口を捻り、朝の儀式その一を執り行う。顔に叩きつけられる液体はとても冷たい。
「今日一人で平気? お母さん付いて行こうか」
「や、良いよ、もう子供じゃないんだし」
 儀式を終え、顔を拭う私に再度母が問いかけを投げる。いつまで経っても子供扱いするんだから。
 去り際に、パンでいい? と問う母に、いいよ、と返しながら歯ブラシを口に放り込む。歯磨き粉は使わない、だって辛いもの。
 シャカシャカと小気味良い音を奏でながら物思いに耽る。引っ越してきてから三日が過ぎ、家には慣れ、街の地図も少しは頭に入ってきた。今日から新しい学校に通うのに、迷子になる訳にもいかない、道の予習はバッチリだ。
 再度蛇口を捻り、口を濯げば朝の儀式も終わりを告げる。朝食が先か、着替えが先か、そんなどうでもいいことを考えながら、パジャマの裾で口を拭った。

「じゃぁ、気を付けて行ってくるのよ、ハンカチ持った? ちり紙もよ? あ、携帯も忘れずにね?」
 きょうび、ちり紙とは言わないだろうし、携帯の優先度がちり紙より下がることはないでしょ、と頭の中で突っ込みつつ、頷きを返す。
「いってらっしゃい、お母さんこそ気を付けてね」
「ええ、ちゃんと仕事見つけてくるからね」
 行ってきます、と言って先に家を出る母を見送り、自分も最後の支度を済ませるべく自室へ戻る。
 出迎えてくれた姿見に映る真新しいセーラー服姿は、前の高校がブレザーだったことも相まって、似合わないなという感想をいだかせる。
 視線を逸らし、朝の好敵手へと目をやれば、その針は丁度八時を少し過ぎたところ。
 所要時間は約十五分、駅へと向かう道の、反対側へ伸びる坂道を登りきった先が、私の新しい学舎。
 床に寝そべる手提げ鞄を掴みあげ、ハンカチ、ちり紙、携帯電話を確認し、玄関へと向かった。

「今日は転校生を紹介します。さ、入ってらっしゃい」
 特に奇を衒うでもない教師の言を耳に受け、高校生になっても同じやりとりなんだなぁと、どこか見当違いな考えを浮かべながら、目の前の扉を横へスライドする。
 室内には生徒が整然と腰掛け並び、隠しきれない興味を多分に含む視線を私に寄越す。 
 そんな好奇の視線を一身に受けながら教師のいる壇上へと足を進める。
「今日から皆さんと同じクラスになる周防さんです。自己紹介お願いね」
 チョークを私の手に握らせながら、顔は正面から外さない、という割と器用な芸当をやってのけるこの人をして、奇を衒う必要は端からなかった訳か。渡された白い塊を、黒板に押し付け走らせる。
『周防 愛美』
 我ながら綺麗に書けたと頷き、後ろで進行を待っているであろう同級生たちに向き直る。
「周防愛美です、よろしくお願いします」
 無難な紹介から無難な挨拶へ、完全に無駄を省き、礼。ここで長々と挨拶したところで、この後の転校生恒例行事、質問攻めは免れない事柄である。引越し生活で学んだ一つの教訓だ。
 え、それだけ? とでも言いたげな顔をする者も数名見受けられるが、概ね良好かな。
「では、周防さんは、申し訳ないのですが教壇の隣の席に座ってください」
「……は?」
 言葉の意味が理解出来ず、声が飛び出る。思わず教師を振り向けば、窓側に一脚、こちらを向いて置かれた机が視界に入る。
 待ってほしい、流石にこれは初めての体験だ。
 固まる私を見て何を思ったのか、先の台詞をもう一度、一字一句違えずに宣う教師に戦慄を隠せず、わ、分かりました、と言葉を返すので精一杯だったことを責めないでほしい。笑うのは……まあ許すことにする。
 微妙になってしまった空気をさっさと払拭すべく思考を切り替え、机まで足を運ぶ。そのまま椅子に腰を落ち着けるも、教壇のすぐ横から黒板を斜めに見つめる、という初めての景色に戸惑いが隠せない。これは……切り替えきれない。
「では、ホームルームを始めます」
 笑顔で宣言するこの教師は、悪魔かなにかなのだろうか。先行き不安な転校初日の幕開けだった。

 無事に午前の授業を乗り切り、休み時間を告げる鐘が鳴り渡る。思った通り、各授業の小休憩にはクラスメイトが押し寄せてきたが、想像の範疇を出ない質問ばかりだった。
「周防さんってどこの学校から来たの?」
「この時期の編入って珍しいね? 引越し?」
「ねね、愛美ちゃんって呼んでいい?」
「うっわー、めっちゃ髪綺麗、トリートメント何使ってるか教えてくれない?」
 エトセトラエトセトラ。当たり障りのない問いかけに、差し障りのない返答を返しつつ、次の授業が始まり終わり、また質問攻め。
 小学校、中学校と繰り返してきたそのやり取りは、高校生という枠組みになっても取り立てて変化のないものだった。
「周防さん、お昼はお弁当?」
 教材を片付けて席を立とうとする私に、先程の質問攻めに真っ先に乗り出してきた女子が声をかけてきた。はて、何さんだったか。
「いえ、今日は学食で食べるつもりよ」
 以前通っていた学校には学食は無かったので、正直かなり興味があった。食いしん坊と自負する程ではないが、お弁当の冷めてしまったご飯より、やはり温かいものを食べたい。
「そっかぁ、残念。あ、食堂の場所わかる?案内しよっか?」
「大丈夫、リサーチは万全だから、ありがとう」
 親切さが滲み出るいい子だなぁ、などと上から目線で考えつつ、それを表に出さないように方目を瞑って応える。
「あっあー、う……うん、その、気を付けてね」
 何故か顔を赤らめて、しどろもどろになる親切少女。見れば周りの生徒も、男女問わず同じような顔をしている者が多い。ちょっと気取りすぎただろうか、ウィンクはやりすぎたかもしれない。いけない、恥ずかしい。
「えっと、じゃぁ、行ってくるね」
 そそくさと、逃げるように教室を後にした私の顔も、きっと赤かった事だろう。
 廊下に出ると、目的を同じくするであろう生徒達が既に行進を始めていた。その行進に紛れ込むように体を滑り込ませ、流れに沿って階下の目的地へと辿り着く。
 食堂と書かれたプレートを掲げた扉を抜ければ、学舎に座するに相応しい質素な空間。
 床一面に暖かみのある赤タイル。整然と並べられた長机は、簡素ながら清潔感のある白で統一され、同じ色の椅子と共にある。
「これは、なかなか」
 そんな光景に圧倒されている間も、行進は続いており、足を止そうになっていた私に苛立ったのか、すぐ後ろから聞こえてくる舌打ちに申し訳なくなる。
「あ、半分は購買なのね」
 流れの先を見れば、列が割れている。片方は食堂の券売機へ、もう片方は片隅に設けられた購買へと繋がっているようで、終着には高らかに声を上げるおばちゃんのエプロン姿。
 明日は購買のメニューも見てみようかしら、などと考えているうちに、気づけば目の前には券売機。また舌打ちされたら嫌だなと思いつつも、メニューは気になるのでしっかりと吟味することに。
 定番のラーメン、カレーに始まり、とんかつや焼肉などの定食系。終には、ローストビーフまで、有に三十種類近く、さらにどれもこれもがワンコイン以下の値段であるのには流石に驚いた。
「早くしてくんねぇ?」
「あっ、ごめんなさい。」
 真後ろからかけられる声に、振り向き謝罪。直接抗議されてしまった、申し訳ない。
 結局、初日ということで、お試し的に日替わり定食のボタンを押し込む。出てきた食券を、カテゴリごとに仕分けられたカウンターへ持っていくシステムのようだ。麺、丼、洋食など、ざっくりと仕切られている。
 定食と書かれた窓口は、それほど人気ではないのか空いていて、すぐに順番が来る。
「はいよ、次の子どうぞ!」
「お願いします」
 購買のおばちゃんに、負けず劣らず元気と恰幅の良いおばちゃんが、割烹着姿で出迎えてくれた。互いを隔てるカウンターの上に、食券を滑らせる。
「大盛り無料だけどどうするね?」
「あ、では大盛りでお願いします」
「あら、冗談だったんだけどね、お嬢ちゃん細いのに見かけによらず食いしん坊だね!」
 余計なお世話よ。
 拗ねる私を気にかけるでもなく、お待ちどうさま、と豪快に笑うおばちゃんからトレーを受け取る。
 焼いたアジの開きに、湯気の登る山盛りご飯、赤だし味噌汁にお新香。鼻腔に届くその暴力的な匂いは、空腹を訴えるどこぞの虫には刺激が強かったようで、早く寄越せと仕切りに声を上げる。
 振り返り、相変わらず清潔に並んだ座席を見渡すと、窓際の日当たりの良い席が空いているのが目に入る。空席が不思議に思える位に良い席だ、誰かに座られる前に急いで向かい、腰を下ろす。
 箸を取り、両手を合わせ、いただきますと口の中で言い、脂ののったアジの開きから着手する。橋の先端が身に埋もれ、ジュワッという効果音でも聞こえてきそうなふっくらとした身を解してゆく。解す先から旨味が染みだし、未だ湯気を上げるその身に絡んだ所で口に放り込めば、想像よりもはるかに濃厚な魚の主張が広がった。
「あの、ここいいかな?」
 口いっぱいに広がる幸せを逃すまいと、白米を続けて二度口へ。ふっくらと、絶妙な水加減で炊き上げられたであろうそれは、アジと手を取り合い、さらに苛烈に私の味覚を刺激する。
「あのー……?」
 極めつけにこの味噌汁だ、味噌の存在が具材であるなめこのえぐみを消し、互いにはっきり主張しているにも関わらず、それを裏からしっかりと支える芳醇な鰹出汁により、見事な調和を成し遂げている。魚の脂をいい意味でリセットしてくれ、箸はまたアジへと舞い戻る。
「勝手に座るねー」
 箸が止まらない、止めたくない。忙しなく腕と口を動かし、咀嚼し、お腹へと献上してゆく。こんなに美味しいものがワンコインだなんて、罰当たりではないだろうか。ここは天国か。
 気が付けば、目の前には骨の乗ったお皿と小皿、空っぽになったお椀が二つ並べられており、それを見届けた瞬間に口から無意識にほぅ、と溜息が漏れる。
「ごちそうさまでした」
「そんなに美味しかった?」
「ええ、ここまでレベルが高いとは思っていな……か……」
 耳朶を打つ涼やかな声に顔を上げれば、そこには美少女。手に持つ箸を置き、ごちそうさま、とお辞儀をする彼女に合わせて、髪がひと房サラリと踊る。しなやかな指の動きによって、耳へと掻き上げられた長い黒髪は、絹糸のように滑らかな光沢を放ち、あどけない中に何処か大人を孕んでいる整った顔立ちを見事に引き立てている。
 そんな絵に書いたような美人が、慈しむような微笑みを携えてこちらを見ている破壊力ときたらない。
「えっと、い、ど、え?」
 いつから、どうして、問うべき言葉があり過ぎて混乱する思考。
「あ、ごめんね、声は掛けたんだけど、反応なかったから勝手に。そしたら、あまりに幸せそうに食べるもんだから、つい見惚れちゃって」
 そう言って眉尻を少し下げ、少し申し訳なさそうな笑顔を作る。現状の疑問への解答を用意してくれた彼女だが、それは私への追い打ちにしかならない。顔が一瞬で熱を帯びてゆく。
「それは……ごめんなさい、無視したわけじゃなくて……」
「ううん、気にしないで、むしろ僕こそ、不躾なことしてごめんね。」
 赤面の誤魔化しを兼ねて頭を下げる、そんな私を見て、彼女は慌てて両手を胸の前で振る。一拍、ハッとした顔を見せた後、少し身を乗り出し、
「僕、こころって言うの、井上こころ」
 よろしくね? と小首を傾げ、彼女──こころはとびきり可愛い笑顔を浮かべた。

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