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9:緊急指令

 アデラ・アードラーは、日々の目覚めと全く同じように、ごく自然に目を覚ました。
 普段の目覚めと異なるのは、寝床が、床に敷かれたブルーシートであったこと。まるで死体扱いだが、死体と彼らとの間に大きな違いは無い。せいぜい、二度と起き上がらないか、何度でも起き上がるか、その程度の差異だ。

「ここは……?」

 上体を起こしたアデラは周囲を見渡す。同じようにブルーシートに転がされた者が五人。破けた衣服への配慮か、いずれも毛布を身体に被せられている。
 アデラの右隣にはイリーナが、左隣にはシェイマス・ダッドリーが。シェイマスの向こうにソフィー・リー、操縦桿を握っていた中年の兵士、そして最後まで呆然と立ち尽くすばかりだった若い兵士と並んでいる。目を覚ましているのはアデラだけだ。
 剥き出しの配管パイプが天井を走る、やや薄暗い建物の中だった。壁を隔てたどこかの部屋からは、楽しげな談笑の声が聞こえる。廊下にやけに声が響くのは、建材の影響だろうか。まるで学校の廊下のような、清潔だが固く、湿気が籠もれば滑りやすくなりそうな床と壁だ。
 しかし、最も耳に賑やかなのは、暖房の風。屋内に居ながら、気流をはっきりと感じるほど強い暖房が働いている。アデラはぼんやりと、イリーナが好んで見ていたドキュメンタリー番組を思い出した。
 東方の氷雪地帯は平均気温がマイナス20度、観測された限りではマイナス50度に達することもあるという。しかし、この建物の中に吹く温風は、寒冷地域にあることを忘れさせる強さだ。

「あの――っ」

 息を吸い、呼びかけようとして、アデラは咽せた。空気が乾燥している為だ。言葉は吐き切れなかったが、しかし最初の二音だけで、壁向こうの〝誰か〟には届いたらしい。談笑の声が止む。
 いざ声が止んでしまうと、暖風の吹く音の他は、不気味なほどに静かな建物だ。何故か――窓が無いからだと思い至るまで、さしたる時間はかからない。窓が無いから、外の光も差し込まない。人工の照明は、オレンジがかった白色で、夏の夕暮れ時を模しているようにも見えた。
 アデラが、未だ眠り続けるイリーナを揺り動かして起こそうとした時、かかんっと小気味好い音が鳴った。
 遠くから発生してだんだんと近づいて来る――足音だ。高いヒールを履いた足音だった。
 その人物は、アデラ達が寝かされている部屋の扉を蹴り飛ばすように開けて、「おっ」と一声発して、白い歯を剥き出しにして笑った。その一声と一挙同だけで陽性の気質がうかがえる。

「もう目を覚ましたかい、早いねぇ。あと半日は起きないかと思ってたよ。調子はどうだい? 〝ちょっとばかり痛い目〟を見たろうが、何、身体は治ってる筈さ――」

 と言って、その女性は、ヒールの高さを感じさせない身軽さで、アデラの側まで大股に跳ね跳んで近づいて来た。

「――治ってる? 違うか、〝巻き戻ってる〟ってのが正しいね」

「は、はあ……」

 上体だけ起こしたアデラの前で、ヒールの女性は腰をぐんと曲げて顔を近付ける。鼻の先がぶつからんばかりの距離と、彼女の服装に、アデラは大いに面食らった。
 薄い布地のタンクトップは、両肩ばかりでなく、豊満な胸の上三分の一を曝け出し、ショートパンツは尻の丸みを殊更に強調する。ヒールの高さは10cm程もあるだろうか。
 神学の徒であるアデラの周囲には、このように露出過多の、南国の強い日光が似合いそうな人間などいなかった。知らない種類の生き物に近距離から覗き込まれ、アデラは一瞬、普段通りの表情を作るのを忘れた。

「……珍しい目をしてるねぇ」

「っ!」

 跳ねるようにアデラは立ち上がり、ヒールの女性と距離を取った。普段は意識して細めている瞼の奥の、異形の眼に言及された為だ。瞼を狭め、唇に歪な弧を描かせ、出来損ないの作り笑いでアデラは言った。

「これは生まれつきです。病気ではありませんからご安心を――」

 ヒールの女性は呆然と、二度瞬きをした。それから合点が行ったと見えて、屈託なく微笑み、アデラが後ろへ逃げた分だけ、大股で前へ出て距離を詰める。

「悪いね、おかしな意味じゃないんだ。誰かの顔とか眼が、ちょっと他人と違うからって笑うようなことはしないよ」

 そう言うとヒールの女性は、タンクトップの肩部分をずらして、胸の露わになっている部位を広くする。

「ちょっ――」

「ほら、あたしの肌だって他と違う。教国の人間はみんな雪みたいになまっちろいが、あたしはこの通り、銅の色だ。どう? 色っぽいだろう?」

 思わず赤面するアデラをよそに、彼女は両腕を体の前で組み、豊かな胸の描く曲線を更に強調する。自分の体が他人の目にどう映るかを熟知している彼女は、ゴシップ雑誌のグラビアにでも載っていそうな、胸は前方、尻は後方へ突き出す曲がりくねったポーズを取った。

「んー、素直な反応、可愛いねぇ。うちの連中と大違いだよ。……さて、他の子と――おじさんも一人、起こしてあげようか」

「あ、あの」

 未だ目覚めない五人のうち、右端で眠り続けるイリーナの頭の横に、ヒールの女性はしゃがみ込む。少し丸められた背に、アデラは呼びかけた。

「あの、貴女のお名前は――」 

「おう、いけね! アントーニアだよ。アントーニア・クルス・デ・ラ・クルス、フルネームだと長すぎるから、気軽にアントーニアって呼んでおくれよ」

 扇情的な唇を綻ばせて、アントーニアは言った。




 一ヶ月ぶりの新兵を迎える為、食堂は既に宴の用意を終えていたが、ただ一人、コックだけが右往左往で大わらわであった。〈積荷〉は四名と聞いていたが、運ばれて来たのは六名居たからだ。急遽二名分、豪勢な歓迎パーティー用の料理を作り足した彼は、厨房隅に椅子を数個並べてベッド代わりにし、疲れた体を休めている。

「それじゃあ、新入りの長生きを願ってー! かんぱーい!」

「乾杯!」

 一番の功労者であるコックを置き去りに、アントーニアが音頭を取って、歓迎の宴は始まった。教国の法に、飲酒の年齢制限は無い。参加者全員のグラスに、赤黒くも芳醇な香りを持つワインが注がれている。参加者23人の内、〝歓迎する側〟の17人と、〝歓迎される側〟では中年の兵士だけがグラスを持ち、くっと一息にワインを飲み干した。

「さあさ、折角のご馳走だ! 冷めないうちに食べとくれ、新入りの子達も遠慮しないで!」

「……俺達、さっき機内で飯食って来たばっかりなんだけど」

 シェイマス・ダッドリーはグラスを左手に持ち、右手のフォークは指先でくるくる回して弄びながら、豪勢な晩餐を前に呟いた。彼の左隣に座ったソフィー・リーも、言葉こそ発しないが、浮かぬ表情はシェイマスとさして変わらない。

「なあに、食欲が無ければ喰わずとも良い! 元より我ら、諸君らの歓迎を口実に浮かれ騒ぎたいだけであるからな!」

 そしてシェイマスの右に座ったクロード・エンリ・ド・ラヴァルは、早くもレアステーキに噛み付き、赤い断面から滴る肉汁で唇を濡らしている。〝生前〟に貴族であった筈の彼が、この場では最もテーブルマナーから逸脱している。とは言え、周りも行儀が良くはない。シノ・イザベラ・アリマを除いた16人は、それこそ〝がっつく〟という形容が似合いの食事風景だ。
 テーブルに並べられた料理の一部を挙げてみると、塊のような分厚い子羊のステーキ、ベリーレア。焼きあがったばかりだろうパン――アクセントとして砕いたクルミが生地に練り込まれている、胡椒やスパイスの香りも芳しいチキンブロックの香草焼き、ポタージュスープの甘みは玉ねぎとかぼちゃ自体の素材の味だろう。焼き魚――これは誰の注文だろうか、他のメニューに比べて庶民的な塩の味付けだが、妙に食が進む。教国首都付近では馴染みの薄い青魚を、はらわたを綺麗に抜いて、後は丸ごと焼いたものだ。薄い、ガラス細工のように向こう側の透ける燻製ハム。大きな丸皿いっぱいに並べられたカットチーズは博覧会の様相を呈している。菜食主義者が不在の為か、野菜類は居心地悪そうに隅に詰め込まれているばかりだが、ドレッシングの毒々しさを排除したサラダは、自己主張の強い食材の合間に摂取するのに相応しかろう。
 そのいずれもが、馬鹿げて大量に用意されている。23人の為の宴席だが、60人ほどに喰わせてもまだ余るだろう。各々、大皿から競うように手元へ取り分け、我先にと大食に耽っていた。
 宴席の熱気に圧倒されながら、アデラはそっとスープにスプーンを運ぶ。成る程、美味だ。聖マリヤヴェーラ大学食堂の、〝清貧の概念が食材の姿を借りたような〟スープとは大違いである。一口、二口――気付けば自分の皿に注がれている分は、たちまち空になっていた。

「楽しんでるかい?」

 という声と共にアントーニアの左腕が、アデラの両肩を纏めて抱いた。突然の接触に驚いたアデラの体が小さく跳ね上がる――左隣に座っているイリーナが横目でその様子を見て、鼻を一度鳴らすと、グラスに新しくワインを注いで飲み干した。

「美味しいです。ちょっと――いやかなり、量は多いですけど」

 気恥ずかしさに軽く俯きながらも、アデラはアントーニアに答える。

「だろう、うちのコックは腕利きさ。この〝炭鉱町〟じゃたった一人、まともに生きてる人間だ」

「まともに?」

「あー……つまり、生き返らない人間ってこと」

「時間に縛られていない生き物、って言い方もあるよ。人間に限定しちゃうとちょっと嘘になる、焼却処分はしちゃったけど猫もネズミも犬もトカゲもワニもクモもだいたい成功したんだ。失敗したのは――」

 テーブルの反対側から、怒涛の如き早口が割り込んだ。
 向こうから身を乗り出しているのは、〝少なくとも外見は〟アデラやイリーナと同世代に見える少女。肩よりは少し長いだろう髪を、見栄えを気にせず全て頭の後ろに纏めて、化粧っ気も無い。短く整えられた爪、衣服を汚しているのは色取り取りの液体――薬液だろうか。体臭は無いか、極めて薄く、それを消毒用アルコールの刺激臭が掻き消している。

「――あっ、ごめん。ウチはオリガ、オリガ・ロマーノヴナ・ウラノワ。そっちのイリーナちゃんとは同郷だね、よろしく」

 と言ってオリガは左手を、アデラの左隣に座るイリーナへ伸ばした。

「え? あ、はい、よろしく。……あの、どこかで会いましたかしら、名前も……」

 握手に応じながら訝るイリーナ。何故、真っ正面のアデラでなく、自分の方に矛先が向いたのかと問う。加えて言うに、まだ名乗っていない。

「うん、十年くらい前にね。あの時はもうちょっと若かったかなー」

「10年?」

「ユーリヤ先生のところで実験だ――おっと、助手してたんだ。イリーナちゃん、あの頃小ちゃかったし覚えてないかな?」

「……えっ」

 陰日向の無い笑顔で〝実験台〟と失言しかけた彼女を前に、イリーナの記憶が蘇る。途端、イリーナは空いた右手でオリガの顔を指差し、裏返った声で言った。

「オリガお姉ちゃん!?」

 普段聞きなれない友人の声に、アデラは口の端からサラダの葉がはみ出したまま首を横へ向ける。

「あっ、思い出してくれた? イリーナちゃん賢い子だったもんね、うんうん」

「いや、ちょっ――えっ、何歳!? お姉ちゃん何歳だっけ!?」

「イリーナ、知り合いの方なの?」 

 普段の取り繕った口調を完全に忘却している友人の肩を軽く叩き、アデラが問う。

「ちょっとね……母親のとこで働いてた人。いつの間にかいなくなったなーと思ってたけど……」

「内地には三年しかいなかったからね、その後はここ。イリーナちゃんこっち来るって聞いて、お姉ちゃんちょっと楽しみにしてたんだー」

 オリガは席を立ち、長いテーブルをぐるっと回り込み、イリーナとアデラの肩の上に首をにゅっと突き出した。

「あっちの白髭おじさんがクロードね、お貴族さん。緑色のひらひらした服の黒髪さんはシノさん、神様大好きな怖いひと。一ヶ月前の新入り、シェイン君。向こうの筋肉ムキムキなのはモーガンさん、元格闘家だって――」

「おい、マジかよソフィー。ブラック・エルク・モーガンが飯食ってるぞ。俺は夢でも見てんのか?」

「あァ? 知らねえよ、誰だよそれ」

「なんで知らねえんだよ、スラムのガキから世界取った英雄だぞ! 史上最強のヘビーパンチャーだぞ! ちくしょう、やっぱ死んだってのは嘘だったんだ、ブラック・エルクが死んでたまるかよ!」

 食事に興じる面々を指差しながら、オリガはそれぞれの名を挙げて行く。食堂に集まった者の中でも一際体躯の大きな男へ、シェイマスは羨望と敬意の視線を向けていた。
 その隣で、借りて来た猫のように、ソフィー・リーは縮こまっている。彼女の情動は、未だに状況の変化に追いついていないようで、時折ポロポロと涙を零しては袖で拭っている。周囲に気付かれないようにそっと行っているつもりだろうが、その実、周囲の見て見ぬふりに当人だけが気付いていない。
 賑やかに宴席は進んだ。
 社交的な性質のイリーナとシェイマスは、既存メンバーとの会話も弾み、内向的なアデラとソフィーは食事に励む。居心地悪そうにしているのは兵士二人――本来ならここにいるはずのない者達。食事こそ当てがわれているが、彼らに声を掛けようとする者はいない。いたたまれぬ姿に、アデラは静かに近付いて――
 声を掛けようとした、その時だった。
 宴席の場にけたたましいサイレンが鳴り響く。あまりの音量に、厨房で仮眠を取っていたコックが、イスから転げ落ちた。しかし宴席で新入りを出迎えた面々は、厨房の騒音には目もくれず、一斉に食堂の隅へ視線を向けた。
 そこに置かれた、古ぼけたラジオのような機械が、ノイズ混じりの音声を発する。

『成果予測値が七十以上の優良な鉱脈を確認、至急採掘へ向かわれたし。尚、スティーブ・バニング氏より言伝がございます。〝アントーニア、クロード、オリガ、モーガン、新人全員を連れて出撃しろ。研修は全て実地訓練にする〟。繰り返します、成果予測値が――』

 合成音声によるAIの言葉はやけに無機質で、言伝部分のみが録音音声。酒と煙草に焼けた、酷いダミ声だった。

しおり